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2005年11月30日 (水)

実在と架空

歴史・時代小説においては、その登場人物の中に、実在の人物もいれば、作者が創作した架空の人物もいます。

歴史的事実が前面に置かれる歴史小説では実在の人物の比重が高く、架空の人物は狂言まわし的な役割を担うことが多いと思われます。
「新・平家物語」における麻鳥が、そうした架空の人物にあたります。

時代小説だと架空の人物が中心で、実在の人物は背景にまわることも多いでしょう。
波乱万丈の伝奇小説である「鳴門秘帖」でも、倒幕を企てる阿波藩主蜂須賀重喜は実在の人物です。
ただし、倒幕を企てたというのは、吉川英治の創作なわけですが。

さて、今日、電話があって、受話器を取ると、50歳より若くはないであろう男性の声が、何の前置きもなく唐突に、こう切り出しました。

宮本武蔵ってのは、あれ、実在の人物?

……うーむ、そこを聞かれるとは。

「お通は実在の人物か?」
「又八は実在したのか?」

というのなら、よく聞かれるのですが。

「宮本武蔵なら、実在の人物ですよ」とお答えしたところ、

ええっ!

いや、そんなに驚かれても。

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2005年11月29日 (火)

困りごと

いま、少し困っていることがあります。

草思堂庭園の隅に、誰かが塩を盛って、米と大豆を供え、線香とロウソクを立てているのです。
場所から考えて、人がいない時間帯に忍び込んでいるとしか思えません。

やっている方には、それなりの理由があるのでしょうし、もしかすると善意のつもりなのかもしれません。
しかし、気分の良いことではないので、即刻やめていただきたいのです。

いまのうちならば警察などには通報しませんが、あまり続くようだと、考えます。

線香にもロウソクにも火をつけた形跡がないので、まだいいのですが、火災は出したくありませんので、もし火をつけた形跡が見つかったら、すぐに通報するつもりでいます。

本当にやめてください。

実は、こういうことは初めてではありません。

7~8年前、庭園内や展示室内の物陰に、気づかれないようにして無数のお札を貼っていった人がいます。

展示室内ということは、わざわざ入館料を払ったうえで、お札を貼っていたわけです。
気がついて剥がした後に、また見つかることもありましたから、繰り返しやって来て貼っていたことになります。

犯人がわからないまま、そのうちにそんなこともなくなりましたが、あれも気持ちの悪い出来事でした。

吉川英治の作品は、どちらかと言えば、こういうタイプの読者を招くようなものではないはずですが、それでもこういうことが起こります。

勘弁してほしいものです。

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2005年11月28日 (月)

執筆ノート

吉川英治は、昨日書いたように多くの作品を遺しています。

さて、当館では吉川英治の≪執筆ノート≫も収蔵しています。

吉川英治の場合、≪執筆ノート≫には2種類あります。

まずは、作品の構想をメモしたり、作品のための資料を抜書きしたり、あるいは取材旅行の際の覚書きを記録したりといった、一般的な意味での≪執筆ノート≫です。

これに対して、もう1種類のものは、こんなものです。

そのノートには、吉川英治の小説の一部分が、様々な人の手によって書き記されています。
これは、連載小説の各回の最後の一段落ほどを、書き写したものなのです。

どういうことか?

吉川英治は、人気作家で、多くの作品を同時に連載していました。

例えば、昭和14年1月を見てみましょう。
この月に発表された小説には、以下のものがあります。

「宮本武蔵」(朝日新聞)/「太閤記」(読売新聞)=日刊紙連載
「天兵童子」(少年倶楽部)/「魔粧仏身」(キング)/「悲願三代塔」(講談倶楽部)/「江戸長恨歌」(婦人倶楽部)/「新版天下茶屋」(富士)=月刊誌連載

いま、日刊紙に同時に2本も連載を持つ作家など皆無でしょう。
それだけでも驚きなのに、月刊誌連載が5本もあるのです。
しかもこの他に、「歩く春風」(オール読物)/「東雄ざくら」(現代)/「柳生月影抄」(週刊朝日)の3本の読切りも発表しているのです。

