« 2005年12月 | トップページ | 2006年2月 »

2006年1月31日 (火)

武蔵と無刀

『無刀』というフレーズは、宮本武蔵の「五輪書」の中にも出てきます。
「五輪書」の「火の巻」は、主に兵法の実践に関わる留意点などを述べたものですが、そのうちの「つかをはなすと云事」という部分に、

束をはなすといふは いろいろ心ある事也
無刀にて勝心あり 又 太刀にてかたずる心有
さまざま 心のゆく所 書付るにあらず
よくよく鍛錬すべし

とあります。

これは、柳生宗矩の示した思想としての『無刀』とは異なり、「刀に執着するな、刀を持たずとも勝つことも出来るのだ」という程度のことのようです。
もっとも、どうやったらそうできるのかについては、「よくよく鍛錬すべし」で済ませていますが。

ただ、兵法とは単に剣術ではなく、国を治める道に通じるという発想はあったようで、例えば、やはり宮本武蔵が書いたとされる「兵法三十五箇条」には、

たとへば心を大将とし 手足を臣下郎等と思ひ 胴体を歩卒士民となし 国を治め身を修る事 大小共に 兵法の道におなじ

というくだりがあります。

吉川英治が小説「宮本武蔵」で描く武蔵像には、そういう部分が強く反映されており、その分、どこか柳生寄りな武蔵像になっているように、私は感じています。

| | コメント (0)

2006年1月30日 (月)

無刀

昨晩、テレビで映画「英雄 HERO」(チャン・イーモウ監督)が放送されました。

その中にこんな場面があります。

後に始皇帝となる秦王(チェン・ダオミン)が、かつて自分を殺そうとした刺客・残剣(トニー・レオン)が書いた「剣」という一字の書を見ながら、卒然と悟る。 剣の究極の極意とは、手にも心にも剣を持たないことだ、と。 それを聞いた刺客・無名(ジェット・リー)は、それを決して忘れないようにと言い残し、秦王暗殺を断念して去って行く。

この、剣の極意は剣を持たぬこと、というのを聞いて、『無刀』という言葉を思い出しました。
柳生宗矩が「兵法家伝書」に記した、剣の極意です。

徳川将軍家の剣術指南役である柳生宗矩の言う『無刀』は、畢竟、治者の剣のあり方を指し示したものです。
それはいわゆる『活人剣』、万民を活かすために排除すべき悪を除くことを目的とした力、ということになるでしょうか。

「英雄」の中で描かれる秦王は、冷酷な侵略者と世の人から憎まれようとも、世に平和をもたらす道は、いまは力によって乱世を統一する以外にはないと考えている人物です。
そして、そのことを理解し、「手にも心にも剣を持たぬこと」こそ剣の極意であると指し示すことができたのは、剣に生きる刺客だけであった、というところが作品の肝となっています。

中国人映画監督が描く世界と、日本を代表する剣客の唱える極意に、共通性が見られることは、興味深いことです。
もとは儒教思想にあるのでしょうか。

もっとも、始皇帝は焚書坑儒をやったとされているのですが。

| | コメント (0)

2006年1月29日 (日)

IMG_6761

ようやく福寿草が少し咲き始めました。
いつもなら、遅くても年明けすぐには咲き始めるのですが、この冬は、寒さと乾燥のせいか、今になってやっとです。
これから、次々と咲き始めるでしょう。
楽しみです。

| | コメント (0)

2006年1月28日 (土)

戦争と美

吉川英治が宮島を訪問した際の感慨は、「随筆新平家」の中の『新・平家今昔紀行』のうち『宮島の巻』の部分に書かれています。

そこを読んで、私の印象に残ったのは、こんな一節です。

どうしても、戦争を持たなければならない地球であり人類ならば、世界中の航空基地以上の数の厳島地域が欲しいものだが――などと心で呟いてみる。
が、厳島ほどな“美”をぼくらの世間で創造できるだろうか。それは出来もしない。
美も創れない。戦争の心配も止められない。それをリシエの人間論も、怖いことだと云いぬくのだ。「――理性をもっていて、非理性的であることは、推理の能力を欠くことより、もっと重大である」と。(略)

