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2005年6月30日 (木)

とんちんかん

某新聞社から電話取材を受けました。

「宮本武蔵」は昭和11年から14年にかけて出版されたそうですが、その本は今でも書店で手に入るんですか?

すみません、御社にも出版部門があると思うのですが、そちらでは70年前の本をそのまま売ってるんでしょうか?

大河ドラマの「武蔵」って、いつ放送されました?あっ、来年でしたっけ?

あの、御社のニュースサイトで、ついさっき「武蔵」盗作裁判の判決結果の記事を読んだんですけど?

もちろん心の声です。
質問には丁重にご返答させていただきました。
でもねぇ。

本日付で、300万人まであと388人となりました。

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2005年6月29日 (水)

syara
ナツツバキ(夏椿)が咲き始めました。

別名でシャラ(沙羅)とも呼びます。
地域によっては、これをサルスベリと呼ぶこともあるそうです。

一つ一つの花は1日もすると萎れてしまいます。
椿に比べると、その分、儚げな感じもしますね。


本日付で300万人まであと408人です。

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2005年6月28日 (火)

黒幕?

いま発売中の『正論』7月号に「吉川英治とX氏」(兵頭二十八)という見開き2頁のエッセイが掲載されています。

吉川英治の小説「宮本武蔵」の新聞連載にあたって、吉川英治に指図を与えた黒幕X氏が存在した、という内容の文章です。

そこで指摘されている、小説「宮本武蔵」は当初は200回ほどで完結する予定であったものが国民的人気を得たために最終的に1013回まで連載が継続された、というのは紛れもない事実です。
このことを筆者は、X氏の指図によるものと書きます。それも、単に回数を引き延ばすことのみでなく、吉川英治は「国民に覚悟を注入する」内容となるように指図を受けていたと、“断定”しています。

筆者がどのような考えを持とうが、それは“自由”です。
しかし、その考えに至った経緯と根拠を示さなければ、それは妄想に過ぎません。
ところが、筆者は断定するだけで根拠も示さず、その上、「初期の人気に目を着け、英治に作品の方向性まで指図するようになった黒幕X氏がいったい誰なのかは、さっぱり分からない」と書いて平然としています。
短いエッセイだからといって、これで論が成立するなら何とでも言えます。
X氏はフリーメーソンでも、ムー帝国人でも、金星人でもOKです。

もちろん、吉川英治が戦時中の国家の宣伝活動と無縁だったなどと言うつもりはありません。当時の軍人・官僚に多くの知己を持っていたことも確かです。
また、小説「宮本武蔵」も、国家の宣伝活動に寄与したという文脈から、戦後、何度も批判を受けています。
しかし、寡聞にして、国家内の黒幕から指図されて書いた作品である、という批判というものは見たことがありません。

筆者は、軍学者を自称し、宮本武蔵に心酔する人物のようです。
おそらく吉川英治の宮本武蔵観とは異なる意見をお持ちなのでしょう。
ならば作品の内容について批判を加えればよいのです。
にもかかわらず、わざわざ架空のX氏を仕立て上げて、何か陰謀が存在したかのように書く理由が、私には「さっぱり分からない」のです。

私は浅学な人間ですから、目を通していない資料はいくらもあります。
ですから、根拠ならばちゃんとある、ということであるならば、私としても勉強になりますので、是非お教え下さい。
よろしくお願い致します。


本日付で300万人まで残り500人を切り、あと450人となりました。

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2005年6月27日 (月)

手紙

吉川英治記念館では様々な資料を展示していますので、昨日の例のように、「展示品の中に自分の身内の名がある」と、お客様から声をかけられることは、たまにあります。

以前、そのことで少々バツの悪い思いをしたことがあります。

品のある女性の方が、展示を見た後で窓口にやってきて、

「あれは父の手紙ではありません」

とおっしゃるのです。

展示作業をしたのは私ですから、何が展示してあるかは分かっています。
いま展示してあるもので、そういう疑いのあるものと言えば、まさか……

「私、三笠宮の娘です」

やっぱり!

