« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »

2005年9月30日 (金)

hototogisu
ホトトギスが咲いています。

この名前はもちろん鳥のホトトギスにちなむものです。
ところが、これが英語では“Japanese Toad Lily”と呼ばれるのだそうです。
“toad”とは「ヒキガエル」のこと。
ということは、訳すと「ニホンヒキガエルユリ」。
おそらく、もともと英語圏に“Toad Lily”という植物があったので、日本のホトトギスもそう呼ばれるようになったのでしょう。

しかし、日本人がホトトギスと見たものを、英語圏ではヒキガエルになぞらえているというわけで、彼我の感性の違いを感じずにはいられません。

| | コメント (0)

2005年9月29日 (木)

新発見

『新嘉坡日報』という資料を購入しました。
古書店の目録によると、吉川英治の中編小説「菊一文字」が掲載されているというのです。

届いた資料を見てみると、確かに「菊一文字」のタイトルが。
売りに出ていたのは二日分ですが、そのうち昭和6年6月3日号に第45回、翌6月4日号に第46回が掲載されています。

「菊一文字」は雑誌『現代』大正15年1月号~7月号に掲載された作品で、これは再録ということになりますが、この再録については今まで当館では把握しておらず、その意味では新発見です。

掲載紙の『新嘉坡日報』ですが、≪新嘉坡≫は言うまでもなくシンガポールのことで、つまりシンガポールで発行されていた二つ折り4ページの邦字新聞です。
紙面からは、日刊紙であること、発行人は長尾正平であることということはわかりますが、それ以上のことはわかりません。国会図書館でも所蔵はしていないようです。

発行人の長尾正平は金子光晴と関係があるようですが、それ以上のことは調べきれておらず、よくわかりません。
また、なぜ吉川英治の「菊一文字」がこの新聞に掲載されるようになったのかの事情もわかりません。
おいおい調べていきたいと思います。

さて、ここからは、多少お遊びの要素もありますが、作品が何時から何時まで掲載されたのかを、推測してみます。
再録なので原稿の遅れによる休載はありえないことと、『新嘉坡日報』が日刊であることを考慮するならば、昭和6年6月3日が第45回なので、毎日掲載されたとして同年4月21日が第1回になるはずです。
一方、吉川英治文庫版で確認してみると、小説の本文は小見出しを除いて2325行。
『新嘉坡日報』は掲載にあたって小見出しを除外しているので、この正味の行数で考えてみると、第44回の終りまでは1790行で平均が約40.7行。
それに対し、第45回分が41行、第46回分が39行であり、ほぼ同じ分量で掲載していることがわかります。
このペースが最後まで保たれるなら、第47回以降、あと11回掲載すると、最後に7行余ります。
余りが少ないので、11回で掲載すると考えましょう。
すると、最終回は毎日掲載で同年6月15日となるのではないかと思われます。
特別なことがなければ、4月中に連載を始めて、6月中には終わるという状況のようです。

遥かかなたのシンガポールの地で、たった3ヶ月弱連載されていたに過ぎないものが、よくぞ出て来てくれたものだと、ちょっと感動してしまいます。

| | コメント (1)

2005年9月28日 (水)

秋山徳蔵の「味」が、今月25日に中央公論新社から文庫化され、吉川英治記念館にも献本がありました。

秋山徳蔵と言えば、「天皇の料理番」として知られる人物です。
吉川英治とも交流があり、この著書の序文も吉川英治が書いています。
そんな縁で、ご献本いただきました。

元版は昭和30年に東西五月社から出ています。
昭和32年にやはり東西五月社から出た秋山徳蔵の「舌」にも、吉川英治は序文を寄せています。

「味」には『菊池寛氏と吉川英治氏』という一項があり、秋山徳蔵と吉川英治の交流の一端が書かれています。

書店で見かけたら、ぜひ手に取ってみてください。

| | コメント (0)

2005年9月27日 (火)

軽井沢

休館日である昨日、軽井沢に行き、吉川英治の甥であり、吉川英治が亡くなる前の数ヶ月間、その運転手を務めた紅梅苑の鈴木博社長の案内で、吉川英治の別荘を訪ねました。

吉川英治の軽井沢の別荘は、写真では見たことがありましたが、今まで機会がなく、私にとっては初めての訪問です。

besso
緑の木立の中、写真で見覚えのある外階段を持った建物がひっそり建っています。
案外小さい建物だと思いましたが、これは2棟あった建物のうち吉川英治の書斎のあった方の建物で、もう1棟は取り壊されたのだとか。

