« 2005年9月 | トップページ | 2005年11月 »

2005年10月31日 (月)

開館時間

明日11月1日から開館時間が冬時間になります。

11月1日~2月28日の間、10時~16時30分となります。
入場は16時までです。

よろしくお願いいたします。

| | コメント (0)

2005年10月30日 (日)

文学館への旅

毎日新聞日曜版の「文学館への旅」というコーナーに、吉川英治記念館が取り上げられます。
本日から数回にわたって掲載されますので、ご覧下さい。

本日掲載分には、庭の手入れをしてくれている地元の男性の写真が大きく掲載されています。

取材に対応した私の写真は載る予定なし。
ホッとしたような、残念なような。

| | コメント (0)

2005年10月29日 (土)

shiroshikibu

どうも写真がいまひとつですが、これはシロシキブです。

紫の実をつけるムラサキシキブに対して、白い実をつけるのでこの名になっているわけですが、いささか無理やりな感じがしますね。
紫色だから紫式部というのも、安直ですが。

少し毒々しい感じもするムラサキシキブより、シロシキブの方が上品な感じがして、私は好きです。

派手な紫の方が平安貴族にふさわしいのか、上品な白の方がふさわしいのか。
どちらでしょうね。

| | コメント (0)

2005年10月28日 (金)

岩田専太郎展

東京文京区の弥生美術館の松本品子学芸員がご来館になりました。
来年1月3日~3月28日に開かれる「岩田専太郎展」へ当館からお貸しする資料の集荷のためです。

作家デビュー間もない吉川英治を一躍大人気作家に押し上げた「鳴門秘帖」。
大阪毎日新聞連載時の挿絵を担当したのが岩田専太郎でした。

今回お貸しするのは、その大阪毎日新聞の切抜きです。

会期はまだ先ですので、直前に改めて告知しますが、まずはお知らせまで。

| | コメント (0)

2005年10月27日 (木)

将棋

吉川英治の将棋の“腕前”は文壇ではよく知られていたようで、菊池寛からは「下手将棋」呼ばわりされたらしく、それに反論して『下手将棋の弁』なる随筆も書いています。

いわく、強いばかりが棋客ではない、盤の音や駒の感触、棋面に出てくる人の性格を見るのが面白いのだ……

また、下手将棋の強みには、相手が広い。下は二十三級どころから八段まで誰とでも打てる。(略)そこへゆくと、初段どころや二段という菊池あたりが上手(うわて)とさしても、下手(したて)とさしても、いちばん面白くない将棋ではないかと思う。
(「草思堂随筆」所収『下手将棋の弁』)

しかし、どう読んでも負け惜しみ以上のものではないですよね。

後年、吉川英治は棋士の升田幸三と親交を持ちますが、その升田が英治の長男・英明にこう言ったそうです。

あんたのお父さんのは、ええ将棋じゃった。勝負にこだわらん将棋じゃった。

いや、物は言いようですね。

| | コメント (0)

2005年10月26日 (水)

直木三十五

昨日、青梅市内で「直木三十五伝」(文藝春秋 2005年6月30日)の著者・植村鞆音さんの講演会があり、出席してきました。
植村さんは直木三十五(本名は植村宗一)の甥にあたる方です。

吉川英治と直木三十五は親交はありましたが、特別に親しかったというわけでもありません。
菊池寛を間にはさんでの交友といった感じだったのではないでしょうか。
そんなわけで、講演の中には吉川英治の話などは出てきませんでしたが、上記の著書の中には直木三十五が吉川英治について書いた文章も引用されています。

その中のひとつが『文壇棋術行脚』。
これは、直木三十五が作家連中のもとに押しかけて、強引に囲碁あるいは将棋で対戦するというルポ。
広津和郎から始まって当時の名のある作家連中を次々と襲っていくのですが、テンポの良い文章で、誰でも彼でも忌憚なく切り捨てていくので、非常に面白い。

吉川英治もその犠牲になっているのですが、将棋を三番指して直木の三勝。

「負けたら君、吉川は徹夜してゐた夜でと書いてくれ」などという言い訳まで暴露され、さらに、英治が直木に囲碁を教えろと言った言葉を捉えて、「将棋で一枚ちがふ上に、僕を碁の師匠にする人もあるから――いや文壇も広い、下には下――」とまで酷評されています。

吉川英治の苦笑が目に浮かぶようです。

いや、私は吉川英治の死後に産まれていますから、吉川英治が苦笑した顔というものを見たことはないのですが。

| | コメント (0)

2005年10月24日 (月)

草思堂菊花展

明日10月25日から11月13日まで、草思堂庭園内で菊花展を開催します。

これは地元青梅の菊の会、青梅秋香会のご協力で開催するものです。

他の菊花展と違い、こちらでは、来館者の方の投票によって菊の順位を決め、草思堂賞・吉川英治記念館館長賞・紅梅苑賞を贈呈します。
それぞれの賞に選ばれた花に投票した方の中から1名の方(計3名)に記念品を差し上げます。

