2016年8月31日 (水)

夏季休館のお知らせ

吉川英治記念館は、下記の期間、休館といたします。

2016年6月1日(水)~8月31日(水)

2016年9月1日(木)から通常通り開館いたします。

休館期間中も職員は出勤しておりますが、電話に出られない場合がありますので、その場合は、吉川英治記念館サイトのメールフォームをご利用ください。

ご迷惑をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします。

なお、休館期間中、常にこのページがトップに来るよう、8月31日の日付になっております。
ご注意ください。

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2016年8月17日 (水)

読者からの手紙とSNS

先日、吉川家から、片付けをしていたら大量に吉川英治(および吉川文子)あての書簡が出てきたので、そちらに送りますという連絡がありました。
大量と言っても大したことはあるまいと高をくくっていたら、段ボール箱3箱分の書簡が届きました。

とても短期間で整理できる量ではないので、後日精査する際の優先順位をつけるために、とりあえず差出人を、作家など著名人、編集者や親戚といった関係者、出版社や団体、一般読者といった感じで分けてみました。

時期的には昭和27~34年頃のもので、吉川英治没後の昭和40年代初めのもの(こちらは文子夫人宛)も多くあります。
最も多いのは一般読者からのもので、次いで関係者という感じ。
著名人のものも少なからず含まれていました。

この頃ペアを組んでいた画家の杉本健吉。
若いころ交流のあった川柳家の白石朝太郎・花又花酔・岸本水府。
意外な感じのする草野心平。

杉本苑子が弟子入りを志願する書簡が出てきたのは、ガッツポーズもの。
司馬遼太郎の巻紙の書簡と言うのは、珍しいんじゃないでしょうか。

当面の仕事をこなしたら、精査するのが、楽しみです。

ところで、著名人以外は関係者か一般読者かわからない人も多いので、中身を斜め読みしてみましたが、それはそれで興味深いものがありました。

この時期連載していた「新・平家物語」「私本太平記」の感想を述べるのは序の口。
というよりそれだけのものは、意外と数は少ない。
作中の間違いを指摘するもの、郷土史を研究している人や、自分の先祖が平家物語や太平記の時代に関係があるという人からの資料提供といったものが多い。

生活が困窮しているので、所蔵する骨董品や資料を売りたい、という申し出は、曲がりなりにも担保があるだけましな方で、留学費用を貸してくれなどという図々しいものも。

昔からの愛読者で、作品を人生の指針としてきたので、ぜひ色紙に何か揮毫して欲しい、というような申し込みが多数ありました。
驚くのが、実際に色紙を送られた人からの礼状があること。
つまり、申し込みのすべてに対応したのかはわかりませんが、ちゃんと送っていたんですね。

こういうものが人気作家のもとに殺到するということは、当時は作家の周りの人には自明のことだったでしょうが、一般の人の目には触れることはなかったはずです。
今は、それがSNSによって可視化・顕在化しているだけで、著名人にもの申したい人、好きだから自分の存在を知らしめたい人は半世紀以上前から沢山いたんだな、という感想を抱きます。

ちなみに、当時は個人情報の管理が緩くて、一般読者でもすぐに作家の住所を調べられたという側面がありますが、吉川英治くらいになると、そんなものは不要です。

港区青山墓地附近

という宛名で、ちゃんと届きます(笑)

去年の12月に青山墓地周辺で文学散歩をやりましたが、そこそこ離れてるんですけどねぇ。


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2016年7月26日 (火)

GO

ポケモンGOが人気ですね。

しかし、あれは、どういうシステムでポケモンを出現させているのでしょうか。

ポケモンGOの日本での配信が始まってから、昨日、初めて都心に出かけたのですが、気になる場面がありました。

交差点でポケモンをゲットしようとしている人がいたので、肩越しに覗いてみたら、横断歩道上にポケモンが飛んでいました。
その時、信号は赤。
夢中になった子供が、そこに飛び出したら、どうなるのでしょうか。

渋谷の円山町と言えばラブホテル街で有名ですが、そこのラブホ前でゲットしてる人もいました。
ラブホからどんなポケモンが出て来たんでしょうねぇ(笑)
エンコーとか、フリンとか、コンド(自粛)

ポケモンは画面上のバーチャルな存在ですが、実際にその場所へ人が行くわけですから、それは現実世界の出来事です。
その場所の管理者や所有者に許可なく、ポケモンを発生させていいのでしょうか。
逆に、その場所のポケモンをゲットしたければ、金を払えとその場所の管理者が主張したら、どうするつもりなのでしょう?