昭和24年に、人から頼まれるようにして購入したものだそうです。
以後毎年、夏はここで過ごしました。
「私本太平記」の最終回の原稿は、ここで書かれています。

saisei_1
当時の軽井沢には多くの作家・文化人が別荘を持っており、吉川英治と彼らの間には自然と相互の交流も生まれました。
そんな中の一人である室生犀星の詩碑が、吉川英治の別荘から歩いて15分ほどの所にあると知り、ついでに立ち寄ってみました。


saisei_2
川沿いのちょっと不思議な空間にある詩碑のそばには、石人の像があります。
その下には、分骨された室生犀星夫妻の遺骨が埋められているのだそうです。

別荘から詩碑まで行くのに、いわゆる軽井沢銀座を通ってみました。

今ではすっかり観光地となった軽井沢銀座の喧騒と別荘の静寂。そして訪れる者もいない詩碑。

君よ今昔の感如何

吉川英治が厳島の清盛塚でいだいた感慨です。

不遜ながら、ここでは私がこの言葉を吉川英治に投げかけてみたくなりました。

| | コメント (0)

2005年9月26日 (月)

銅像

kan
昨日書いた菊池寛の銅像です。
高松市の中央公園にあります。

2001年に吉川英治記念館で特別展「菊池寛と吉川英治――その交流と文学観」を開催した時、高松市の菊池寛記念館から借りた資料を返却に行ったついでに立ち寄ってきました。

公園の近くには、菊池寛の生家跡(石碑があるだけですが)だとか、菊池寛の代表作の一つ「父帰る」の一場面をあらわした銅像なんてものもあって(↓これ)、ちょっと面白かったですよ。
chichikaeru

| | コメント (0)

2005年9月25日 (日)

もう一つの旅行

昨日触れた「菊作り」の句について、以前(5月24日付)、大阪のひらかたパークの菊人形展に「新・平家物語」が取り上げられ、それを見に行った時に詠んだ句だと紹介しました。

この旅行は昭和31年10月に行われたもの。
つまり、「新・平家物語」連載中(昭和25~32年)の旅行です。
その意味では、今回の特別展「新・平家物語」紀行展の展示対象としうるものなのですが、詳細が不明で、≪取材≫と呼べるような事実があるのかどうか、はっきりしないため、取材旅行からは除外しました。

それに、この旅行の主目的は、他にありました。
香川県高松市に建立された菊池寛の銅像の除幕式に出席することです。

残されている旅行の予定表によると旅程はこうなります。

10月22日 羽田空港から飛行機で伊丹空港に飛び、途中で枚方の菊人形を見てから京都に入り、時代祭を見る。京都泊。
10月23日 京都から高松に移動。高松泊。
10月24日 菊池寛銅像除幕式に出席の後、講演を行い、終了後、夜のフェリーで大阪へ移動。船中泊。
10月25日 ゴルフ。京都泊。
10月26日 ゴルフ。京都泊。
10月27日 大映京都撮影所で『静と義経』撮影見学。京都泊。
10月28日 名古屋へ移動し、ゴルフ。名古屋泊。
10月29日 ゴルフの後、杉本健吉宅を訪ね、その後、鉄道で東京に帰る。

予定表ですから、すべてこの通りだったかどうかはわかりません。
写真が残っている菊人形展見学と大映撮影所見学、そして記録が残っている菊池寛銅像除幕式の三つは、間違いなのですが、それ以外に何をしたかは判然としません。

しかし、予定だけ見ると、ほとんどゴルフ旅行ですね。

| | コメント (0)

2005年9月24日 (土)

菊一花

いま、すぐそばに杉本美術館の今年のカレンダーがあります。
その9・10月のページには、「吉川英治句」として、杉本健吉の墨跡で

菊一花天を戴きたわわかな

と書かれています。

実はこれ、正しくありません。

菊一花天を載せたるたわわかな

というのが、吉川英治の詠んだ句なのです。
間違って憶えてしまったのでしょうね。

もっとも、吉川英治自身、同じ句の字句をその時々で変えることがあります。
先日書いた揮毫の際の裏技とは別に、です。

例えば、以前結婚式によく引用される句として紹介した

菊作り咲きそろふ日は蔭の人

には

菊作り菊見る時は蔭の人
菊作り菊見る日には蔭の人

という少し字句を変えた句が存在します。

その点からすると、書き残していないだけで、吉川英治と杉本健吉の会話の中には「天を戴き」の句が出て来たのかもしれません。

今となっては確認のしようもありませんが。

| | コメント (0)

