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2005年10月13日 (木)

出典は?

国会図書館に行って調べたことがもうひとつ。
「朝の来ない夜はない」の件です。

ネット上において、

よし今度も立派に乗り越えてみせるぞ。朝の来ない夜はないのだから

という語句で紹介されている例が多数あるが、出典は何なのだろう?という疑問についてです。

この語句を最も詳しく取り上げているサイト(あえて紹介はしません)では、前川原良著「一燈照隅」という本を参考文献に挙げています。
その本を探してみました。
その中に「逆境を生きぬいた人間は“柱”になれる」という一章があり、そこに以下のような記述がありました。
長くなりますが、引用してみます。

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 『宮本武蔵』や『新平家物語』で有名な作家である吉川英治の「逆境に耐える」という話がある。彼は、昭和三十七年八月、七十歳で亡くなる前に、病気見舞に来た人にこう話したという。

 少年時代から青春時代にかけて、自分ほど逆境、つまり、不幸な巡り合わせの中を泳いできた者はいないかも知れない。けれど、一つの逆境の波を乗り越えて、それを振り返ってみた時が、人生の中で一番愉快な時だった。
 その時こそ、本当に人間として生き甲斐を感じたね。そして、次の逆境の波が押し寄せた時、「よし今度も立派に乗り越えてみせるぞ。朝の来ない夜はないのだから」という気力が自然にわいてきたものだ。
 私は、中学三年の時、父と一緒に山に登ったことがある。
 途中に最近伐採したらしい大木の、新しい切り株が地面に並んでいた。父は、その切り株を指して、「年輪のしんは、どの切り株を見ても、同じように北側に寄っているのはなぜか、知っているか」と聞いた。
 私は、「知らない」というと、父は「南風と太陽をいっぱいに受けて育つ南側は肉づきもよく、豊かに成長する。つまり、それだけ年輪と年輪の目の幅が広い。だが、北風を受け、日の当たらない中で生きる北側は、寒さから自分を守るために戦う。だから、年輪の幅が小さく、しんがその方に寄っていくんだ」と話してくれた。
 私がうなずくと、父はさらにこう言った。
 「だがな、伐採され、材木として利用される時になると、太陽をいっぱい受けた南側は「板」になる。が、北風を受けて育った“しん”の寄った部分は角材として、つまり、「柱」になるんだ。柱というものは、家を建てる時、一番、力のかかる所に使うものだ。同じように逆境に生きぬいた人間は、「板」にはならないが、「柱」になれるということなのだ。」と、言うのでした。
 父は諭すように言った。「人間苦労は無駄じゃない。逆境と戦い、苦労に打ち勝ってこそ、本当に役に立つ人間になれるんだ。だから、お前のいまの苦労も、決して無駄じゃないんだ。分かるかな……」と。

 吉川英治は、「私は、あの時の父のことばほど、身にしみて考えさせられたことはありませんでした」と、のべたということである。

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件のサイトでは、この文章に少し手を加えていますが、ほぼそのまま引用しています。

さて、吉川英治が亡くなったのを八月(もちろん正しくは九月)にしているのは、まあ、誤植ということにしておきましょう。

問題なのは、「私は、中学三年の時、父と一緒に山に登ったことがある」という一文です。

最終学歴が≪小学校中退≫である吉川英治が、一体どこの中学校に行っていたというのでしょう?
吉川英治が中学生(もちろん旧制のですが)に相当する年齢の時は、もう既に働いていましたし、父親は裁判に負け投獄され、出所した後に病を得ています。ですから、父親と山に登るようなゆとりは全くありませんでした。
「小学三年」の誤植でしょうか。
いや、その頃は父親の事業が軌道に乗っていて、むしろ家庭は裕福でした。苦労どころではありません。その逆です。

そう考えると、少なくとも、「私は、中学三年の時、父と一緒に山に登ったことがある」以下の文章は、吉川英治の言葉ではありえません。

とは言え、その罪は前川原氏のものではないのでしょう。
文章が伝聞調になっていますから、さらに出典があるはずです。
しかし、それを明記しておられません。

一日、国会図書館で、『新嘉坡日報』について調べるかたわら、出典の可能性のある本を次から次へと見てみましたが、かすりもしません。

まいりました。

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