2009年7月10日 (金)

宇江佐真理さんをかこむひととき

吉川英治記念館サイトのトップページをご覧になった方はお気付きと思いますが、秋に『宇江佐真理さんをかこむひととき』を開催いたします。

このイベントは、吉川英治賞が第40回を迎えた平成18年に記念イベントとして開催した後、翌19年から当館の定例イベントとして毎年開催するようになったものです。

一昨年の宮部みゆきさん、昨年の浅田次郎さんと当年度の吉川英治賞受賞者が続きましたが、今回の宇江佐真理さんは平成12年の第21回吉川英治文学新人賞受賞者となります。

詳細はこちらをご覧下さい。

ご応募をお待ちしています。

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2009年7月 8日 (水)

夫婦―2

さて、昨日触れた「女」という随筆で、こんなことも書いています。

時雨女史が婦人倶楽部の一人一話のうちに、風に傷んだ柳の枝に杖のつかえを結びつけながら、主人の手頸の傷も今のうちに手術をしなければいけないのにと、独り居の愁思をもらしている辺りの小文はなかなかよその良人を羨望させるに足るものがある(略)秋宵の一盞を苦く飲んでも、稀には庭の柳の枝が折れないでいるのをおもいたまえ。

「主人の手頸の傷」とは、この随筆の書かれた昭和10年に三上於菟吉が、自動車のドアに腕を挟んで、右手首を負傷したことを指しています。
ところが手術が怖かったのか、入院先の病院から脱走した三上は、愛人とともに行方をくらまし、半年以上も妻である長谷川時雨に連絡も寄こさない、という状態になります。

この随筆はそんな時期のもの(『文藝春秋』昭和10年10月号所収)で、夫を案じる時雨を、英治は思いやっているわけです。
昨日触れたように時雨の書簡は『英治に自著「草魚」を贈ったところ丁寧な礼状が来たので、それに対しての返書』であるわけですが、英治の礼状というのは、おそらくそうした状況の時雨を気遣ったものであったのでしょう。
それ故に、時雨も改めて返書を書いたのではないでしょうか。

そんな三上ですが、悪いことは続くもので、昭和11年には愛人宅で血栓症のため昏睡状態となり、一命はとりとめたものの、右半身が不自由になってしまいます。
これによって満足に執筆できなくなってしまった三上は、文壇から次第に遠ざかります。
昭和16年に時雨に先立たれてからは、なおさらだったでしょう。

今回展示している三上の書簡は昭和18年のもの。
時雨没後のものです。

書簡では、英治に対し、君が身体を悪くして、しかもそれが既に快癒していると聞いて、驚きと喜びが相半ばしている、と書いていますが、そうした文壇情報がリアルタイムには入ってこないような境遇にいるということを、はからずも示しています。
そして、もしご寸暇があれば、今日明日とは言わないので、いつでもご来訪下さい、という言葉に、かつては英治をもしのぐ大人気作家であったのに、今はまるで蚊帳の外になってしまっていることへの焦燥感や孤独感がにじみ出ているように感じます。

書簡では、右手右足は相変わらず不自由だが、まあ健康な方だ、と書いていますが、手紙の文字はかなり乱雑で、不自由な右手で書いたのか、あるいは左手で書いたのだろうかと、考え込んでしまいます。

この書簡のほぼ1年後、昭和19年2月に三上於菟吉は亡くなります。
53歳の若さでした。

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2009年7月 7日 (火)

夫婦―1

企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」ですが、予定通り、本日から展示資料が替わっています。
ラインナップはこちらをご参照ください。

展示替えした資料を、引き続きご紹介していきます。

まずは吉川英治宛の長谷川時雨の書簡(昭和10年8月4日付)と三上於菟吉の書簡(昭和18年2月7日付)です。

長谷川時雨は「近代美人伝」などで知られる作家で、書簡は、英治に自著「草魚」を贈ったところ丁寧な礼状が来たので、それに対しての返書。
一方、三上於菟吉は「雪之丞変化」などで知られる作家で、英治の体調不良の見舞いとともに、一度自宅を訪ねてくれるように頼んでいる内容の書簡となっています。