つまり、ほぼ同時期に10本の異なる小説を執筆しているのです。
もう超人の域ですね。

しかし、こうなってくると、どの作品をどこまで書いているのか、混乱してきます。

ここで先程のノートが登場します。

1冊のノートには、ある1作品の連載末尾が書き写されています。
その最新の部分を見れば、その作品をどこまで書いたのが、すぐにわかるわけです。

すぐわかるといっても、書き写されているのは一段落ほどです。
それで前回の全てを思い出し、次を書くのです。
しかも、直前まで別の作品を執筆している場合もあるわけですから、その一段落だけで、頭の切り替えもするのです。

とても常人には真似の出来ないことです。

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2005年11月27日 (日)

無人島

近代文学について研究なさっている方が、研究のためのアンケートに協力して欲しい、ということでご来館になりました。
アンケート内容は「後世に遺したい文学者・作品」ということなのですが、さてどうお答えしようかと考えているうちに、アンケートの趣旨からは少し外れるのですが、あることを思い出しました。

よくある質問に、『無人島に一冊だけ本を持っていくなら?』というのがあります。

吉川英治は、この質問に対して、こんな風に答えています。

何も持っていかない。

どういうことかというと、≪本など持っていかなくても、空想に遊んでいるだけで退屈しない、空想の中で、自分が生み出した作中人物と語り合うだけで、いくらでも時間をつぶせる≫ということなのです。

最近物忘れがひどく、出典がどうしても思い出せないので、記憶だけで書いていますから表現は正確ではありませんが、これに似たことは、何度も口にしています。

例えば、丹羽文雄が、こんなことを書いています。

 あるとき吉川さんが、私にいったことがある。
「小説の筋を考えていると、つぎからつぎに浮かんで来て、収拾がつかないくらいだ」
 という意味であった。羨ましい小説家だと思った。
(「吉川英治とわたし」所収『吉川さんのこと』より)

丹羽文雄のみならず、すべての作家が≪羨ましい≫と思うことでしょう。

この尽きることのない空想力があればこそ、生涯に長短あわせて240編近い小説を遺すことが出来たのでしょうね。

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2005年11月26日 (土)

スピーチ

私は人前で話すのが得意ではありません。
それなのに、吉川英治記念館の学芸員になってから、展示解説など、人前で話すのも仕事の一つになってしまいました。
経験を重ねると、次第に慣れてはきますが、やはり苦手なものは苦手です。

私の悪い癖は、話がうまく切れないことです。
話をうまくおとせず、ついついダラダラと長引かせてしまうのです。

話すのが苦手なのに、話がうまく切り上げられないというのは、実に苦痛です。
しゃべりたくないのに、しゃべり続けるのですから。

そういうわけですので、展示解説のご依頼の際は、十二分に時間を確保しておいてください。
滞在時間30分などという時間設定では、色々と消化不良になってしまいますから。

ところで、吉川英治は、本人は話し下手を自認していたようですが、残された講演やスピーチの記録を読んでみると、下手どころか、人情の機微をつかみ、心の琴線を振るわせるようなすばらしい言葉がそこここにちりばめられています。

活字になっているものには、いくらか手は加わっているのでしょうが、それを割り引いても、むしろ「スピーチの達人」と言っていいほどだと思えます。

もっとも、結婚式の乾杯のお酒に酔って、新郎と新婦の名をあべこべに呼んでしまったなどということもあったそうですが。

もう絶版になっていますが、そうしたスピーチを集めた「どうか娘を頼みます」という本がありますので、機会があったら、読んでみてください。

きっと参考になりますよ。

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2005年11月25日 (金)

菊花展表彰式

吉川英治記念館の草思堂庭園での菊花展にご協力いただいた青梅秋香会の表彰式に、館長の代理で出席しました。

青梅秋香会では草思堂菊花展の他にも複数の菊花展を開いており、それぞれで様々な賞が与えられます。
吉川英治記念館(および紅梅苑)では草思堂菊花展以外の菊花展にも賞を提供しておりますので、それらの賞のプレゼンターとして招かれたわけです。

私は、賞状をもらったこともありませんが、差し上げるとなると、なおさらありません。
初体験です。
私なんかでいいんでしょうか。

まあ、太っていて腹が出ているため、ふんぞり返っているように見えるせいか(それだじゃないかも・・・)、態度が大きいと見られがちな私ですが、賞状を差し上げるのには、それぐらいの方が威厳があっていいのかもしれませんね。