その時、昭和30年10月11日付で三笠宮から吉川英治に宛てた書簡を展示していたのです。

三笠宮と吉川英治は、軽井沢の別荘が近所で、よく行き来がありました。
そうした交友関係から、吉川英治が三笠宮にリンゴを贈り、それに対して礼状が届きました。

展示していたのはそれです。

この礼状、署名が無く、名前はスタンプになっています。
そのことから、本人が書いたものではないと考えてはいたのですが、二人の間に交流があったことを示したくて、単に≪吉川英治宛三笠宮書簡≫とだけ書いて、展示していたのです。

口調は穏やかでしたが、「あんなものを三笠宮の手紙として展示されては困る」という空気が出ていました。

もちろん、その日中に展示を差し替えたのは言うまでもありません。

しかし、普通の団体(と言っても同窓会でしたが)の中に、そのような方が混じってらっしゃるとは想像もしていませんでしたから、大変に驚きました。


本日は休館日です。

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2005年6月26日 (日)

川柳

電話でこんな問い合わせがありました。

自分の姉が、以前、吉川英治記念館に行った時、展示品の中に自分たちの父親の名前があるのを見つけたと言うのだが、それはどういうものか。

と言うのです。

話の中で「父親は『すヾ六』という号で川柳をやっていた」と聞き、ある資料のことを思い出しました。

平成9年に「川柳家・吉川雉子郎」展という特別展を行いました。
そこに「川柳句会記」というものを展示しました。

吉川英治は作家デビュー前の青春時代、≪雉子郎≫という柳号で、川柳家として活躍していました。
その頃の句会で、上位入賞者の句を記録したものが、当館の資料にあり、それを展示したのです。

詳しく書くと、大正4年3月に行われた第七回さくらぎ会の記録です。
この句会の席題は「生」「焼」「腹」で、吉川英治は

気ちがひの武士も習はぬ腹を切り

で天位(最優秀賞)を獲得しています。

この資料の中に、確かに「すヾ六」の名がありました。

感吟(佳作に相当)として

生甲斐も無く四人産み五人産み

が採られています。

やはり、この資料をご覧になったのでしょう。

しかし、8年も経ってからお問い合わせが来るとは思いませんでした。


本日付で、300万人まで残り514人になりました。

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2005年6月25日 (土)

anzu

杏の実が鈴なりです。

果樹は年によって実のつき方が大きく違いますが、今年は随分たくさん実が生りました。

このままにしておくのはもったいないので、実をもいで、焼酎漬けにでもしようかと思います。

本日付で、300万人まであと残り571人です。

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2005年6月24日 (金)

入館者300万人・追加情報

先日お伝えした入館者300万人記念の追加情報です。

既にお伝えした記念品の他に、吉川英治夫人で、吉川英治記念館名誉館長である吉川文子のサインを入れた吉川英治の書画集「吉川英治余墨」も差し上げることになりました。

したがいまして、300万人の記念品および特典は以下のようになります。

・平成18年4月11日に帝国ホテルで行われる第40回吉川英治賞贈呈式及びレセプション
 にペアでご招待(財団法人吉川英治国民文化振興会より)
・吉川文子サイン入り「吉川英治余墨」を記念品として進呈(吉川家より)
・吉川英治歴史時代文庫版「新・平家物語」(全16巻)を記念品として進呈(講談社より)
・紅梅苑のお菓子詰め合わせを進呈(紅梅苑より)


本日付で、300万人まで残り771人です。

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2005年6月23日 (木)

安徳天皇と豊臣秀頼

安徳天皇生存説は、西日本を中心に広く日本各地に残っています。

『随筆 新平家』の「新平家落穂集」の中で、吉川英治が「近頃興味ふかく読んだ」として取り上げている『院政貴族語と文化の南展』(奥里将健 三協社 昭和29年10月25日)では、安徳天皇が沖縄まで逃れたとする説が取り上げられています。

それで思い出したのが、吉川英治の小説『恋ぐるま』です。
というのも、この作品では、大阪夏の陣に敗れ、大阪城で死んだはずの豊臣秀頼が、実は密かに沖縄まで落ちのびて、そこで態勢を立て直して豊臣家再興のために本土に再上陸しようとするのです。
その再上陸を助けようとする豊臣派と、阻止しようとする徳川派の暗闘に、恋が絡んで、、、という見事な伝奇小説です。

面白い作品なのですが、実は、これ、未完なんです。
実に残念です。


本日付で300万人まで残り801人です。

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2005年6月22日 (水)

tsuyu
ムラサキツユクサ(紫露草)です。

私はどうしてもツユクサ(露草)とこれとを呼び間違えてしまいます。
花は全然似ていないのですが。

本日付で、入館者300万人まで900人を切り、残り857人になりました。

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2005年6月21日 (火)

安徳天皇生存説

『安徳じゃが浮かびたい』(細川幹夫 麗澤大学出版会 平成16年)という本をご寄贈いただきました。

実は先日、著者の細川氏がご来館になり、ご質問をいただきました。

吉川英治は『新・平家物語』で、安徳天皇の山ノ御所について書いているが、それはどのような資料によったものか、というご質問です。

源平の争いの中で、平家一門が安徳天皇を伴って都落ちします。
その後、一の谷で敗れた平家は四国の屋島に逃れます。
『新・平家物語』では、この際、船酔いした安徳天皇は屋島に行かず、≪山ノ御所≫で静養していたとしています。
そして、健康を取り戻した安徳天皇が、屋島にいる母の建礼門院を訪ねたその時、ひそかに四国に上陸した義経の軍勢が屋島を襲うという風に描いています。

