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2005年7月31日 (日)

井上ひさし

講演会の話の続き。

全国文学館協議会会長の中村稔さんの挨拶の後、まずは井上ひさしさんの講演。

井上さんは、もちろん作家ですが、現在は仙台文学館の館長でもあります。

その井上さんは、仙台文学館の展示では常設展示の中にある魯迅のコーナーが好きなのだとか。

先日、秋篠宮ご夫妻が仙台文学館をご訪問になった際、紀子様が以前から魯迅がお好きで、その影響で秋篠宮殿下も魯迅の作品に関心をお持ちということで、その魯迅コーナーで時間を費やした話などを交えつつ、魯迅の精神についてお話になりました。

文学館というものについては、「来館者がその作家そのものになれる装置である」と述べられました。
その作家の人生を追体験し、その作家の精神に触れることが出来る場所、そういう意味でしょうか。

個人記念館で、しかもその作家の住んだ屋敷に建てられている吉川英治記念館には、ちょうどピッタリな言葉のように感じました。

hisashi

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2005年7月30日 (土)

講演会

以前お知らせした全国文学館協議会発足10周年記念講演会が本日開催されました。

私も講演を聞きにいきました。

会場に着いてビックリ!
座席が9割方埋まっています。

実は、この講演会のチケットは、吉川英治記念館でも販売していたのでした。
しかし、関心をもたれる方は時々いらっしゃるものの、ついに1枚もチケットは売れなかったのでした。

この結果から私は、演者である井上ひさし・瀬戸内寂聴両氏の人気は高いとは言え、これじゃあ、ガラガラなんじゃないか?と思って、枯れ木も山の賑わいというつもりで足を運んだのですが、全く予想と違う盛況ぶり。

これはどういうことでしょう?

こういう文学者の講演会に足を運ぶような文学愛好家と、吉川英治記念館においでくださる方々とは、タイプが違うのでしょうか?

今後の吉川英治記念館のあり方について、もう一度よく考えてみないといけない。

そんな気持ちになりました。

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2005年7月29日 (金)

semi
ミュージアムショップの脇の柱にセミの抜け殻が2つもくっついています。
夏ですね。

ちなみにセミの抜け殻は漢方薬になるそうです。
当館の職員の身内が薬にするというので、ある年の夏に集めてみたところ、この庭園内だけで軽く100個以上集まりました。

セミは年によって数が増えたり減ったりしますが、今年は多いようです。

そこの小学生のキミ!
夏休みの自由研究用に抜け殻拾いに来ないかい?

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2005年7月28日 (木)

展示替え

吉川英治記念館は常設展示主体ですが、書画類を中心に、季節ごとに展示替えを行っています。

近年の展示替えのパターンは次の通り。

2月初め。3月の観梅のシーズンにあわせ、梅にまつわる書画に展示替え。
4月初め。春から初夏のものに展示替え。
7月中頃。夏のものに展示替え。
8月終わり。この時期から特別展を行うので、それにあわせたものに展示替え。
10月初め。秋のものに展示替え。
12月初め。冬、および年末年始に関わるものに展示替え。

よく入館券の販売窓口まで来て、「この前来た時と同じでしょ?」などとおっしゃる方がいらっしゃいます。
常設主体なので、展示構成はほとんど変わりませんが、展示内容は上記のように2~3ヶ月で変わっています。
季節を変えておいで下されば、違ったものが見られるんです。

ただ、今年は困ったことに、いろいろと想定外のことがあって、7月に行う分の展示替えをしていません。

今年は燻蒸を行いましたので、その終了後に展示替えを行う予定でした。
ところが、当初、予備日を入れても7月18日に終わるはずだったものが、収蔵庫内の燻蒸ガスの濃度が基準値以下までなかなか下がらず、7月24日までかかってしまいました。

その上、収蔵庫のエアコンの故障です。
エアコンが故障した状態で収蔵庫内で作業すると、外気温や私の体温で収蔵庫内の温度が上がってしまう可能性があります。
せっかく燻蒸しても、その後の管理が悪くてはお話になりません。
今は庫内の温度が上がらないように、極力収蔵庫に入らないようにしています。

