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2005年10月22日 (土)

馬券哲学

ギャンブルと言えば、吉川英治は競馬ファンでした。

吉川英治は、ギャンブルとしての競馬の弊害を唱える意見に対し、害は害として認めたうえで、こう述べています。

あの競馬場の熱鬧は、そのままが、人生の一縮図だと、観るのである。あの渦の中で、自己の理性を失う者は、実際の社会面でも、いつか、その弱点を出す者にちがいない。(略)ただ、競馬場は、それを一日の短時間に示し、世間における処世では、それが長い間になされるという――時間のちがいだけしかない。
(『競馬』)

無理やりな弁護にも聞こえますが、よく考えると、随分手厳しいことを言っていますね。

そんな吉川英治の馬券哲学が、同じ随筆に書かれています。

(略)朝、右のズボンのかくしに、十レース分、二百円を入れてゆき、そのうち一回でも、取った配当は、左のかくしに入れて帰った。その気もちは、どんな遊戯にも、遊興代はいるものであるから、あらかじめ、遊興費の前払いとおもう額を右のポケットに入れて出かけるのである。左のポケットに残って帰る分は、たとえいくらでも、儲かったと思って帰ることなのである。

つまり、その日使うと決めた分は遊興費なので、無くなって当たり前。もし1レースでも当てて配当があれば、その分は儲け。持参した金額との差引での損得は考えない。ということです。

これならば、損をすることはあり得ません。

ギャンブルに限らず、こういう心持ちでいられれば、人生の不幸せは大幅に縮小するはず。
馬券哲学を越えた、人生哲学と言えるでしょう。

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