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2005年8月31日 (水)

紀伊半島から瀬戸内

取材旅行(1)紀伊半島から瀬戸内にかけての旅は、「新・平家物語」の最初の本格的な取材旅行で、期間も15日間と長いものです。
その分、資料も多く残っており、今回は軸4点、色紙2点、短冊1点、ハガキ1点、取材日誌1点と写真8点を展示しています。

取材日誌は、吉川英治記念館で発行している館報「草思堂だより」に全文を掲載したことがあり、記念館のHP上でも公開していました。
いま、構成を改めようと考えてHPからのリンクは切ってありますが、サーバー上には残してありますので、読むことは出来ます。
ここです。

そこにも書きましたが、この日誌は、なぜか旅の前半の12月16日の分までしか記述がありません。

この旅の様子は、「新・平家今昔紀行」として活字化されています。
それと日誌を比較してみると、わずかながら違いがあって、興味深いのですが、その比較ができるのは旅の前半だけ、なのです。
ちょっと残念です。

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2005年8月30日 (火)

取材旅行

今日からの特別展「新・平家物語」紀行展では、吉川英治が「新・平家物語」連載中に行った取材旅行の様子を紹介します。

作品が連載された『週刊朝日』の当時の担当編集者によると、≪取材旅行≫は4回行われたといいます。
それは

(1)紀伊半島・四国・九州・広島旅行=昭和25年12月9日~23日
(2)会津・越後旅行=昭和26年10月10日~15日
(3)木曽・北陸旅行=昭和27年10月25日~11月2日
(4)京阪神旅行=昭和29年5月29日~6月3日

の4回です。
これらは、取材を主たる目的にした旅行ということで、特に強調されているのでしょう。
しかし、旅程の一部で「平家物語」ゆかりの地も訪ねるという小旅行はそれ以外にも行われています。

(5)伊豆半島旅行=昭和27年1月27日~30日
(6)京都・奈良旅行=昭和27年4月4日~19日

などがそうです。

今回は、この6回の旅を写真や旅中にに残した詩歌などを通して、紹介していきます。

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2005年8月29日 (月)

「新・平家物語」紀行展

明日30日から、表題の特別展を行います(10月2日まで)。

吉川英治が、「新・平家物語」執筆にあたって行った取材旅行の様子を、写真と旅行中に残した詩歌を中心にしてご紹介しようという展覧会です。

詳しい内容は、明日以降、引き続きご紹介してまいります。

ぜひご来館下さい。

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2005年8月28日 (日)

吉野公民館

「吉野公民館についての資料がそちらにないか?」という問い合わせがありました。

一瞬妙な問い合わせに聞こえるかもしれませんが、そうではありません。

吉川英治記念館のある地域は、現在は青梅市ですが、以前は吉野村という独立した村でした。
その吉野村に、昭和24年、公民館が開館しました。
東京都内でも最初期にあたる公民館でした。

吉川英治は、その設立に大きく関わっているのです。

初め、吉川英治は、日頃世話になっている村のために、子供たちのための図書館を寄贈することを考えます。
しかし、村の現状を見てみると、子供たち以上に、若者たちの集まれる場所が無い。
時は終戦直後で、復員兵などが村にも戻って来ていたけれども、よりどころとなる場所がない。
だったら、それを造ろうということで、村に働きかけて、公民館が設置されたのです。

これは、住民からの寄付によって建設されました。
金銭的にもっとも多くを負担したのは、もちろん吉川英治でした。
聞くところでは、寄付金の8割以上は吉川英治から出ていたと言います。

落成後は、吉川英治が声をかけて、徳川夢声などのタレントを呼んで、演芸会が開かれたりしました。

この公民館は、後に隣接する青梅市立第五小学校の講堂に転用され、さらにその後、老朽化のため、いつの間にか取り壊されてしまいました。
長年にわたって住民に親しまれながら、取り壊し後は何の痕跡も残されませんでしたが、近年になって、第五小学校に記念碑がつくられました。

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2005年8月27日 (土)

最終回

「宮本武蔵」連載第1回が、東北旅行中に書かれたかもしれないと書きました。

これに対し、最終回については、池波正太郎が長谷川伸から聞いた話として、こんな話を伝えています(「吉川英治全集月報」30号所収)。

むかし、吉川英治と一緒に講演旅行をした。 甲子園のホテルに泊まった翌朝、吉川英治が自分の部屋にやって来て、「終わりましたよ、やっと」と、ひとこと言った。 それは、「宮本武蔵」の最終回を書き終えた、という意味だった。 その時の顔は忘れられない。 あれこそ筆舌につくしがたい≪作家の顔≫だった。