投票期間は11月6日までです。

ということで、本日は休日出勤して、菊の花を並べています。

菊は、3部門に分れています。

盆養の部、だるま・福助の部、懸崖・盆栽の部、です。
今回の出品は、それぞれ38点、11点、8点で、合計57点が飾られています。

ぜひご来館のうえ、ご投票下さい。

| | コメント (0)

2005年10月23日 (日)

愛馬

吉川英治は、単に競馬ファンであっただけでなく、馬主でもありました。

友人であり、既に馬主となっていた菊池寛に勧められてのことですが、馬主歴は昭和14年からですから、筋金入りです。

吉川英治の持ち馬が活躍したのは、昭和30年前後の時期。
代表的な馬はチェリオ、ケゴン、エンメイあたりでしょうか。

チェリオはスプリングステークス(昭和28年)で1着になるなど通算13勝を挙げ、オークス(昭和28年 2着)、日本ダービー(昭和28年 4着)、天皇賞(昭和29年 4着)にも出走しています。

ケゴンは昭和30年の皐月賞馬。その勢いで同年の日本ダービーに一番人気で出走するものの、結果は3着でした。

エンメイは悲運の馬で、昭和31年、前哨レースに1着となって、大いに期待されて出走した日本ダービーで、ダービー史上に残る転倒事故を起こし、脚を骨折したために薬殺されてしまいました。

しかし、この時、『週刊朝日』の愛読者大会出席のため関西にいた吉川英治は競馬場にはおらず、東京に戻ったのは、エンメイの葬儀の翌日でした。

この事故のショックで、吉川英治は競馬から遠ざかることになります。

| | コメント (0)

2005年10月22日 (土)

馬券哲学

ギャンブルと言えば、吉川英治は競馬ファンでした。

吉川英治は、ギャンブルとしての競馬の弊害を唱える意見に対し、害は害として認めたうえで、こう述べています。

あの競馬場の熱鬧は、そのままが、人生の一縮図だと、観るのである。あの渦の中で、自己の理性を失う者は、実際の社会面でも、いつか、その弱点を出す者にちがいない。(略)ただ、競馬場は、それを一日の短時間に示し、世間における処世では、それが長い間になされるという――時間のちがいだけしかない。
(『競馬』)

無理やりな弁護にも聞こえますが、よく考えると、随分手厳しいことを言っていますね。

そんな吉川英治の馬券哲学が、同じ随筆に書かれています。

(略)朝、右のズボンのかくしに、十レース分、二百円を入れてゆき、そのうち一回でも、取った配当は、左のかくしに入れて帰った。その気もちは、どんな遊戯にも、遊興代はいるものであるから、あらかじめ、遊興費の前払いとおもう額を右のポケットに入れて出かけるのである。左のポケットに残って帰る分は、たとえいくらでも、儲かったと思って帰ることなのである。

つまり、その日使うと決めた分は遊興費なので、無くなって当たり前。もし1レースでも当てて配当があれば、その分は儲け。持参した金額との差引での損得は考えない。ということです。

これならば、損をすることはあり得ません。

ギャンブルに限らず、こういう心持ちでいられれば、人生の不幸せは大幅に縮小するはず。
馬券哲学を越えた、人生哲学と言えるでしょう。

| | コメント (0)

2005年10月21日 (金)

命名

吉川英治は二度結婚し、最初の妻との間には養子が一人、二度目の妻との間には実子が四人います。
歳の順に並べると、園子・英明・英穂・曙美・香屋子となります。

面白いと言っては失礼ですが、名付け親が順に、吉川英治本人・他人・本人・他人・本人と、一人おきになっています。
つまり、≪英明≫と≪曙美≫は人から名付けてもらった名前です。
≪英明≫が菊池寛の命名であることは昨日書きましたが、一方の≪曙美≫は横山大観の命名によるものです。

なんだかすごいですね。

ところで、子の命名について、吉川英治が随筆で面白いことを書いています。

幼少の頃、ぼくが覚えているぼくの父の選名法は、そうして考えた名を、お七夜の朝、幾つも紙に書いて、コヨリにし、神だなに上げて、いちばん小さい子供にその中から一本引かせる方法だった。つまり籤引きである。
「高イ高イ」の格好で、父親に抱き上げられた小さい手から、わが家の何チャンだの何子がこの世に出来たのだった。考えてみると、名だけでなく、以後何十年への生命のスタートも、どうも多分に、籤引きであったように思われる。
(『世の“名ヅケ子”』)

夫婦や親族の間でどんな名前にするか揉めた時には、良い解決方法かもしれません。

もしかするとギャンブル好きな人間に育つかもしれませんが。

| | コメント (0)

2005年10月20日 (木)

名付親

訃報が続いたので、今度は人が生まれた話を。

吉川英治の長男で、現在吉川英治記念館館長の吉川英明氏の誕生日が先々週にありました。

吉川英治が「随筆新平家」に書いた、その胚胎のいきさつについての逸話を、9月2日付の記事で書きましたが、その文章には、こんな続きがあります。

だから命名は、厳島にちなんで、伊都岐とつけようなどと思ってもいたのだが、ちょうど上海へ旅行中の留守に産まれたため、帰路の汽船の中で、同行の菊池寛氏が、ぼくが名づけるよと、Hにしてしまったのである。
(「新・平家今昔紀行」『宮島の巻』)