2005年9月23日 (金)

kiseru
ナンバンギセル(南蛮煙管)です。

これは、ススキなどの根に付く寄生植物です。

草思堂庭園のススキの根元には、毎年このナンバンギセルが生えてきていたのですが、ススキの植えてある場所が順路から離れていたので、来館者の方の目には触れることがありませんでした。

せっかく生えているのに、人目につかないのはもったいないので、今年は遊歩道のすぐそばにススキの株を一部分けて植えてみました。
新しい場所でもちゃんと生えてくるか心配していましたが、こうして無事に姿を見せてくれました。

というわけで、今ご来館になると、この実物をご覧いただけます。
展示室側から遊歩道に入ってすぐの所です。

小さいので分り難いかもしれませんが、ちゃんと生えていますよ。

| | コメント (0)

2005年9月22日 (木)

kitsurihune
キツリフネ(黄釣船)です。

この独特の形をした花が、実に可愛いですね。

しばらく前から盛んに咲いていますが、そろそろピークは過ぎたでしょうか。
この週末辺りが最後の見所かもしれません。

| | コメント (0)

2005年9月21日 (水)

写真コンテスト

予告したまま長らくそのままにしていましたが、第8回吉川英治記念館写真コンテストの上位入賞作品をサイトにアップしました。
ご覧下さい。

なお、これらの作品を含む全入賞作品を10月4日~11月6日まで、吉川英治記念館内の特別展示室に展示いたします。

また、第9回の写真コンテスト要項も決まりました。これもサイトにアップしています。
ふるってご応募下さい。

| | コメント (0)

2005年9月20日 (火)

大活字本

「新・平家物語」紀行展の会場に、取材旅行とは関係のないものが展示してあります。

「新・平家物語」のオンデマンド大活字本です。

≪大活字本≫というのは、高齢者や弱視者といった、小さな字が読みにくい方々のために、通常のものより字を大きく印刷した本です。
展示しているのは講談社デジタルコンテンツ出版部が試作したもので、「12ポ 明朝体版」「16ポ 明朝体版」「22ポ ゴチック体版」の3種を展示しています。

現在、書籍の電子化が急速に進んでいます(需要が十分あるとはまだ言えないでしょうが)。
一方、今では新刊の図書雑誌の原稿は、電子化したものが入稿されるのが当たり前になっています。

こうした状況を背景に、書籍の電子データを利用すれば、手軽にオンデマンド出版(注文に応じてその都度印刷製本し、在庫を持たない出版の方法)ができるのではないか、その際に、文字の大きさを変えることは簡単なのではないか、そうした発想から試作されたものです。

字を大きくするとどうしても判型が大きくなり、ページ数も多くなるため、本そのものの値段は高くなってしまいます。
また、元々オンデマンド出版は大量印刷を前提としないため、単価は通常の市販書籍より高いものです。
しかし、データ作成コストが抑えられるので、従来よりは低コストで大活字本が作れるはずです。

展示して半月ほどですが、高齢者の方を中心に、これならば読みやすいという声が、聞こえてきます。

福祉関係者や図書館関係者で興味がおありの方は、ぜひご来館下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月19日 (月)

原稿用紙

昨日取材で来館した林家きく姫さんが関心を持たれたのは、原稿用紙でした。
専用の原稿用紙を使用していることに驚かれたようでした。

もっとも、作家が自分専用の原稿用紙を使用することは珍しいことではありません。

吉川英治も、専業の作家になった直後から、自分の名前入りの専用原稿用紙を用いています。

若い頃は主にB5判程の小さいサイズの400字詰め原稿用紙を多く使い、後になるとほとんどB4判程のサイズの400字詰め原稿用紙を使用するようになります。

原稿用紙に入っている文字も「吉川英治稿箋」「英治稿箋」「yoshikawa」など様々です。

ちなみに、展示してある状態からはわからないことですが、吉川英治は、天の部分を糊付けして製本したもの(市販のレポート用紙のようなものです)を好んだそうです。
秘書や編集者の方の話では、執筆が快調な時は、書き終えた原稿用紙を切り離す「シャーッ」という音が、断続的に聞こえてきたそうです。
この音が調子のバロメーターだったようです。

こんなところにも注目して、展示を見ていただければと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月18日 (日)

東京サイト

テレビ朝日で放送されている「東京サイト」という番組の撮影があり、ナビゲーターの林家きく姫さんが来館されました。
東京都提供の番組で、今回は都バス沿線の紹介の一つとして、吉川英治記念館を取り上げるということのようです。
放送は10月に入ってからです。