この古典平家には登場しない山ノ御所の存在が、細川氏が研究なさっている≪安徳天皇の四国潜幸≫ということについて重要な意味を持つということなのです。

≪安徳天皇の四国潜幸≫とは、安徳天皇は壇ノ浦では死んでおらず、壇ノ浦以後も四国で密かに生きていたという伝承です。

ご質問をいただいて、少し調べてみましたが、これと明確に言える資料は発見できませんでした。

吉川英治は『随筆 新平家』の「新平家落穂集」の中に

読者からの手紙の中では、近頃とみに、安徳天皇に関する事蹟についてのお知らせが多くなっている。

と書いていますから、その中に≪山ノ御所≫の伝承を伝えるものもあったのかもしれません。
しかし、残念ながら、そうした資料は現存する読者からの手紙の中には含まれていません。

吉川英治は「新平家落穂集」の別の場所で、日本各地に残る安徳天皇伝承について、実際には古典平家成立以後に生まれた伝説なのだろうとして、懐疑的な目を向けていますが、≪山ノ御所≫は採用しています。

そこにはどんな意図があったのでしょうか。

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2005年6月20日 (月)

梅の香や四十初惑と思ひしに

季節はずれな句をタイトルに掲げました。
というのも、私事ながら、私が今月で40歳を迎えたからです。

吉川英治に「四十初惑」という随筆があります。

四十にして惑わずというが、実際に不惑という心境に至るのは難しい。
むしろ、四十に到って、それまでの積み重ねから、人生が「はっきりと一段、階梯がちがってくる所から、迷いの目は、新しい自己を見てくる」ので、それに応じた欲や目標も生まれ、いよいよ迷いを生じるものではないか。

そんな内容の随筆です。

私自身は、不惑などという人生の完成を感じることはもちろんなく、と言って、まだ新しい自己に直面して迷っているという実感もありません。

私の四十は「未惑」といったところでしょうか。

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2005年6月19日 (日)

川本喜八郎

人形作家の川本喜八郎は数多くの人形劇の映像作品で知られています。
特にNHKで放送された『三国志』は人気の高い作品です。

この『三国志』の人形製作にあたって、川本喜八郎は、番組の原作ではないにもかかわらず、吉川英治の小説『三国志』のイメージで人形を製作したと言います。
この『三国志』の番組製作が終わりに近づいた頃、川本喜八郎は、次は『新・平家物語』を人形劇で製作したいという希望を周囲に話すようになります。
そして、なんと、製作依頼もなく、作品化の予定もないにもかかわらず、個人的に『新・平家物語』の人形製作を開始してしまうのです。

川本喜八郎は、コツコツと人形の製作を続けながら、作品化を働きかけ続けます。
その熱意を受けて、平成5年にNHKでの作品化が決定。
同年12月から7年1月まで放送されたのです。

今回の「映像化された『新・平家物語』の世界」では川本喜八郎の人形は展示していませんが、若干の資料を展示しています。

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2005年6月18日 (土)

hotaru
ホタルブクロ(蛍袋)が咲いています。

名前の由来は、この花の中に捕まえた蛍を入れるという子供の遊びにあると言われますが、形が提灯に似ているので「火垂る袋」と呼んだからだという説もあるようです。

地元の人によると、昔は吉川英治記念館の近くの沢でも蛍が見られたそうです。
吉川英治もその風情を楽しんだことでしょう。

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2005年6月17日 (金)

入館者300万人

吉川英治記念館では、開館28周年の今年、累計の入館者数が300万人を突破します。

そこで、感謝を込めて、300万人目の来館者の方に下記の記念品と特典を進呈することとなりました。
まず、来年でちょうど第40回を迎える吉川英治賞(文学賞・文化賞、なお文学新人賞は来年で第27回)の受賞者への賞の贈呈式とその後に行われる立食形式のレセプション(平成18年4月11日、帝国ホテルにて開催)に、ペアでご招待いたします。
また、講談社からは吉川英治がここ青梅の地で執筆した「新・平家物語」の文庫本全16巻を、吉川英治夫人が始めた菓子処・紅梅苑からはお菓子の詰め合せを、それぞれ進呈いたします。

