« 2005年11月 | トップページ | 2006年1月 »

2005年12月24日 (土)

年末年始休館のお知らせ

明日12月25日から1月5日まで、例年通り、年末年始の休館となります。

長期間の休館になりますが、ご理解いただきたいと存じます。

なお、その間このブログの更新も休ませていただきます。

では、良いお年をお迎えください。

そして、来年もよろしくお願いいたします。

| | コメント (0)

2005年12月23日 (金)

重箱のもう片隅

昨日に続いてもう少し「時代小説盛衰史」に補足を。

・194ページ
吉川英治が最初の妻・やすとの不和が原因で自宅から出奔し、一年ほど旅の空に暮らしたというエピソードが紹介されています。
やがてこの旅には、ある女性が同行することになります。

謹厳な吉川英治のイメージからは意外な感じがしますが、こういう女性関係のもつれを、吉川英治も経験しているのです。

さて、妻の束縛から逃れ、心を一新しようとした旅のはずが、別の女性につきまとわれて、煩わしい思いをする、という状況に陥った吉川英治が残した句として、この本では次の句を挙げています。

悶々と蝿を叩いてゐたりけり

しかし、この時に詠んだ句がもう一句あります。

茨の花曲がった道も茨の花

こちらの方が、当時の状況をよりストレートに描いているように思えます。
両方紹介して欲しかったと思います。

・282ページ
挿絵画家の岩田専太郎を紹介する中で、吉川英治とのエピソードが出てきます。

吉川英治の人気を高めた「鳴門秘帖」は、同時にその連載挿絵を描いた岩田専太郎にとっても出世作となりました。
挿絵は、編集者が作家から受け取った原稿を持って挿絵画家のもとにやって来て、それを読んで挿絵を描き始める、というのが通常の流れです。
ところが、「鳴門秘帖」の最終回の時、作者の吉川英治が自ら原稿を持って岩田専太郎を訪ね、「今まで苦労をかけたから一緒に食事に行こう」と誘いに来た、というエピソードです。

この本では、その吉川英治の心遣いに岩田専太郎が感動したというところでこのエピソードは終わっています。

岩田専太郎自身がこのことを書いた文章には、この後にオチがあります。

食事の前に最終回分の挿絵を完成させないといけないからと、岩田専太郎は自分の画室で吉川英治を待たせて、同じ部屋で挿絵を描き始めました。
そのうち絵を描くことに集中しはじめた岩田専太郎が大声で叫びます。

「エイジ、エイジ!」

突然のことに吉川英治は、気が変になったかと驚いたそうです。

実は、岩田専太郎の弟の名が≪英二≫。
その弟に、出来上がった挿絵を新聞社まで届けさせようと思って呼びつけたら、背後にもう一人「エイジ」がいた、というわけです。

話の流れで割愛したのでしょうが、私は好きなエピソードです。

| | コメント (0)

2005年12月22日 (木)

重箱の隅

大村彦次郎著「時代小説盛衰史」は、昨日書いたような本なわけですが、その中の吉川英治のことについて、何点か気がついたことや補足を。

・80ページ
大正12年、勤務していた東京毎夕新聞社から、同紙に連載していた吉川英治初めての新聞小説「親鸞記」の単行本が出版された話が出てきます。
そこに

この時初めて著者名に吉川英治の筆名が用いられた。

とありますが、これは誤りです。
「親鸞記」単行本には、背・扉・本文第一ページ・奥付の4ヶ所に著者名が印刷されていますが、全て≪吉川英次≫になっています。
以前書いたように、この時の出版広告で≪英次≫を≪英治≫に誤植されたという説はありますが、単行本自体には≪英治≫の文字はありません。

・147ページ
円本ブームの中で刊行された平凡社の『現代大衆文学全集』についての記述の中で、

それが第九回配本の吉川英治「鳴門秘帖」の巻で、俄然、売れゆきが回復、急増した。売り出し中の吉川がもたらす人気のせいだった。

とあります。
ここには、もうひとつの事情があります。

吉川英治の人気を高めた「鳴門秘帖」は、大正15年8月11日から翌昭和2年10月14日まで、大阪毎日新聞に連載されました。
そして、連載途中の昭和2年3月に、そこまでに連載された分を単行本にした「鳴門秘帖 前編」が大阪毎日新聞社・東京日日新聞社から出版されます。

ところが、『現代大衆文学全集』の企画が持ち上がった時、吉川英治が「鳴門秘帖」をそちらに提供したため、大毎・東日版の「鳴門秘帖 後編」は刊行されず、昭和2年12月に『現代大衆文学全集』の9巻として改めて「鳴門秘帖」が刊行されることになりました。