ちなみに、そんな番組見たことないなぁ、と思ったら、月~金の午後4時50分からの放送のようです。

なるほど、道理で。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月17日 (土)

松本清張

旅先ではいろんな出会いがあるものです。

昭和25年12月の「新・平家物語」取材旅行(1)でも、いろいろな出会いがあるのですが、私が、へぇと思ったのが、松本清張との出会いです。

旅の12日目である12月20日。
小倉を訪ねた吉川英治は、壇ノ浦を眺めた後、朝日新聞の西部本社に立寄った際、松本清張を紹介されます。

西部本社へ立寄る。局次長のY氏、論説副主幹のS氏などと話しこむ。そこへ今年の別冊週刊で当選作となった「西郷札」の筆者松本清張氏が見えて、紹介をうける。西郷札は素材の要意も克明な手がたい作品であったと記憶する。実直で作風どおりな人であると話しながら思う。ずいぶん忙しい中で書いたらしい。羨むべき境遇と健康と年歯である。(「新・平家今昔紀行」『門司・小倉あるきの巻』)

背景を説明しますと、この時、松本清張は朝日新聞西部本社の広告部に勤務していました。つまり、松本清張の勤務先に吉川英治がやって来たわけです。
そして、「西郷札」は、『週刊朝日』が懸賞募集した≪百万人の小説≫に入選した、松本清張の処女作です。
吉川英治はその『週刊朝日』に「新・平家物語」を連載しているわけですから、必然的な出会いと言えるかもしれません。

ところで、『週刊朝日』の≪百万人の小説≫は、昭和25年6月11日号に募集告知されたもので、同年12月10日号に予選合格の30編が発表され、12月24日号で最終結果が発表されました。
週刊誌の発売日は号の日付の1週間前ですから、結果が公になったのは12月17日。その直後に吉川英治と松本清張は顔を合わせたことになります。

となると、一つ疑問なのは、吉川英治はこの時点で「西郷札」を読んでいたのかどうか、ということです。
吉川英治の文章だけをみると、読んだ後に出会ったかのように読めます。
しかし、吉川英治は、この懸賞の審査員ではありませんから、発表前に作品を読んだと思えないのです。

調べてみると、「西郷札」は昭和26年3月に発行された『週刊朝日別冊 春季増刊号』に掲載されています。
一方、吉川英治の紀行文の方は、『週刊朝日』昭和26年7月22日号に掲載されています。

つまり、実際に旅したのと、紀行文を書いたのでは約半年のズレがあり、その間に「西郷札」が活字になって、それを読んだ、というのが真相なのではないでしょうか。
それならば、「別冊週刊で当選作となった」という記述(実際には本誌で募集・発表されている)も、納得できます。

こういうことがあるので、作家の文章は鵜呑みに出来ません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月16日 (金)

裏技

著名人が、旅館に泊まったり料亭で食事をしたりすると、「何かご揮毫を」などと言って色紙などが差し出されることがあります。
作家によっては、これを嫌う方もいますが、吉川英治は、頼まれればどんどん書いた方です。

さて、今回の「新・平家物語」紀行展で取り上げている取材旅行の先でも、吉川英治は揮毫を求められ、自作の句や詩歌を書き残しています。
そのうち、色紙や短冊になっていて、当館で所蔵しているものを今回展示しています。
また、そういう形になっていないものは、それだけ集めてパネルで紹介しています。

ところで、取材旅行に同行した編集者が残した日誌を見ると、そんな風にして吉川英治が書き残した句や詩歌を、律儀に記録してあったりします。

それを見ていると、吉川英治の“裏技”がわかります。

どこに行っても同じ言葉を書くというのは、どちらかと言えば、誰でもがやる“表技”でしょう。
吉川英治もこの手をよく使いますが、もう一つ、自分が以前に作った句や詩歌の文言を一部だけ変える、という手も使っています。

例えば、会津・越後旅行を見てみます。

行きずりの人に乞はるる野菊かな

という句を揮毫して宿の女中に渡していますが、これには「野菊」を「野梅」にした句が別に存在しています。

さか巻きよ わが手にふるゝ 汝れもまた 宿世の縁ぞ あさからめやも

という短歌を、逆巻温泉に宿泊した際に書き残していますが、これは元々は「さかづき(杯)よ」で始まる、お酒についての短歌です。

この手を使えばバリエーションが増える上、もらった方は自分のためだけに新たに詠んだもののように見えます。
すばらしい作戦ですね。
もちろん、元になるものを自分で作っているから良いのであって、そうでなければ盗作になってしまいますが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月15日 (木)