300万人記念品及び特典

・平成18年4月11日に帝国ホテルで行われる第40回吉川英治賞贈呈式及びレセプション
 にペアでご招待(財団法人吉川英治国民文化振興会より)
・吉川英治歴史時代文庫版「新・平家物語」(全16巻)を記念品として進呈(講談社より)
・紅梅苑のお菓子詰め合わせを進呈(紅梅苑より)

6月17日現在、300万人達成まで、あと1085人です。

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2005年6月16日 (木)

記念講演会

吉川英治記念館も所属している全国文学館協議会では、発足10周年を記念して、以下の内容で記念講演会を開催いたします。

日時:7月30日(土) 午後1時~4時20分(開場12時30分)
会場:よみうりホール(JR山手線有楽町駅前、読売会館7階)

◎挨拶=中村稔(全国文学館協議会会長)
◎講演=「文学館の住人たち」井上ひさし(作家・仙台文学館館長)
◎講演=「文学館への期待」瀬戸内寂聴(作家・徳島県立文学書道館館長)
◎シンポジウム=「文学館の魅力を求めて」中村稔(詩人・弁護士・日本近代文学館理事長)・篠弘(歌人・日本現代詩歌文学館館長)・加藤幸子(作家)・今橋映子(東京大学助教授)

主催:全国文学館協議会
後援:読売新聞社

入場券は当日2000円、前売り1800円。
お申し込みは、日本近代文学館の文学教室係(〒153-0041 目黒区駒場4-3-55 ℡03-3468-4181)まで。

なお、入場券は吉川英治記念館でも販売しています。
ご利用下さい。

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2005年6月15日 (水)

若葉照り今朝は香屋子の誕生日

昭和25年6月、吉川英治夫妻に次女・香屋子が誕生しました。
4人の実子のうち、長男・英明からは12歳、すぐ上の長女・曙美からでも8歳離れた末っ子です。

この時、吉川英治は58歳。
そうでなくても末っ子は可愛いと言いますが、年齢的に孫に近い感覚だったようで、他の兄弟に比べると、ほとんど溺愛状態だったそうです。

タイトルの句は、その香屋子の誕生日に詠まれたもの。

何の技巧もない、およそ俳句と言いがたい句ですが、そのことでかえって吉川英治の溺愛ぶりがうかがえ、なんとなく微笑ましい気持ちになります。

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2005年6月14日 (火)

プロモーション

今回の「映像化された『新・平家物語』の世界」展には、映画や舞台のポスターを展示していますが、その中に一枚、変わったものがあります。

大映の映画「新・平家物語」のプロモーションの告知ポスターです。

≪10万円とホンダドリーム号オートバイが当る大懸賞≫と銘打たれたプロモーションの内容は≪新・平家物語 史跡オート・レース≫。

平泉の中尊寺をスタートした東軍と、福岡の大宰府をスタートした西軍のオートバイが、ゴール地点となる名古屋の熱田神宮を目指すというレースです。
レースと言っても、途中で平家物語にゆかりの史跡に立ち寄り、そこにあるチェックポイントで出演俳優らのサインを受け取り、場所によってはパレードなども予定されているという、イベントです。

懸賞は、東軍と西軍のどちらが勝つか、勝利チームの所要時間は何時間何分か、使用するオートバイの名は、という三問に答えるというもの。
一等は上記の賞品を1人に、二等は5人に1万円、三等は50人に1000円。
昭和30年ということを考えると、結構な額ではないでしょうか。

先日のニュースで、映画『星になった少年』のプロモーションのために、ゾウが日本全国を行脚するということを伝えていましたが、50年前とあまりやっていることが変わらないと思うのは、私だけでしょうかね。

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2005年6月13日 (月)

序文

私の個人的な興味で井川定慶著『京の風土記』(昭和13年 平凡社)という本を買ってみました。

発行年でわかるように、古書店の目録に出ていたものを購入したものです。
いわゆる目録買いですね。
つまり、本の現物を見ずに購入したわけです。

古書店から送られてきた本を見ると、私が期待していたような事は書かれていませんでした。
その代わりと言ってはなんですが、この本の序文を書いているのは吉川英治でした。

もちろん、そんなことは知りませんでしたし、古書目録にも書かれていませんでしたから、これはまったくの偶然です。

吉川英治の随筆を可能な限り網羅した目録を作りたいと、以前から少しずつ調査しています。
他人の著書への序文というのも、その調査対象に含めているのですが、なかなか見つけ難いものです。

たいていは著者から序文執筆者に本が贈られるものですから、吉川英治の旧蔵書をしらみつぶしにすればいいことです。
しかし、蔵書整理の際に処分されたものもあるでしょうし、送られてこなかった場合もあるでしょう。
そういう、吉川英治の蔵書中にないものへの序文は、書物の大海に沈んでしまって、なかなか探し出せません。