そんなわけで、4月の中頃に初夏向けに展示替えしたものが、まだ展示されたままです。

エアコンの修理が終わり次第、展示替えをしますので、ご容赦下さい。

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2005年7月27日 (水)

鑑定

先日、お電話で、「自分の家に吉川英治からの書簡があるのだが、これは本物だろうか」というお問い合わせがありました。

こういう鑑定依頼はしばしばあるので、この機会に、鑑定についての吉川英治記念館の立場と、方法について書いておきたいと思います。

現在、吉川英治の書画などの鑑定は、吉川英治記念館が窓口となり、遺族などで構成される吉川英治鑑定委員会によって行っています。
資料1点につき5000円の鑑定料を頂戴して、鑑定結果報告書を作成しています。

ただ、上記のような、「家を整理していたら出てきたんだけど、これはどういうものですか?」というような、個人の方のお問い合わせに対しては、杓子定規に鑑定料を請求したりはいたしません。
業者や転売目的の個人の方が、鑑定を求めてこられる場合には、鑑定料を請求している、というふうに受け取っていただければ結構です。

それ以外の方は、ぜひお気軽にお問い合わせ下さい。
我々としても、埋もれていた資料の存在を知るきっかけになりますので、そういうお問い合わせは大歓迎です。

もちろん、一番うれしいのは、そのままご寄贈下さることですが。

むしが良すぎますか?

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2005年7月26日 (火)

ああ台風

つい先ほど、本日の営業時間が終了しましたが。
なんと、本日の来館者は0人でした。

ちょうど接近中の台風のせいでしょうが、来館者が1人もいなかったというのは、吉川英治記念館の開館以来初めてのことです。

これまでにも、台風や大雪の影響で一桁の来館者しかなかったことは何回かありました。
過去最低記録は、大雪の日の1人でした。
それなのにとうとうやってしまいました。
これで開館からの連続入館が途切れてしまったわけです。

今まで悪天候の日でも来館者が0人にならなかったのは、近くの宿泊施設に泊まった方が、せっかく青梅まで来たのだからせめてどこか見てから帰りたいというので、ご来館下さったからです。
さすがに、悪天候の中、わざわざ出掛けて来る方は、滅多にいらっしゃいません。

今回は、頼みの綱の宿泊客の方にもおいでいただけなかったわけです。

本当に残念です。

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2005年7月25日 (月)

地震

一昨日、東京を中心とした関東で比較的大きな地震がありました。
ここ青梅でも、揺れを感じました。

ところで、吉川英治は、非常に地震に敏感だったそうです。
少し前に書いたように、吉川英治は関東大震災を経験しています。
いま流行のPTSDやトラウマを声高に喧伝する人たちなら、関東大震災の経験が吉川英治を地震に敏感にした、などと言い出しそうですが、事実はそうではなく、関東大震災以前から驚くほど敏感だったのだそうです。
いわゆる初期微動の段階で地震を察知し、周りの人が地震と気が付いた時には、とっくに建物の外に逃げ出していた、などという話も伝わっています。
むしろ、そのおかげで関東大震災の被害をまぬがれた、と言った方が良いかもしれません。

吉川英治が川柳家時代に名乗っていた「雉子郎」という号も、キジが地震に敏感な鳥だということにちなんだものだ、とする説もあります。

ただ、これに関しては、「焼け野の雉、夜の鶴」からとったものと、吉川英治本人が書き残しています。

「焼け野の雉、夜の鶴」とは、「巣を営んでいる野を焼かれた雉子が自分の身を忘れて子を救い、また、霜などの降る寒い夜、巣ごもる鶴が自分の翼で子をおおうというところから、親が子を思う情の切なるたとえ(広辞苑)」ということわざです。

母親を深く愛していた吉川英治らしい由来です。

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2005年7月24日 (日)

仏壇はあとのまつりをする所

母親を亡くした吉川英治が、そのすぐ後に発行された雑誌『大正川柳』109号に「母の死」と題して発表したのが、表題の句です。
川柳家・吉川雉子郎の代表作と言える句の一つです。

これを、当時の大阪の川柳界の中心人物であった岸本水府が≪狂句≫だとして批判しました。
つまり、「あとのまつり」という言葉は、「死後の祭祀」という意味と、「手遅れ」という意味とをかけた語呂合せだ、と批判したわけです。