つまり、大毎・東日版「鳴門秘帖」は未完のままにして、『現代大衆文学全集』版で初めて完全版の「鳴門秘帖」が刊行されたわけです。

大人気作品を初めて全編収録した完全版ですから、当然売れます。
40万部を売り上げたそうです。

大阪毎日新聞社は悔しかったでしょうね、きっと。

ちなみに、いま挙げた「親鸞記」と「鳴門秘帖 前編」ですが、前者は出版直後の関東大震災の影響で、後者はいま書いた事情で、あまり世の中に残っておらず、吉川英治の作品の中では珍しく稀覯本になっています。

当館では既に所蔵しているので、よほどの美本でない限り、改めて購入することはしませんが、マニアの方は、見つけたら即ゲットした方がいいですよ。

| | コメント (0)

2005年12月21日 (水)

時代小説盛衰史

大村彦次郎著「時代小説盛衰史」(2005年11月10日 筑摩書房)を購入しました。

明治44年の雑誌『講談倶楽部』創刊から筆を起こし、昭和38年の野村胡堂と長谷川伸の死までの時代小説の流れを、人物史を中心に追ったものです。
もちろん、それは明治43年暮に横浜から上京し、大正時代は川柳家として活躍した後、大正末に作家に転じ、昭和37年に世を去った吉川英治の文学人生と重なるものであり、当然この本でも最も多く取り上げられている作家の一人となっています。

著者の大村氏は≪文壇物三部作≫で知られる方ですが、あとがきによると、その文壇物の中で大衆文芸に対する配慮に欠けるところがあったかもしれないという思いから、この著作が生まれたそうです。

本文が500ページを超える大著ですが、扱っている時代の幅が広く、対象としている作家の数も多いので、いささか総花的な感はぬぐえません。
ただ、現時点では書店で簡単に手に入る吉川英治の伝記といったものは、あまり多くありませんので、吉川英治の人生に興味のある方が、まず手にとるのには、ちょうど良いのではないかと思います。

| | コメント (0)

2005年12月20日 (火)

正月

クリスマスばかりもてはやされる風潮を嘆いた吉川英治には、こんな句があります。

よごれずにあれ一月一日町はさんらん

「さんらん」は「散乱」ではなく「燦爛」の方です。
元旦の持つ清潔感、清々しい美しさを詠んだものです。

吉川英治は、生活の節目としての正月をいうものを愛していたようです。
子供たちには、しばしば「初心」の大切さなどを、元旦に語ったりしたと聞きます。

ただ、正月の厳粛さを好んではいたものの、必ずしも厳格な格式ばったものを求めていたわけではなかったようです。

正月はよいものと思ふ何もかも

などという句を見ると、むしろのどかさを感じます。

ところで、吉川英治の世代では数え年の方が一般的でした。
数え年では、実際の誕生日ではなく元旦に年齢が一つ上がることになります。
ですから、数え年に親しんだ世代にとっては、元旦はより人生の節目という実感がわいたことでしょう。

クリスマス優位の世間で、正月を復権させるには、数え年を復活するのがいいのかもしれませんね。

そうすれば浅田真央選手もオリンピックに行けるかも(笑)

| | コメント (0)

2005年12月19日 (月)

クリスマスと正月

年末年始向けに展示替えをした際に、吉川英治の随筆「待つ春の記」の原稿を出しました。

昭和30年1月1日に、五社連合加盟の地方紙に掲載されたものです。

改めて読み直してみましたが、なかなか興味深いものです。

地方は違うであろうが、近年、東京を初め大都会の正月は、暮れの二十五日にすんでしまうようだ。クリスマスの支度は、十二月に入ると、もう何かとあちこちの店頭に見え初める。そして都心の狂騒曲は、前夜祭から後夜祭までクタクタになるほどつづき、おおむね、新年分の酒まで暮に飲んでしまう。

その挙句に肝心の元日は寝正月だと、呆れています。さらには、

ことしもまた、正月の松かざりは止めろといい、それの行事を多少は春の餅代としている各町内の人の間では、生活問題だと、協議したりしている。ハゲ山だらけとなった日本だから、この問題が起こるのも当然だろう。余りに大きな松など伐らぬに越したことはない。
けれど、クリスマス用の樅の木となると、これはどんな大きな木を、どんなにふんだんに酒場の中で使っても、いっこう誰も何ともいわない。

