2018年6月 8日 (金)

旧吉川邸を隅から隅まで見てみよう」

そして、もう一つ、6月7月と連続して行うのが「旧吉川邸を隅から隅まで見てみよう」というイベント。

現在記念館となっている吉野村の吉川英治邸の母屋を、1階から3階まですべてお見せします。
書斎の中にも入れます。

もうすでに何回も行っていますが、1回の定員は15名と少なく、滅多にない機会でもあります。

6月分は既に締切っていますが、7月分は只今募集中です。

ご興味のある方は、こちらをご覧ください。

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2018年6月 7日 (木)

文学講座

今週末から連続3回の文学講座「吉川英治の見た戦争」というのを開催します。

こういう形での文学講座は、初めての開催となります。
記念館が存続できるかどうかの瀬戸際という時になって初めて開催するというのも、遅きに失した感はありますが。

これはもう応募を締め切っていますが、7月にも文学講座を開きます。
テーマは「趣味の吉川英治」。

3人の講師で、それぞれ「三国志とお茶」、「競馬を愛した吉川英治」、「健康マニアで将棋が弱い?」というタイトルで1時間話します。

詳しい内容はこちらをどうぞ。

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2018年6月 6日 (水)

7月の文学散歩

つい先週の土曜日に、文学散歩を実施しました。

暑い中を、そこそこ長い距離、ひたすら徒歩という苦行を参加者の方には課してしまいましたが、その苦行以上のものを提供できたかどうか?

さて、実は7月にも文学散歩を開催します。

今までになく短いインターバルでの開催ですが、何しろ開館日数が大幅に減ってしまいましたので、せめて、イベントを増やさないと申し訳ないという、何というか、罪滅ぼしという感覚と言えばいいでしょうか。

今回は文学散歩リバイバルと称して、過去に2回実施した(計画だけなら4回計画した)青梅市内での文学散歩を再構成して、改めて青梅市内の吉川英治の痕跡をたどります。

詳しくはこちらをご覧ください。

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2018年4月20日 (金)

文学効能事典

以前から書店で目に入ってはいたもののスルーしていた本を買ってみました。
「文学効能事典 あなたの悩みに効く小説」(2017年6月30日 フィルムアート社)という本です。

スルーしていたのに購入したのは、著者が外国人と気付いたからです(エラ・バーサド/スーザン・エルダキン著 金原瑞人/石田文子訳)。
外国人が日本文学をどう見ているのか、その中で吉川英治をどう見ているのか、というのは、気になるところです。

まず、索引を見てみると、日本人の作品は9作品取り上げられています。

安部公房「砂の女」(広場恐怖症のとき)
遠藤周作「深い河」(悪夢を見るとき)
川端康成「名人」(80歳になったとき)「雪国」(漂泊の思いがやまないとき)
竹山道雄「ビルマの竪琴」(外国人嫌いのとき)
三島由紀夫「豊饒の海」(分厚い本を読む気がしない)
村上春樹「1Q84」(恋愛ができなくなったとき)「ねじまき鳥クロニクル」(無職のとき)
吉川英治「宮本武蔵」(暴力がこわいとき)

( )内が、作品が取り上げられている項目です。
このうち、「分厚い本を読む気がしない」だけは「読書の悩み」という、書中のところどころに差し挟まれているミニコーナーで、そこに「おすすめの大長編小説」として紹介されている7冊のうちの1冊が「豊饒の海」ということになっています。

さて、この9作品のうち、終戦以前の作品は川端康成と吉川英治の3作品のみ。
もちろん、外国語に翻訳されているかどうかということが大きなウェイトを占めますがが、戦前を代表する日本の文学を、川端康成と吉川英治に求める見方もある、ということになりますか。

また、2作品取り上げられているのが川端康成と村上春樹であるということは、著者たちにとっては、この2人が日本を代表する重要作家ということなのでしょう。

「暴力がこわいとき」の中でどのように「宮本武蔵」が取り上げられているかは、実際に読んでみてください。

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2018年4月 8日 (日)