これに対して、吉川英治は『大正川柳』113号に「その句の父から」という文章を書き、猛烈に反論します。
これは母を亡くした自分の真摯な気持ちを表現したもので、それが伝わらなかったのは作句の下手さを恥じるしかないが、しかし、句意を論じずに、単に「あとのまつり」が二通りに受け取れるからといって「狂句」呼ばわりは批評として乱暴ではないか。
そういう意味のことを書いています。

吉川英治は、後年の随筆でも「一番の恋人は死んだおっかさん」と書くほど、母親への思いの強い人でしたから、句に対する批判を、そのまま母親への冒涜のように感じたのかもしれません。

吉川英治は、自らの母への思いに忠実であろうとしました。
それに対し岸本水府は、決して吉川英治の心情を理解しなかったのではなく、川柳をただの言葉遊びではなくひとつの文芸として高めるには厳格さが必要だと考えたのでしょう。

どちらかが正しくて、どちらかが間違っているというものではないのだと思います。

ただ、この2年後、吉川英治は川柳から離れて、作家に転身することになります。
そして、岸本水府は川柳の道を極めるべく精進し、日本を代表する川柳家となります。

それが全てではないのでしょうが、この論争がひとつの分岐点だったのかもしれません。

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2005年7月23日 (土)

賞金

実は、この時、大連から懸賞に応募したのは「馬に狐を乗せ物語」だけではありませんでした。
他に「でこぼこ花瓶」「縄帯平八」の2作品も応募していました。

「馬に狐を乗せ物語」は滑稽小説部門の一等でしたが、「でこぼこ花瓶」は童話部門の一等、「縄帯平八」は時代小説部門の三等に入選しました。
さすが、後に人気作家となるだけに、非凡さを感じさせる結果です。
ただ、歴史・時代小説家として知られる吉川英治が、その時代小説部門は三等で、滑稽小説と童話で一等になるというのは、少々意外な感じです。

さて、吉川英治が大連からこれらの作品を応募したすぐ後、母親が危篤状態になったとの知らせが東京の実家から届きます。
身辺を整理して何とか金を作った英治は、大急ぎで帰国します。
母親はどうにか持ち直して、英治の帰国後、数ヶ月生きながらえ、大正10年6月29日に息を引き取ります。

その直後、懸賞小説の結果が発表され、上記の成績を残した吉川英治は、合計およそ700円の賞金を得ました。

当時は、貧しい暮らしをしていた吉川英治は、母親の葬儀費用にも事欠いていたのですが、そこにこの賞金が入ってきたため、無事諸々の支払を済ませることが出来たそうです。

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2005年7月22日 (金)

懸賞小説

「馬に狐を乗せ物語」は、雑誌『面白倶楽部』の大正11年9月号~11月号に掲載された作品です。

この時、吉川英治はまだ専業の作家とはなっていませんでした。
まだ、川柳家の時代の作品です。

実は、この作品は講談社の懸賞小説に応募したものなのです。

大正9年、吉川英治は中国の大連に渡ります。ごく簡単に言えば、一旗あげてやろうということだったのですが、目論見が外れて、安ホテルで逼塞する羽目になります。
その時、講談社の雑誌が合同で懸賞小説を募集していることを知り、ホテルの部屋でせっせと書いた作品の一つが、この「馬に狐を乗せ物語」でした。
応募したところ、滑稽小説部門の一等となり、後に雑誌掲載されたものなのです。

それにしても、一旗あげ損ねて、にっちもさっちもいかなくなっている中で、楽しかった川柳仲間との交友に思いをはせながら、それを喜劇的な小説に仕立てている吉川英治の姿を想像すると、ちょっと青春のほろ苦さのようなものを感じます。

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2005年7月21日 (木)

馬と狐

吉川英治がその実体験を色濃く反映させた作品として「かんかん虫は唄う」は重要な作品です。

これ以外にも、実体験を反映させた作品として「馬に狐を乗せ物語」という作品があります。
「かんかん虫は唄う」が10代の頃の横浜での体験に基づく作品であるのに対し、こちらは20代の頃の体験を描いたものです。