「上海へ旅行中」とあるのは、実はいわゆる≪ペンの部隊≫で、帝国海軍の揚子江遡江作戦に同行したことを指しています。

この時、帰路に乗船した客船・大洋丸の船上から文子夫人へ送ったハガキ(昭和13年10月11日付)が残されています。

帰宅までに名をと考へてゐるがなかなかつかない そこで舩にのるとすぐ 菊池氏に名づけ親になってもらって 英明とつけてもらった ひであきと読むのです 僕も少年時代は ひでちゃんだったから よかろうじゃないか ゆふべ さう決まって 色紙に書いてもらいながら 小島、浜本、北村君などと キャビンで祝福されながら おそくまで語った(後略)

「随筆新平家」での記述では、なんだか菊池寛が勝手に名づけてしまったかのようですが、ハガキの文面では、ちょっと話のニュアンスが違うようですね。

それにしても、何気ない文章ながら、このハガキからは、長男誕生の喜びを噛みしめている吉川英治の感激の気持がよく伝わってきます。

なお、小島、浜本、北村とは、ペンの部隊に同じ班で参加した作家の小島政二郎、浜本浩、北村小松のことです。

ちなみに、菊池寛は、自身の長男は英樹と名づけています。

同じ「英」の字を使っていますから、≪名づけ兄弟≫といったところでしょうか。

| | コメント (0)

2005年10月19日 (水)

訃報、もうひとつ

女優の角梨枝子さんが、今月12日に亡くなっていたという記事がありました。

ちょっと驚きました。

というのも、今月2日まで開催していた特別展「新・平家物語」紀行展に、その名前が登場していたからです。

昭和25年12月の「新・平家物語」取材旅行の際に吉川英治が書き残した日誌の12月15日の部分にこう書かれています。

那智は、この旅中第一の美しき印象なりし。神官若き人 角某氏 迎へ、説明してくれる この人 東宝のニューフヱス 角何子といふ女優の兄なる人なりと。加治氏よく知る。 兄は神瀧の神主 妹は東宝の女優、おもしろき世の人々のありかたかな。

吉川英治が名を忘れて「角何子」と書いているのが、角梨枝子さんのことです。

これは、取材旅行の途中で、和歌山県の那智の滝を訪ねた時のことを書いたもの。
滝を案内してくれた那智神社の神官が、角梨枝子さんのお兄さんだということを知っての感慨です。

この部分を含む文章を、パネルにして展示(展示では「何子」はおかしいので、ちゃんと「梨枝子」に直しましたが)していたのですが、よもや展示を終えた直後に、訃報という形でその名前を見ることになるとは思いませんでした。

ご冥福をお祈りいたします。

| | コメント (0)

2005年10月18日 (火)

訃報

昨日、中国の作家・巴金氏が亡くなられました。

吉川英治と巴金は、一度会談をもったことがあります。

昭和36年3月28日~30日、アジア・アフリカ作家会議東京大会が開かれました。
中国代表団は3月24日に来日し、4月22日まで日本に滞在しました。巴金は、この代表団の団長でした。

開幕前日の3月27日。この日は椿山荘でアジア・アフリカ作家会議東京大会歓迎パーティーが開かれていますが、その前に、吉川英治の自宅を巴金が訪ねています。
当時の吉川英治の秘書が残した手帳には、こう書かれています。

10時中国作家協会主席巴金氏と林林氏通訳同道来訪、個人的な友好訪問で約一時間程日中文壇のことなど話し込まれて機嫌良く帰られる。

事前の発表では、吉川英治は日本代表団の団員26名の中に含まれていましたが、実際には本会議も歓迎パーティも欠席しています。
事情はわかりませんが、それを知ってわざわざ訪ねてきたものでしょうか。

私は、10年ほど前に、機会を得て、この時に巴金とともに吉川邸を訪れた林林氏にお目にかかったことがあります。
あまりじっくりとお話を聞くことは出来なかったのですが、この時に吉川英治から「大衆即大智識」という言葉を聞き、感銘を受けたということをお話し下さいました。

巴金氏のご冥福をお祈りいたします。

| | コメント (0)

2005年10月17日 (月)

明治の三斎藤

これは、何かご存知の方がいらっしゃったら、お教えを乞いたいと思い書くのですが、吉川英治は、斎藤恒太郎について、こう書いています。

母の義兄の斎藤恒太郎は、語学者としては、明治の三斎藤といわれた一人だそうで、学習院教授をしていた傍ら、宮家の教育掛りも勤めていた関係上、北白川宮の邸内に居住していた。
(「忘れ残りの記」『春の豆汽車』)

この記述について、以前こんなご質問をいただいたことがあります。

≪明治の三斎藤≫とは誰のことですか?