足利紀行―その3

さて、緑町配水池のあるのは小高い丘の上ですが、その丘を渡良瀬川方向に降りたところに草雲美術館があります。

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ここは、南画家・田崎草雲の作品を展示している美術館です。
田崎草雲は、足利藩の江戸藩邸で文化12年(1815)に生まれ、明治31年に足利で84年の生涯を閉じました。

吉川英治にはこの田崎草雲を主人公とした「田崎草雲とその子」(別題「田崎草雲とその妻」)という短編作品があります(『文藝春秋』昭和7年夏季増刊号掲載)。

江戸で貧しい絵師をしていた時代を中心に、草雲の生い立ちや同時代の文化人との交流などを描いていますが、肝となるのは、貧しい時代を共に耐えてきた妻の菊が、発狂して死に至るエピソードと、尊王の志を持つ草雲が足利藩内の意志を勤王に統一していく一方で、草雲の息子の恪太郎が佐幕に走り、維新を迎えて自害して果てるエピソードです。

ちなみに、『文藝春秋』掲載時の挿絵は田崎草雲の弟子である小室翆雲が描いています。

その田崎草雲が、明治11年から暮らしたのが白石山房でした。

草雲美術館、足利市在住の鈴木栄太郎が、昭和43年に私費を投じて、その白石山房の敷地に建設し、足利市に寄付したものです。

吉川英治は、美術館になる前の白石山房を訪ねたことになります。
その写真がこちら。

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実は、私が訪ねたのは定休日の月曜だったので、外からしか眺められず、同じアングルからは写真が撮れませんでしたが、裏から見るとこんな感じでした。

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そして、最後に向ったのは、足利市の超有名スポット、渡良瀬橋です。

吉川英治が訪れた時の写真を見ると、トラスの終りから橋の欄干の終りまでの間に、少し間があります。このことから、これが橋の南詰であることがわかります。
つまり、市街地の対岸から足利の地を眺めたということです。

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今は橋の上流側に人道橋が設置され、車と人は分けられています。

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これで、私の足利市滞在時間は、およそ4時間。
吉川英治も、大体この程度の滞在時間だったはず。
もっとも、私は徒歩で、吉川英治は車だったので、もう少し時間に余裕はあったと思いますが。

これで、吉川英治の短時間の足利視察に合わせた(?)、私の足利紀行も終わります。

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2018年4月 7日 (土)

足利紀行―その2

次に鑁阿寺に移動しました。

吉川英治は「筆間茶話」で、

まず鑁阿寺を訪ねた。足利市の街中である。濠は旧態をのこしているが、古図に見える林泉や大杉は面影もない。多宝塔そのほかの諸堂も荒れている。住職山越氏の住む階上に、国宝の宋窯花瓶やら尊氏自筆の古文書などが、からくも無事をえている有様だった。

と、当時の様子を描写しています。
「筆間茶話」では、この後に住職の言葉が語られますが、それは要するに、明治維新後、日本を支配した皇国史観の中では、足利尊氏は逆賊と扱われたため、中央政府から保護を受ける機会がなかったということです。
文中にはありませんが、この時、吉川英治は鑁阿寺に、

雪山春不遠

との書を残していきました。

その鑁阿寺での写真はこんなものです。

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窓の形から、経堂であろうと思われます。

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私が訪ねた時は、ちょうど桜が満開で、吉川英治が感じたような荒廃は見えませんでした。

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さて、次に訪ねた場所がここです。

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写真の裏には「足利市展望台から足利の地勢を見る」とあります。

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写真に写っている石碑には、2枚の写真から「聖上御展望之處」とあるのがわかります。
つまり、天皇が周囲を眺めた場所、ということになります。それも、おそらくは昭和天皇が。

ここはどこでしょうか?