この2通を一緒にご紹介するのは、もちろん、この2人が夫婦だからです。

明治12年生まれの時雨と明治24年生まれの三上では、時雨の方が一回り上の姉さん女房ということになるわけですが、時雨は同じ作家として三上を尊敬し、よく尽くしました。

しかし、奔放な三上には、それがかえって重かったのか、愛人をつくり、愛人宅と自宅の二重生活を送り始めます。

両者と親しかった英治は、昭和10年に書いた「女」という、少々長い随筆の中で、2人のことに触れ、

よけいなおせっかいであるが、三上於菟吉はもうすこし時雨女史にやさしく(この言葉は中らない、しばらく仮用)あってもよいと思う。(略)三上は女を悪魔的に見ることを以て自己の文学を掘りさげてみようとした一頃があったし、お坊ちゃんどおりな世間の幅と哲学をもって女を律してゆこうという吾儘男だから、時雨女史のありがたさなどはわからないらしいが、実生活というもののうえでは、なかなかめったに見出せない女性の一人だということは、あながち僕だけの評ではないらしく、君の知己からも聞くことである。(後略)

と苦言を呈しています。

同じ文章の中での時雨に対する評は

かなり多い女流作家のうちでも、起居清楚に文学と家事とをみださないでいるだけでも稀な女性のほうだと思う。古い教養美といってしまうかも知れないが、たしなみというものや雅致と生活との調和をよくすることなどにおいてああいう女性は将来にも少ないだろう。

と、絶賛に近いものです。

英治が、他人の女性関係、夫婦関係について、具体的な評価を下している文章はほとんどありません。
それだけ、時雨を認めていたのでしょう。

ちなみに、昭和16年に時雨が亡くなった際、その葬儀で友人代表として弔辞を読んだのは英治でした。
その中で時雨の「近代美人伝」を引き合いに出して、時雨こそその「近代美人伝」に描かれてよい人だったと評したことは、時雨を知る人の多くから大いにうなずかれたことでした。

長くなったので、以下明日。

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2009年7月 4日 (土)

写真コンテスト上位入賞作品

第12回吉川英治記念館写真コンテストですが、先日の選考会で上位入賞と決まった作品を館のサイトにアップしました。
こちらです。

以前は、当館には大きなサイズをスキャンできるスキャナーがなく、またフィルムスキャンも出来なかったため、受賞者の方からフィルムを送ってもらった後、ラボでキャビネ版に焼いてもらってから、それをスキャンして、サイトに掲載していましたので、サイト上に掲載するまで時間がかかっていました。
しかし、最近はフィルムよりもデジタルデータの方が多く、また、スキャナーもフィルムスキャンできるものにしたので、例年よりかなり早めに公開できるようになりました。

本当は、各写真に選評をつけてからアップするのですが、今回はとりあえず先に作品だけでもと思い、この時点でアップしました。

ぜひご覧下さい。

なお、これらの作品を含む全入賞作品を「第12回吉川英治記念館写真コンテスト入賞作品展」として、当館内で10月10日(土)~11月1日(日)に展示いたします。
また、その後、富士フイルムフォトサロン東京において2010年1月29日(金)~2月4日(木)に展示いたします。

ご興味のある方はぜひお運びください。

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2009年7月 3日 (金)

紹介状

企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」ですが、明後日の5日(日)までが第一部ということで、そこで書簡を入れ替えます。
その前に、あと少し、第一部の分のご紹介を。

内容が似たようなものなので、2通まとめてご紹介します。

1通は吉川英治宛佐々木味津三書簡(年不詳6月17日付)。
もう1通は吉川英治宛田中貢太郎書簡(昭和9年12月1日付)。

佐々木味津三は人気のあった大衆作家ですが、昭和9年に37歳で世を去っていますので、名前だけ紹介するとピンと来ない方も多いかもしれません。
しかし、その作品は映画やテレビで映像化され、人気を博しましたから、そちらの名を出せば、知らない人の方が少ないでしょう。
その代表作は≪むっつり右門≫の「右門捕物帳」、≪天下御免の向こう傷≫の「旗本退屈男」です。