もちろん、その一人だというのですから、斎藤恒太郎がそこに含まれることは間違いないでしょうが、あとの二人は誰なのか、というわけです。

明治時代の語学者で、斎藤姓と言えば、正則学園の創立者である斎藤秀三郎という人物がいます。
この人物については、あるところに「明治英学の三巨人」として井上十吉、神田乃武と共にその名が挙げられているくらいですから、間違いなく≪三斎藤≫の一人でしょう。

また、明治18年に「袖珍英和辞書」を刊行した斎藤重治という人もいるようです。

これで≪三斎藤≫でしょうか?

ただ、吉川英治は、「英学者」とは書かず、「語学者」と書いています。
ドイツ語や、フランス語の可能性だってあります。

いずれにせよ、≪明治の三斎藤≫という言い方は、吉川英治の書いたもの以外には、確認できないようなのです。

吉川英治の身内びいきによる勘違いなのか、それとも当時本当にそう言われていたのか。

どなたかご教示いただけないでしょうか?

| | コメント (0)

2005年10月16日 (日)

攻玉社

吉川英治の場合、両親ともに武士の家系ではあるのですが、母方の方が家格がずっと上で、そのせいか、母方の親戚には、昨日の堀柳女を含め社会的に認められた人物が散見されます。

例えば、近藤真琴。
東京にある学校法人・攻玉社学園の創立者です。
近藤真琴は鳥羽藩出身(と言っても生まれは江戸藩邸)で、数学・土木・海事などの教育に大きな功績を残した人物です。
面白い業績としては、日本で最初のSF小説(ジオス・コリデス著「新未来記」)の翻訳を手がけています。
その近藤の二度目の妻・真樹子が、吉川英治の曾祖母の姉にあたるのです。

その縁から、吉川英治の母・いくは、結婚前、近藤家に行儀見習いに入り、攻玉社の手伝いなどをしていたのだそうです。

また、近藤真琴の門弟で、英学者として学習院の教授にもなった斎藤恒太郎の元にはいくの姉・豊子が嫁いでいます。
斎藤は宮家の教育係りもしていたとかで、「忘れ残りの記」の中に、母親とともに、当時北白川宮邸内に住んでいた斎藤の元を訪ね、北白川宮邸を見学したというエピソードが登場します。

吉川英治は皇室への尊崇浅からぬものがありますが、こうした縁もあったのですね。

| | コメント (0)

2005年10月15日 (土)

人形

今日、10月15日は「人形の日」なのだそうです。

人形といえば、昭和30年に、重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定された人形作家に、堀柳女という人がいます。

この堀柳女と吉川英治が親戚だということを、ご存知でしょうか?

と言っても、2人の間は8親等も離れているのですが。

詳しく言うと、吉川英治の母方の曾祖母の姉の曾孫が堀柳女なのです。

親戚と言っても、これだけ遠ければ、まあ、他人同然なわけですが、実際、吉川英治がこの事実を知るのは、昭和30~31年に『文藝春秋』に連載した自叙伝「忘れ残りの記」の執筆中だったようです。
「忘れ残りの記」の中(「春の豆汽車」の章)に、自叙伝を書いたことで、面識のなかった親戚から連絡があり、自分の家系について色々教わったということを書いていますが、そんな事実の中のひとつが堀柳女と親戚関係にあるということだったのです。

曾祖母の曾孫なので、世代的には同世代で、吉川英治の明治25年生まれに対して、堀柳女は明治30年生まれと、ほんの5歳違いです。
それでいて還暦を過ぎるまで、そのことは知らずにいたわけです。

遠い親戚だからということだけでなく、そこには、家運の没落のため、親戚筋とは疎遠に過ごさざるを得なかった青少年期が影を落としている部分もあるのではないかと、思ったりもします。

| | コメント (0)

2005年10月14日 (金)

逆境

自費出版と思われる本の記述に難癖をつけるのも益のないことのようですが、一旦インターネット上にその記述が載ってしまえば、コピー・アンド・ペーストでいくらでも増殖していきますから、侮れません。
それだけに、出典を明確にしておきたいのです。

改めて前川原良「一燈照隅」の記述を見てみます。

 少年時代から青春時代にかけて、自分ほど逆境、つまり、不幸な巡り合わせの中を泳いできた者はいないかも知れない。けれど、一つの逆境の波を乗り越えて、それを振り返ってみた時が、人生の中で一番愉快な時だった。
 その時こそ、本当に人間として生き甲斐を感じたね。そして、次の逆境の波が押し寄せた時、「よし今度も立派に乗り越えてみせるぞ。朝の来ない夜はないのだから」という気力が自然にわいてきたものだ。

さて、吉川英治の「新書太閤記」中に『婿の君』という章があります。
木下藤吉郎が寧子との婚礼に臨む場面ですが、吉川英治は、ここで藤吉郎にこんな述懐をさせています。

「俺は倖せ者だ」
沁々、今も思う。幼い頃からどんな逆境に泣かされた日でも、自分は不倖せだという考えは持った例のない藤吉郎であるが、きょうはわけても深くそれを思った。よく世間の不遇な人々の中に聞くのは、なぜ人間に生まれたろうとか、こんな厭わしい世はないとか、自分ほど不倖せな生まれつきはないとか――何でも人間は皆、自分ほど不運で不幸な者はないと思っているものらしいが、藤吉郎は、まだかつて、世の中を、また人生を、そう観て嘆いたおぼえがない。
逆境の日も楽しかった。それを乗りこえて、逆境を後に見返した時はなお愉快だった。