出雲大社などが、ポケモンGO禁止を宣言していますが、そもそも運営会社が先に許可を取るなどして、出現する場所をある程度決めておくべきなのではないのでしょうか?

道路上には出現させないとか、一般に公開されていない私有地には出現させないとか、原則は必要だと思うのですが。

ストリートビューも、許可なく公開して、映し出されるのがイヤならそう言え、というスタンスですが、まだ、公益性があるから許せます。
ポケモンGOはただのゲームですからね。

私はガラケーユーザーなので、記念館にポケモンが発生するのかどうか、確認できずにいます。

今は休館中ですが、9月に開館した時、どうなるのか。
これから1ヶ月余りで、事態がどう推移するのか、注目しています。

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2016年7月17日 (日)

『台湾日日新報』(4)

さて、最後に残したうちの(2)は「江戸城心中」を改題して再録したものです。

やはり地方紙に掲載された作品で、日本本土では『河北新報』(昭和5年9月1日~6年5月9日)に「江戸城心中」として掲載される一方、『北海タイムズ』には「恋愛三世相」、『新愛知』には「悲願四目菱」の別タイトルで連載されています。

さて、最後に(1)を残しましたが、これが注目すべきものでした。
確認の結果、これは吉川英治の初めての新聞小説「親鸞記」を改題して再録したものだったのです。

吉川英治は、大正12年の関東大震災に被災したことをきっかけとして、仕事を辞めて作家活動に専念することになります。
それまで小説については、アマチュアの投稿家として、懸賞に応募したりしているにすぎませんでした。

ただ、「親鸞記」については、少し事情が異なります。

「親鸞記」は、吉川英治が記者として勤務していた『東京毎夕新聞』紙上に、社命により連載(大正11年4月開始日不明~11月22日)した作品です。
吉川作品で、初めて単行本化(大正12年1月)された作品でもありますが、まだ<吉川英治>のペンネームを名乗る前のことで、著者名は本名の<吉川英次>となっています。

そんなこともあって、この最初の単行本化の後は、ずっと本になっておらず、一度だけ「吉川英治全集補巻1 坂東侠客陣」(昭和45年8月 講談社)に掲載されたことがあるだけです。

そんな、幻とも言うべき作品が、一体どんな経緯で台湾で連載されたのでしょうか。

『台湾日日新報』に連載された昭和2年当時、吉川英治は、すでに「剣難女難」「神州天馬侠」「鳴門秘帖」などの作品で人気作家となっていました。
当然、執筆依頼が殺到して多忙となっていたはずですが、それでも穴埋めのために自ら再録を提案したとは思えません。

むしろ、売れっ子として原稿を取りにくくなってきていたであろう吉川英治に対して、作家以前の吉川英治を知る人物が再録を持ちかけたのではないでしょうか。

しかし、それが誰なのか、今のところ解明できていません。

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2016年7月16日 (土)

『台湾日日新報』(3)

(5)(6)は、タイトルで分かるように、両者合わせて「三国志」です。

「三国志」が、「親鸞」のように間を空けずに連続して掲載されながら、タイトルが途中で変更されたのは、当時の事情が関係しているようです。
当時、国家総動員体制下で新聞統制が行われ、一県一紙を原則として新聞の統廃合が行われました。その完成期は昭和17年でした。