一方の田中貢太郎も作家です。
昭和16年に亡くなっていますが、怪異譚を中心に今でも著作が出版されています。
今世紀に入っても、学研M文庫で怪談のシリーズが出ていましたが、いま確認すると、絶版の模様。
学研は絶版にするのが早いなぁ(苦笑)

さて、この二人の書簡の内容が似ているというのは、要はどちらも紹介状なのです。

佐々木の方は、どうやら古美術商と思われる人物に持参させたもののようで、そのために消印がありません。
文章をみると、自分や≪白井≫もこの人物から品物を買っているので、あなたもどうか、というような内容になっています。
この≪白井≫というのは、やはり大衆作家の白井喬二のことなのでしょう。

田中の方は、自分の友人を紹介し、その著書を購入してくれるよう依頼しているもの。
その友人というのは≪安岡重雄≫と手紙には書かれています。
調べてみると、海援隊士の安岡金馬の子で、晩年のおりょう(坂本龍馬夫人)にインタビューした人物が安岡重雄というらしいのですが、同一人物でしょうか?
田中は土佐の出身なので、可能性は高いように思えます。

ちなみに、その時、売り込もうとした本は「日本孝子伝」というタイトルのようですが、現在当館で所蔵している吉川英治の旧蔵書の中には見当りませんので、買ったかどうかはわかりません。

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2009年7月 2日 (木)

井上信子を励ます会

『書簡に見る吉川英治の交遊』というのが、今回の企画展のタイトルですが、書簡類ばかりでは単調になるので、書簡に宛名や発信者として登場する人物と吉川英治が一緒に写っている写真もパネルにして展示しています。
もちろん、そうした写真を通じても、吉川英治がどういう人物たちと交流したかを知ってもらおうという魂胆です。

さて、昨日触れた川上三太郎と一緒に写っている写真は、複数あるのですが、どれにしようかと考えた末、昭和10年12月26日の≪井上信子を励ます会≫で撮られた記念写真を選びました。

井上信子は、≪川柳中興の祖≫とも呼ばれる井上剣花坊の夫人であり、自身も川柳家として活動しました。
特に、剣花坊没後は、その遺志を継ぐように、川柳界を支える一人として、戦中戦後の厳しい時代を生きました。

昭和9年に剣花坊を亡くし、川柳界の混乱や対立の中で苦労する信子を主賓として開催されたのが≪井上信子を励ます会≫でした。

吉川英治は、10代の終わりから20代にかけての川柳家≪雉子郎≫時代、剣花坊に師事しており、その夫人である信子に対して母親に対するような愛慕の念を抱いていました。
そんなことから、英治はこの会に出席しています。

川上三太郎も、やはり剣花坊門下であり、そのためここに同席しています。

この写真には、それ以外にも様々な人物が写っています。

そもそもこの会を企画したのは、作家の平林たい子であり、やはり作家の長谷川時雨が協力しています。
出席者には川柳家の小池蛇太郎や前田雀郎らはもちろんとして、評論家の生方敏郎、作家の竹森一男も含まれています。

そうしたバラエティに富んだ顔ぶれと、剣花坊―信子夫妻を通じる形で、英治も知遇を得ていたわけです。

また、この写真には鶴彬も写っています。

「手と足をもいだ丸太にしてかへし」などの厳しい反戦川柳を作り、ために特高警察に逮捕され、赤痢で獄中死することになった鶴彬は、人によっては英治とは対極というふうに見なす場合もあるでしょう。
しかし、剣花坊を介せば、英治にとっていわば弟弟子という形になります。