予定外の祝辞まで求められ、大変慌てふためきましたが、滞りなく式も済んでホッとしました。

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2005年11月24日 (木)

yuzu
吉川英治記念館の展示室横に、紅梅苑の倉庫があります。
そこで商品の原料となる柚子の実を刻む作業が始まりました。
倉庫周辺は、いま、柚子のいい香りが漂っています。
当館の晩秋の風物です。

写真は館内の柚子の実です。
これを加工しているわけではありません(微笑)

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2005年11月23日 (水)

会期延長

アートプログラム青梅2005「里山と在る」展は本日が最終日で、それにともない当館で開催中の原田丕作品展も本日までの予定でしたが、原田さんと相談の結果、このまま12月4日まで作品の展示を継続することになりました。

ご興味のある方はぜひご来館ください。

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2005年11月22日 (火)

binan
ビナンカズラです。

ビナンは「美男」。

この植物から取れる粘性のある液を、昔の日本では男性の整髪料に使用していたことから、この名がついたそうです。

ということは、美男の決め手は髪だったということでしょうか?

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2005年11月21日 (月)

パソコン

新しいパソコンをリースしたのですが、よせばいいのに自分で組んで、セットアップもしたら、インターネットへの接続がなかなか回復できず、2日ほどネットに接続できなくなってしまいました。
おかげでブログも更新できませんでした。

しかし、新しいパソコンはいいですね。ディスプレイも大きくてきれいだし。

でも、XPの画面にはどうもなじめないですね。

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2005年11月20日 (日)

版画新作

hanga0511
はらださち版画シリーズ「草思堂の花々」の新作が出来上がりました。

上からアマナ(甘菜)、シュンラン(春蘭)、ビナンカズラ(美男葛)です。

1枚525円。
限定30枚の全て手刷りの版画です。

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2005年11月19日 (土)

行幸あれこれ(3)

宮内庁からは、行幸啓のことは事前に公表しないで欲しいと要請がありました。
緘口令というほどではなく、宣伝したり、吹聴したりしないで欲しいという程度の要請でしたが、それに従って職員一同、家族以外には一切知らせませんでした。

にも関わらず、当日になってみると300人ほどの人たちが集まって来てしまいました。
手回しよく日の丸の手旗を用意して配った人までいたそうです。
どこから、どうやって知ったのでしょう?

意外に思ったのは、後日、宮内庁がちゃんと入場料金を支払ってくれたことです。
ただ、随行の宮内庁職員や女官の分だけだったのか、両陛下の分も含まれていたのか、記憶が定かでありません。
調べれば何人分の料金を頂戴したのかは分りますが、随行員の数がわかりませんので、はっきりしません。

入場料金とは別に、その日の案内役や説明役を務めた者に対し、記念の品を宮内庁から頂戴しました。
干菓子でした。
職員全員分ではなかったので、それを皆で分配しました。

私の父親は皇室への尊崇厚い人間なので、その後、帰省した時にこれを持ち帰って手渡したところ大変喜んでくれました。
良い親孝行になりました。

お菓子といえば、両陛下ご休憩の際に、お茶菓子としてお出ししたのが、紅梅苑の『柚篭(ゆずかご)』というお菓子でした。
実は、美智子皇后がこの『柚篭』を好んでおられ、何度かお求めになったこともあるということで、お出ししたものでした。

ご存知の通り、紅梅苑は吉川文子(吉川英治夫人)の始めた和菓子処で、当館のミュージアムショップでも商品を取り扱っています。
もちろん『柚篭』も。

最後に宣伝をしたところで、行幸の話はここまでということにします。

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2005年11月18日 (金)

行幸あれこれ(2)

両陛下をお迎えするわけですから、ご休憩の際に使用するテーブル・椅子はもちろん、部屋の調度なども新調しなければならないかな、と考えたのですが、宮内庁からは、そういうことは一切必要ないと言われました。

そのご休憩は、私などは吉川英治が暮らした母屋内の応接間でと考えたのですが、両陛下は行幸啓中には靴はお脱ぎにならないとのことで、和室は使えないことになりました。
そのため、普段は(というか今でも)特別展に使用している多目的室にテーブルを持ちこんで、そこでご休憩いただくことになりました。
実に殺風景な部屋なのですが、それで一向に構わないとのお達しでした。