この文中の「藤吉郎」を「吉川英治」に置換えれば、そのまま吉川英治の人生観となります。

上下の文章はよく似ています。
その点からすると、前者も吉川英治の言葉であるとしてもいいのかもしれません。
しかし、

およそ「自分ほど苦労した者はありません」などと自ら云える人の苦労と称するものなどは、十中の十までが、ほんとの苦労であったためしはない。とるに足らない人生途上の何かにすぎないのである。
(随筆「焚き反古の記」)

と書く吉川英治が、「自分ほど逆境、つまり、不幸な巡り合わせの中を泳いできた者はいないかも知れない」などと言うものだろうか?と、気になって仕方がないのです。

今後も出典を探し続けますが、とりあえず、今は疑念だけを述べて、一旦措くことにします。

| | コメント (0)

2005年10月13日 (木)

出典は?

国会図書館に行って調べたことがもうひとつ。
「朝の来ない夜はない」の件です。

ネット上において、

よし今度も立派に乗り越えてみせるぞ。朝の来ない夜はないのだから

という語句で紹介されている例が多数あるが、出典は何なのだろう?という疑問についてです。

この語句を最も詳しく取り上げているサイト(あえて紹介はしません)では、前川原良著「一燈照隅」という本を参考文献に挙げています。
その本を探してみました。
その中に「逆境を生きぬいた人間は“柱”になれる」という一章があり、そこに以下のような記述がありました。
長くなりますが、引用してみます。

------------------------------

 『宮本武蔵』や『新平家物語』で有名な作家である吉川英治の「逆境に耐える」という話がある。彼は、昭和三十七年八月、七十歳で亡くなる前に、病気見舞に来た人にこう話したという。

 少年時代から青春時代にかけて、自分ほど逆境、つまり、不幸な巡り合わせの中を泳いできた者はいないかも知れない。けれど、一つの逆境の波を乗り越えて、それを振り返ってみた時が、人生の中で一番愉快な時だった。
 その時こそ、本当に人間として生き甲斐を感じたね。そして、次の逆境の波が押し寄せた時、「よし今度も立派に乗り越えてみせるぞ。朝の来ない夜はないのだから」という気力が自然にわいてきたものだ。
 私は、中学三年の時、父と一緒に山に登ったことがある。
 途中に最近伐採したらしい大木の、新しい切り株が地面に並んでいた。父は、その切り株を指して、「年輪のしんは、どの切り株を見ても、同じように北側に寄っているのはなぜか、知っているか」と聞いた。
 私は、「知らない」というと、父は「南風と太陽をいっぱいに受けて育つ南側は肉づきもよく、豊かに成長する。つまり、それだけ年輪と年輪の目の幅が広い。だが、北風を受け、日の当たらない中で生きる北側は、寒さから自分を守るために戦う。だから、年輪の幅が小さく、しんがその方に寄っていくんだ」と話してくれた。
 私がうなずくと、父はさらにこう言った。
 「だがな、伐採され、材木として利用される時になると、太陽をいっぱい受けた南側は「板」になる。が、北風を受けて育った“しん”の寄った部分は角材として、つまり、「柱」になるんだ。柱というものは、家を建てる時、一番、力のかかる所に使うものだ。同じように逆境に生きぬいた人間は、「板」にはならないが、「柱」になれるということなのだ。」と、言うのでした。
 父は諭すように言った。「人間苦労は無駄じゃない。逆境と戦い、苦労に打ち勝ってこそ、本当に役に立つ人間になれるんだ。だから、お前のいまの苦労も、決して無駄じゃないんだ。分かるかな……」と。

 吉川英治は、「私は、あの時の父のことばほど、身にしみて考えさせられたことはありませんでした」と、のべたということである。

------------------------------

件のサイトでは、この文章に少し手を加えていますが、ほぼそのまま引用しています。

さて、吉川英治が亡くなったのを八月(もちろん正しくは九月)にしているのは、まあ、誤植ということにしておきましょう。

問題なのは、「私は、中学三年の時、父と一緒に山に登ったことがある」という一文です。

最終学歴が≪小学校中退≫である吉川英治が、一体どこの中学校に行っていたというのでしょう?
吉川英治が中学生(もちろん旧制のですが)に相当する年齢の時は、もう既に働いていましたし、父親は裁判に負け投獄され、出所した後に病を得ています。ですから、父親と山に登るようなゆとりは全くありませんでした。
「小学三年」の誤植でしょうか。
いや、その頃は父親の事業が軌道に乗っていて、むしろ家庭は裕福でした。苦労どころではありません。その逆です。