「馬に狐を乗せ物語」とは妙なタイトルですが、これは「狐を馬に乗せる」ということわざから採ったものでしょう。
「狐を馬に乗せる」とは、落ち着かない、定まらない、安定しない、そういう状態を表す言葉です。
その言葉の通り、ある川柳結社の仲間たちが巻き起こすドタバタ騒ぎを、軽妙な筆で描いた喜劇です。

以前にも書いたように、吉川英治は20代の頃、川柳家・雉子郎として活躍していました。
この作品を読むと、その当時の雰囲気が、そして吉川英治の青春の息づかいがよく伝わってきます。
後年の大作家としての顔ではない、別の顔が見られて、微笑ましい気分になること請け合いです。

現在は吉川英治記念館のみで販売している特製文庫「江ノ島物語」の中に収録されています。

ちなみに、「かんかん虫は唄う」は現在講談社から発行されている吉川英治歴史時代文庫の第8巻となっています。

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2005年7月20日 (水)

横浜

吉川英治は港町・横浜に生まれ育ったにも関わらず、その小説中にあまり海が描かれない、と書きました。

別に、港町に育ったからと言って、海洋小説やその類の作品を書かねばならない義理はありません。
ただ、船というのは限られた空間の中でサスペンスを高めていくことが出来る、創作の上で非常に魅力的な素材ですし、港町というのは様々な人が出入りするため物語を生み出しやすい場所なのに、どうしてだろうと不思議に思うのです。

家運の没落で辛酸をなめた土地だけに、横浜への思い入れが薄いのでしょうか。

もっとも、その一方で、横浜を舞台に、自らの青少年時代の経験も色濃く反映させた作品を書いてもいます。
昭和5~6年に『週刊朝日』に連載された「かんかん虫は唄う」がそれです。
この作品では貧困層から見た明治の横浜の姿が、生き生きと描き出されています。

あわせて自叙伝「忘れ残りの記」も読むと、現在の横浜の繁栄の陰にある裏面史が、生々しく浮かび上がってきます。

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2005年7月19日 (火)

海の日と言えば、吉川英治の小説には、印象的な海のシーンが少ないような気がします。

吉川英治は、港町横浜に生まれ育った≪浜っ子≫で、海には慣れ親しんでいたはずです。
英治の父・直広は、一時桟橋会社を経営していて、よく自宅に外国人の船員を連れて帰って来たりしたとか、家運が傾いた後、英治自身が横須賀に停泊する軍艦の酒保に賞品を卸す仕事をしていたとか、そういう記述が自叙伝「忘れ残りの記」には、いくつも出てきます。

それにしては、海や船を描くことが少ないような気がするのです。

「魔海の音楽師」などという、いかにも≪海洋冒険小説≫という感じのタイトルの小説も書いているのですが、これですら海や船のシーンが多くはありません。

「新・平家物語」における壇ノ浦は、史実なので避けて通れないものです。
そういうものを除いて、一から創作したもので、印象的な場面は「鳴門秘帖」での、阿波へ渡る船内での場面ぐらいしか、思いつきません。

吉川英治は、あまり海にロマンを感じないタイプだったのでしょうか?

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2005年7月18日 (月)

祝日

本日の「海の日」のように、最近は、日付ではなく第二月曜日とか第三月曜日を祝日にしている場合が多いですね。
連休を増やすための政策ですが、人が休みの日に営業するのが私たちの仕事なので、結構大変です。
昨日書いたように、月曜日が祝日だと、その日は開館して翌火曜日に定休日をずらします。
そのため、一週間で、勤務日数が一日増えることになりますから。

もっとも、翌週は一日減るわけですが。

それに、連休だと、来館者数も増えるので、悪い話ではありません。

梅雨も明けるかという今日、どのくらいの方がお見え下さるのでしょうか。

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2005年7月17日 (日)

開館

昨日まで燻蒸のため臨時休館でしたが、本日より営業を再開しています。

なお、燻蒸の排気作業はまだ続いております。
除毒して排気していますし、既に薬剤の含有濃度も下がっていますので、人体には影響はありません。
ですが、念のため排気作業している所には近付かないようにお願いいたします。

ちなみに、明日は月曜日で本来なら定休日ですが、海の日で祝日のため、開館いたします。
その代わり、火曜日が休館となります。
ご注意下さい。

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2005年7月16日 (土)

灯り

akari

昨年リニューアルオープンした長屋門のミュージアムショップですが、照明が少なくて暗いという声がありましたので、臨時休館を利用して工事をし、新しい照明を入れました。

イサム・ノグチのデザインによるものですが、縦に150cmほどあります。

受付の女性職員よりデカイ(笑)

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2005年7月15日 (金)

英治を探せ!

