話を企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」にもどして。
現在展示中の書簡に、吉川英治から谷崎潤一郎に宛てた書簡があります(昭和37年1月18日付)。
あまり吉川英治と谷崎潤一郎の間に交流があったというイメージはないでしょう。
実際、交流はほとんどありませんでした。
谷崎自身の文章にも
吉川君と私とはさう親密には交際してゐなかつた。しかし始めて會ったのは餘程古いことである。
とあるくらいです(「わたしの吉川英治」所収『吉川英治君のこと』)。
そんなわけで、この書簡も、吉川英治の長女・曙美が、谷崎と懇意にしていた編集者と結婚することになり、その編集者が曙美をともなって谷崎に挨拶に行ったことに対しての礼状、というような内容になっています。
ただ、英治と谷崎は、英治の死後にちょっとした縁が生まれました。
そのことについて、谷崎松子夫人が吉川英治全集月報に「文机の残り香」として、一文を寄せています。
その概要は、こんな話です。
昭和38年、谷崎は熱海市伊豆山の≪後の雪後庵≫と呼んだ家を引き払うことにしますが、そう決意した時点ではまだ転居先が決まっていませんでした。
ある場で吉川文子夫人と同席した松子夫人が、家の明け渡し日が迫っているのに落ち着き先がまだ決まらないと口にしたところ、文子夫人がそれならば主人(英治)が亡くなって熱海市西山の別荘は使わないのでどうぞと勧めます。
かくして、渡りに船と谷崎はその年4月に英治の別荘に移ってきます。
英治は前年の37年9月に亡くなっていますから、没後半年余りでのことになります。
さて、転居に先立って、谷崎夫妻に対して、文子夫人がその西山の別荘を案内したのだそうです。
その際、別荘内に残されていた英治の遺品である文机を見た谷崎が、その文机に見惚れているのを見て、文子夫人は「どうぞお使いください」と言って、その文机を谷崎に譲りました。
この文机は、英治が熱海の別荘での執筆に使っていたもので、「新・平家物語」「私本太平記」を書いたもの。
そして、谷崎は譲り受けてから、ここで新新訳源氏を手がけました。
つまり、平家と源氏を生み出した文机ということになったわけです。
谷崎は、翌39年には、湯河原に新居を建てて、そこへ移っていますが、文机はそのまま新居に持って行きました。
そして、めぐりめぐって、現在は谷崎潤一郎記念館に収められています。
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