探しています

花の名前と言えば、「新・平家今昔紀行」の『会津磐梯山の巻』にこんな記述があります。

小川のふちに、可憐な淡黄色の花を折々見る。“かえるのおとがい”というそうだ。みな知っている。ぼくだけが、名知らぬ花。

これは、福島県会津若松市神指町(当時は神指村)の福昌寺に、≪金売り吉次≫の墓を見に行った時の記述です。
ここで、土地の古老に話を聞く吉川英治の写真が残っています。

さて、この“かえるのおとがい”という花がどんな花なのか、気になって検索してみましたが、何も引っかかりません。
手近な図鑑にも見えません。

「おとがい」とは「あご」のことですから、そうすると、蛙が口を開いたような形の花なのでしょうか。
それとも、蛙が鳴く時に下あごを膨らませることがありますが、そういう感じの丸い花なのでしょうか。

吉川英治は、「みな知っている」と書いていますが、私は聞いたこともありませんし、検索しても引っかからないということは、会津周辺での地方名称ではないかと思うのですが、どうでしょうか。

どなたかご存知の方、ご教示いただけないでしょうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月14日 (水)

waremokou
少し盛りを過ぎてしまいましたが、ワレモコウです。

私は最初、「割れモコウ」なのだと思っていましたが、「吾亦紅」という字をあてるのですね。

と書こうと思っていたのですが、調べてみると、「割木瓜」と書く場合もあるんですね。
知りませんでした。

他にも「吾木香」とも書くようです。

どれが一番古い書き方なのでしょう?

ただ、写真のようにくすんだ赤なので、「吾亦紅」というのが、しっくりくることは確かです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月13日 (火)

草思堂庭園内で咲いている花についての問い合わせの電話がありました。

3年前の今頃、そちらの庭園で種をもらって帰った植物が芽を出したのですが、何という名前だったでしょうか?

私も、吉川英治記念館に勤め始めてから多少は花の名前が分るようになりましたが、言葉で説明されてすぐに「それは○○ですね」と答えられるほどではありません。
そんなわけで、その場では「ちょっと確認してみますので、改めてお電話いただけますでしょうか」と答えました。

さて、電話で聞いた特徴を他の職員に話し、皆で考えた結果、どの花のことだか分りました。

これです。

hazeran


ハゼラン(爆蘭)です。

決め手になったのは、「夕方になると咲く」という一言。
ハゼランは午後3時過ぎから花を咲かせるので、「三時花」という別名もあるのだそうです。

さて、花の正体は分ったのですが、改めての電話がかかってきません。

問い合わせた方、これ読んでますか?(←多分読んでないでしょうね)

ハゼランですよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月12日 (月)

何尺の地を這ひ得るや五十年

表題の川柳について、どういう意味なのか教えて欲しいという電話がありました。

こう言ってはなんですが、電話での問い合わせというのは、聞く側は気軽ですが、答える側としては急なものなので、十分に意を尽してお答えすることができないこともあります。
今回も上手く説明できなかったような気がするので、改めてここに書いてみます。

これは、明治45年7月に、東京・芝の金地院で開かれた物故川柳家追善のための新川柳十年記念川柳法要という会で吉川英治(当時は雉子郎)が詠んだもの。
会場の金地院にちなむ宿題の「金」「地」「院」のうち、「地」を詠み込んだものです。

意味は深く考えずとも、伝わるでしょう。
「五十年」とは、「人間五十年」を念頭に置いて、「人の一生」を指すものでしょうから、「一生地面を這い続けたら、何尺進むことが出来るだろうか」と言っていることになります。

ただ、解釈は難しい。
「一生かかっても何尺も這うことは出来ない、人間なんてちっぽけなものだ」という人間への諦観とも取れますし、「これからの人生、自分にどれだけのことが成し得るだろうか」という人生への不安と希望とも取れます。

「人間五十年」という言葉が、元来は「人間五十年、下天一昼夜」という仏教の時間概念に基づき、「人間にとっては長い50年も、神仏の目から見れば一瞬に過ぎない」という意味であることを踏まえれば、前者の解釈が正しいようにも思います。

一方、明治45年7月ならば、明治25年8月生まれの吉川英治は、まだ満年齢で20歳にもなっていません。
そこを重視すれば、後者の解釈のようにも思えます。

後年の吉川英治の小説が、≪希望の文学≫とも呼ばれることを思えば、私としては後者を取りたい気がします。

しかし、20歳目前の少年が、これを詠んだということには、驚嘆する他ありませんね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月11日 (日)