足利市に昭和天皇がいつ何のために行幸したのか。
それは昭和9年に行われた陸軍特別大演習です。
昭和9年11月に北関東で大規模な軍事演習が行われ、その後、群馬県・栃木県の主要都市に行幸しています。
これを記録した「行幸記念写真帖」(昭和9年12月30日 立見屋)の中に、「足利市水道配水池ヨリ市中御展望」という写真が掲載されています。

この場所はどこなのか。
それは水道山記念館のある緑町配水場です。

通常非公開となっているため、敷地内には入れませんでしたが、柵越しに問題の石碑と思われるものが見えました。

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あのあたりに昭和天皇が立ち、そして吉川英治も立っていたわけです。

感動しました。

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2018年4月 6日 (金)

足利紀行―その1

今週初めに、群馬・栃木県境あたりに私用で出かけたので、そのついでに足利市を訪ねてきました。
その目的は、吉川英治が訪れた場所を訪ねることです。

吉川英治は、「私本太平記」の連載開始(『毎日新聞』昭和33年1月18日から)直後の昭和33年2月21日に、足利の視察に出かけています。
新聞連載の合間に挟み込んだ「筆間茶話」という随想の昭和33年3月3日掲載分で、足利市内の鑁阿寺、足利学校、白石山房に立ち寄り、桐生・太田をまわって帰宅したことが書かれています。

そこにも書かれていますが、これは日帰りの旅でした。
秘書の残した業務日誌によると、「午前八時、毎日新聞社の車で足利視察に出発。文子夫人、杉本健吉、松本昭(注:毎日新聞社の担当編集者)同行。午後六時過帰宅。」とあります。
高速道路もなく、未舗装道路も多かった当時、片道3~4時間を要したのではないかと推測すると、足利市内の滞在時間はほんの3時間程度だったことになります。

その時に撮影された写真が残っているのですが、その内容から見て、上記の3ヶ所の他にあと2ヶ所に立ち寄っているらしいことがわかります。後日ご紹介しますが、1ヶ所はとても有名なあの場所、もう1か所は、今回色々と調べて見つけました。
5ヶ所立寄ったとすると、移動時間を考えれば、1ヶ所に20~30分程度の滞在だったことになります。

その5ヶ所を巡ってみようというのが、今回の目的です。

吉川英治がまず訪ねたのは鑁阿寺ですが、私は両毛線足利駅から向かったので、まず足利学校に立ち寄ります。

足利学校は平成2年に、建物や庭園を江戸時代中期の姿に復元しました。
実は、その翌平成3年に放送されたのが、吉川英治原作の大河ドラマ「太平記」でした。
絶妙なタイミングですが、足利学校の保存整備事業は昭和56年に着手されているので、偶然でしょう(何か足利市からの働きかけはあったかもしれませんが)。

当然、吉川英治が訪れた時と現在では建物が変ってしまっています。

そこで、足利学校の職員の方に声をおかけしたところ、所長の大澤伸啓氏にご対応いただきました。

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まずこの写真ですが、写っているのは「字降松」で、背後の建物は当時この場所に存在した東小学校の校舎であろうとのこと。
足利学校のパンフレットの年表によると、足利学校の建物の一部が明治6年に小学校となり、明治9年に小学校の校舎が新設されています。

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こちらは現在の「字降松」。実はもう何代目だかの松で、吉川英治が見たものとは違う木になっているとのこと。

「筆間茶話」には

足利学校の訪う人もない庭梅と、宋版の国宝古書籍の真新しさなどは忘れがたい。昔、文盲の領民が、なにか読めない文字があると、紙キレにに書いて、門前の小松に結いつけておき、翌朝を待つと、それにフリ仮名と解釈が付いていたという言い伝えのある“字降松”はホホ笑ましい。以て当時の学校なるものの在り方も、よく読める

と書いています。

先程の写真の背景が東小学校ならば、この写真もそうではないかと、私は推測しますが、こちらについては断言はされませんでした。

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2018年3月29日 (木)

吉川英治記念館の4月以降の開館日について(再掲)

吉川英治記念館は、4月以降、つまり平成30年度については、当面、次のような形で営業することになりましたので、お知らせします。

・開館日は金・土・日曜の週3日。
・祝日でも、この曜日に該当しない日は休館。
・開館期間は、これまで通り3月~5月と9月~11月。
・ただし、平成30年3月は、平成29年度に入るので、月曜日のみ休館で、それ以外の週6日は開館します。
・開館時間や入館料は今までの通りです。