いずれも少し意外に感じ、驚いたのですが、こうしたことは今上天皇のご意志なのだろうと拝察しました。

さすがに、と思ったのは、エレベーターについての一件。

エレベーターに乗り込む時は、警護担当者が中を確認した後、扉を開けたまま中が見えるようにおき、まず両陛下がお乗り込みになって後、警護担当者が乗り込みます。
つまり、降りる際、扉が開いた時に警護の者が、陛下の前にいて、お守りする形ですね。

さて、当館のエレベーターには、一応『開延長』のボタンがあるのですが、開いたままにしておくと、数分後に≪ピー≫という警告音が鳴り始めます。
これはとてもよろしくない。

『開延長』のボタンを押してから何分後に音が鳴るか調べて、その時間内に陛下にお乗り込みいただくように促すというのでは、陛下にお急ぎになるよう強要することになりますから、そのようなわけにはいきません。

音が鳴り出す前に時々延長を解除すれば、音は鳴らずに済むのですが、問題は誰がそれをするかです。
陛下がお乗り込みになるまでは、誰もそこに先に乗り込むわけにはいきません。
しかし、陛下ご自身が機械をご操作になるなどということは、あり得ないことなのだというのです。

結局、『開延長』ボタンは使用せず、陛下に続いて警護担当者が乗り込むまで、誰かがエレベーターの扉を閉じないように押さえている、ということになりました。

その役をやったのは私でした。
おかげで、両陛下と15cmほどの距離まで接近することになりました。
役得と言えば、役得ですね。

ただ、ご休憩中にお茶をお運びした当館の女子職員には、「お茶をありがとう」と陛下からお声をお掛けくださったのですが、私にはそうしたことがなかったのが、とても残念でなりませんでした。

短髪で太目のため、機動隊員と間違えられたこともある私ですから、記念館の職員ではなく、地元の警察官とでもお思いになられたのかもしれませんね。

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2005年11月17日 (木)

行幸あれこれ(1)

一生の間に行幸をお迎えする立場になるということは、誰にでもあることではないでしょうから、参考までに当時のことをあれこれと書いてみます。
ちなみに、記憶のみに頼って書いていますので、誤認があるかもしれません。
ご承知おきを。

まず、宮内庁から「そちらを訪問したい」との連絡が入ります。
当然、その後、宮内庁や皇宮警察、地元警察などとの打合せが始まるわけです。

宮内庁などの関係者が下見に来て、こちらが提出した資料を元に宮内庁が計画書を作成して、当日はこうして欲しいというような指示書がこちらに示される、という手順を、普通は想像しますよね。

実は、計画書は訪問先が作成して宮内庁に提出しなければならないのです。

過去の訪問先が提出した計画書をサンプルとして渡され、それに準じて、≪どの場所で、誰が陛下をお迎えして、誰がご案内して、どこをどうお通りいただいて、どこにマスコミを配置して、どこでご休憩いただいて、どこからご退出いただくか≫を図面に落としたものを作成し、これでいかがでしょうかと、宮内庁にお伺いをたてるわけです。

すると宮内庁から意見が述べられて、修正を加えていくという手順になります。

こちらは一生に一度のことであって、まったく要領を得ないわけですから、初めから完璧なものなど出来るわけがありません。
一方の宮内庁は、それがお仕事なのですから、慣れているはずです。

どうして、こういう手間のかかることをしなければならないのでしょう。
どういう慣習なのかよく分りません。

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2005年11月16日 (水)

行幸啓

吉川英治記念館への要人の来訪と言えば、平成14年4月11日に、青梅への行幸啓に際し、天皇皇后両陛下のご訪問を受けました。

この時は、日程の最後のご訪問地ということで、展示の見学の他、館内でご休憩などもなさいました。
また、ご休憩にあたっては、当時の館長吉川文子および吉川英治長男の英明らとご歓談になりました。

今上天皇と美智子皇后のテニス交際は有名ですが、実は吉川英治の次男・英穂はお二人と同じテニスクラブに属しており、今上天皇とは試合で対戦したことがある、というご縁がありました。
その英穂は、この時、闘病中で出席は適いませんでしたが、ご歓談中のお話の中には、英穂へのいたわりのお言葉もあったそうです。