「宮本武蔵」の最終回は昭和14年7月11日の紙面に掲載されています。
すると、これは昭和14年の6月末から7月初めのことになるはずですが、まだ裏は取れていません。

ただ、この長谷川伸の話が確かなら、「宮本武蔵」は、旅の途上で書き始め、旅の途上で書き終えた、ということになります。
宮本武蔵の生涯が、漂泊の生涯であったことを考えると、ふさわしいエピソードではないかと思います。

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2005年8月26日 (金)

虫りんりんあらしの底に啼きやまず

昨日の夜半に台風11号が近くを通過しました。
幸いなことに、吉川英治記念館では特に被害はありませんでした。
木の葉や小枝が散乱して庭の掃除が大変ですが、その程度で済みました。
皆様方はいかがでしょうか。

表題の句は、もちろん吉川英治の句ですが、昨夜の様子はまさにこんな感じでした。

せっかくなので、他に台風に関係のある句がないか探してみました。

案内僧先に吹かるる野分かな
湯河原や野分の後のこぼれ萩

雨の句ならたくさんありますが、台風そのものを詠み込んだ句というのは、この2句しか見つかりませんでした。
いずれも、句の詠まれた状況は不明ですが、句に詠まれている情景は、なんとなく思い浮かびます。

それにしても、テレビの台風報道を見ていると、「案内僧」を「レポーター」に入れ替えてみたくなりますね。

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2005年8月25日 (木)

寺を出て寺までかへる盆の月

私が把握している限りで、一番新しい吉川英治の文学碑は、平成10年に岩手県宮古市愛宕の愛宕小学校に設置されたものです。

昭和10年8月、吉川英治は、自ら設立した日本青年文化協会という団体の講演会のため、倉田百三や白鳥省吾らと東北各県をまわりました。
その際、宮古市愛宕の本照寺に滞在しました。
というのも、本照寺住職の弟と吉川英治の妹が結婚しているという関係にあったからです。

滞在中のある晩、地元の方々による歓迎の宴席が設けられましたが、吉川英治は原稿執筆のため欠席し、倉田百三、白鳥省吾たちだけが出席しました。
その時に、二人に対して詠んだ句が、

寺を出て寺までかへる盆の月

愛宕小学校の文学碑には、この句が刻まれています。

なお、この時に執筆していたのは『宮本武蔵』。
しかも、連載の開始がこの旅(8月11日~17日)の直後の8月23日であることから考えて、作品の冒頭の部分を書いていたものと思われます。
もしかすると、あの有名な「――どうなるものか、この天地の大きな動きが。もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。」という巻頭の一文は、この旅の中で書かれたのかもしれません。

ただ、この文学碑、残念なことに、刻まれている碑文が吉川英治の筆跡ではないのです。
まさに点睛を欠いています。
惜しいですね。

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2005年8月24日 (水)

石碑の運命

吉川英治は、自分の文学碑や銅像などは無用のものである、と考えていたそうです。
それゆえ、音戸の瀬戸の文学碑以外には、自ら承認した文学碑はありません。

昨日チラリと触れましたが、石碑についての嫌な思い出も、自分の文学碑を望まなかった吉川英治の気持に影響していたのではないかと思います。

本人の言によれば、「新・平家物語」の取材の一環で伊豆半島を訪れた時、ある野の道で、ぬかるみを防ぐために畳一畳半ほどの平石が敷かれていたのだそうです。
その平石の正体は、「忠魂碑」でした。
この取材旅行は昭和27年のこと(この旅行も企画展で取り上げます)。
敗戦による価値観の転換によって、戦時中には崇められていた忠魂碑が、敷石にされていたわけです。

このことのショックは大きかったようで、後に吉野村(現青梅市)の有志が戦没者慰霊碑建設の相談に来た時、この話をして、平石の石碑にはせず、他の形にするようにアドバイスしたと伝わっています。

さて、10年ほど前、私用で広島県に出掛けた時に、昨日触れた2つの清盛塚と、音戸の瀬戸の文学碑を訪ねました。
3ヶ所とも、私以外に誰も訪ねる人はいませんでした。

しかし、忠魂碑のように世の中の価値観に振り回されるよりは、たまに思い出されるくらいの方が、幸せなのかもしれません。

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2005年8月23日 (火)

文学碑

吉川英治は、石碑の撰文や題字の揮毫の依頼については、数多く引き受けているのですが、ある出来事のせいもあって、自分の文学碑を作ることについては、きわめて消極的でした。