それを見つけたので、なんだか海でなくした指輪が釣った魚の腹の中から出てきたような、そんな気分です。

……って、そんな大袈裟な。

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2005年6月12日 (日)

コンテスト裏話

写真コンテストの選考会が終わると、私には一仕事あります。

それは入賞者の名前をネットで検索にかけることです。

これは、二重応募や類似作品のチェックをするためです。

写真の場合、簡単に複製が作れますから、自信のある作品を何枚もプリントして、複数のコンテストに応募する方がいらっしゃいます。
これが二重応募。

また、同じ被写体を少しずつアングルや露出・絞りなどを変えて何枚も撮影するというのは、誰もが当然行うことです。
そうした作品は、1枚1枚は厳密に言えば少しずつ異なっている別作品ですが、結局は同じ被写体を同じ画想のもとで撮影したもので、大きな括りで言えば同類の作品です。
これを同じコンテストに応募する分には問題ありませんが、時々、別々のコンテストに応募する方がいらっしゃいます。
これを類似作品といいます。

二重応募も類似作品も、コンテストの公平性を保つ上で、排除の対象となります。

数年前、上位に入賞させ、そのことを公表し、展示もした作品が、別のコンテストの関係者から類似作品であるとの指摘を受け、受賞後に落選という扱いにしたことがあります。
大変に口惜しい気分でした。

それ以来、全入賞者名をネットで検索にかけるようになりました。

全国には、大小さまざまな写真コンテストがあります。
最近はその多くがネット上に入賞者名を公表し、受賞作品を公開しています。
それと、自分のところの入賞作品を見比べてみるのです。

昨年はそれによってトリミングを変えただけの類似作品を見つけました。
選考結果を発表する前だったので、何の問題もなく事前に落選させることができました。

今年もチェックを行いましたが、幸いそういうことはありませんでした。

ちょっとうれしい気分です。

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2005年6月11日 (土)

写真コンテスト結果発表

吉川英治記念館では毎年写真コンテストを開催しています。

「時代」「生活」「美しきもの」というテーマで募集した第8回のコンテストは、昨日選考会を行い、以下の作品が入賞となりました。

☆金賞(1点)
「笑顔の収穫」渡辺健(福岡県宇美町)

☆銀賞(3点)
「ウォーキング」おおいし和子(兵庫県猪名川町)
「祈り」高橋寿(秋田県湯沢市)
「京ノ夏」野田正(愛知県一宮市)

☆銅賞(3点)
「野焼き(3枚組)」青木昌秀(大阪府富田林市)
「ファッション」小蔵武三(滋賀県草津市)
「祭りの日」吉野平治(埼玉県入間市)

☆入選(25点)
「廃業」圷道和(茨城県水戸市)
「お嫁にいって来るね」浅岡由次(愛知県知立市)
「じゃが芋の収穫(4枚組)」井関俊(愛媛県三間町)
「残雪の山と花の里」伊藤武(長野県長野市)
「MY HOBBY 僕の趣味」池本徳子(兵庫県神戸市)
「風雪300年の山門」岩上行得(東京都文京区)
「大寒伝承」奥野喜久雄(愛知県名古屋市)
「齢の雫(3枚組)」小林新治(愛媛県四国中央市)
「太陽の季節」斎藤清(東京都大田区)
「冬支度」下瀬隆幸(広島県広島市)
「休日の手伝い」染谷つねお(北海道札幌市)
「里の秋」高嶋一誠(福岡県福岡市)
「子供達」武田治(兵庫県稲美町)
「笑顔で冬越」竹田捷幸(新潟県上越市)
「いつもの近道」但木幹雄(埼玉県鷲宮町)
「春の薫りに」龍澤豊文(埼玉県入間市)
「花の山」角貝久雄(埼玉県入間市)
「伝授」原田孝(千葉県市川市)
「きょうの収穫」藤森保男(岡山県岡山市)
「三代」堀内道正(茨城県ひたちなか市)
「吉川英治を偲ぶ」丸岡孝(神奈川県川崎市)
「静寂(3枚組)」宮田憲雄(広島県府中市)
「太夫」宮森義雄(東京都東村山市)
「東京湾岸の空に(3枚組)」本橋省吾(東京都小金井市)
「いつも一緒」山口洋子(東京都大田区)

これらの作品は、10月4日から11月6日に吉川英治記念館内で、来年1月27日から2月2日まで有楽町の富士フォトサロンで展示の予定です。

上位作品は後日、記念館サイトで公開します。

お楽しみに。

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2005年6月10日 (金)