これは、戦国時代、陶晴賢と毛利元就が厳島の合戦の際、厳島神社とその周辺には、兵を入れず、火を放ったりもしないということを申し合わせてから戦ったという話を聞いての感慨です。

時は昭和25年。
あの悲惨な第二次世界大戦をようやく終結させたというのに、たちまちのうちに朝鮮戦争が勃発するという時代。

権力欲から刹那の闘争を繰り広げる戦国の武人たちにも厳島の美の時代を超えた価値への認識があった。
ひるがえって我々は……、ということなのでしょうか。

ぜひ多くの人に、上に引用した部分だけでなく、全体を読んで、味わっていただきたい文章です。

| | コメント (0)

2006年1月27日 (金)

清盛塚

昨日、厳島神社で知られる宮島の旅館・岩惣の支配人の岩村裕之さんがご来館になりました。
以前、このブログでも書いたように、岩惣というのは、吉川英治が何度か宿泊したことのある旅館です。

宮島には、私も10年余り前に足を運んだことがあります。
既に吉川英治記念館に勤務していましたから、神社への参拝もそこそこに清盛塚に向かいました。
吉川英治が、「新・平家物語」取材旅行の際に清盛塚を訪ね、そこでの感慨を、「君よ今昔の感如何」という言葉に残しているからです。

やはり、作家と同じ風景を眺めてみたいですからね。

神社の社殿の裏の方の、切通しになった谷の斜面にあまり整備のされていない石段があり、そこを登った所に清盛塚はありました。
平家の栄華とは対極の、実にこぢんまりとした塔で、周囲も、言い方は悪いのですが、荒れたままという感じでした。

そんな話を岩村さんにしたところ、こんな話を教えて下さいました。

切通しは、後年出来たもので、吉川英治の来島時には、まだ山はひとつながりになっていました。
塔は、切通しを作る際に、移設しているのです。

つまり、吉川英治が見た時と、私が見た時では、塔の位置が違うのだそうです。

それともう一つ。

宮島の住民は、昔から清盛塚を恐れていて、その上、塔の移設の時にも、色々悪いことが起こったそうで、あまり近付きたがらないのです。

それぞれの土地に、「伐るとたたりのある木」とか、そういう類のものがあったりするものですが、宮島の清盛塚もそういうものの一種なんでしょう。
土地の人からしか聞けない話です。

なるほど、人の手があまり入っていないのは、そういうわけだったんですね。

しかし、それならなおさらきちんと整備して祀り直した方が良いのでは、などと思いましたが、ま、よそ者の余計なお世話ですね。

| | コメント (0)

2006年1月26日 (木)

写真コンテスト入賞作品展

明日27日から、東京・銀座の富士フォトサロンで第8回吉川英治記念館写真コンテスト入賞作品展を開催します。
2月2日までです。

お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。

詳しくはこちらを。

また、上位入賞作品は、こんな感じです。

お待ちしています。

| | コメント (0)

2006年1月25日 (水)

兄弟げんか

子供時代の記憶力というのは大したもので、昨日の問い合わせの方は、「初旅坊ちゃん」のあらすじを、大体ご記憶でした。

といっても、要約すれば、兄弟げんかばかりしているある武家の兄弟の目を覚まさせるため、父親が江戸から京まで二人だけで旅をさせる、となってしまうのですが。

吉川英治の少年少女小説だと、この他にも、ある公家の忘れ形見の兄弟が維新の波にもまれながら成長していく、というストーリーの「左近右近」という作品の主人公兄弟たちも、やはり兄弟げんかばかりしています。