その吉川英治が生前唯一建設を許可した文学碑があります。

広島県呉市の音戸大橋のたもとにある音戸の瀬戸公園にある文学碑です。

これは平清盛が音戸の瀬戸を開鑿したことにちなんだもの。
頼山陽研究家の上田繁が発案、奥原義人呉市長(当時)が文学碑建設委員会を設置して、建設にあたりました。
しかし、計画途中の昭和37年9月7日に吉川英治が世を去り、本人死後の昭和38年5月3日に落成しました。

2個の自然石によって構成されている碑の基本設計は杉本健吉によるものです。

碑には「君よ今昔の感如何」という吉川英治の言葉が刻まれています。

この言葉は、吉川英治が「新・平家物語」取材旅行で「清盛塚」を見学した際に漏らした言葉です。

音戸の瀬戸には、清盛塚が存在します。
しかし、この言葉を漏らしたのは、実は宮島にある清盛塚でのことなのです。

まあ、同じ清盛塚ですから、目くじらを立てるようなことではありませんが。

この吉川英治の取材旅行の様子は、来週から始まる企画展「『新・平家物語』紀行」でも取り上げます(8月30日~10月2日)。

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2005年8月22日 (月)

石碑

記者の方が取材で来館されました。

「こちらに吉川英治の碑があると聞いて来たのですが」とのことでしたが、残念ながら、吉川英治記念館の敷地内には吉川英治の石碑などはありません。
しかし、せっかく取材に来られたのに、手ぶらで帰ってもらっては申し訳ありませんから、青梅市内にある別の石碑を紹介しておきました。

「万年橋の碑」です。

昭和22年5月に建てられたこの碑は、明治40年に旧青梅町と吉野村を結ぶ形で架けられた、多摩川上流域では最初の鉄製橋梁である万年橋を顕彰するために設置されたものです。

この碑は、題字が川合玉堂で、碑文は吉川英治が考え、書は尾上柴舟という、有名人三人が顔を揃えた実に豪華な碑です。

JR青梅駅前から都営バスの吉野行きに乗って5分ほど、バスが旧青梅街道から急な坂を下っていったところにあるのが、万年橋。
青梅側からその橋を渡ってすぐの右手に、この碑はあります。

もとは少し小高くなった場所に建てられていたのですが、マンションが建ったり、道路が拡幅されたりという周辺環境の変化によって、今では歩道のすぐ横、マンション下の石垣にへばり付くような格好になってしまっています。

いささか残念な現状ですが、その代わり道路からすぐに見つかりますので、吉川英治記念館においでの際には、ちょっと気にかけてみてください。

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2005年8月21日 (日)

宿泊特別料金のご案内

東京都昭島市にあるホテル・フォレストイン昭和館が下記のような宿泊プランを実施しています。

遠方から吉川英治記念館にご来館下さるお客様。
ご利用になってはいかがでしょうか。
まもなく当館で開催する英治忌、11月の紅葉の時はもちろん、特に来年3月の梅のシーズンなんかに、ちょうど良いと思います。

-----以下、パンフレットより転載-----

宿泊特別料金のご案内
(2005年7月25日~2006年3月31日)

いつも格別のご高配を賜り、御礼申し上げます。
吉川英治記念館、玉堂美術館、御岳美術館、青梅きもの博物館、澤之井櫛かんざし美術館ご利用のお客様へフォレストイン昭和館では、宿泊特別料金をご用意いたしました。何卒ご利用下さいますようご案内申し上げます。

宿泊特別料金(1泊朝食付き)

☆スタンダードツイン1室2名様ご利用
お1人様 \9,500(通常お1人様 \13,702)

☆コーナーツイン1室2名様ご利用
お1人様 \14,000(通常お1人様 \23,520)

*年末年始(12/31~1/3)は適用除外日とさせていただきます。
*各料金は税金、サービス料が含まれております。
*SPA(大浴場)がご利用いただけます。
*ご予約時にご利用施設名をお申し出ください。

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2005年8月20日 (土)

版画新作

吉川英治記念館ミュージアムショップで販売している「はらださち版画シリーズ 草思堂の花々」の新作が出ました。
ナンバンギセル・ミゾソバ・ミズヒキの3種です。
各30部限定、525円(税込)です。

kiseru


mizosoba


mizuhiki


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2005年8月19日 (金)

みたけふるさと祭り

昨日から、みたけふるさと祭りが開催されています(21日まで)。

JR青梅線御岳駅周辺でコンサートや祭囃子、御岳渓谷ネイチャーウォッチング、発電所見学などのイベントが行われます。

期間中、御岳商店会のお店で買い物をすると抽選で賞品があたりますが、その賞品の中には、吉川英治記念館から提供した『随筆 宮本武蔵』単行本も含まれています。

また、たましん御岳美術館、玉堂美術館、櫛かんざし美術館、吉川英治記念館、青梅きもの博物館を巡る形で1日4便、ボンネットバスが運行します。

JRでも、20・21日には快速「レンゲショウマ号」(新宿駅―奥多摩駅間を1往復)、展望型電車「四季彩号」(青梅駅―御岳駅間を5往復)を運行します。

詳しいことは青梅市役所商工観光課(電話0428-24-2481)にお問合せ下さい。

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2005年8月18日 (木)

黒田如水

吉川英治記念館のミュージアムショップでは、現在も講談社から刊行されている吉川英治歴史時代文庫を販売しています。

これは平成2年に刊行されたもので、補巻を含めて全85巻からなる選集です。

そのうち、当館でもっともよく売れているのは自叙伝の「忘れ残りの記」です。
やはり、文学館を訪れる方は、作家の人生に関心を持たれる方が多いのでしょう。

では、小説では何がよく売れているかというと、意外なことに「黒田如水」です。
それほど有名な作品とは言い難いのに、なぜでしょうか?

たぶんこういうことです。

吉川英治の作品を読んだことがなかったけれど、展示を見て読んでみたくなった。
そこでミュージアムショップをのぞいてみると、本が売られている。

やっぱり吉川英治は「宮本武蔵」だな、え、8巻もあるの?
うわ、「新・平家物語」なんか16巻じゃん!
全部買ったら持って帰るのに重いし、高いし、読み切れないよ。
何か短いのないかな、1巻だけのものは。

ということで、「黒田如水」あたりを手に取る方が多いようです。
同様に、「大岡越前」「平の将門」、また2巻本ですが「源頼朝」もよく売れます。
いずれも歴史上の有名人ですから、とっつきやすいのでしょう。

ですから、同じ1~2巻のものでも、初期に書かれた伝奇物はタイトルから中身が想像しにくいのか、買いづらいようです。

これは私個人の意見ですが、「黒田如水」や「源頼朝」は第二次大戦末期、「大岡越前」「平の将門」は終戦直後に書かれた作品で、時代背景もあってどれも暗くて重い作品です。
それよりも初期の伝奇物を読んでいただいた方が、より吉川英治の魅力が感じられると思うのです。

「剣難女難」とか「鳴門秘帖」なんか面白いですよ。

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2005年8月17日 (水)

やさしいむつかしい

吉川英治記念館のミュージアムグッズの一つに扇子があります。
吉川英治が扇面に揮毫した書の複製を扇子に仕立てたものです。
sensu

この扇面には、中央に「門」の一字があり、その左右に「やさしい むつかしい」と書かれています。

先日、ミュージアムショップに陳列してあるその扇子を見ながら、「これはどういう意味だ?」と首を傾げている方がいらっしゃいました。

吉川英治に、そのものずばり「やさしい・むづかしい」という随筆があります。
そこにはこう書かれています。

むづかしい、としたら極まりなくむづかしい。
やさしい、としたら、これも限りなくやさしい。
すべての道がそうである。
むづかしい、と近づき難くするのもまちがいなら、やさしいと、見くびって、何もかも安易に、形の真似事だけにしてしまうのも、堕落である。
どっちがほんとなのだろうか。
(略)
やさしい。
むづかしい。
どっちもほんとだ。然し、むづかしい道を踏んで踏んで踏みこえて、真に、むづかしさを苦悩した上で、初めて、
――やさしい
を知った人でなければ、ほんものではない。

どのような道も、極めようとすれば、むずかしい。
しかし、極めてしまえば、そこには融通無碍な境地がある。
その融通無碍な境地は、形だけを見れば、とてもやさしいものに見える。
その形だけを真似て、やさしいと思うのは誤りであって、「むずかしい」を越えた「やさしい」でなければいけない。

要約すればそういうことになります。

この「やさしい むづかしい」という言葉、野村克也氏(元南海・ヤクルト・阪神監督)が一時よく好んで使っておられました。
吉川英治は茶道や華道を例にとってこの随筆を書いたのですが、野球にも通じるところがあるということなのでしょう。

なお、扇子の他に、ミュージアムグッズとして販売している色紙の中にもこの「やさしい むづかしい」と書いたものがあります。

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2005年8月16日 (火)

柳号

しつこいようですが、ここまで来たら、名前の話をもう1日。

川柳家時代の柳号が≪雉子郎≫であることと、それが「焼け野の雉子、夜の鶴」にちなむものであることは前に書きました。

この≪雉子郎≫に落ち着くまでには、≪霞峰≫≪独活居≫≪鷺之助≫という号が確認できます。

≪霞峰≫は自叙伝である「忘れ残りの記」に記載があり、明治37年頃(12歳!)から使用していたもの。
≪独活居≫≪鷺之助≫は、大正2、3年頃の短期間用いていたものです。
いずれも主に雑誌や新聞への投稿に用いていました。

それにしても、ペンネームが21、雅号・庵号が5、柳号・俳号が4で、合わせて30。
よくもまあ、これだけと、感心します。

こうなってくると、まだ知られていない別の名前が存在するのではないかという疑念が消せません。
研究者泣かせですね。

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2005年8月15日 (月)

雅号

名前の話ついでに、雅号・庵号にも触れておきましょう。

最もよく知られているのは、このブログのタイトルにも用いている≪草思堂≫でしょう。

これは、元々は≪草紙堂≫と書いていました。
それでわかるように、『草紙』に由来する雅号です。
『草紙』は、近世の読物類をさす言葉ですから、≪草紙堂≫とは「庶民のために小説を書く戯作者」といった意味でしょうか。
≪草紙堂≫は昭和6年頃から使用していますが、それが≪草思堂≫に変わるのは昭和10年頃。
ちょうど「宮本武蔵」を執筆する頃のことで、そこに作家としての心境の変化を見ることが出来るのではないかと思っています。

この他に、≪[彳尚][彳羊]園≫≪半野軒≫≪遅春庵≫というのもあります。

≪[彳尚][彳羊]園(初めの2文字は表示できないのでこうしました)≫は「しょうようえん」と読みます。「しょうよう」は「逍遥」と同義です。
一時、頼山陽に凝っていた頃に入手した山陽の書に≪[彳尚][彳羊]園≫というのがあり、それをそのまま使用したものです。

≪半野軒≫の由来は、昭和16年、隣家の火事に類焼して、自宅が半焼したことから、「半焼け」をもじってつけたもので、要は駄洒落です。
しかし、同時に「半分野人」という自意識もこめられています。
都会と山野、洗練と野性、どちらにも徹しきれない半分だけの野人に過ぎない、というような意味です。

≪遅春庵≫は、吉野村(現青梅市)に移り住んだ時に用いたもので、吉野村の春の訪れが遅いことから採ったもの。
春の遅さは関東屈指の梅どころ吉野梅郷の開花の遅さに現れています。
一般の梅のイメージは2月ですが、ここでは3月下旬が満開の時期になります。

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2005年8月14日 (日)

ペンネーム3

昭和に入ってからは≪吉川英治≫に一本化されたペンネームですが、実は、昭和8~9年に、もう一つ別のペンネームを使用したことがあります。

これには事情があります。

デビュー当時世話になった編集者が、講談社から新潮社に転職し、『日の出』という雑誌を創刊します。
吉川英治はそこに昭和7年8月創刊号から8年12月号まで「燃える富士」を、引続き9年1月号から12月号まで「修羅時鳥」を連載します。

当時、吉川英治は既に不動の人気作家であり、その作品を確保するのはなかなか難しい状況でした。
昭和8年1月の様子を見てみると、新聞連載が2本、月刊誌連載が2本、単発の短編小説が2本の計6作品が発表されています。

そんな中、創刊されたばかりの雑誌に連続して約2年半連載を続けたというのは、編集者の恩義に応えようとしたからでしょう。
しかし、編集者の方は、それでも足りないと思ったのか、同じ『日の出』にもう1編、小説を連載するように依頼します。
吉川英治は、この依頼を引き受けます。
しかし、同じ雑誌に吉川英治の名が2つ並ぶのはどうもよろしくない、ということになり、こちらの小説には、別のペンネーム≪浜帆一≫を使用することになったのです。
書いたのは、「あるぷす大将」というユーモア現代小説(昭和8年8月号~9年6月号)。
吉川英治には珍しいジャンルの作品だったこともあり、裏事情を知らない人たちは、これが吉川英治の別名とは気付かず、「有望新人登場!」と色めき立ったそうです。

ちなみに、この結果、昭和9年1月には、新聞連載2本、月刊誌連載5本(!)、単発の短編小説3本の計10本が発表されています。
ちょっと常人には考え難いことです。

実は、吉川英治に21番目のペンネーム使用を強いた編集者とは、かつて匿名はやめて本名で勝負せよと迫ったのと、同じ編集者なのです。
言行不一致な感じがしてしまいますね。

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2005年8月13日 (土)

ペンネーム2

吉川英次は、実を言うと、作家になってすぐに≪吉川英治≫を名乗ったわけではありません。

大正12年の関東大震災をきっかけに作家となる決意をした吉川英次は、翌大正13年以降、講談社の雑誌に次々と作品を発表していきます。
この時は、まだ≪吉川英治≫ではなく、別のペンネームを用いていました。

それも一つではありません。

吉川白浪・雪屋紺之介・望月十三七・橘八郎・柳鷺一・不語仙亭・吉川亮平・玉虫裏葉・杉田玄八・中條仙太郎・杉村亭々・朝山李四・寺島語堂・大貫一郎・木戸鬢風・吉川英路・来栖凡平

大正13年の1年間だけで、この17のペンネームを使用していました。

さて、大正14年、講談社は社運を賭けて『キング』という雑誌を創刊します。
その創刊号から、吉川英次は「剣難女難」という作品を連載します。

この時、担当の編集者から、本格的に長編作品に挑むからには匿名では良くない、本名を名乗るべきだ、と強く言われます。
それに応えて名乗ったのが、≪吉川英治≫だったのです。
(なお、昨日の説には異説もあって、誤植が生じたのはこの時だったとも言います。つまり、編集者の意見を受け入れて本名にしたのに、雑誌『キング』の創刊予告の広告で誤植されてしまった、という説です。いずれにせよ、誤植がきっかけであることは間違いないようです。)

しかし、これでペンネームを統一したのかと言えば、そうではありません。
最終的に大正15年まで、複数のペンネームを使い続けます。
それだけでなく、≪吉川英治≫を使用し始めた大正14年には、上記の他に≪杉波多摩夫≫と≪吉川雉子郎≫名でも作品を発表しています(もっとも吉川雉子郎は、川柳家時代から使っている名ですが)。

結局、大正年間には合計20のペンネームを使用していたことになります。

名前にこだわりがなかったのではないか、という気までしてきます。

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2005年8月12日 (金)

ペンネーム

名前の話に戻します。

「吉川英治」はペンネームであると書きましたが、それについてはこんな文章があります。

 英治――戸籍面は英次と書き、父母は幼時より彼を呼ぶにヒデツグといひ、人様はヒデさん、或は大将さんとよび、友の悪童はヒデッピイとよんで彼を揶揄へり。
 エイジと呼ばれ初めたるは処女作「親鸞」の出版に次を治と誤植されてそのままになりたるがたしか初めなりやと思ふ。

これは「現代大衆文学全集続10巻 吉川英治集 江戸三国志」(昭和6年5月10日 平凡社)のあとがきとして掲載された『著者小伝』の一節です。

これを詳しく説明すると、こうなります。

大正11年、当時、東京毎夕新聞に勤務していた吉川英次は、会社からの業務命令で、「親鸞記」という小説を紙面に連載することになります。
それまでに書いた小説はいずれも投稿用の単発作品で、これが生まれて初めての連載小説となりました。
実はこの作品、連載時は無署名でした。
社員の書いた作品だからそれでもいいということだったのでしょう。
この作品は、連載終了後の大正12年、単行本化されました。
単行本には、ちゃんと著者名として吉川英次の名が印刷されました。

では、誤植とは?

実は、この単行本が出版される際の広告で、≪吉川英治≫と誤植されたのです。

この年、関東大震災をきっかけに新聞社を辞めた吉川英次は、専業の作家となります。
その際、≪英治≫の方が文字のすわりが良いと思い、ペンネームを吉川英治としたのです。

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2005年8月11日 (木)

誕生日

本日は吉川英治の誕生日です。
明治25年8月11日に、吉川英治は生まれました。

ただし、戸籍上は8月13日に生まれたことになっています。
これは出生の2日後に届出をしたからだそうです。
昔は鷹揚だったのですね。

同じ明治25年生まれの作家に芥川龍之介がいることは以前書きました。

インターネットは便利なもので、他に同じ年に生まれた人に誰がいるのかすぐにわかります。

文学者では西条八十、佐藤春夫、子母澤寛、平林初之輔、堀口大学、水原秋桜子なども同じ年の生まれです。
初めて知りましたが、映画「ロード・オブ・ザ・リング」の原作「指輪物語」の作者トールキンも同じ年の生まれのようです。

なかなかすごいメンバーですね。

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2005年8月10日 (水)

本名

昨日付けの文章の中で、「14歳の英次少年」と書きましたが、これは書き間違いではありません。

「吉川英治」というのは実はペンネームで、本名は「英次(ひでつぐ)」なのです。
異母兄があったため、次男ということで「英次」となったようです。

この異母兄は一時期、英次たちとも同居していましたが、父親とそりが合わず、出奔してしまったため、英次は事実上の長男として、後に家が没落した時、一家を支える役目を担うことになりました。

後年、吉川英治として成功をおさめた英次の許を、この異母兄が訪ねてきたことがあります。
27年ぶりの再会でした。
そのことを自筆年譜の昭和6年の部分に、こう書いています。

十二月。突然、少年時に失踪したきり消息不明なりし異母兄政広、三十年ぶりで来訪。茫然相見るのみにて往時の語もなし。漸く卓に向い一酌して、父母すでに亡きを告ぐ。異母兄は中年の事業に成功し各地方に支店をもち妾宅を構えたるなどの全盛時代を得々として語り出づ。幼少の記憶にある異母兄なるやいなやを疑う。

また、「剃刀を手に蚊帳を探る女」(『話』昭和8年9月号掲載)という随筆では、その異母兄が訪ねてきたのが、父親の13回忌の年で、しかも月違いの命日の翌日で、そのたたずまいが死ぬ前の父親そっくりであったため、「墓場の底から、亡父が甦つて来たのではないかと思つた」と書いています。

どうやら、あまり気分の良い再会ではなかったようです。

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2005年8月 9日 (火)

せっかくなので、夏の句をいくつか。

はたらいた俺にはあるぞ夕涼み

勤労の喜びと充実感を感じさせる句です。
最近問題となっているニートは、働くということを観念的に捉えすぎているのではないかと思ったりすることがあります。
こういうストレートで肉体的な実感というものを経験することも、問題の解決のひとつの糸口なのではないでしょうか。

すずしさに何の文句もない夜かな

これはもう、ごもっともという感じの句です。
ただ、青梅あたりでは夜になると気温が下がって、少し涼しくなりますが、大都市圏ではヒートアイランド現象で夜も気温があまり下がらないので、実感がわきにくいかもしれません。
まあ、今は、文句があればエアコンをつけてしまうので、そもそもこんなことを考えるような風情は成立しなくなっている気もしますが。

西瓜食ふ女の口の恐ろしき

これは明治39年、14歳の英次少年が雑誌『秀才文壇』に投稿した川柳です。
与えられた「西瓜」という題に対して詠んだものですが、同時に投稿した「滝壷に西瓜冷やせし茶店かな」が、情景を素直に詠んだものであるのに対して、いささか意地の悪さを感じます。
その分こちらの方が味がありますね。

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2005年8月 8日 (月)

今年、吉川英治記念館周辺では蝉が非常に多く見られます。
おかげで、一日に一度は蝉におしっこを引っ掛けられています。
そんなわけで、吉川英治が詠んだ蝉の登場する句をいくつか紹介してみます。

蝉啼くや骨にしみ入る灸のつぼ

「蝉の音の骨まで涼し灸のつぼ」という類句もありますが、芭蕉の「静けさや岩にしみ入る蝉の声」を思い浮かべてしまう句です。
暑い夏のさなかに、これまた熱いお灸をすえている状況を詠んだものでしょう。
「骨」の一語が、いかにも効いている感じを出しています。

蝉啼くやたたかひ日々に非なるかな

吉川英治は昭和19年3月に、青梅(当時は吉野村)に疎開してきますが、その夏に詠んだもののようです。
そして終戦を迎えた後には

ともかくも一村無事の蝉の声

という句を詠んでいます。

初蝉や升田九段の耳の外

「升田九段」とは、棋士の升田幸三のこと。
吉川英治は、この破天荒な棋士を「タケゾウ」と呼んで、愛していました。
周りの音など聞こえないほど勝負に集中している升田の姿が目に浮かぶ句です。

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2005年8月 7日 (日)

hiougi
ヒオウギです。

漢字で書くと「檜扇」。
細い葉が扇状に連なって広がっているのが名の由来です。

私は「緋扇」だと勘違いしていました。
花の色が赤っぽくて、葉が扇状だから、この名なのだと。

そうではなくて、薄い檜の板を連ねた扇=檜扇だったんですね。

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2005年8月 6日 (土)

rengesyoma
レンゲショウマ(蓮華升麻)が咲き始めました。

かわいらしい花を咲かせますが、花が下向きに咲くのが玉に瑕ですね。
近付かないと花がよく見えませんし、写真にはとても撮りづらい花です。

いま御岳山では、恒例の「みたけ山レンゲショウマまつり」(8月1日~31日)を開催中です。
いろんなイベントもあるようですから、吉川英治記念館においでの際には、そちらにも足を伸ばしてみてはいかがですか?

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2005年8月 5日 (金)

kamisori
キツネノカミソリ(狐の剃刀)が咲いています。

ヒガンバナ科で、そのヒガンバナと混同されることもあるそうです。

名前の由来は、春先に出る葉が細長くて剃刀のようだから、ということのようですが、花が咲く時には葉が無いので、ピンときませんね。

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2005年8月 4日 (木)

鈴木光司

鈴木光司さんは平成8年に第17回吉川英治文学新人賞を「らせん」で受賞なさっています。

今回は、そのご縁で、「全国文学館ガイド」のエッセイをお願いしました。

エッセイは、その吉川英治文学新人賞の贈呈式でのスピーチをベースにしたものです。
面白いスピーチだったので、こちらからお願いして、そうしていただきました。

どういう話だったかは、「全国文学館ガイド」を購入してお読みください(笑)

ちなみに、そのスピーチの影響で、一時期、吉川英治文学新人賞の受賞者が相次いで吉川英治記念館にご来館になりました。

最近の受賞者の方はおみえになっていませんが、このエッセイの影響でまたそういう≪ブーム≫になればいいなと、密かに思っています。

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2005年8月 3日 (水)

全国文学館ガイド

先日の講演会と並ぶ全国文学館協議会発足10周年記念企画として、小学館より「全国文学館ガイド」が出版されました。

内容は全国の主要文学館75館の紹介に、550余館(!)の文学館一覧などを加えたもの。

主要75館の紹介には、各館でセレクトした作家や研究者によるエッセイが添えられています。
ですから、エッセイ集としても読むことが出来ます。

ちなみに、吉川英治記念館の部分では、作家の鈴木光司さんにエッセイをお願いしました。

なお、私の感想としては、姫路文学館の部分に掲載された車谷長吉さんのエッセイが最高です(苦笑)

また、文学者別の文学館一覧というのも併録されています。
これはつまり、ある作家の資料は、どこの文学館にあるのか、という一覧です。
文学ファンにはすごく便利なものだと思います。

全国の書店や主要文学館でお買い求めいただけます。
もちろん、当館にも置いています。

ぜひお求め下さい。

「全国文学館ガイド」(全国文学館協議会編 小学館発行 2005年8月20日 税込定価1500円)

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2005年8月 2日 (火)

シンポジウム

人気のあるお二人の講演の後、「文学館の魅力を求めて」というシンポジウムが行われました。
出席者は文学協議会の会長であり、詩人でもある中村稔さん、日本現代詩歌文学館館長で、歌人でもある篠弘さん、作家の加藤幸子さん、東京大学助教授の今橋映子さん。

内容はこのスペースで簡単にまとめられるようなものではないので、それはやめておくとして、印象に残ったのは、今橋さんのこんな話。

自分が生まれて初めて訪れた文学館は青梅の吉川英治記念館だった。 当時は、吉川英治の名も、宮本武蔵が何者かも知らない子供だったし、今となっては何がどんな風に展示されていたかも記憶に無い。 ただ、庭園も含めた吉川英治記念館が、全体として醸し出している吉川英治に対する敬意といったものが、子供心にも快いものとして感じられ、それが今でも心に残っている。

吉川英治記念館が目指していたものが、ちゃんと伝わっていたのだな、そう実感できる言葉でした。
と同時に、来館者の減少を気に病み、変化していかなければいけないという思いに駆られている私には、何か、誡めのようにも感じられ、はっとしました。

変えるべきもの、変えてはいけないもの、それを見極め、軸をきっちりと固めるところから、もう一度館の未来像を描き直そう、そんな気にさせられました。

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2005年8月 1日 (月)

瀬戸内寂聴

一方、瀬戸内寂聴さんも、作家であると同時に、徳島文学書道館の館長をなさっています。

この徳島文学書道館は、もともと瀬戸内さんが長年、自身の出身地でもある徳島県に文学館を、ということで働きかけを続けた成果として誕生しました。

誕生までには、推進した県知事が、収賄事件を起こすといったスキャンダルがあったり、文学館単独のはずが書道も含めた施設になっていたとか、紆余曲折があったというようなことをお話くださいました。

そんな中で、瀬戸内さん自身、若い頃は徳島には文学者はいないという思い込みがあったけれど、調べてみれば少なからぬ文学者を生み出している、文学館を訪ねることで、そうした人たちの存在を知り、郷土、そして日本への誇りを培って欲しい、それは≪生命の栄養≫である、というようなことを述べられました。

井上さんのお話にしろ、瀬戸内さんのお話にしろ、作家が文学館に期待するもの、という側面があります。
文学そのものを展示することが出来ない文学館という存在に対し、何を来館者に伝えて欲しいか、ということの意見表明と言えるのかもしれません。

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