そんな関係をちょっと紹介してみたくて、この写真を選びました。

ちなみに、鶴彬が検挙されるのは、この会のおよそ2年後、獄中で赤痢に罹り、死亡するのはそのおよそ9ヵ月後です。
残念ながら、それについて吉川英治がどう思ったかは、文章も何も残っていません。

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2009年7月 1日 (水)

親友

「書簡に見る吉川英治の交遊」ですが、吉川英治の方から出した書簡ばかり紹介しましたので、今度は受け取った方の書簡を。

ちなみに、展示中の菊池寛直木三十五、あるいは椋鳩十のものは以前に触れたことがありますので、そちらをご参照ください。

あ、三笠宮殿下のものもこんな話をご紹介したことがありました。

さて、ここでご紹介するのは、川上三太郎から吉川英治に宛てた昭和37年2月3日付の書簡。

川上三太郎は、川柳の世界で≪六大家≫と呼ばれたうちの一人。
英治が≪雉子郎≫の名で川柳をやっていた20代の時からの、自他共に許す親友でした。

昭和36年10月2日、英治は肺がんによる体調の悪化から入院することになります。
手術を経て、いくらか体調が良くなったということで、12月31日に試験的に外出すると、英治はそのまま強引に退院してしまいます。
そうした状況の中、婚約中だった英治の長女・曙美が、大学を中退し、結婚することになりました。
英治に体力があるうちに、ということだったのでしょう。
結婚式は昭和37年2月21日に執り行なわれました。

川上三太郎の書簡は、その結婚式に招待されたことへの礼から始まります。
そして、英治の入院にいかにショックを受けたかを綴っています。

印象深いのは、入院中に一度も見舞いに行かなかったのは、「怖くて出来なかった」のだと書いているくだり。

川上三太郎が吉川雉子郎を思い描いて詠んだ句に

友だちのうしろ姿のありがた味

というものがあります。

そこまでの思いを抱いている親友の衰えた姿を見ることへの恐れ、そして、この世からいなくなってしまうかもしれないということへの恐れ、それが病院へ向かう足を止めさせたということなのでしょう。

友情の深さを感じさせる書簡です。

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2009年6月28日 (日)

兄弟

企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」ですが、堀越梅子同様、知る人ぞ知るという人物との書簡を、もう一つご紹介します。

それが、野口駿尾に宛てた吉川英治の書簡(昭和13年8月27日付)です。

野口は画家で、英治とは「宮本武蔵」の取材旅行に同行するなど懇意でした。
ここで紹介している九州への取材旅行、あるいは岡山県宮本村(現美作市)への取材旅行の写真に一緒に写っています。

また、野口の娘・多嘉子と結婚した画家・南政義と戦時中の南方視察の際に南の徴用先のインドネシアで逢ったという話が、英治の「南方紀行日誌」に出てきます。

手紙の内容は簡単なもので、野口より送られた古書が、一部の随筆類などを除いて自分には不要なものなので、別の人に譲ってくれるようにと伝えているものです。

さて、この野口駿尾という人物については、一度きちんと調べようと思いながらまだ果せていませんが(こんなことばかり言ってますが)、決して画家として高名ではないため、なかなか事跡がはっきりしません。

ただ、兄が良く知られた人物であり、そこが一つの足がかりになるであろうと思っています。

ここでも触れていますが、野口駿尾の兄は実業家の野口遵です。

加賀藩の士族出身の野口遵は、東京帝大で電気工学を学び、実業家として化学工業に大きな足跡を残しました。
現在のチッソ、旭化成、積水化学などを創業し、また、それによって成した私財のほとんどを科学振興のための野口研究所と朝鮮の教育振興のための朝鮮奨学会の設立に費やしたことでも名を残しています。

そんな理系な兄の弟が、なぜ、どういう流れで画家になったのか、興味を覚えます。

昭和21年に亡くなっているため、戦後は、当然ながら交流がないのですが、昭和10年代の吉川英治をよく知る人物の一人です。

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2009年6月26日 (金)