つまり、戦争でハゲ山となった山林から門松用の松を伐り出すのは山林破壊だと言う一方で、樅の木を伐り放題というのは、矛盾しているのではないかと、疑問を呈しています。

こうしてみると、終戦後わずか10年で、クリスマスと正月の関係が、いまと変わらぬクリスマス優位に移行していたのだとわかります。
当時はさすがに自宅に電飾を張りめぐらす物好きはいなかったのでしょうが、50年も前から、クリスマスのバカ騒ぎは始まっていたのです。

それを吉川英治は「今の日本には、おのれがない」と嘆いています。

同じような嘆きは、21世紀の今でもしばしば耳にし、目にします

でも、それって50年前から同じなんですね。

| | コメント (0)

2005年12月18日 (日)

寒いですね。
草思堂庭園のつくばいや、水路のわさびの葉も凍ってしまいました。

ice_1


ice_2

| | コメント (0)

2005年12月17日 (土)

黒岩涙香

「淡路呼潮について」の筆者の伊藤秀雄氏は、黒岩涙香研究の第一人者ですが、その著書「大正の探偵小説」(1991年 三一書房)で、『吉川英治の場合』という一項を設けて、吉川英治が黒岩涙香から受けた影響について、紹介なさっています。

≪影響≫といえば聞こえは良いですが、要は個別の作品名を挙げて、これは黒岩涙香のこの作品の真似、あれは黒岩涙香のあの作品のこういう要素と同じ、ということを書いておられるわけです。

その中で、吉川英治の「牢獄の花嫁」は、黒岩涙香の「死美人」の翻案であると指摘されています。

これについて、吉川英治自身はこう書き残しています。

(略)自分は、種本に拠って、ものを書かない方針である。ボアゴベの死美人を、「牢獄の花嫁」に書いても、ほとんど解体して、また、新しく独創の人間をも、加えている。
(「草思堂随筆」所収『材料雑話』より)

これはちょっと苦しい言い訳ですね。

ちなみに「ボアゴベの死美人」と書いているのは、「死美人」という作品はボアゴベの原作を黒岩涙香が≪翻訳≫と称して翻案したものだからです。

さて、吉川英治自身が黒岩涙香からの翻案を認めてはいるわけですが、しかし、伊藤氏の、例えば「鳴門秘帖」について、山牢にとらわれている甲賀世阿弥を救うために法月弦之丞らが奔走するのは「鉄仮面」と同工異曲だ、というような指摘は少々涙香びいきが過ぎるような気はします。
「鉄仮面」自体、デュマの作品を涙香が≪翻訳≫したものなわけですし、「囚われている者を救うために奔走する」という物語パターンもデュマが生み出したわけではなく、その祖型は探せば近代以前に遡れるものでしょうから。

ただ、黒岩涙香が、吉川英治にとって大きな存在であったことは間違いありません。

先の文章に続いて、吉川英治はこう書いています。

その折、涙香の訳本を、分解的に、検討してみて、あのすぐれた探偵物作家には、内容の探偵味以外に、あの文章に、おそろしい魔術のあることを知った。それは、驚くべき、テーマの無理、不自然を、無数に、独特のテンポ、高い興味のもとに、押しかくして、それを、読者にちっとも、不合理と感じさせない手際である。

吉川英治が黒岩涙香を研究し、その≪魔術≫を学び取ろうとしたことは明らかです。

学歴がなく、川柳はともかくとして小説という面では、文壇において師を持たなかった吉川英治にとって、黒岩涙香こそが師匠と呼べる存在だったに違いない、と思うのです。

| | コメント (0)

2005年12月16日 (金)

業と情

吉川英治が「呼潮へんろ塚」の碑銘を揮毫したのは昭和36年9月27日だ、と昨日書きました。

実はこの日は、昭和33年1月から「毎日新聞」に連載を続けてきた『私本太平記』の最終回の原稿を毎日新聞の学芸部長に手渡した、とても重要な日なのです。
何といっても、『私本太平記』は、吉川英治にとって最後の完結作品だからです(注:並行して執筆していた『新・水滸伝』は、このあとも少し執筆するが、結局中絶している)。

さて、吉川英治が添田知道に宛てて書いた書簡の消印は9月23日。
一方、「呼潮へんろ塚」は、淡路呼潮の一周忌である10月11日の建立予定だったようです。
所在不明の添田知道からの書簡は、日数が無いので早くして欲しいという催促だったと思われます。
しかし、実際に吉川英治が揮毫したのは9月27日でした。