しかしながら、このわずか8日後、闘病むなしく英穂は他界します。
62歳でした。
せっかくの機会に恵まれながら、両陛下との再会が適わなかったことは、本人にとって非常に残念なことだったのではないかと、思えてなりません。

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2005年11月15日 (火)

大統領

アメリカの小ブッシュ大統領(親子の別をあらわす『小』ですからね、あくまでも)が来日したようですね。

私が勤め始める前の話ですが、当時のレーガン大統領が吉川英治記念館を訪問するという話があったそうです。
おそらく、当時の中曽根首相の日の出山荘での会談の前後に立寄る予定だったのでしょう。日の出山荘は吉川英治記念館から山ひとつ越えた所ですから。
しかし、アメリカのシークレット・サービスが下見にきて、検討した結果、裏山からの狙撃に対する警備が困難である、という理由から取りやめになりました。

結局、当時の館長であった吉川文子(吉川英治夫人)が、日の出山荘に出向いて、そこでレーガン大統領に英文『宮本武蔵』の特製本を手渡すという形になりました。

今回、小ブッシュ大統領は京都を訪問しているわけですが、高い建物が少なくて、周囲が山というのは、吉川英治記念館の条件と似ているような気がするのですが、警備は大丈夫なんでしょうか?

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2005年11月14日 (月)

日曜はダメよ

今日のは、ただの愚痴です。

昨日は天気も良く、青梅・奥多摩の紅葉を目当ての人たちの車が、記念館の前を通る吉野街道を埋めていました。

このあたりは迂回できる道がないので、すぐに道が混んでしまうのですが、それにしても随分渋滞しているなと思いながら眺めていると、ヘンなものが見えました。

何でわざわざ行楽シーズンの日曜日にセンターラインの塗り替え作業なんかやってるの?

この吉野街道が混み合うのは、3月の観梅のシーズンと11月の紅葉のシーズンであることは、地元の人間なら誰でも知っていることなのです。

にも関わらず、いずこも同じで、年度末の3月に道路関係の工事が集中してしまうので、工事と観光のピークが重なって、毎年大変に迷惑しているのですが、11月にまでやりますか、こういうことを。

日曜日は、休んでてくださいよ、お願いですから。

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2005年11月13日 (日)

kikuhikari

菊に面白い感じに光が当たっていたので、撮影してみました。

草思堂菊花展は本日で終了です。

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2005年11月12日 (土)

大荷田

作品タイトルの「少年と杜――2005“大荷田”」の“大荷田”というのは、青梅市内の現在の地名で長淵から友田にかけての地区の名前です。
そこに、多摩川に流れ込む大荷田川を中心にした里山が形成されています。

私も歩いたことがありますが、気持ちの良い、静かな雑木林になっています。
とても、交通量の多い街道から、ほんのわずか入っただけとは思えない空間です。

原田さんは、この大荷田の里山を主題にした作品を長年制作していらっしゃいます。

「少年と杜」はそんなシリーズ作品なのです。

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2005年11月11日 (金)

少年と杜――2005“大荷田”

harada

「原田丕作品展」の様子をデジカメで撮影して、360度パノラマ合成してみました。

こんな感じで展示しています。

上記のタイトルが、この作品のタイトルです。

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2005年11月10日 (木)

アートプログラム青梅

≪アートプログラム青梅≫というのは、多摩川上流域に縁のある現代美術作家を中心にして始められたアートイベントです。
2003年から始まったもので、今年が第三回になります。

2003年の第一回『温度差7℃』は、旧青梅織物工業協同組合クリーニング工場と旧都立繊維試験場と旧青梅織物工業協同組合発券倉庫(現在はギャラリー・レストラン繭蔵として営業)という隣接した3つの古い建物を利用したイベントでした。

2004年の第二回『風景の心電図』の開催にあたって、上記の会場だけではなく、広く青梅市内全体にこのイベントを広げたいという主催者側の意向を受け、吉川英治記念館でも会場を提供するようになりました。

これは、吉川英治記念館としても、偶然にも、従来は年に一回しか行っていなかった企画展やイベントの回数を増やしていこうと考えていたところに持ち込まれた話であったので、双方の思惑がうまく一致したとも言えます。

