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2005年10月14日 (金)

逆境

自費出版と思われる本の記述に難癖をつけるのも益のないことのようですが、一旦インターネット上にその記述が載ってしまえば、コピー・アンド・ペーストでいくらでも増殖していきますから、侮れません。
それだけに、出典を明確にしておきたいのです。

改めて前川原良「一燈照隅」の記述を見てみます。

 少年時代から青春時代にかけて、自分ほど逆境、つまり、不幸な巡り合わせの中を泳いできた者はいないかも知れない。けれど、一つの逆境の波を乗り越えて、それを振り返ってみた時が、人生の中で一番愉快な時だった。
 その時こそ、本当に人間として生き甲斐を感じたね。そして、次の逆境の波が押し寄せた時、「よし今度も立派に乗り越えてみせるぞ。朝の来ない夜はないのだから」という気力が自然にわいてきたものだ。

さて、吉川英治の「新書太閤記」中に『婿の君』という章があります。
木下藤吉郎が寧子との婚礼に臨む場面ですが、吉川英治は、ここで藤吉郎にこんな述懐をさせています。

「俺は倖せ者だ」
沁々、今も思う。幼い頃からどんな逆境に泣かされた日でも、自分は不倖せだという考えは持った例のない藤吉郎であるが、きょうはわけても深くそれを思った。よく世間の不遇な人々の中に聞くのは、なぜ人間に生まれたろうとか、こんな厭わしい世はないとか、自分ほど不倖せな生まれつきはないとか――何でも人間は皆、自分ほど不運で不幸な者はないと思っているものらしいが、藤吉郎は、まだかつて、世の中を、また人生を、そう観て嘆いたおぼえがない。
逆境の日も楽しかった。それを乗りこえて、逆境を後に見返した時はなお愉快だった。

この文中の「藤吉郎」を「吉川英治」に置換えれば、そのまま吉川英治の人生観となります。

上下の文章はよく似ています。
その点からすると、前者も吉川英治の言葉であるとしてもいいのかもしれません。
しかし、

およそ「自分ほど苦労した者はありません」などと自ら云える人の苦労と称するものなどは、十中の十までが、ほんとの苦労であったためしはない。とるに足らない人生途上の何かにすぎないのである。
(随筆「焚き反古の記」)

と書く吉川英治が、「自分ほど逆境、つまり、不幸な巡り合わせの中を泳いできた者はいないかも知れない」などと言うものだろうか?と、気になって仕方がないのです。

今後も出典を探し続けますが、とりあえず、今は疑念だけを述べて、一旦措くことにします。

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