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2005年7月 1日 (金)

模倣

昨日触れたNHK大河ドラマ「武蔵」の盗作騒動は、ご存知の方も多いでしょう。
「武蔵」の第一話で、お甲・朱実母娘が武蔵・又八を含む浪人を金で雇い、野盗を撃退する場面が、「七人の侍」を模倣したものだとして黒沢明監督の遺族が訴訟を起こしたというものです。

確かにあの場面を見た時に、私も「七人の侍」を思い浮かべました。
そもそもこの場面は吉川英治の原作とはかなり異なっています。
ですから、そのような描き方をする必要があったのか、疑問に思います。

とは言え、創作において先行する作品の模倣は常です。
オマージュやリスペクトの意味をこめて、わざと別の作品の一部をそっくり真似ることは頻繁に見られます。
映画などは、特にそういうことによって発展してきた典型的なジャンルなのではないでしょうか。
その意味では訴訟を起こすのは過剰反応だと思えます。

ところで、この盗作騒動が浮上して以来、誰かが言わないかと思っていたことがあります。

それは、そもそも「七人の侍」は吉川英治の「宮本武蔵」から想を得ている、と言われているということです。

「宮本武蔵」空の巻に「土匪来」という章があります。

世のあらゆるものが剣の道と通じると考える武蔵は、修行として千葉の法典ヶ原の開墾を始める。
そんなある日、数年来このあたりを荒らしている土匪(=野盗)が近くの村を襲う。
それを聞いた武蔵は、村に駆けつけ、村人たちを指揮して土匪を撃退する。
戦いの後、武蔵は「お前たちの本分は、武器ではない鍬なのだ。穿きちがえて、生なかな武力に誇ると、土匪よりも恐ろしい天罰が下るぞ」と村人たちに語る。

これを、村人の側に主体を置き換えれば、「七人の侍」の骨格は出来上がります。

別に「七人の侍」がパクリだと言っているのではありません。
もとをただせば、江戸時代以来の講談の中に、宮本武蔵による山賊退治の話は出てきています。
同じ枠組みの中に、吉川英治は剣と政治を結びつけようとする宮本武蔵の思想を描き、黒沢明は地に足を着けて生きる庶民の強さと弱さを描いたということです。

こうしたことを考えると、模倣とオリジナリティは対立するものというより補完し合うものなのではないかと思えてきます。


本日付で、300万人まであと残り319人です。

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