付き合いのあった添田知道からの揮毫依頼を引き受けながら、完結間近な『私本太平記』の執筆に心血を注いでいたためつい忘れてしまい、催促されたものの、あと数日で作品が書きあがるという状況では執筆以外のことに心をやる余裕がなく、とうとう原稿受け渡しの後に揮毫することになった。

そんな姿が想像できます。

そこに、知人からの依頼よりも執筆の方を優先させる作家としての業を感じます。

しかし、それとともに、揮毫を後回しにしたのは、大事なものと思えばこそ、執筆の片手間に書いたりせず、執筆が完了して心のざわつきが無くなるまで待ってから筆をとったのだ、とも思えるのです。

作家としての業とともに、吉川英治の深い情味も感じずにはいられません。

| | コメント (0)

2005年12月15日 (木)

呼潮へんろ塚

『日本古書通信』の最新号に伊藤秀雄氏による「淡路呼潮について」という文章が掲載されています。

その文章にも書かれていますが、吉川英治は、この淡路呼潮を偲んで彼にゆかりのある東京都新宿区・観音寺に建てられた「呼潮へんろ塚」の碑銘を揮毫しています。

そのことは知っていたので、以前から淡路呼潮とはどういう人物なのか、気になっていたのですが、文学辞典類でもほとんどその名を見ない人物なので、まったくわかりませんでした。
「呼潮へんろ塚」そのものを見てみれば何かわかるかもしれないとは思っていたのですが、都内ならいつでも行けると思って、つい放りっぱなしにしていました。

しかし、今回の伊藤氏の文章によって、淡路呼潮の人生の概略がわかり、大変助かりました。

せっかくなので、伊藤氏の文章には無い話を少し。

吉川英治が「呼潮へんろ塚」の碑銘を揮毫したのは、添田知道の依頼によるものです。

この時、吉川英治が添田知道に対して送った揮毫を承諾する書簡が残っていますので、それは間違いありません。
また、吉川英治の自筆年譜によると、昭和36年9月27日に、この揮毫を行ったことがわかります。
ところが、添田知道からの揮毫依頼の書簡の方がなぜか残っていないので、どういう形で依頼されたものか、事情がいまひとつはっきりしません。

添田知道は、演歌師(代表作は『東京節』)としてスタートし、小説家としても活動する一方、俳句にも取り組みました。
淡路呼潮は初期には小説も多く執筆したらしいのですが、基本的に俳人のようです。
おそらく俳句を通しての交流があったのでしょう。

一方、吉川英治と添田知道の間に付き合いがあったことは確かです。

しかし、吉川英治と淡路呼潮に交流があったのかどうか。
吉川英治が添田知道に宛てた書簡を見ると、あまりそのような感じは受けませんし、伊藤氏の文章からも接点は見えませんが、いずれにせよ、どうにもはっきりしないのです。

| | コメント (0)

2005年12月14日 (水)

女房またはらみ

野村胡堂の随筆から川柳の件でもうひとつ。

昨日触れた随筆の続きである「時事川柳(二)」に、こんな話が出てきます。

報知新聞に時事川柳欄を始めた野村胡堂は、その選者もしていました。

ある時、暴力団風の男が時事川柳の選者を出せと言って報知新聞社にやって来ます。
そして、こんな句を載せるとは不敬であると言って抗議を始めます。
何が不敬かというと、その句は天皇家に男子が生まれないことを揶揄していると言うのです(注:昭和天皇は皇太子時代の大正13年ご成婚だが、現在の明仁天皇ご生誕は昭和8年で、それまでの9年間は、内親王ばかり4人お生まれになっている)。

その句は、「何とかの気も知らずに女房またはらみ」であったと胡堂は書いています。

おかしな句ですが、これは胡堂いわく、下五の「またはらみ」は記憶しているが上五は忘れた、ということで「何とかの」というのは、その忘れた部分な訳です。

ところで、この「女房またはらみ」というフレーズに、なんとなく覚えがあったので調べたところ、吉川英治にこんな川柳がありました。

天災のやうに女房また孕み

私は、この句を井上剣花坊著『川柳を作る人に』(大正8年 南北社)という本で見つけました。
当然、昭和天皇ご成婚以前に詠まれた句ですから、胡堂のいう句ではないわけですが、それにしては良く似ています。

誰かが吉川英治のものを真似して投稿したのでしょうか。

だとしたら、英治からパクッて胡堂を困らせたわけで、大した傑物ですね(苦笑)

| | コメント (0)

2005年12月13日 (火)