したがって、4月の開館日は1・6・7・8・13・14・15・20・21・22・27・28・29日、5月の開館日は4・5・6・11・12・13・18・19・20・25・26・27日となります。
4月30日と5月3日は祝日ですが、休館いたします。

ご容赦ください。

また、イベントも実施します。
吉川英治記念館のウェブサイト上に、当面、6月までに実施予定のイベントを掲載しています。
いずれ、個別に告知しますが、興味のある方は、ウェブサイトをご覧ください。

http://yoshikawaeiji-cf.or.jp/

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2018年3月24日 (土)

絶筆「新・水滸伝」

では改めて、「最終回から見た吉川英治作品」に関連したお話しを。

昭和36年、吉川英治は二つの連載小説を執筆していました。
「新・水滸伝」(雑誌『日本』昭和33年1月号~)と「私本太平記」(『毎日新聞』昭和33年1月18日~)です。

人間はなぜ争うのか、人間の幸せとは何かを追求した「新・平家物語」に引き続き、人間を惑わせる権力の魔力とは何かを描こうとした「私本太平記」と、中国の古典として親しまれてきた活劇である「新・水滸伝」では、作品の性格が随分異なります。しかし、吉川英治にとっては、書き進むほどに人間の暗部へと入り込んでいかざるを得ない「私本太平記」と娯楽的な「新・水滸伝」を並行することが、気持ちを切り替え、心のバランスをとることにもなっていたようです。

この年の夏、体調を崩した吉川英治は、診察の結果、肺ガンと判明しますが、告知されなかったこともあり、「私本太平記」を書き終えるまではと、入院を拒みます。

「私本太平記」最終回の原稿は9月27日に軽井沢の別荘で書き上げ、すぐに毎日新聞の担当者に手渡されました(掲載は10月13日)。
2日後に軽井沢から赤坂の自宅に戻ると、さらに入院を延期して「新・水滸伝」の執筆にとりかかります。
10月2日の午前中に書き上げた原稿は、通常の1号分の原稿のおよそ半分である23枚で、末尾には読者へのお詫びが書かれていました。

「余儀なく今月は短章に終る。読者諸子の御寛恕を乞ふ。 作者」

その日の午後になって、ようやく入院した吉川英治でしたが、中途半端に終わった「新・水滸伝」の続きを気にして、病院を抜け出そうとします。
そこで妻の文子が苦渋の想いで肺ガンであることを打ち明けたことで、吉川英治は思いとどまり、手術を受け、療養することになります。
吉川英治はそのまま、この年の大晦日まで入院します。

その間に、入院前に書いた「新・水滸伝」第48回がが掲載された『日本』昭和36年12月号が発行されます。

大晦日に、半ば強引に退院した吉川英治は、明けて昭和37年は、自宅で療養を続けますが、「新・水滸伝」の続きを書くことはありませんでした。

昭和37年7月19日に再入院した吉川英治は、9月7日に世を去ります。

かくして「新・水滸伝」は、そのまま絶筆となりました。

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2018年3月23日 (金)

「吉川英治小説作品目録 増補改訂版」

吉川英治記念館は、昨年、平成29年3月23日で、開館から満40年となりました。
それを記念して、「吉川英治小説作品目録」の改訂版を刊行する事を決めました。

今日、開館から満41年を迎えてしまいましたが、ようやく「吉川英治小説作品目録 増補改訂版」が出来上りました。

改訂は、平成4年以来、約四半世紀ぶりとなります。
その間に新たに判明したことを反映させ、さらに、付録として小説以外の随筆集の一覧を追加するなどしました。

希望される方にはお配りいたしますので、以下のメールアドレスに「作品目録希望」として、メールをお送りください。

renraku-yehm@mbr.nifty.com

ただし、予算の都合もあり、100部しか制作しませんでした。
図書館や文学館といった施設に寄贈する分を除くと、20~30部ほどしか配布できません。
その点はご了承ください。

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