そう考えると、少なくとも、「私は、中学三年の時、父と一緒に山に登ったことがある」以下の文章は、吉川英治の言葉ではありえません。

とは言え、その罪は前川原氏のものではないのでしょう。
文章が伝聞調になっていますから、さらに出典があるはずです。
しかし、それを明記しておられません。

一日、国会図書館で、『新嘉坡日報』について調べるかたわら、出典の可能性のある本を次から次へと見てみましたが、かすりもしません。

まいりました。

| | コメント (0)

2005年10月12日 (水)

新嘉坡日報・続報

国会図書館で『新嘉坡日報』について調べてきました。
色々あたった結果、かろうじて以下のことがわかりました。

『新嘉坡日報』は、昭和4年、当時シンガポール唯一の邦字紙であった『南洋日日新聞』の社員だった長尾正平によって創刊されたが、昭和16年の日本による対米英開戦によって廃刊に追い込まれ、また在留日本人は強制退去させられた。その後、昭和17年のシンガポール陥落後、新嘉坡日報社の建物には日本軍の宣伝班が入り、軍向けの新聞『建設戦』を発行することになる。
詩人・金子光晴は、妻の森三千代と昭和4年から7年にかけてアジア・ヨーロッパを旅行し、その際、シンガポールに長期滞在しているが、その間金子夫妻の面倒を見たのが、長尾正平夫妻であった。

これらは実を言うと、ネットで検索して事前におよそわかっていたことの細部がわかっただけで、新しいこと、とりわけ吉川英治との接点などは、判明しませんでした。
なぜ「菊一文字」が掲載されたのか、経緯を知る糸口は見つからないままです。

| | コメント (0)

2005年10月11日 (火)

kinugasa
ふと見たら、キヌガサタケ(衣笠茸)が出ていました。

キノコとは思えぬ優美な姿ですが、網の部分には虫を惹きつける成分があるそうで、確かにショウジョウバエのような虫がたかっていました。

中華料理の高級食材のひとつですが、これを取って帰っても自分で調理するのは難しそうなので、やめておきました。

| | コメント (0)

2005年10月10日 (月)

ゴルフ

今日は体育の日です。

それにちなんで、吉川英治とスポーツということを考えてみました。

自分でプレイするという面から見ると、吉川英治はスポーツとはあまり縁がありませんでした。
日本においては、スポーツは学校体育として普及した面が強く、そのため、小学校中退という学歴しか持たない吉川英治には、スポーツをする機会がなかったのでしょう。

そんな吉川英治が、晩年になってからハマったのがゴルフです。
健康のためにと、人から勧められて始めたものですが、たちまちその魅力に取りつかれたようです。
例えば、吉川家の自動車の運転手が残した運転記録を見ると、昭和35年の夏、軽井沢の別荘に滞在中、ほぼ毎日ゴルフコースに行っていたことがわかります。
すごい熱中ぶりです。

一緒にラウンドするのは、ゴルフ好きの作家仲間であったり、文子夫人であったり、時には息子たちともプレーしています。
思うに、ゴルフという競技自体の面白さもさることながら、ゴルフを通してのコミュニケーションも魅力だったのでしょう。

吉川英治は、自分には学校仲間というものがいない、と言って、学歴のある作家たちが、学校時代の思い出を語るのを羨ましそうにしていたと聞きます。
そんな吉川英治は、作家仲間などとのゴルフに、部活やサークル活動に通じるものを感じていたのではないか、という気もします。

| | コメント (0)

2005年10月 9日 (日)

舌洗

嗜好品で、≪たばこ≫とくれば、やはり次は≪酒≫の話でしょう。

吉川英治には、「舌を洗う」「酒に学ぶ」「酒つれづれ草」などという酒について書いた随筆があります。
また、酒についての句や詩歌には

酒の味二十五年でややわかり
さかづきよわが手にふるる汝れもまた
宿世の縁ぞあさからめやも
酒は心のふるさとか
この杯は君なるか
うたた童の酔いごこち

などというものがあります。
こうしてみると、いかにも酒好きな感じがします。

ところが、実際の吉川英治は、日本酒ならお銚子一本もあれば酩酊するほど、弱かったのだそうです。
しかし、それにも関わらず酒は好きで、酒豪で鳴らす人たちと朝まで飲み明かしても平気だったのだとか。
人の酔態を眺めながら、自身は、それこそお銚子一本の酒を朝までチビチビと舐めるようにして飲む、という感じだったそうです。

「酒は、量を飲むばかりが酒客ではない」と言い、そんな自分の酒の飲み方を、≪舌洗い≫と称していました。

確かに、そのくらいが酒を味わい、酒を楽しむ、良いところなのでしょうね。

量主体の私には、酒を飲み始めて20年経った今でも、酒の味も楽しみも、皆目見当がつきません。

| | コメント (0)

2005年10月 8日 (土)

たばこ

先日、吉川英治はヘビースモーカーだったと書きました。

吉川英治の喫煙は、16歳頃から始まったそうです。
吉川英治は小学校卒業目前に、家の没落から学校を退学して働きに出されるという少年時代を送っています。
その際に、年長の労働者から影響を受けたか、あるいは日々の苦しみを逃れるために遊び歩く中で不良仲間から教わったものか、おおむねそのあたりなのでしょう。