胡堂と寛の勘違い

野村胡堂の書いた「時事川柳(一)」という随筆を読みました。

野村胡堂は作家デビュー以前(正確には作家となってからもですが)に、長らく報知新聞の記者をしていました。
この随筆は、同紙に「時事川柳」という欄を始めたのは自分だ、ということを書いたものです。

そこに、投稿された中で印象に残った川柳として、「するが町たたみの上の人通り」という句を挙げています。

しかし、この句は、実は古川柳として知られるものです。
ですから、これが投稿されてきたとしたら、それは≪盗作≫ということになります。

おそらく、胡堂が記憶違いをしているのでしょう。

この同じ句で、とんでもない勘違いをした人がいます。

菊池寛です。

菊池寛の『半自叙伝』に以下の記述があります。

(前略)ちょうどそのとき「三越」が、「文芸の三越」という宣伝文芸の募集をした。喜劇、論文、童話劇、歌、狂句、川柳その他である。そのとき僕は「流行の将来」という課題に応募し、三等に当選して五十円を貰った。(中略)川柳は「駿河町畳の上の人通り」というのが一等だった。名作だと思って、自分は感心していた。ところが、一昨年であったか、誰かの「川柳評釈」という本を見ていると、この句を徳川時代のものとして得々として、評釈しているのだ。自分は嘲笑したい気持だった。なんという馬鹿な奴だろうと思った。自分は、何かに書いて嘲ってやりたいと思いながら、そのままになっていたのである。ところが去年「川柳やなぎだる」を見ていると、あにはからんや、この「駿河町畳の上の人通り」の句が、歴然として載っているのである。この句は、まさしく江戸時代の三井呉服店のスケッチなのだ。「文芸の三越」の一等当選はまさしく泥棒なのである。それとは知らず、「川柳評釈」の著者をやっつけようものなら、とんだ恥をかくのであった。「やなぎだる」にある相当の名句を当選させた選者の失態はもちろんだが、その当時誰にも気づかれずまんまと賞金をせしめたにしろ、十幾年かの後に僕にその悪業を見つけられるところを見ると、天網かいかい疎にして洩さずである。しかし、この誰だかわからない不徳漢のために、自分は危く恥をかくところだった。

実は、この菊池寛の言う≪不徳漢≫とは、誰あろう吉川英治なのです。

ただし、これは菊池寛の誤解であって、吉川英治が≪独活居≫という号で投稿し、一等となった句は

駿河町地を掘り空へ伸してゆき

というもので、日本橋三越が近代的ビルに変貌した姿を詠んだものです。
もちろん盗作などではありません。
菊池寛の完全な勘違いなのです。

ちなみに、この『文芸の三越』の件は大正3年のこと。
吉川英治と菊池寛は親しい交友がありましたが、大正3年当時はまだ付き合いがなく、菊池寛も川柳の投稿者が後年の吉川英治とは気づかなかったようです。

吉川英治と交流のあった二人の人物が、そろいもそろって同じ句で間違いをおかすというところが、なんだかおかしいですね。

| | コメント (0)

2005年12月12日 (月)

母の文

吉川英治が母を詠んだ句で、私が好きなのは

こんなこと書くかと思ふ母の文

親元を離れて暮らした経験のある者ならば、誰でも実感があるでしょう。
吉川英治がこれを詠んだのは大正時代のことですが、時代を超えて通用する句だと思います。

いや、これからは

こんなこと書くかと思う母のメール

としないと、実感がわかなくなるのかもしれませんね。

ちなみに、

こんなもの入れるかと思う母の小包

なんていう風に変えても、共感していただける人は多くいらっしゃると思うのですが、いかがでしょう?

| | コメント (0)

2005年12月11日 (日)

めし茶碗

私事ながら、死んだ母親の命日で、実家に帰省していました。

吉川英治の短歌に、こういうものがあります。

めし茶碗手にふと冬の朝さむみ
母なきのちのながくもあるかな

母親思いであった吉川英治には、母親を詠んだ詩歌が多くありますが、これはその代表作の一つ。

さして母親思いであったとは言えない私でも、確かに、こんな思いを抱いたりします。

もう、母親の手料理の味も思い出せなくなってしまってはいるのですが。

| | コメント (0)

2005年12月10日 (土)

戦国後家

昨日再録を確認した「戦国後家」という作品を、改めて読みかえして見ました。

時は豊臣秀吉の時代。いわゆる朝鮮出兵の最中。
朝鮮への出兵を求められながら、それを拒否している≪殺生関白≫こと豊臣秀次は、伏見まで養父・秀吉の病気見舞いに来ているのだが、石田三成らによって登城を拒まれて、秀吉に会うことが出来ない。
そんなある日、石田三成の配下の武士が≪後家見舞い≫に忍んで来たのを見咎めた秀次は、その武士を斬り、その首を往来に晒す。
石田に恥をかかせてやったと溜飲を下げる秀次だが、策を弄することでは何枚も上手の三成から、手ひどく意趣返しされてしまう。