「三国志」の掲載紙の代表は、現在の『日本経済新聞』の前身である『中外商業新報』でしたが、この『中外商業新報』は昭和17年11月1日付をもって、『日本工業』『経済時事』の二紙と合併して『日本産業経済』に改題されました。
「三国志」は『中外商業新報』から『日本産業経済』にまたがって昭和14年8月26日~18年9月5日に連載されましたが、『中外商業新報』では「三国志」だったものを、『日本産業経済』では「新編 三国志」と改題し、昭和17年11月1日を第1回として、改めて回数表示されるようになります。
時期はずれますが、『台湾日日新報』の方のタイトル変更も、それと一致しています。

ちなみに、「三国志」もまた、「親鸞」同様に他の地方紙に掲載されていました。
しかし、その対応は上記とは異なります。

『名古屋新聞』の場合は、『新愛知』と合併して昭和17年9月1日から『中部日本新聞』となったことに伴い「三国志」は8月30日付までで連載打ち切りになっています。

同様に、『小樽新聞』では、北海道内11紙が統合されて昭和17年11月1日から『北海道新聞』となったことに伴い、10月31日付までで掲載終了しています。

ちょっと面白かったのは、『北海道新聞』には、白井喬二の「瑞穂太平記」という作品が掲載されていたことです。
統合初日の昭和17年11月1日に「今迄の梗概」が掲載され、11月3日~12月10日まで連載されました。
どうやら統合された11紙のうちのどれかに連載中だったこの作品を、完結目前だったので、統合後もそのまま引き続き掲載したもののようです(私の目的からは外れるので、この作品が元々はどの新聞に連載されていたのかは調べませんでした)。

統合された11紙にはそれぞれ連載中の小説があったはずですが、吉川英治ははじかれて、白井喬二が残った、その理由は残りの掲載予定期間の問題なのか、どうか。

どんな判断があったのでしょうね。

一方、『中部日本新聞』では、吉川英治の「三国志」が8月30日に打ち切られた後に、9月2日から白井喬二の「戦国志」の連載が始まっています。

『名古屋新聞』から『中部日本新聞』へと、継続して購読した読者は目を疑ったんじゃないでしょうか。
調査している私も、目が点になりました。

なにも、こんなタイトルの作品を掲載しなくても(笑)

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2016年7月15日 (金)

『台湾日日新報』(2)

一旦(1)(2)を飛ばして、(3)(4)から見てみます。

実は、(3)と(4)を合わせたものが、「親鸞」に該当します。

今まで調査不足で、「親鸞」が連載時に前編と後編に分かれていて、それも半年近くの間を空けて掲載されていたことに気づいていませんでした。
慌てて、日本本土での掲載紙である『名古屋新聞』を調べ直したところ、『台湾日日新報』とほぼ同時期に「親鸞聖人」「親鸞聖人 後編」として前後編に分けて掲載されていたことが確認できました。

ちなみに、作品のタイトルは単行本化に際して「親鸞聖人」から「親鸞」に改題されています。

当館には切り抜きが一部保存されているだけであったため、『台湾日日新報』での連載は、全体として「紙衣祖師」のタイトルで掲載されたものと思っていましたので、これも驚きでした。

「親鸞」の掲載紙の代表は『名古屋新聞』ですが、それ以外にもいくつかの地方紙に掲載されています。
例えば、当時、朝鮮半島の京城(現在のソウル)で発行されていた『京城日報』では、前編は「親鸞聖人」としながら、後編には別のタイトルが付されているという、『台湾日日新報』と同じパターンなのですが、そのタイトルは「愚禿頭巾」となっていました。
一方、『神戸新聞』では、なぜか前編の掲載が確認できず、後編のみが「愚禿親鸞」として連載されています。

なお、面白いのは、後編の掲載開始日です。

『名古屋新聞』が昭和11年1月19日なのに対して、『神戸新聞』は1月5日、『台湾日日新報』は1月7日、『京城日報』は1月10日で、『名古屋新聞』が著しく遅いのです。