京都・奈良取材

取材旅行(6)の京都・奈良の旅ですが、この旅行については、「新・平家今昔紀行」には紀行文はなく、「新平家雑感」中の『客窓雑記』と「新平家落穂集」の昭和27年5月4日付に記述があるのみです。
しかも、昭和27年4月4日~19日という長い日程のうちの4月10日頃までの記述しかありません。
同行した編集者の小川薫氏が作成して当館にご寄贈下さった「『新・平家物語』行政帳」という資料を見ても、4月11日以降のことはほとんど不明で、特に15日~18日のことは、さっぱりわかりません。

さて、その小川薫氏の資料「『新・平家物語』行政帳」には、面白い記述があります。

この取材旅行には、吉川英治の家族も同行していました。ただし、全員一緒ではなく、旅の前半には長男・英明、次男・英穂、吉川英治の妹のかえが同行し、この3人が帰った後、入れ替わりで文子夫人、長女・曙美、弟・晋が合流するという形でした。

この男の子達を帰し、夫人が合流するまでに3日ほどあったのですが、その間にストリップを見に行った、というのです。

夕食後、吉川英治と小川薫、吉川英治の秘書の3人が、腹ごなしにホテル近辺を散歩しているとストリップ劇場にぶつかったので、≪社会見学≫として入場してみたのだとか。

入ってみると、客の中には田舎のおばさんたちがたくさんいて、キャッキャと大騒ぎしており、吉川英治もそれに混じって大笑いしていたそうです。

ところで、この時、吉川英治とばれないよう、マスクで顔を隠して入場したそうですが、ちょっとその姿を想像すると、笑ってしまいますね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月10日 (土)

伊豆半島旅行

「新・平家物語」の取材旅行の同行者は、連載していた『週刊朝日』の編集者と挿絵担当の杉本健吉であることがほとんどです。
しかし、この取材旅行(5)の伊豆半島の旅には、ある人物が同行しています。

志賀直哉です。

志賀直哉と吉川英治では、文学史的にはほとんど接点はなく、意外な感じがしてしまいます。
実は、この旅の前年、昭和26年の夏、両者が軽井沢に滞在していた時、朝日新聞社の編集者を介して志賀直哉が吉川英治所有の自動車を借りたことがきっかけとなって、交流が始まったようです。

さて、何度も書きますが、吉川英治は日記を書かない人でした。
それに対し、志賀直哉はこまめに日記をつけており、それは「志賀直哉日記」として公刊されています。
この旅のことも、そこに細かく記載されていますが、読んでみると、実におもしろい。

なかなかやって来ない吉川一行にイライラしたり、偶然やって来た浜本浩を「人間昔と余り変化なし」と評したり、泊まったホテルのことを「団体向きの宿にて感じ悪し」とけなしたり。

一方、吉川英治の方は、この旅については、紀行文を残していません。
そのため、「新・平家物語」連載後に、吉川英治と杉本健吉と朝日新聞社の関係者が集まって、この旅について語る座談会を行い、それが単行本「随筆新平家」に『伊豆の巻』として収録されています。
そこには、この「志賀直哉日記」からの引用も織り込まれており、志賀の目線からの描写と、吉川英治の見方の両方を味わえます。

ぜひご一読を。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 9日 (金)

京阪神取材旅行

再び、取材旅行のご紹介を。

取材旅行(4)の京阪神の旅ですが、取材に入る前に、名古屋で講演を行っています。
そのため、名古屋に一泊しているのですが、そこで泥棒にあっています。

先日書いたように、会津から越後をまわった旅でも泥棒にあっているのですが、この時被害にあったのは、同行の編集者たちでした。別の部屋に宿泊した吉川英治は被害にあわずにすみました。
この名古屋では、逆に、吉川英治だけが被害にあっています。

ところが、「新・平家今昔紀行」に『新潟“白浪抄”』として、面白おかしく事の顛末を書いた吉川英治が、この一件については、「新・平家今昔紀行」の『名古屋から車窓の近江路』の中で

ぼくのぼんやりから、些細な過失があった

と書いているだけです。
ちょっとズルイですね。

しかし、この話は、後に吉川英治全集の月報の中で、両方の旅に同行した編集者の春海鎮男によって明かされています。

春海鎮男は、新潟で泥棒の被害にあった張本人。
春海の文章によると、吉川英治は春海に対して、

これで五分五分だよ。キミ

と言ったとか。

この≪秘話≫をばらした春海からすると、「これでほんとの五分五分ですね、先生」という感じかもしれませんね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 8日 (木)