およそ、そんな話です。

ちなみに≪後家見舞い≫とは、夫を亡くした、あるいは夫が出兵中で留守にしている女性の元に夜這いをかけること、です。

昨日も書いたように、この作品の初出は昭和7年。
満州事変勃発の翌年です。

そのせいか、朝鮮出兵を拒む秀次の人間像が、どこか卑小に描かれているように感じます。

しかし、そんな秀次を憐れむような描写よりも、

戦好きな太閤殿下のおかげで、日本中に、何万といふ、後家ができたとは、おもしろい。なんだ、かだと、捏ねまはしてゐるうちに、朝鮮は、埒があかず、日本は、後家で充満してゐる。皮肉ぢやな。――だから、わしは戦嫌ひぢや。誰が、なんといはうと、軍には出ぬのぢや。

という秀次の嘯きの方に、私などは共感してしまいます。

昭和7年の読者が、この作品をどう感じたか。
それに対し、再録された昭和30年の読者は、同じこの作品をどう読んだのか。

聞いてみたい気がします。

| | コメント (0)

2005年12月 9日 (金)

再録

古書店で「小説サロン」という雑誌の昭和30年2月号を購入しました。
ここに、吉川英治の小説『戦国後家』が再録されていました。
この『戦国後家』の初出は「婦人公論」昭和7年4月号。
1回読切りの短編です。

吉川英治記念館では、先代の学芸員らが中心となって「吉川英治小説作品目録」というものを製作し、配布しています。
その中では、初出についてはほぼ全て確認できていますが、再録については調査が不十分で、不明なものが多々あります。

以前書いた「新嘉坡日報」への『菊一文字』の再録も、その時初めて知ったものですし、今回のものも初めて確認したものです。

吉川英治の作品の再録は、戦後の出版ブームが起こった昭和20年代に創刊された雑誌に多く見られます。

そうした雑誌の中には、吉川英治の旧知の編集者が関わっている場合もあり、その懇望を受けて、手助けの意味もあって作品を提供したのでしょう。
敗戦直後の、誰もが苦しい時期でしたから。

しかし、雑誌のほとんどは短命に終わってしまいました。
そのために、いま改めて調査するのは、他の老舗雑誌などに比べると、難しくなります。

いや、難しくなります、なんて言ってないで、ちゃんと調査しないといけないのですが。

| | コメント (0)

2005年12月 8日 (木)

モデル

作品の登場人物のモデルということでは、吉川英治はこんなことを書き残しています。

史上の人間に、仮名を与えて、モデルとして自由に使うことはあるが、現代ものの作家のように、知人や、近親の人を、そのまま、作品の主要人物にとりいれることは、僕にはない。
(「草思堂随筆」所収『春日書斎開放』のうち『感情混線』より)

これに続けて、「自分の書いている小説の人物に、そっくりな、と思う人に、路傍でぶつかる」ことならばある、として、こう書きます。

「鳴門秘帖」を、書いている頃、上落合の家へ、直木三十五氏が訪ねて来た。たしか、雲重の刀だったと思う、ふくろに入れた、長いのを提げて、あの頃は、晩年よりも、よけいに浪人じみていたので、のっそりと、書斎へはいって来た時、私は、私の書いている「鳴門秘帖」の旅川周馬が、いきなり、やって来たように感じて、無意味に、おどろいた。

してみると、吉川英治は文子夫人に会った時に、≪お通≫を見つけた気持ちになったのかもしれませんね。

| | コメント (0)

2005年12月 7日 (水)

お通と文子夫人

よく言われることに、「お通さんのモデルは文子夫人だ」というのがあります。

これは厳密には、正しいとは言えません。

お通は小説「宮本武蔵」のごく初期から登場しています。
その連載が始まったのは昭和10年8月。
したがって、文子夫人をモデルにするためには、昭和10年の夏までには出会っていなければいけないことになりますが、実際に二人が出会うのは、昭和11年です。

