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2005年8月13日 (土)

ペンネーム2

吉川英次は、実を言うと、作家になってすぐに≪吉川英治≫を名乗ったわけではありません。

大正12年の関東大震災をきっかけに作家となる決意をした吉川英次は、翌大正13年以降、講談社の雑誌に次々と作品を発表していきます。
この時は、まだ≪吉川英治≫ではなく、別のペンネームを用いていました。

それも一つではありません。

吉川白浪・雪屋紺之介・望月十三七・橘八郎・柳鷺一・不語仙亭・吉川亮平・玉虫裏葉・杉田玄八・中條仙太郎・杉村亭々・朝山李四・寺島語堂・大貫一郎・木戸鬢風・吉川英路・来栖凡平

大正13年の1年間だけで、この17のペンネームを使用していました。

さて、大正14年、講談社は社運を賭けて『キング』という雑誌を創刊します。
その創刊号から、吉川英次は「剣難女難」という作品を連載します。

この時、担当の編集者から、本格的に長編作品に挑むからには匿名では良くない、本名を名乗るべきだ、と強く言われます。
それに応えて名乗ったのが、≪吉川英治≫だったのです。
(なお、昨日の説には異説もあって、誤植が生じたのはこの時だったとも言います。つまり、編集者の意見を受け入れて本名にしたのに、雑誌『キング』の創刊予告の広告で誤植されてしまった、という説です。いずれにせよ、誤植がきっかけであることは間違いないようです。)

しかし、これでペンネームを統一したのかと言えば、そうではありません。
最終的に大正15年まで、複数のペンネームを使い続けます。
それだけでなく、≪吉川英治≫を使用し始めた大正14年には、上記の他に≪杉波多摩夫≫と≪吉川雉子郎≫名でも作品を発表しています(もっとも吉川雉子郎は、川柳家時代から使っている名ですが)。

結局、大正年間には合計20のペンネームを使用していたことになります。

名前にこだわりがなかったのではないか、という気までしてきます。

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