とは言え、文学館で現代美術作品を展示するということには、戸惑いを感じる来館者の方もいらっしゃるようです。
特に、大衆のための文学を目指した吉川英治だけに、そのファンの方も幅広い層にわたっていて、現代美術に関心がないという方も少なくありません。
しかし、逆に言えば、そうした方に現代美術に触れる機会を提供することも、意義のあることではないだろうか、と考えています。

いずれにせよ、同じ青梅で始まったこの新しい動きが、より大きなものになるように協力することは、吉川英治の意にも適うことなのではないかと思っています。

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2005年11月 9日 (水)

早計

先日、吉川英治の書いたある文章を探している方から、それはどの本に掲載されているのか、という問い合わせの電話がありました。
すぐに判明したので、書名をお教えしました。

後日、改めて電話がありました。

その本を買ったけど、探している文章が載ってない。

そんなはずはないと、手近にあったその本を手にとってみると、間違いなく載っています。

よく聞いてみると、本を読まずに、目次だけ見て、すぐ電話をなさったようです。
そそっかしい人もあったものです。

ただ、これは単なる印象ですが、戦前の本に比べて、近年の本は目次が簡略すぎるような気がします。
吉川英治の戦前の随筆集をみると、掲載されている随筆の全タイトルが目次に出ていますが、近年のものは大括りにした章のタイトルしかないものが見受けられます。

問題の本もその手のものでした。
それで早とちりしたのでしょう。

もっとも、文句を言う前に、ざっとでも一読するのが普通だと思いますが。

話し変わって、原田丕作品展は、一日遅れましたが、今日から開幕です。
お待たせしましたが、どうにか展示を終えました。
ぜひご覧下さい。

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2005年11月 8日 (火)

お断り

8日より開催予定の≪アートプログラム青梅2005「里山と在る」 原田丕作品展≫は、原田さんの体調不良のため展示作業が出来ず、一日繰り延べして、9日を初日と変更させていただくことになりました。

大変申し訳ございませんが、ご了承下さい。

なお、館自体は、もちろん営業いたしております。

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2005年11月 7日 (月)

菊花展投票結果

会期の初めに書きましたように、草思堂菊花展は来館者の投票で優秀花を決めることになっています。
その投票が昨日で終わりました。
結果は以下の通りです。

◎草思堂賞

盆養の部=伊藤高一(泉郷花便り)


◎吉川英治記念館館長賞

懸崖・盆栽の部=吉田忠(藤岡の秋他)


◎紅梅苑賞

福助・ダルマの部=山崎徳信(泉郷漫遊)


一般の方の投票結果ですから、専門家の方からは異論もあるかもしれませんが、以上に決まりました。

各花に札をつけて、あと1週間展示します。
どんな花かご覧になってみてください。

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2005年11月 6日 (日)

文学館への旅

第2回が、毎日新聞日曜版に掲載されています。
私のコメントが引用されていますが、活字になると、なんだか立派なことを言っているように見えるから不思議ですね。

話は変わりますが、青梅産業観光まつりも今日までです。
アンケートに答えていただくと、くじ引きで景品としてミュージアムグッズがあたります。
昨日すでに1等5本のうち3本があたりました。
お早めにどうぞ。

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2005年11月 5日 (土)

おうめ産業観光まつり

今日と明日、青梅市の永山公園で行われる産業観光まつりに、青梅ミュージアム協議会としてブースを出します。
加盟5館(玉堂美術館・たましん御岳美術館・櫛かんざし美術館・青梅きもの博物館・吉川英治記念館)に割引料金で入場できるチラシを配布する他、アンケートにご協力いただいた方には抽選で賞品を差し上げます。
また各館のミュージアムグッズの一部を通常の半額で販売いたします。

お時間のある方は、ぜひおいで下さい。

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2005年11月 4日 (金)

rindo

リンドウ(竜胆)が咲いています。

リンドウは、吉川英治が最も好んだ花です。

それにちなんで、現在発行されている『吉川英治歴史時代文庫』(講談社)では、リンドウがトレードマークになっています。

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2005年11月 3日 (木)