しかし、実際に文子夫人と接した多くの人が、「文子夫人こそお通さんだ」と口をそろえ、そう書き残しています。

私は、こう思います。

「文子夫人のモデルがお通さんなのだ」と。

おかしな言い方かもしれませんが、そう思うのです。

親子ほど歳の離れた若き新妻に対し、吉川英治は手取り足取り指導して、妻としての心得を身につけさせたはずです。
文子夫人にしても、それだけの年齢差があり、初めから敬意を抱いている人物からの指導ですから、素直に受け入れたでしょう。
結婚した昭和12年は、「宮本武蔵」の連載中ですから、吉川英治が意識せずとも、そこに≪お通≫的なものがこめられていたとしても不思議はありません。

もちろん、文子夫人の元々持っていた資質と、吉川英治が妻に求めたものとが見事にマッチしたということなのだと思いますが、結果的に皆が「まさにお通」と認めるような存在となったのでしょう。

ですから、「文子夫人はお通さんだ」というのはその通りだと思うのですが、「お通さんのモデルは文子夫人だ」というのは、逆だと思うのです。

いかがでしょう?

| | コメント (0)

2005年12月 6日 (火)

吉川夫人

昨日は、吉川英治記念館の忘年会でした。

その席で、およそ一年ぶりに吉川英治未亡人の文子夫人とお会いしました。
思いの外お元気そうで安心しました。

ところで、時々来館者の方から、こんなことを聞かれます。

吉川夫人はいつ亡くなられたんですか?

「ご存命で、今は当館の名誉館長です」とお答えすると、驚かれます。
縁起でもない失礼な話ですが、無理からぬ部分もあります。

吉川英治は明治25年(1892)生まれですから、生きていれば今年で113歳。
その夫人が存命のはずはない、と皆さん思われるのでしょう。

実は、文子夫人は吉川英治にとっては二度目の妻で、年齢差が28歳もあったのです。

二人が結婚したのは昭和12年。
吉川英治45歳。
文子夫人は、まだ17歳でした。

「女房と畳は……」という言葉がありますが、あれは単なる戯言で、実際にこれだけの年齢差で結婚しようと思うことは、すごいことだなと、私などは思います。
自分がいま女子高生と結婚できるかと考えたら、とてもそんなパワーはありませんし、世代が違いすぎて、感性の一致点が見出せる気がしません。

いま「女子高生」と書きましたが、文子夫人にその時代はありませんでした。
その年齢には家計のために既に働いていました。

あ、そういう苦労人である点は共通していますね。
そのあたりが、心の通じるところだったのでしょうか?

| | コメント (0)

2005年12月 5日 (月)

野村胡堂

「バッハから銭形平次 野村胡堂・あらえびすの一生」(平成17年11月30日 青蛙房)という本を著者の藤倉四郎氏からご寄贈いただきました。

テレビや映画を通して≪銭形平次≫は知っていても、作者の野村胡堂について知る人は、また、原作の小説を読んだことのある人は、今ではあまり多くはないのではないでしょうか。
私自身、子供時代に大川橋蔵によるテレビシリーズで親しんでいたものの(主題歌も歌えます)、野村胡堂による原作は読んだことがありません。

その野村胡堂の伝記が、上記の書籍です。

ご存じない方も多いかもしれませんが、野村胡堂と吉川英治には、長い交友関係があります。
互いに作家デビュー前の大正時代から交流があったようです。
また、野村胡堂は長く報知新聞社に勤務していましたが、その報知新聞に吉川英治が小説「江戸三国志」を執筆したのは、野村胡堂の強い推薦があったからだと言います。

二人の交友の始まりがどういう形であったかわかりませんが、野村胡堂は報知新聞に時事川柳欄を設けることを提案し、自ら選者にもなったということですので、そのあたりに接点があったのでしょう。
ちょうどその頃には、吉川英治は雉子郎の柳号で活躍する新進川柳家でしたから。

ただ、二人の交流を示す資料は多くありません。
また、吉川英治は、随筆などにはあまり野村胡堂のことを書き残していません。
野村胡堂は吉川英治の10歳年長なので、もしかすると多少遠慮があったのかもしれません。

上記の書籍には、そうした交友についても触れられています。

ご一読を。

| | コメント (0)

2005年12月 4日 (日)

会期終了

会期を延長して行っていた原田丕作品展は、本日で終了いたします。

会期の再延長はありません。

これでしばらくは常設展のみになります。

次回をお楽しみに。

| | コメント (0)

2005年12月 3日 (土)

先日、韓国のデザイン事務所の方が、視察で来館されました。

何でも、韓国内で、ある人物の生家を保存して、そこを記念館にする計画に関わっているそうで、その参考とするためにいらしたそうです。

同様の視察は、日本国内からならば、何度か受けたことがありますが、海外からは初めてです。
良い機会なので、逆にこちらからも、韓国内での個人記念館の事情というものを聞いてみたかったのですが、相手は日本語は片言で、英語なら出来る、私は英語も韓国語もまったくダメ、ということで、コミュニケーションがスムーズにいかず、突っ込んだ話が出来ませんでした。