「戯曲 新・平家物語」

前進座の舞台は初演が昭和36年。
吉川英治はその翌年に亡くなったため、この時に書いた台本が≪吉川英治唯一の戯曲≫と称されています。

この台本は、ラジオドラマの台本である「めくら笛」、東をどりの台本である「あづちわらんべ」とともに『戯曲 新・平家物語』として単行本化されています。

さて、前進座の台本として吉川英治が書き下ろした原稿が吉川英治記念館の資料として残っています。
吉川英治には珍しい鉛筆書きの原稿です。
この原稿と単行本を見比べると、意外なことがわかります。

吉川英治は舞台全編の台本を書き下ろしています。
しかし、『戯曲 新・平家物語』に収録されているものは、その原稿とは異なります。
調べてみると、前半は前進座の台本への加筆修正、後半のみ吉川英治の書き下ろし、という形になっているのです。

実は、実際に上演されたのは、吉川英治完全書下ろしの台本ではなく、前進座との合作とも言うべき単行本収録の台本の方でした。
これはおそらく、舞台稽古に立ち会う中で、劇団員たちと様々なすり合わせを行った結果、舞台装置や大道具・小道具の準備などの条件から、そうすることが現実的であると判断した結果なのでしょう。

前進座は昭和38年にもこの舞台を再演していますが、やはり台本は≪合作≫の方でした。
この時に、前進座では≪先生ご自身の筆になる劇化!唯一の戯曲≫とチラシに刷り込んでいます。
そして、これに合わせるかのように、『戯曲 新・平家物語』の単行本が出版されています。
合作と言っても大幅な修正がなされており、吉川英治の監修のもとに構成された作品ということで、事実上≪吉川英治作品≫と認識されたようです。

しかし、結果的に、吉川英治が書き下ろした台本の一部は≪幻≫になってしまいました。
なんとなく残念な気がします。
完全な形で活字化することができれば、面白いと思うのですが。

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2005年6月 9日 (木)

前進座と「新・平家物語」

「新・平家物語」の舞台化作品では、昭和36年の前進座のものが代表作と言えるでしょう。

この作品は、吉川英治が自ら台本を書いたことで知られています。
しかし、その初演に到るまでは決して平坦な道ではありませんでした。

1月21日、前進座の宮川雅青が「新・平家物語」の上演許可を得るために吉川邸に来訪。吉川英治は、これに快く許可を与えます。
2月25日には主役の平清盛を演じる河原崎長十郎が吉川邸に挨拶にやってきます。
その後数回の打ち合わせの後、4月8日に前進座で共同執筆した上演台本の第一稿が、さらに4月14日には第二稿が届きます。

この時、吉川英治は「私本太平記」連載中で、その執筆に力を注いでいたため、台本の十分な吟味ができない状況でした。
そのため、5月16日からの大阪毎日ホールでの公演(~20日)は、前進座執筆の台本により上演されました。

続いて、6月10日からは東京読売ホールでの1ヶ月公演(~7月9日)となります。
その直前になってようやく台本にじっくり目を通した吉川英治は、その内容に満足できず、この台本では上演を許可できない、と言い始めます。
とは言え、既に公演の準備は進んでいます。
議論の末、吉川英治は、ついに自ら台本を書くことを決意します。
それが6月7日。
結局、吉川英治はこの日と翌8日を続けて徹夜して台本を書き上げます。さらに9日には、朝9時から夜11時まで舞台稽古に立ち会ったのでした。

そして初日の10日。稽古時間わずか1日、しかも急に変更された台本に基づく舞台でありながら、前進座はこの公演を見事に成功させました。

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2005年6月 8日 (水)

我以外皆我師

先日テレビを見ていたら、タレントのふかわりょうが、座右の銘は「我以外皆我師」だと話していました。
その時、私は画面を見ていなかったのですが、その言葉を聞いて目をやると、その言葉を説明するテロップが出ていました。
一瞬で消えてしまったので正確ではありませんが、「元々宮本武蔵の言葉で、それを小説に書いた吉川英治が好んで使った言葉」というような説明がなされていました。

これは少々間違っています。

宮本武蔵は、確かに「五輪書」の地の巻で

道におゐて儒者仏者数奇者しつけしや乱舞者これらの事は武士のみちにてはなし 其の道にあらざるといふとも道を広く知れば物毎に出あふ事也 (儒学・仏教・礼法・舞踊などは武士の道ではないが、広くこれらの物事にも接すれば、気づくことも多い)

であるとか

わが兵法をまなばんとおもふ人は道をおこなふ法あり (中略) 第三に諸芸にさはる所 第四に諸職の道を知る事(後略)