紋付を着るの記

というタイトルの随筆があります。
これは吉川英治が文化勲章の授賞式に臨むにあたって書いた随筆です。

吉川英治の若き日、厳しい貧乏生活の中で、父親が英治のために密かに紋付をあつらえた。
当時すでに病床にあって働けなくなっていた父親がコツコツ節約して貯めたなけなしの金であつらえたものだった。
しかし、さぞ喜ぶであろうと思った父親の考えに反して、英治は自分が働いて家計を支えているという自負もあって「その日暮らしで何が紋付だ」と腹を立て、口論となってしまった。
挙句の果て、「一生紋付は着ない」と口走り、実際、これまでの生涯、紋付は着なかった。
しかし、文化勲章の授賞式は服装規定があり、モーニングか紋付と決まっている。
そこで紋付を新調した。
一生着ないと言って父親を激怒させた紋付を着て、授賞式に臨むことにした。

そんな内容の随筆です。

文化の日の授賞式当日、吉川英治は、その父親の象徴ともいえる紋付を着て、ふところには母親の写真を忍ばせ、皇居に向いました。
つまり、両親とともに参内したわけです。

作家としての成功を見る前に世を去ったため、報いることの出来なかった両親への、せめてもの孝行だったのでしょう。

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2005年11月 2日 (水)

紫綬褒章

先月の文化勲章・文化功労者の発表に続き、今日、秋の褒賞受章者が発表されました。

昭和30年、吉川英治は、この年の褒賞で紫綬褒章に選ばれながら、受章を辞退しています。

その理由は、作家にとっては読者からの反響こそが褒章であり、自分はそれをもう既に受けている、それに自分は虚名ばかり高くて、仕事の内容には恥じ入るばかりだ、だから受章する資格がない、ということでした。

別に褒賞制度に反対なのではなく、自分などは経済的成功も得ているし恵まれている、もっと業績に比して報われていない人こそ受章にふさわしい、ということなのでしょう。
この考え方は、我々の財団で運営する≪吉川英治文化賞≫に受け継がれています。

さて、この5年後に吉川英治は文化勲章を受けます。

実は、吉川英治が文化勲章に内定した時、文部省(当時)の役人が知己であった小林秀雄にある依頼をします。
紫綬褒賞の時のように辞退されては困るので、事前に吉川英治の意思を確認してきてもらえないか、という依頼でした。

小林秀雄が吉川英治を訪ね、その旨を伝えると、吉川英治は、やはり受章は辞退したいと答えました。
それに対し、小林秀雄は、何気なく、「お目出度いことになったら、読者がさぞよろこぶでしょう、それも考えて見て下さい」と口にします。
それを聞いた吉川英治は、深く考え込み、夫人と相談した後に、文化勲章を受けることを決めました。

小林秀雄が、吉川英治の死後に明かした秘話です。

ところで、何年か前、元代議士の方がご来館になった時、展示の説明をしていると、文化勲章に興味を持たれたので、この話をしましたが、イヤな顔をして、そっぽを向かれてしまいました。

嫌味か当てこすりのように聞こえたのかもしれませんね。
すみませんでした。
そんなつもりはなかったんです。たぶん。

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2005年11月 1日 (火)

文化勲章

先月28日、今年の文化勲章受章者が発表されました。

吉川英治も昭和35年に文化勲章を受けています。

吉川英治以前にも、多くの作家が文化勲章を受けています。
すでに、昭和12年の第1回の文化勲章を幸田露伴が受けています。
しかし、いわゆる大衆文学の作家としては、吉川英治の受章が初めてとなります。
画期的な受章だったと言えるでしょう。

ちなみに、同じ年に文化勲章を受けた人物は、他に3人。

数学者の岡潔、吉川英治と同年の作家である佐藤春夫、東大法学部長や最高裁判所長官などを歴任した田中耕太郎です。

余談ながら、先年ノーベル賞を受賞した田中耕一さんに文化勲章を贈る際、文化勲章は文化功労者の中から選ぶという決まり(慣習?)があったため、急遽文化功労者に指定したということがありました。
資料を見てみると、この昭和35年の4人の受章者は、全員が同年に文化功労者になっています。
ということは、この年の受章者はいずれも文化功労者の中から選んだわけではなく、田中耕一さんのようにいきなり選ばれて、形だけ整えたということなのでしょう。

昭和35年は文化勲章は第20回で、文化功労者は第10回。
まだ≪ストック≫が足りなかったということでしょうか(笑)

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