ところで、著名な人物の住んだ家を利用して記念施設を造っている例は、日本国内にもたくさんあります。
それらは、その家の中に入れるようになっているところと、入ることを禁じているところに二分できます。
吉川英治記念館は後者です。

家の中に入ってみたいという要望は、来館者の方から頻繁にいただきます。
デザイン事務所の方からもなぜ入れないようにしているのかと問われました。

家というのは物陰が多く、管理の目がどうしても行き届かなくなります。
実際、昔ある場所で、土壁に名前が彫りこまれているのを見ました。
せっかく家が公開されていても、そんなことになっていては、見る人も興ざめでしょう。
また、盗難を恐れて、家財道具や小物の一切を置かないようにした、空っぽの家を見ても、ガッカリなさるでしょう。

破損や盗難といった不届きな行為を許さず、しかし、せっかく家があるのだから肌でその雰囲気を味わいたいという思いも満たせるような、良い方法がないか、模索しているところなのです。

| | コメント (0)

2005年12月 2日 (金)

露八と又八

土肥庄次郎=松廼家露八の流転の人生には、同じように幕末・維新期を流転した新撰組の≪滅びのロマン≫もなければ、維新の志士の≪熱い志≫もありません。
土肥庄次郎は榎本武揚とは幼馴染だといいますが、幕臣として函館戦争まで戦いながら、その才を惜しまれて新政府入りした榎本の人生には、苦悩とともに華もありますが、彰義隊くずれの幇間・露八には笑いにくるんだ苦渋があるだけです。

そんな人物を、吉川英治は小説の主人公に据えました。

作品が『サンデー毎日』連載されたのは昭和9年。

鈍重だが、愚直で憎めぬ男・土肥庄次郎が、酒と女で身を持ち崩し、友人である渋沢栄一や弟の八十三郎の活躍を横目に見ながら、落魄の身を幇間として世を生きていく。
その周りには、やはり時代の激変に翻弄されながら生きていく、≪ロマン≫とも≪志≫とも無縁な普通の人々の姿がある。

それは伝奇ロマンにあふれる作品を書き続けてきた吉川英治にとっての、ひとつの転機となる作品となります。

そして、翌10年、『朝日新聞』に「宮本武蔵」の連載が始まります。

克己と鍛錬によって勝ち続けていく武蔵は、まるで露八とは正反対の人物ですが、小説「宮本武蔵」の中にあって、武蔵が勝ち続けるほどに、人生の坂道を転がっていく人物として又八が登場します。
この又八こそ、露八そのものな人物です。

武蔵と又八の関係は、露八に対して時勢と維新の意義を説き、自身栄達を極めていく渋沢栄一と露八の関係と相似形といえます。

その意味で、「宮本武蔵」と「松のや露八」は対をなす小説であり、もし、「宮本武蔵」は読んだが、「松のや露八」は読んでいないという方がいらしたら、ぜひご一読をお勧めします。

| | コメント (0)

2005年12月 1日 (木)

松のや露八

宮本武蔵が実在の人物だと聞いて驚いた人のことを、しかし、笑ってもいられません。
私も、吉川英治の作品の中で、「えっ!、この人実在したの?」と驚いたことがあります。

それが小説「松のや露八」の主人公たる松廼家露八(まつのやろはち)です。

徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜を出した一ツ橋家の家臣である土肥庄次郎。
その幕臣中の幕臣ともいえる土肥庄次郎が、幕末の激動の中で武士を捨て、幇間・松廼家露八となる。
しかし、やがて官軍が江戸に迫ると、突如として彰義隊に参加して上野の山にこもって官軍と戦う。
それに敗れた後、また幇間にもどり、明治の世を遊郭から笑い飛ばして生きた。

こんな人生、どう考えたって、小説上の架空の人物としか思えません。
こんな小説に書いたような人生を、実際に生きた人物が存在したなどとは、想像もしていませんでした。

幕末・維新期には、多くの人物が輩出します。
幕府側なら新撰組の面々、それに対する維新の志士たちなど。
人気のある人物がたくさんいます。

そんな中にあって、土肥庄次郎=松廼家露八は、忘れられた異色の人物といえるでしょう。

と、知らなかったことの言い訳をしてみたりして。

| | コメント (0)

« 2005年11月 | トップページ | 2006年1月 »