よく足を運ぶ書店で、宮武外骨フェアをやっていて、関連書籍が目立つスペースに置かれていました。
その中の『明治奇聞』(河出文庫)を手にとってみると、宮武外骨が発行した『震災画報』からの抜粋が収録されていました。
もちろん、ここで言う震災とは、大正12年9月1日に発生した関東大震災のことです。

その中に「震災後の飲食店」という記事があり、そこに『東京朝日新聞』大正12年9月30日の記事の引用が掲載されています。

焼け出されて『すいとん』を売る者、ゆであずきを売る者、そのほか牛どん豚雑煮と、とりあえず焼け残りの材料を集めて、災後一週間ばかりは素人の食物店が東京中の焼跡に店を張っていたが(略)最近の調べによると、これらの総数が焼跡区域だけで五千三百六十四軒ある。

実は、吉川英治もこの≪素人の食物店≫をやったくちでした。
上野公園で、主に罹災者相手に≪牛めし屋≫をやったのです。
このことは自叙伝「忘れ残りの記」にも記述があります。

ところで、関東大震災後、その被害を伝える数多くの出版物が刊行されました。
また、その頃は重要な報道メディアでもあった「絵葉書」も、多数発行されました。

私は、古書店などでそういうものを見つける度、上野公園の写真を探してしまいます。
≪牛めし屋≫が写っていないかを確認しているのです。
正確に言うと、≪牛めし屋≫をやっている吉川英治の姿が写っているものが存在していないか、チェックしているのです。

もし、そういうものをお持ちの方がいたら、ぜひ確認してみてください。
もしかしたら、吉川英治が写っているかもしれません。

もし吉川英治が写っていたら、大発見です。

見つけたら、ご一報ください。
よろしくお願いいたします。

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2005年7月14日 (木)

名前

燻蒸に使用される薬剤についての資料を見ていたら、「バイケン(ヴァイケーンとも)」という名前の燻蒸剤がありました。

思わず「宍戸梅軒」を思い浮かべてしまいました。
もちろん、小説「宮本武蔵」の中で武蔵が闘う鎖鎌の名手です。

ところで、この宍戸梅軒ですが、武蔵の伝記である「二天記」にも登場しています。
と言うより、「五輪書」や「小倉碑文」にはその名は見られず、「二天記」になって初めて登場する名前です。
ただし、そこには「宍戸某」としか書かれていません。

彼に「梅軒」の名を与えたのは、誰なのか。

おそらく吉川英治なのだと思いますが、本人は、これは自分が付けた名である、とは書き残していませんし、他の資料も調べ尽くせていません。

ただ、明治期の絵本類には、登場していないようです。
それほど人気のあるキャラクターではなかったのでしょう。

とすれば、少なくとも彼の存在を世に広めたのが吉川英治であることは、間違いないと言えるでしょう。

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2005年7月13日 (水)

燻蒸3

一昨日の≪勉強会≫で知ったちょっとしたネタを。

吉川英治記念館での燻蒸では、別々のボンベに入っている酸化プロピレンとアルゴンを、混合機を用いて現場で混合します。
酸化プロピレンは、空気中での濃度が2.8%以上になると爆発の可能性があります。
いわゆる爆発範囲ってやつですね。
今回は、収蔵庫内での酸化プロピレン濃度が2.1%を超えないように濃度管理をします。
それによって爆発を防ぐわけです。

ところで、このアルプという燻蒸剤を製造販売しているエアウォーター社では、あらかじめ酸化プロピレンとアルゴンを混合して、酸化プロピレン濃度を2%にして、簡便かつ安全に取り扱いができる商品を開発し、販売しているそうです。
楽に扱えるということで≪らくらくアルプ≫という商品名に決まりかかっていたそうですが、社長の一声で変更になったのだとか。

それが≪あるあるアルプ≫

「あるある」?