最盛期の喫煙量は紙巻たばこで80本ぐらいだったと言いますから、すごいものです。

昭和32年の随筆「押入れの中」には、あまりの本数に自分でも惧れ出して、たばこの量を減らすために≪きせる≫にしてみた、ということが書かれています。
きせるは面倒だし、人前ではちょっと恥ずかしくて取り出しにくいし、しかし、そのおかげでどうやら節煙がうまくいきそうだ、ということを書き、それに続けて、

――で、同病の人々へ報告したい。ひとつ、きせる党になってみたら如何でしょうか。ただし、恋人をお探し中の紳士などには、元よりこれは魔除け同様な役目をするので、とてもおすすめは出来かねるが。

などと暢気なことを書いています。

随筆の書かれたのは、ちょうど「新・平家物語」の連載を終え、作品を書いていなかった時期。
まもなく「私本太平記」の執筆が始まると、執筆時の習慣ということもあり、結局もとの通り紙巻たばこに戻ってしまったそうです。

エピソードとしては微笑ましい話ですが、結局肺がんによって命を落としたことを考えると、笑えない話でもあります。

| | コメント (0)

2005年10月 7日 (金)

秋の青梅・ぶらり都バスの旅

先日撮影が行われた「東京サイト」の放送日が決まりました。

10月10日~14日にかけて、上記のタイトルで青梅市内の博物館・美術館を中心とした観光名所を紹介するということです。
吉川英治記念館は10月12日に登場します。

テレビ朝日で、午後4時50分~54分の放送です。

吉川英治記念館だけでなく、青梅市内には面白い所がたくさんありますので、ぜひ1週間通してご覧になって下さい。

| | コメント (0)

2005年10月 6日 (木)

博物館調査

今年は国勢調査の年で、ちょうど今、皆さんのご家庭にも調査が行っていると思います。
博物館も同様に、今年は博物館調査が行われる年です。
偶然にも同じ年なので、国勢調査と足並みを合わせているのかと思いましたが、よく考えてみたら、国勢調査は5年ごと、博物館調査は3年ごとです。
管轄も、国勢調査は総務省、博物館調査は文部科学省で、別物です。

調査票が送付されてきて、職員数や資料点数、事業の実施状況や施設の状況などを記入して送り返すようになっています。

今回は、前回と用紙の形式が少し違っています。
前回は用紙の片面にしか欄がありませんでしたが、今回は裏にもあります。
調査項目が増えたのです。
増えたのは「指定管理者又は管理運営者」「職員に対する研修の実施の有無」「受動喫煙防止のための対策の方法」の3項目です。

「指定管理者又は管理運営者」というのは法に定められた制度の問題なので追加されるのは当然として、「受動喫煙防止のための対策の方法」が問われるというのが、いかにも時代を感じさせます。

もっとも、火災防止やヤニによる資料の汚染という問題があるので、煙草を吸ってもよい博物館など、本来あり得ないものですが。

ちなみに、当館では屋外の指定された場所でのみ、喫煙可能としています。
私は煙草は吸いませんし(職員でも吸う者はいません)、吸殻のゴミもバカにならないので、個人的には、敷地内を完全禁煙にしてしまいたいところです。
しかし、吉川英治がヘビースモーカーだったことを思えば、大目に見るのも供養のうちかな、と思ったりもします。

| | コメント (0)

2005年10月 5日 (水)

夜の来ない朝はない

杉本苑子さんは、本格的な作家デビュー前に、吉川英治に師事し、指導を受けていたことはよく知られています。
その杉本さんが、こんなことを書いています。

「朝の来ない夜はないと先生はおっしゃってますけど、夜の来ない朝もないですよ。私はどうしても、そのほうを考えてしまいます」
「しかしまた、夜はあけて朝になるよ」
ニコニコ否定されるが、しぶとい私は肚の中で、
(その朝は、でも、やっぱり夜になる)
と、つぶやいている。はてしがない。つまりは性格の相違であろう。
(『吉川英治全集月報』所載「夜と朝、朝と夜」より)

「朝の来ない夜はない」と言うのも、「夜の来ない朝はない」と考えるのも、どちらかが正しく、どちらかが間違っているというようなものではないでしょう。
大きな時の流れの中では、それはいずれにせよ、一局面に過ぎず、明けたままの朝もなければ、暮れたままの夜もないはずです。

吉川英治には、こんな言葉もあります。

たのしみあるところにたのしみ、たのしみなきところにもたのしむ

実際に、その人生の中で暗い夜を経験してきた吉川英治には、その暗さすらたのしむ折れない心がありました。
それが作品に投影されて、読者を勇気づけ、それゆえに長く支持されてきたのでしょう。

「朝の来ない夜はない」という言葉は、吉川英治自身の人生観であるとともに、読者に生きる希望を与えることこそが文学の使命であるとする文学観も象徴する言葉なのだろうと思います。

| | コメント (0)