男の子とはそういうものだという考えが吉川英治にはあったのかもしれません。

もっとも、この2作品は、いずれも自身に男の子の兄弟が生まれる前に書かれたもの(「初旅…」は昭和12年、「左近右近」は昭和9~11年が初出)。

吉川英治夫妻には昭和13年に長男・英明、15年に次男・英穂が生まれていますが、この兄弟が、よく兄弟げんかをしたそうです。
あまりけんかばかりしているので、癇癪をおこした吉川英治が、二人を家の大黒柱に縛りつけた、などという話も残っています。

実際に我が子が兄弟げんかを始めると、男の子はそうやって成長するんだ、などと鷹揚には構えていられなかったのでしょう。

ちょっと微笑ましいですね。

| | コメント (0)

2006年1月24日 (火)

教師

こんな問い合わせがありました。
現在60歳を過ぎた女性からのものです。

私が中学1年生の時に、学校で読書感想文を書く宿題が出て、吉川英治の「初旅坊ちゃん」を読んで感想文を書きました。
ところが、先生から、「吉川英治にそんな変な作品があるはずがない、でたらめなことを書くな」といってひどく怒られてしまいました。
本当に吉川英治の作品に「初旅坊ちゃん」というものはないのでしょうか?

これは、先生が悪い。
吉川英治には、確かに「初旅坊ちゃん」という作品があります。
『ラジオ 子供のテキスト』昭和12年1月号~12月号に連載された、いわゆる少年少女小説に属するものです。
戦後の昭和25年にポプラ社から単行本化されています。
いま60代の方なら、中学生の時に、この単行本を手にしたと考えれば、何の矛盾もありません。

そのようにお伝えすると、喜んでおられました。
積年の心のつかえがとれたのでしょう。

面白いもので、その問題となった吉川英治が、よく似た経験を自叙伝「忘れ残りの記」に書いています。
小学校の綴り方の授業で作文を書いた時の話です。

その作文の中に、ある折、俳句を入れて、先生に出しておいたのである。(中略)ところが、先生が後日、ぼくの作文を手に、顔を朱にしてぼくを戒めた、ことばの要は「作文は、自分の心を率直に云い現わし、文は自分の頭脳で綴るべきものである。いやしくも他人の詩歌などを、自分が作ったもののような振りしてさし挟むべきではない」という叱言だった。
先生は誤解している。俳句は、自分が作ったものだ。ぼくはそれを云おうとしたが(中略)、つい抗弁できなかった。ぼくは泣き虫の性だったとみえ、ただ涙をこぼして引っ込んでしまった。そして以後は、それにこりて、俳句などは決してひとに見せなかった。

吉川英治がこの「忘れ残りの記」を書いたのも60代のこと。
子供の頃、理不尽な叱られ方をすると、一生覚えているものなんですね。

それだけ教師の責任は重い。
大変なことだと思います。

もっとも、こんな風に生徒に弁解もさせず、一方的にやり込めてしまうようなものの言い方は、最近の先生には、少なくなっているのかもしれません。
むしろ、今それをやっているのは、生徒の親で、やられているのは、教師の方かも。

| | コメント (0)

2006年1月23日 (月)

取材

私の個人的な知り合いが、さいたま市役所の市民ギャラリーで展覧会(「吉野忠夫版さいたま市面白カルタ」展 1月23日日~29日)をやっているので、見に行きました。

ちょうどNHK埼玉支局の取材が入っていて、当人はインタビューを受けていました。

私も仕事の関係でテレビの取材を受けたことが何度かありますが、あれはなかなか大変なものです。

向こうは気軽に、「じゃあ、もう一度いまの感じでお願いします」なんて言ってくるのですが、その「いまの感じ」を再現するのが、素人には大変なんですよ、これが。

私など、気がついたら、全然別のことを話していたりしますからね。
しかも、それに気がついて、マズイと思っても、もう修正できませんから。

小心なあがり症の私としては、なるべく自分は出演せずに済ませるように、逃げているのですが、他に担当者もいないので、そうもいきません。

つらいところです。

| | コメント (0)