お礼

昨日の英治忌は、無事終了いたしました。

準備のため出勤した朝七時頃には、激しい雨が降っていて、どうなることかと心配しましたが、その後、雨足は弱くなり、午後にはすっかり止みました。
おかげで予定していた行事はすべて行うことが出来ました。

ただ、天候は回復したものの、やはり朝の天気が悪いと出不精になるものです。
例年に比べて、ご来場下さった方の数が少なかったのが、とても残念です。

そんな状況の中、ご来館下さった皆様には、本当に感謝いたしております。

また、この場を借りて、お茶会の裏千家淡交会桑都青年部の皆様、奉納演武の円明流判官派の諸田森二様にお礼申上げます。
諸事お手伝い下さった講談社および博報堂の皆様、ありがとうございました。

来年もよろしくお願いいたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 7日 (水)

本日は英治忌

昨日お知らせしたように、本日は英治忌です。

しかし、困ったことに、台風が。

ただ、幸いと言っては、台風の進路上の方に対して申し訳ないのですが、あまりこちらには近付かないようなので、少し安心しています。

天候はいまひとつですが、通常通り開館し、英治忌を開催いたします。

ご興味のある方は、ぜひお出でください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 6日 (火)

英治忌

明日9月7日は、吉川英治の命日です。

毎年この日には、「英治忌」という催しを行っております。

普段は非公開の母屋にお上がりいただいたり、庭で冷酒・冷茶を振舞わせていただいております。
吉川英治の遺族も顔を揃えます。

具体的には、以下のようなことを予定しております。

特別展
「新・平家物語」紀行 展
記念館展示室・特別展示室(既に開催中)

お茶会
裏千家淡交会青年部
草思堂母屋
時間=10:30/11:30/13:30/14:30
合間の時間にもお茶はお出ししています。
どなたでも気楽にご参加いただけます。
また、紅梅苑がこの英治忌のためだけに作るお菓子「菊一花」をここでお出しします。

武蔵円明流 奉納演武
草思堂庭園
時間=13:10/14:10
雨天の場合中止の可能性があります。

野外写真展1
「新・平家物語」をめぐって

草思堂庭園

野外写真展2
吉野村の吉川英治

入口道路

この他、来館者の方にはお土産として紅梅饅頭(2個入り)を差し上げています。

ぜひご来場下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 5日 (月)

一擒一従

特別展にからんだ話題から少し離れます。

電話でこんなご質問をいただきました。

『新書太閤記』に「一擒一従(いっきんいっしょう)」という言葉が出てくるが、どういう意味か。

現在も刊行されている吉川英治歴史時代文庫版の『新書太閤記(三)』の99頁から始まる章の小見出しが「一擒一従」となっています。
なるほど、あまり見ない言葉です。
とりあえず手近な辞書を見てみましたが、この言葉そのものは見つかりません。

しかし、「擒従」という言葉なら見つかりました。
「とりこにすることと、放つこと」とあります。

この章は、洲股築城に成功した木下藤吉郎が、美濃攻略のため、独断で策を弄して美濃方の大野治郎左衛門を味方に引き込むが、そのことで信長の不興を買い、大野治郎左衛門を斬るように命じられるが、わざと逃がし、その代わり美濃の三人の名将を織田方に寝返るように工作させる、という話です。

藤吉郎からすると大野治郎左衛門を「一度捕えて、一旦逃がして」いることになります。

これすなわち「一擒一従」ということでしょう。

なるほど、勉強になりました。
って、辞書をひいただけですけどね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 4日 (日)

木曽から北陸

取材旅行(3)木曽から北陸の旅行は、吉川英治による取材旅行の紀行文「新・平家今昔紀行」には、なぜか含まれていません。
現在「新平家落穂集」としてまとめられている文章の中に、わずかに言及があるだけです。

これも、同行の編集者の作成した資料によって、どうにかその旅の様子を確認できます。
天竜峡から山を越えて木曽谷へ、松本を経由し、また山を越えて高山へ、そこから白川郷へ行き、山を越えて金沢方面に出る、という旅だったようです。

四日目に山国出でて赤とんぼ

吉川英治がこの旅で詠んだ句です。

「新平家落穂集」の中で、この旅に触れた部分に、≪ダムと平家村≫というフレーズが出てきます。
取材旅行で見聞した平家村と言われる所が、「どこも電源開発の大工事」によって揺れている、そう書いています。