2005年10月 4日 (火)

朝の来ない夜はない

ある新聞社から、この言葉がどの作品に出ているか教えて欲しいという電話がありました。

この『朝の来ない夜はない』という言葉は、吉川英治の座右銘とされるものの一つです。

これは、若い日、貧困に耐える生活を送っていた時期に、吉川英治が母親からよく言い聞かされてきた言葉だそうです。
したがって、ある作品を書く中で生み出した言葉というわけではなく、作家となる以前から吉川英治の心にあった言葉なのです。

問合わせてきた記者の方には、おおむねそんなことを答え、それで一応の用は足りたのですが、その記者の方がその際にこんなことをおっしゃいました。

ネットで検索してみると、「私本太平記」にこの言葉が出てくると紹介しているサイトがあるが、ネットのことなので確証が欲しくて、と。

電話だったので即答できませんでしたが、確認してみると、確かに「私本太平記」の中に、この言葉は出てきます。
作品の最終章『黒白問答』で、盲人たちが足利尊氏の法要を営みながら、戦乱の世相について問答を繰り広げる中に、登場します。

問合わせにはありませんでしたが、この言葉は「新・平家物語」にも出てきます。
こちらには、『朝の来ない夜はない』というそのまんまなタイトルの章があります。
源頼朝が挙兵するも、石橋山の合戦に敗れる場面で、この言葉も登場しています。

さて、記者の方の言葉が気になったので、ネットで検索してみると、この言葉が「私本太平記」に出てくるという話の他に、もう一つ、この言葉をこういう形で紹介しているサイトが多数見つかりました。

よし今度も立派に乗り越えてみせるぞ。朝の来ない夜はないのだから

多数と言っても、ことネットだけに、元は一つで、あとはコピーしたものでしょう。
最も詳しく記載されたサイト(それが元でしょうか)では、これは吉川英治が亡くなる直前に見舞い客に対して語った言葉だ、としています。
そのサイトには参考文献名が出ていますが、あいにく当館では所蔵していない本です。
その参考文献自体が、何かを参考にして書かれたものだろうと踏んで、心当りの本を片っ端から見ているのですが、そんな話がまったく見当たりません。

出所がわからないなんて、気持が悪い。
近いうちのその参考文献を探しに図書館に行ってみたいと思います。

| | コメント (1)

2005年10月 3日 (月)

展示替え

本日は定休日ですが、展示替えのため出勤しています。

昨日までの特別展「新・平家物語」紀行展の資料を撤収し、第八回吉川英治記念館写真コンテスト入賞作品展へと展示内容を変更しました。
金・銀・銅賞の7作品は吉川英治記念館のサイト内にも掲載していますが、入選の25作品も展示します。

明日から11月6日までです。
ぜひお運び下さい。

| | コメント (0)

2005年10月 2日 (日)

ominaesi
ということで、秋の七草のひとつ、オミナエシ(女郎花)です。

本日で特別展「新・平家物語」紀行展は終了です。
明後日からは第8回吉川英治記念館写真コンテスト入賞作品展となります。

| | コメント (0)

2005年10月 1日 (土)

萩すすき

いわゆる≪秋の七草≫とは、ハギ・ススキ・クズ・ナデシコ・オミナエシ・フジバカマ・キキョウを指します。
草思堂庭園では、このうちクズとナデシコ以外の5種を見ることが出来ます。

この≪秋の七草≫を詠んだ吉川英治の句にはどんなものがあっただろうと、ふと思い、調べてみたのですが、不思議なことに萩とすすきのものばかりで、他のものは出てきませんでした。

ちょっと列挙してみましょう。

右国上五合庵道花すすき

これは明日まで開催中の特別展「新・平家物語」紀行展でも取り上げた会津・越後取材旅行の際に新潟で詠んだもので、これを書いた軸を展示しています。
もちろん、良寛が一時住んだ所として知られる国上山の五合庵のことです。
ちなみに、この時は自動車の車窓から国上山を眺めただけで、五合庵には行っていません。

病むもよし病まば見るべし萩すすき

これは棋士の升田幸三に対して贈ったもの。
体調を崩して休養していた升田に対し、焦らず、心のゆとりを持つように促したもの。

菊池寛百歩ほど歩くすすきかな

昭和13年、ペンの部隊の一員として中国戦線を視察した際に、同行した菊池寛を詠んだもの。

居るうちはあなたまかせの萩の宿

吉川英治も、案外色っぽい句を作るのです。

湯河原や野分の後のこぼれ萩

これは以前にも紹介しましたが、こうして二句並べると、より艶っぽい感じですね。

雨しとどどの窓見ても萩すすき

それにしても、花としてはキキョウが好きだったと聞いていたのですが、どうして萩すすきばかりなのでしょう。
ただ、俳句とは言い難いものでならば、遊びで製作した楽焼にこんな言葉を書き残しています。

ききょうはみんな浅間を向いて咲いてゐる

| | コメント (6)

« 2005年9月 | トップページ | 2005年11月 »