と書いてはいます。

しかし、一方では

兵法の利にまかせて諸芸諸能の道となせば万事において我に師匠なし

という有名な言葉もあります。
まあ、これは、あえて裏返しにとれば、特定の師は持たずともあらゆる事から学び得る、という意識のあり方だと言えなくもないでしょう。

しかし、「我以外皆我師」という成句は、宮本武蔵の言葉の中には見当たりません。

この言葉は吉川英治自身の案出した言葉だと考えています。

「考えています」と留保しているのは、本人が自分が考えついたとははっきり書き残していないことと、何か原典がある可能性を否定しきれないからですが、まず間違いないでしょう。

しかし、意外なところでこの言葉に出会って、ちょっと驚いてしまいました。

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2005年6月 7日 (火)

歌舞伎の世界は血筋、家柄が重視されるところです。
ですから、同じ舞台に親子・兄弟が揃って立つということは、珍しいことではありません。
その結果、実際の親子・兄弟が役柄上の親子・兄弟を演じることも、しばしば見られます。

「新・平家物語」の舞台化作品の中にもそのような例があります。

昭和39年、明治座での「新・平家物語 清盛と常盤」では、平清盛と重盛の親子を、松本幸四郎(先代)と市川染五郎(当時、現松本幸四郎)の親子が演じています。
ちなみにタイトルに名のある常盤は山田五十鈴が演じました。

一方、昭和48年、帝国劇場での「新・平家物語 かまくら殿の巻/悲弟の巻」では、源頼朝と義経の兄弟を、市川染五郎と中村吉右衛門の兄弟が演じています。

珍しいことではないとはいえ、どういう気分なのでしょう。
特に、仲違いする兄弟の役を、実の兄弟で演じるというのは。

兄弟仲があまりよろしくないという噂も耳にするだけに、ちょっと気になります。

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2005年6月 6日 (月)

大河ドラマ「新・平家物語」は吉川英治の原作が描く時間的範囲よりも、早い段階で終了していました。

逆に、吉川英治の原作の時間的範囲よりも長く引き延ばされたのが、先年の大河ドラマ「武蔵」でした。

ご存知のように吉川英治の小説「宮本武蔵」は巌流島の決闘で幕を閉じます。
しかし、大河ドラマ「武蔵」では巌流島以降も描かれました。
それ以外にも、原作と異なる箇所は数多くありました。

こうした「原作」と「劇化作品」の関係は、いろいろ難しいものがあります。

テレビドラマにせよ、映画にせよ、舞台にせよ、文学作品を劇化する際には、決められた時間枠による制限や、視覚化に適しているかいないかといったことなどから、原作に≪忠実≫にとはいかない部分があります。
むしろ、劇化する際に何もかも原作通りにしてしまうことで、失敗する場合も多々あります。

吉川英治は、そういうところをよく理解していたのでしょう。
作品を映画や舞台にすることについて、「娘を嫁にやるようなものだ」と常々口にしていたそうです。
これは、「嫁に出した娘が相手先の家風に染まるのは仕方がない」=「作品が改変されるのは当たり前のことだ」ということでしょう。

しかし、作品は作者だけのものではなく、一度発表されれば読者のものでもあります。
熱心な読者が、原作の改変に異を唱えることは、誰にも止められません。

大河ドラマ「武蔵」の放送中には、吉川英治記念館にも抗議の電話がかかってきました。
罵倒されて閉口することもありましたが、これも作品への愛ゆえでしょう。

もちろん、そんな電話は二度とごめんですが。

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2005年6月 5日 (日)

大映映画三部作の他に、「新・平家物語」と言えばNHK大河ドラマが有名でしょう。

さて、今回の特別展示にあたり、簡単な配役の対応表を作ってみました。
つまり、清盛を演じた役者には誰がいるのか、義経は?といったことがわかるような表です。

登場人物が多いので凝りはじめると際限がありませんから、四組の男女に限定しました。

清盛と時子、頼朝と政子、義仲と巴、義経と静です。

大映の三部作ではそれぞれ、市川雷蔵と久我美子、上原謙と水戸光子、長谷川一夫と京マチ子、菅原謙二と淡島千景です。

これがNHK大河ドラマになると、仲代達矢と中村玉緒、高橋幸治と栗原小巻、林与一と古城都、志垣太郎と・・・・・・

あれ、大河ドラマの静って誰だったかな?