これは推測ですが、直前に連載されていた藤井真澄「元寇」という作品が予定通りに完結しなかったのではないでしょうか。

配布地域が重ならないとはいえ、担当者はやきもきしたでしょうね。

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2016年7月14日 (木)

『台湾日日新報』(1)

個人的な理由から『台湾日日新報』を調べていました。

『台湾日日新報』は、日本統治下の台湾で発行されていた日本語新聞です。

個人的な調査が済んだところで、この機会に『台湾日日新報』と吉川英治について調べ直してみようと思い立ちました。

というのも、吉川英治の作品では「親鸞」と「三国志」が『台湾日日新報』に掲載されていたことはわかっているのですが、当館には紙面の切抜きが一部あるだけで、正確な掲載期間が不明のままだったからです。
それと、『台湾日日新報』について調べている際に、「『台湾日日新報』近代文学関係作品目録 昭和編(1926-1944)」(中島利郎・横路啓子編 2014年2月 緑蔭書房)という資料が存在していることが分かったこともあります。

つまり、非常に好都合な他人のふんどしが存在することを知ったのですね(笑)

さて、この資料に基づき、実際の紙面を確認してみたところ、以下の作品が掲載されていたことがわかりました。

1)「受難菩薩(別名「親鸞」)」(148回)昭和2年3月12日~8月7日(夕刊)

2)「享保悲恋 一眼鬼」(182回)昭和5年9月6日~昭和6年5月20日(夕刊)

3)「親鸞聖人」(292回)昭和9年9月30日~昭和10年8月12日(夕刊)

4)「紙衣祖師」(173回)昭和11年1月7日~8月4日(夕刊)

5)「三国志」(950回)昭和14年8月25日~昭和18年1月17日

6)「後三国志」(244回)昭和18年1月19日~11月5日

これらについて、色々と興味深い点があったので、それをそれぞれ細かく見ていこうと思います。

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2016年6月23日 (木)

文スト

先日、全国文学館協議会の幹事会・総会に出席してきました。

そこで話題になったことのひとつが、「文豪ストレイドッグス」(略称「文スト」)とのコラボレーションでした。
既に神奈川近代文学館が2度行い(2014年「太宰治展」、2015年「谷崎潤一郎展」)、今後、山口市の中原中也記念館、堺市の与謝野晶子記念館(さかい利晶の杜)もコラボレーションするとのこと。

実は、私は「文スト」のことを、この日初めて知ったのですが、Wikipediaによると、文豪の名を持つ登場人物が、その作品にちなんだ特殊能力を使って戦うというコミックス作品で、ノベライズ作品やアニメ化作品もあるようです。

神奈川近代文学館では、登場人物の缶バッジを配ったりしたそうですが、条件を満たして缶バッジを受け取ったのが、会期中の来館者の13パーセントほどになったということですから、馬鹿に出来ない数字です。

ただ、「文スト」の作品自体は、登場人物にされた各作家の作品や思想とは無関係なストーリーが展開しているので、嫌悪感を示す出席者もいました。

しかし、考えてみると、吉川英治も書いた時代小説などというのは、実在した人物に、かなり実際とはかけ離れたことをさせていたりします。
なので、自分の先祖はそんな人物ではない、というような苦情はしばしば現れます。

SF小説も同様です。
作家ということで言えば、30年近く前に読んだP・H・ファーマーの「リバーワールド」にはサム・クレメンズ、すなわちマーク・トウェインが登場して、世界の謎に挑むために、荒唐無稽なことをやったりしています。

その意味では、「文スト」の手法が目新しいとは言い難く、嫌悪する理由もないと、私には思えるのですが、<文学>を特別なものと考える人には、そうではないのかもしれません。

ちなみに、「文スト」の舞台は横浜。
しかし、横浜にゆかりの作家は、登場人物の中にはほとんどいないようです。

先日、横浜で行った文学散歩「吉川英治 横浜との別れ」では、吉川英治は当然として、野尻抱影・大佛次郎兄弟、長谷川伸、獅子文六、有島三兄弟、今東光、尾崎士郎にゆかりの場所をめぐりました。
他にも、横浜にゆかりの作家はたくさんいます。

今後彼らが登場する余地はあるのでしょうか?