源氏に追われて山深くに逃れた平家が、今度はダム建設によって山から追い出される。

その悲哀に吉川英治がどんな感慨を持ったのか。
「新平家落穂集」には、

祇園精舎の鐘の声は、次々と完成してゆく電源地から新しい光波となって、また都会栄花のステージへ降りそそいで来よう。無常の作用はまた無死の作用といえる。

と書かれていますが、この一言だけでは、つかみきれません。

まとまった紀行文を残して欲しかったと、つくづく残念に思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 3日 (土)

会津から越後

取材旅行(2)会津から越後の旅では、新潟の宿で泥棒の被害にあったことが知られています。
これは「新・平家今昔紀行」の『新潟“白浪抄”』にも書かれています。


白浪の足あと凄し朝の月

ぬす人もいづこに秋を深むらん

借着して旅籠立ちけり秋の風

いずれも、この時の詠で、『新潟“白浪抄”』でも紹介されています。
ここでは紹介されていないものに

梁上の君子梁下の踊かな

という句もあります。
ちなみに、「梁上の君子」とは泥棒のことです。

さて、吉川英治の紀行文はこの泥棒のくだりで終わっています。
しかしそれは、昭和26年10月10日~15日までの旅のうちの13日の朝までの分でしかありません。

13日の日中から15日にかけてのことは、書かれていません。
幸い、この旅については、同行した編集者が記録した日誌が残っていて、それが館蔵資料となっています。
それによって、その後、彌彦神社・順徳院天皇御駐蹕遺蹟・良寛墓・良寛和尚塩入歌碑・池大納言の墓などを訪問したことがわかります。

それにしても、色々な所に行っているのに、どうして紀行文を残さなかったのでしょう。
紙幅の制約などがあったのでしょうが、もったいないというか、残念な話です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 2日 (金)

宮島

取材旅行(1)の最後の宿泊地は広島の宮島です。
そこの旅館岩惣に宿泊しています。

展示では触れていませんが、「随筆 新平家」の中の「新・平家今昔紀行」の『宮島の巻』でちょっと面白い告白をしています。

実は吉川英治は、この岩惣には、昭和13年1月にも宿泊しています。
そのことを、女中頭のお徳さんが記憶していた、という話を書いた後に、こう続けます。

これは、ぼくには、旧悪では絶対にないが、たいへん、まのわるい紅葉谷なのである。(略)じつは、この離れに滞留一週間ほどの間に、長男のHの生まれる素因が生じたわけだった。

つまり、この時の旅行には、夫人を伴っていたのですが、そこで……という話です。
吉川英治は、小説の中ではともかく、随筆ではそれほど色っぽい話は書かない人ですが、これは珍しい。

ちなみに≪長男H≫とは、現在吉川英治記念館館長である吉川英明のこと。昭和13年10月生まれですから、確かに、大体そのあたりのような感じですね。

なお、この昭和13年1月の滞在時に持っていた画帖が、資料として当館に保管されています。
そして、岩惣宿泊中に描いた≪蜜柑の図≫を、現在、一筆箋とクリアファイルの図案に取り入れ、ミュージアムショップで販売しています。

上の話を頭において見直すと、なんだかちょっと蜜柑が艶っぽく見えてくるのは、気のせいでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 1日 (木)

稗搗節

取材旅行(1)に関して展示している軸の1つには、こんなことが書かれています。

庭の山椒の木
鳴る鈴かけて
鈴の鳴るときゃ
出ておじゃれ

妙なフレーズだと思われるでしょうが、これは、宮崎県の椎葉村に伝わる稗搗節の冒頭の一節です。

壇ノ浦で敗れた平家の一部は九州の山奥に逃げ込みました。
源氏はそこへ追討軍を送りこみます。
「扇の的」で有名な那須与一の一族である那須の大八は、その追討軍の一隊の大将として参加するが、椎葉村まで来たところで、そこに隠れ住む平家の姫と恋に落ちてしまう。

その悲恋の物語を歌ったものが稗搗節です。

この昭和25年12月の取材旅行の際、別府の宿での宴席で吉川英治は初めて稗搗節を耳にします。
そして、その謂れを知ることになりました。

それから6年余り後、吉川英治は、この那須の大八の悲恋物語を、終幕直前の「新・平家物語」に登場させます。
それは物語の最後の重要なエピソードとなっています。

宴席で芸妓が唄った民謡が、平和への祈りを込めた小説の一挿話へと姿を変えたのです。

ちなみに、この取材旅行では、由布院までしか行っておらず、椎葉村には足を運んでいません。
その後、吉川英治は、椎葉村訪問を切望し、何度か計画にも上りながら、ついに行くことが出来ませんでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »