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2005年8月24日 (水)

石碑の運命

吉川英治は、自分の文学碑や銅像などは無用のものである、と考えていたそうです。
それゆえ、音戸の瀬戸の文学碑以外には、自ら承認した文学碑はありません。

昨日チラリと触れましたが、石碑についての嫌な思い出も、自分の文学碑を望まなかった吉川英治の気持に影響していたのではないかと思います。

本人の言によれば、「新・平家物語」の取材の一環で伊豆半島を訪れた時、ある野の道で、ぬかるみを防ぐために畳一畳半ほどの平石が敷かれていたのだそうです。
その平石の正体は、「忠魂碑」でした。
この取材旅行は昭和27年のこと(この旅行も企画展で取り上げます)。
敗戦による価値観の転換によって、戦時中には崇められていた忠魂碑が、敷石にされていたわけです。

このことのショックは大きかったようで、後に吉野村(現青梅市)の有志が戦没者慰霊碑建設の相談に来た時、この話をして、平石の石碑にはせず、他の形にするようにアドバイスしたと伝わっています。

さて、10年ほど前、私用で広島県に出掛けた時に、昨日触れた2つの清盛塚と、音戸の瀬戸の文学碑を訪ねました。
3ヶ所とも、私以外に誰も訪ねる人はいませんでした。

しかし、忠魂碑のように世の中の価値観に振り回されるよりは、たまに思い出されるくらいの方が、幸せなのかもしれません。

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