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2016年6月 7日 (火)

浜っ子

井上章一氏の「京都ぎらい」が評判になっています。

私も京都市で生まれましたが、物心つく前から京都市の隣市で育ち、大学進学で京都を離れたので、井上氏が指摘するような洛中人の差別意識に接する機会はありませんでした。
しかし、そもそも京都市民でもない私自身の中にも、そうした意識は根付いていたりもします。

ケンミンの登場する人気テレビ番組で、伏見区出身の俳優が京都人代表のような顔でコメントしているのを見ると、「伏見なのに?」という気持ちになります。
ましてや、宇治市あたりの出身のタレントが、「はんなり」なんて口にすると、「どの口で」と思います。

そして、そんな自分にうんざりします。

さて、先週末、横浜で文学散歩を実施しました。
その準備のために、横浜出身の野尻抱影の文章を読んでいたところ、こんな描写にぶつかりました。

同じ横浜生まれでも、関外もはずれの太田赤門で、“浜っ子”と言うには少し気がひける。(随筆集「鶴の舞」より)

今回の文学散歩は「吉川英治 横浜との別れ」と題して、吉川英治が横浜時代の後半に暮らした3軒の家をめぐりました。
そのうちの1軒が<清水町の家>です。
清水町は、現在の住所では横浜市中区赤門町となります。

そのすぐ近所、横浜市中区英町に、野尻抱影・大佛次郎兄弟の生家がありました。
京急本線黄金町駅の近くで、大岡川を越えたらすぐに伊勢佐木町がある、そんな地域です。

横浜にゆかりのない私からすれば横浜の中心部としか思えない、そんなところで生まれ育った人が、“浜っ子”と言うには気がひけるということは、明治時代の人にとっての“ハマ”というのは、かなり限定された地域の事だったのでしょう。

洛中人のような意識を持った、真の“浜っ子”というものが存在しているのかどうか、わかりませんが。

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2016年4月27日 (水)

震災と文学

ふと手に取った白井喬二の自伝「さらば富士に立つ影」(昭和58年 六興出版)に、こんな記述がありました。

父は地震が大きいと知ったとき、母との問わず語りですぐぼくの仕事のことを心配したそうだ。今後しごとが面倒になりはしないだろうかと云う心配だった。鶴子が母から聞いてぼくに伝えたから、ぼくも始めて「なるほど」と思った。まったく重大事である。東京が壊滅してしまえば再建までは仕事どころでないかも知れない。出版社も雑誌社も焼け、印刷工場も全滅状態だ。そうと分ったとき菊池寛が「東京の文化はこれで当分おしまい」と嘆じたことが伝わった。全文化人に衝撃を与えた。
(略)
三日目に春陽堂の木呂子という支配人がぼくをたずねて来た。足ごしらえをした姿で火事場の臭気が全身から発散していた。意外だったのは出版の話だった。木呂子支配人は出版は大丈夫だといった。こんな時こそ人は読み物を欲すると云う。「ないものねだりで、そこが出版のコツですよ」とも云った。聞いていると理路整然たるものである。あれこれ作品をえらんで出版を承諾した。これは木呂子支配人の予想があたったことが後日になって分った。火事場では金時計とバナナ二本と交換したなどという話もつたわったが、一方では心を満たす読書熱ももえたっているのだ。

以前、こんなことを書いたことがあります。

白井喬二は、ご存知の通り、日本の大衆文学の先駆者・創始者というべき作家です。

読者の方を向いて小説を書いている作家には、こういう局面にぶつかる機会が多いのかもしれません。

もちろん、木呂子支配人の発想は、あくまでも商売目線であり、その意味では“不謹慎”なものかもしれませんが、被災者が求めているものは何かを探し当てる嗅覚は確かだったということでしょう。

いわゆる“不謹慎狩り”に精を出している人たちにも、その嗅覚が備わっていれば、良かったのですが。

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