もしかして、『あるある探検隊』じゃないでしょうね。
ひょっとしてお笑い好きですか、社長さん?

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2005年7月12日 (火)

燻蒸2

今回の燻蒸に使用するアルプの主成分である酸化プロピレンは可燃性が高いため危険物に指定されています。
そのため、燻蒸に先立って青梅消防署に申請を出しました。
そうしたところ、青梅消防署管内では、アルプでの燻蒸は過去に行われたことがなく(申請ぜずにコッソリやった例はあるかもしれませんが)、吉川英治記念館が初めての事例である、というのです。
そのため、燻蒸作業初日の昨日、消防署から10人以上の職員が立会いにやって来ました。
ちょっとした勉強会ですな。
私にも勉強になりました。

しかし、これで、当館でのやり方が≪前例≫になってしまったわけですが、市立美術館も郷土博物館も、当館でやったやり方に準拠しなければいけなくなるのかな?
色々不都合がありそうなんだけどな。

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2005年7月11日 (月)

燻蒸

今回行う「燻蒸」というのは、単純に言えば、博物館の資料にムシやカビがつかないように消毒を行うことです。

密閉された空間内(収蔵庫など)に薬剤を充填して、ムシやカビを殺すわけです。

従来博物館での燻蒸には「エキボン」という薬剤が広く使用されてきました。
これは商品名で、その成分は酸化エチレンと臭化メチルです。

扱いやすく、短時間で効果があるので、燻蒸剤としては重宝されてきたのですが、臭化メチルがフロン同様の「オゾン層破壊物質」であることが分かり、2004年末で全面的に使用禁止となりました。

そのため、今回は「アルプ」という薬剤を使用することになりました。
これも商品名で、成分は酸化プロピレンとアルゴンです。
詳しく言うと、薬効成分が酸化プロピレンで、アルゴンは希釈剤です。

アルゴンは不燃ガスですが、酸化プロピレンは可燃性の高いガスです。
そのため、慎重な扱いが必要になります。
また、充分な効果をあげるのに、エキボンより時間がかかります。
排気の際にも、抜け難いという特性があるようです。

それにしても、フロンといい、臭化メチルといい、利便性の高い物質に限ってオゾン層を破壊してしまうというのは、実に皮肉と言うか、何と言うか、とにかくあまり有り難くない話です。

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2005年7月10日 (日)

臨時休館

本サイトの方にも告知してありますが、明日7月11日から16日まで、吉川英治記念館は臨時休館いたします。

資料の燻蒸作業のためです。

よろしくご理解、ご協力いただきますよう、お願いいたします。

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2005年7月 9日 (土)

300万人達成

本日12時48分、開館からの通算の入館者が300万人に到達しました。

記念すべき300万人目は東京都杉並区の本橋墨子さん。

なんと昨日が78歳の誕生日で、その記念にご主人やご兄弟と日帰り旅行にいらしたそうです。

おめでとうございました。

さて、400万人はいつになるかなぁ。

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2005年7月 8日 (金)

いよいよ300万人

本日付で、開館以来の累計入館者数300万人まで、あと残り20人となりました。
明日には、300万人に到達できそうです。

改めて、300万人目の来館者の方への特典をお知らせいたします。

・平成18年4月11日に帝国ホテルで行われる第40回吉川英治賞贈呈式及びレセプション
 にペアでご招待(財団法人吉川英治国民文化振興会より)
・吉川文子サイン入り「吉川英治余墨」を記念品として進呈(吉川家より)
・吉川英治歴史時代文庫版「新・平家物語」(全16巻)を記念品として進呈(講談社より)
・紅梅苑のお菓子詰め合わせを進呈(紅梅苑より)

さあ、どんな方が300万人目となるのでしょう。

とても楽しみです。

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2005年7月 7日 (木)

「負」か「敗」か

昨日の「武蔵やぶれたり?」というタイトルは、巌流島での有名なセリフの小次郎を武蔵に入れ替え、原稿用紙が「破られる」こととかけたものです。

ところで、皆さんはこの有名なセリフについて、「武蔵が小次郎に言ったセリフは何でしょう?」と聞かれたら、どう答えますか。

「小次郎、敗れたり!」ですか?

それとも「小次郎、負けたり!」ですか?

このセリフが初めて登場するのは「二天記」という江戸時代に成立した宮本武蔵の伝記のようです。
そこでは「負けたり」になっています。
吉川英治も小説「宮本武蔵」では、やはり「負けたり」を採用しています。
つまり、元の資料も、大ベストセラー小説も、「負けたり」なのです。

しかし、現在では多くの人が「敗れたり」と答えるのではないでしょうか。
例えば、テレビのバラエティ番組などで巌流島の場面のパロディを演じる時、決まってそのセリフは「敗れたり」です。

いったい、いつ、何がきっかけで「負けたり」より「敗れたり」が優位になったのでしょう?

以前から気になってはいるのですが、あまり仕事の本質に関わることではないので、ちゃんと調べたことがありません。
映画やテレビの影響が大きいのだと思うのですが、少なくとも有名な東映5部作(内田吐夢監督 中村錦之助主演)では「負けたり」です。

誰か心当りがありませんか?


本日付で300万人まで残り89人です。

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2005年7月 6日 (水)

武蔵やぶれたり?

古書店から購入するものは本ばかりではありません。
古書店では作家や著名人の原稿や書画や書簡などの自筆資料も取り扱っています。

ところで、作家の原稿に対する扱いは、戦前と戦後ではずいぶん違います。
吉川英治の場合、昭和25年から連載を始めた「平の将門」「新・平家物語」以降の作品の原稿については、編集に使用した後、作家の元に返却されていますので、全て揃った形で残されています。
しかし、それ以前のものは、一部、もしくは全てが散逸しています。

残されているものでも、ずいぶんな姿のものがあります。

昔、新聞社では自社の印刷所で活字を組んで印刷を行っていました。
活字は専門の職人たちが、活字の棚から一字一字拾っていきます。
さて、毎日発行する新聞は、常に時間との戦いです。
そこでどうするか。
作家から受け取った原稿用紙を、ハサミでジャキジャキ切り刻んで、それを複数の職人に渡し、活字を拾わせるのです。
一人でやるより数人で分業にした方が早く出来るからです。

ですから、戦前に新聞連載されていた小説の原稿には、そうやって切り刻んだものを貼り合わせてあるものが、いくつもあります。
あの「宮本武蔵」だって、真っ二つです。

そういう時代だったとはいえ、ひどいことしてたんだなぁと、驚いてしまいます。


本日付で300万人まであと121人です。

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2005年7月 5日 (火)

新発見?

仕事柄、古書店から資料を購入する機会は少なくありません。
そのため、古書店が発行する目録が、数多く送られてきます。

さて、今日も数冊の目録が届きました。
そのうちのN書店のものを見ていると

随筆「股旅の跡」吉川英治

という文字が。

はて、こんな随筆集は聞いたこともないがな。
少なくとも吉川英治記念館で確認している書誌データの中にはないぞ。
大体、吉川英治の作品に股旅物はあまりないけれど。
もしかしたら吉川英治単独の随筆集ではなくて、複数の執筆者のうちの一人が吉川英治なんじゃないのかな。

確認がてら電話で注文しようと思ったら、話し中。
もし新発見の資料なら買い損ねるのはイヤなので、すぐにファックスで注文を出しました。

1時間ほどして、N書店から電話がかかってきました。

あれは目録の記載ミスで、長谷川伸の随筆集です。

なるほど、それなら合点がいきます。
もちろん、注文はキャンセルしました。


本日付で300万人まで残り170人です。

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2005年7月 4日 (月)

ajisai

gakuajisai


梅雨らしくアジサイ(紫陽花)もガクアジサイ(額紫陽花)も咲き誇っています。

私はガクアジサイの方が好みですが、皆さんはいかがでしょう?


本日は休館日です。

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2005年7月 3日 (日)

neji
芝生の中にネジバナ(捩花)が咲いています。

調べてみるまで知らなかったのですが、ネジバナは別名で、モジズリ(捩摺)が正式名称のようです。

また、これも知らなかったのですが、ラン科なんですね。
ちょっと意外。


本日付で、300万人まで残り212人です。

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2005年7月 2日 (土)

風呂

吉川英治の「宮本武蔵」には、その他にも講談や絵本(今の絵本ではない、江戸時代から明治頃までに出版された簡単な読み物)の中に出てくる挿話をヒントにした部分があります。

例えば。

講談や絵本における宮本武蔵は、父親の仇である佐々木巖流を追い求めて武者修行しながら諸国を旅するということになっていますが、その中にこんな挿話があります。

備前岡山にやって来た武蔵は、そこで道場を開いている白倉傳五右衛門と試合をし、これに勝つ。
負けた白倉は、感服の体で武蔵に食事を振舞い、さらに風呂を勧める。
武蔵が言葉にしたがって浴室に入ると、白倉はその戸を外から閉めて、浴室に熱湯を注ぎ込んで武蔵を殺そうとする。
怒った武蔵は、浴室の柱を引き抜き、戸を打ち破って外に出ると、とどめを刺そうと待ち構えていた白倉の門弟たちをなぎ倒し、白倉を打ち殺す。

さて、「宮本武蔵」地の巻「茨」の章に、又八が生きていることを伝えるために危険を犯してお杉婆の家を訪ねた武蔵に対し、お杉婆が食事を用意してやるからそれまで風呂に入っておれと勧め、武蔵が入浴している隙に追手の兵を呼び寄せるが、武蔵は辛くも逃げおおせる、という場面があります。

その類似性は言うまでもありません。
しかし、これとても、元をたどれば、平治の乱の後、源義朝が姦計にあって風呂場で殺されたという「平家物語」の挿話に到るものなのでしょう。


本日付で300万人まで残り300人となりました。

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2005年7月 1日 (金)

模倣

昨日触れたNHK大河ドラマ「武蔵」の盗作騒動は、ご存知の方も多いでしょう。
「武蔵」の第一話で、お甲・朱実母娘が武蔵・又八を含む浪人を金で雇い、野盗を撃退する場面が、「七人の侍」を模倣したものだとして黒沢明監督の遺族が訴訟を起こしたというものです。

確かにあの場面を見た時に、私も「七人の侍」を思い浮かべました。
そもそもこの場面は吉川英治の原作とはかなり異なっています。
ですから、そのような描き方をする必要があったのか、疑問に思います。

とは言え、創作において先行する作品の模倣は常です。
オマージュやリスペクトの意味をこめて、わざと別の作品の一部をそっくり真似ることは頻繁に見られます。
映画などは、特にそういうことによって発展してきた典型的なジャンルなのではないでしょうか。
その意味では訴訟を起こすのは過剰反応だと思えます。

ところで、この盗作騒動が浮上して以来、誰かが言わないかと思っていたことがあります。

それは、そもそも「七人の侍」は吉川英治の「宮本武蔵」から想を得ている、と言われているということです。

「宮本武蔵」空の巻に「土匪来」という章があります。

世のあらゆるものが剣の道と通じると考える武蔵は、修行として千葉の法典ヶ原の開墾を始める。
そんなある日、数年来このあたりを荒らしている土匪(=野盗)が近くの村を襲う。
それを聞いた武蔵は、村に駆けつけ、村人たちを指揮して土匪を撃退する。
戦いの後、武蔵は「お前たちの本分は、武器ではない鍬なのだ。穿きちがえて、生なかな武力に誇ると、土匪よりも恐ろしい天罰が下るぞ」と村人たちに語る。

これを、村人の側に主体を置き換えれば、「七人の侍」の骨格は出来上がります。

別に「七人の侍」がパクリだと言っているのではありません。
もとをただせば、江戸時代以来の講談の中に、宮本武蔵による山賊退治の話は出てきています。
同じ枠組みの中に、吉川英治は剣と政治を結びつけようとする宮本武蔵の思想を描き、黒沢明は地に足を着けて生きる庶民の強さと弱さを描いたということです。

こうしたことを考えると、模倣とオリジナリティは対立するものというより補完し合うものなのではないかと思えてきます。


本日付で、300万人まであと残り319人です。

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