おすそ分け

「書簡に見る吉川英治の交遊」、続いてご紹介するのは、堀越梅子宛の吉川英治書簡です。

堀越梅子と言っても、よほど茶道に詳しい方でないと、ご存知ではないでしょう。

この方は裏千家の女子茶道の先駆者の一人で、号は≪宗圓≫。
吉川英治と同じ明治25年(1892)の生まれです(没年は1978年)。
父親は、かの松方正義です。

吉川英治と交流を持つようになった時期ははっきりしませんが、吉川英治は堀越家の初釜に招かれるなど、親しくしていました。
堀越梅子宛の書簡・葉書は、ご遺族からご寄贈いただき、19通を当館で所蔵しています。

その中から展示しているのは、昭和10年12月31日付のもの。
と言っても、≪昭和10年≫というの、内容からの推定で、実物には「師走三十一日」とあるだけで、年の記載はなく、消印もありません。

その内容は、須賀川牡丹園から牡丹の薪を送ってもらったので、そのうちの一把をおすそ分けします、というもの。
おそらく、家人に堀越家まで牡丹薪を持参させ、それに添え状としてつけたものなので、消印がないのでしょう。

牡丹の薪と言えば、以前こんなことを書きました。

この宴席で牡丹焚火を行ったのが、昭和11年1月13日なので、堀越家に牡丹の薪を贈ったのは、昭和10年の大晦日であっただろうと推定しています。

これが昭和10年ならば、19通の中で一番古いものになりますが、内容からして、その前から交流はあったようです。

ちなみに、今回は展示しませんが、以前、19通の中の別のものをこのブログで取り上げました。

そちらもよろしければお読みください。

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2009年6月25日 (木)

文机

話を企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」にもどして。

現在展示中の書簡に、吉川英治から谷崎潤一郎に宛てた書簡があります(昭和37年1月18日付)。

あまり吉川英治と谷崎潤一郎の間に交流があったというイメージはないでしょう。
実際、交流はほとんどありませんでした。

谷崎自身の文章にも

吉川君と私とはさう親密には交際してゐなかつた。しかし始めて會ったのは餘程古いことである。

とあるくらいです(「わたしの吉川英治」所収『吉川英治君のこと』)。

そんなわけで、この書簡も、吉川英治の長女・曙美が、谷崎と懇意にしていた編集者と結婚することになり、その編集者が曙美をともなって谷崎に挨拶に行ったことに対しての礼状、というような内容になっています。

ただ、英治と谷崎は、英治の死後にちょっとした縁が生まれました。

そのことについて、谷崎松子夫人が吉川英治全集月報に「文机の残り香」として、一文を寄せています。
その概要は、こんな話です。

昭和38年、谷崎は熱海市伊豆山の≪後の雪後庵≫と呼んだ家を引き払うことにしますが、そう決意した時点ではまだ転居先が決まっていませんでした。
ある場で吉川文子夫人と同席した松子夫人が、家の明け渡し日が迫っているのに落ち着き先がまだ決まらないと口にしたところ、文子夫人がそれならば主人(英治)が亡くなって熱海市西山の別荘は使わないのでどうぞと勧めます。

かくして、渡りに船と谷崎はその年4月に英治の別荘に移ってきます。
英治は前年の37年9月に亡くなっていますから、没後半年余りでのことになります。

さて、転居に先立って、谷崎夫妻に対して、文子夫人がその西山の別荘を案内したのだそうです。
その際、別荘内に残されていた英治の遺品である文机を見た谷崎が、その文机に見惚れているのを見て、文子夫人は「どうぞお使いください」と言って、その文机を谷崎に譲りました。

この文机は、英治が熱海の別荘での執筆に使っていたもので、「新・平家物語」「私本太平記」を書いたもの。
そして、谷崎は譲り受けてから、ここで新新訳源氏を手がけました。

つまり、平家と源氏を生み出した文机ということになったわけです。

谷崎は、翌39年には、湯河原に新居を建てて、そこへ移っていますが、文机はそのまま新居に持って行きました。

そして、めぐりめぐって、現在は谷崎潤一郎記念館に収められています。

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