そうだ、NHKの台本にはスタッフ・キャストの一覧表が入っているはずだ。
収蔵庫に行って確認してみよう。

・・・・・・大河ドラマには静が登場していませんでした。

台本を見る限り、大河ドラマの「新・平家物語」では、描かれるのは壇ノ浦の合戦で平家が滅びるまで。
その後の頼朝と義経の軋轢は描かずに、一気に原作のラストシーンである「吉野雛」の場面に飛んでいます。

これでは静の出番はありません。

大河ドラマ版が放送されたのは昭和47年。
私は当時小学生で、これを見た記憶がありません。
そのためずっと原作通りに作られているものだとばかり思っていました。

違ったんですね。

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2005年6月 4日 (土)

もう少し映画の話を。

吉川英治が小説『宮本武蔵』を書いたことで、剣豪・宮本武蔵への評価や関心も高まり、多くの時代小説作家が宮本武蔵を題材にした作品を書くことになりました。

そのうちのひとつが、五味康祐の『二人の武蔵』。
そのタイトルの通り、≪武蔵≫を名乗る剣豪は二人いた、という「武蔵複数説」の視点から書かれた作品です。

この作品が大映で昭和35(1960)年に映画化されています。

人格に優れ、正統な剣を身につけた平田武蔵を長谷川一夫。
謎の中国人から学んだ邪剣の使い手で、純朴さを持ちながらも粗野な岡本武蔵を市川雷蔵が演じています。

武蔵といえば佐々木小次郎。
これを演じているのは勝新太郎です。

数年前、市川雷蔵主演映画のリバイバル上映が行われた際、この映画も上映されたので、観に行きました。

違和感のある作品でした。

やはり、小次郎は、吉川英治が作った驕慢な若き天才というイメージが強いので、後年の勝新を知るものにはしっくりきません。

また、雷蔵は眠狂四郎などの気品のある妖しい雰囲気の方に持ち味があるので、野人的な岡本武蔵では、イメージが合いません。

ついでに言うと、長谷川一夫が武蔵というのも、やはりイメージにはまりません。
若々しさがないし、体形も少しねぇ。

作品は楽しめましたが、何とも言いようのない感じの残る映画でした。

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2005年6月 3日 (金)

「ほたる鑑賞会と岩蔵温泉」

青梅市内に、岩蔵温泉という場所があります。

6月22日・23日、その岩蔵温泉で「ほたる鑑賞会と岩蔵温泉」が1泊2日で行われます。
このうち、6月22日に、オプションで市内の博物館施設の見学会が企画されています。
吉川英治記念館も、その中に入っています。

当日ご参加いただくと、普段は公開していない母屋の中で、私が吉川英治と青梅について解説を行います。

募集人員は120名。申込締切は6月10日。
申し込みおよび問い合わせは、青梅市商工観光課までお願いいたします。
電話番号は0428-24-2481です。

当館では受け付けておりませんのでご注意ください。

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2005年6月 2日 (木)

昨日名を挙げた長谷川一夫は、「新・平家物語」三部作の第二作「義仲をめぐる三人の女」で、主役の木曽義仲を演じています。

木曽義仲と言えば、都の風に染まらぬ粗野さを持ちながらもその心は純粋である、というイメージでしょうか。
「高貴な野人」といったところです。

あまり長谷川一夫のイメージに合うような気はしません。
当時は既に大御所で、義仲のような≪若造≫を演じる柄でもなかったと思います。
「三人の女」の部分が、長谷川一夫という選択になったのでしょうか。

むしろこのイメージは、「不知火検校」以降の勝新太郎の方が、似合っているような気がします。
第一作で市川雷蔵を清盛役に大抜擢し、それに応えた市川雷蔵が一皮向けたように、ここで勝新太郎を義仲役で主演させていたら、面白かったような気がします。

映画の製作が五年後であったら、あり得た選択のように思います。

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2005年6月 1日 (水)

市川雷蔵が歌舞伎界から映画界入りしたのは昭和29(1954)年。
翌年に主演した「新・平家物語」が出世作となりました。

一方、後に市川雷蔵とともに大映を支えることになる勝新太郎も、同じ昭和29年に、こちらは長唄界から映画界入りしました。
勝新太郎は、「新・平家物語」三部作のうち、第三作の「静と義経」(昭和31年)に出演しています。
その役は≪那須の与一≫
ちょっと意外ですよね。
『平家物語』の世界の中では、那須与一はどちらかと言えば≪二枚目キャラ≫です。
それをあの勝新が?

勝新太郎が、大スターの仲間入りするのは、昭和35年の「不知火検校」の汚れ役を経て、「座頭市」シリーズ、「悪名」シリーズに出会ってから。

映画デビュー当初のこの頃は、勝新太郎も二枚目役者だったのです。
それも、当時の大スターだった長谷川一夫ばりの白塗りで。
実際、当時のスチール写真を見てみると、長谷川一夫そっくりです。

失礼ながら、ちょっと笑ってしまいます。

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