2006年1月22日 (日)

平家夢幻

IMG_6753

「平家夢幻~新・平家物語による九つのイメージ」というCDが発売されました。

これは、ピアニストで作曲家の斎藤友子さんが、吉川英治の「新・平家物語」を読んで、それに触発されて生まれた旋律を作品にしたものです。

作品を聴いて感銘を受けた吉川英明がCD化に協力し、今回発売にこぎつけました。

詳しくは斎藤友子さんのサイトをご覧ください。

斎藤さんのサイトから直接注文も出来ますが、吉川英治記念館のミュージアムショップでも販売しています。
税込み定価2500円です。

ご興味のある方は、ぜひどうぞ。

| | コメント (0)

2006年1月21日 (土)

青梅は久しぶりの積雪です。

この程度の雪なら、雪景色も悪くありません。

yuki_1

yuki_2

| | コメント (0)

2006年1月20日 (金)

TVの武蔵

近年の宮本武蔵と言えば、NHK大河ドラマが思い浮かびます。
ご存知の通り、そこでの武蔵は市川新之助(現・海老蔵)でした。

当時、あまり話題になりませんでしたが、実は父親の団十郎も、まだ海老蔵だった昭和50~51年にフジテレビ系の「白雪劇場 宮本武蔵」で武蔵を演じています。
話題にならなかったのは、団十郎があまり触れられたくなかったのでしょうか?

NHKで武蔵とくると、昭和59~60年に≪新大型時代劇≫として放送した役所広司主演のものの方が、評価は高いようです。

この他、吉川英治原作の作品で武蔵を演じた役者には安井昌二、丹波哲郎、北大路欣也、高橋幸治、上川隆也がいます。

このうち、北大路欣也は、吉川英治原作の「12時間超ワイドドラマ 宮本武蔵」(平成2年 テレビ東京)で巌流島までを演じ、小山勝清の小説を原作にした「12時間超ワイドドラマ 徳川剣豪伝――それからの武蔵」(平成8年 テレビ東京)で巌流島以降、その死までを演じています。

ちなみに、このテレビ東京の12時間ドラマの第1作は萬屋錦之介主演の「それからの武蔵」(昭和56年)。

というわけで、宮本武蔵のほぼ全生涯を演じた役者は、萬屋錦之介と北大路欣也ぐらいしかいません。

その点では、テレビを代表する武蔵役者は北大路欣也となるのかもしれません。

| | コメント (0)

2006年1月19日 (木)

武蔵映画

吉川英治原作の映画「宮本武蔵」で武蔵を演じた役者を代表するのは、昨日触れた片岡千恵蔵・三船敏郎・中村錦之助ですが、それ以外にも、武蔵を演じた役者は数人います。

最初に映画化された昭和11年の作品で武蔵を演じたのは、≪アラカン≫こと嵐寛寿郎。
その他、戦前に、千恵蔵武蔵の向こうを張るように武蔵となった役者に、黒川弥太郎と近衛十四郎(松方弘樹・目黒祐樹兄弟のお父さんですね)がいます。
戦後、三船・錦之助以外で武蔵になったのは、高橋英樹で、今のところ映画版では彼が最後です。

もっとも、吉川英治原作でなければ、最新の武蔵は2003年に公開された「巌流島」の本木雅弘になるでしょうか。
あ、同じ年に公開されたリメイク版の「魔界転生」でも長塚京三が武蔵を演じていますね。

吉川英治の「宮本武蔵」は大作ですから、今後は全体を通して映画化されることは難しいでしょう。

宍戸梅軒との決闘部分だけを映画化した「真剣勝負」(中村錦之助主演 内田吐夢監督の遺作)のように、作品の一部を取り上げての映画化なら、可能性はあると思いますが。

| | コメント (0)

2006年1月18日 (水)

宮本武蔵

映画『宮本武蔵』のDVDボックスが資料として寄贈されてきました。
最近発売されたものです。

吉川英治原作の映画『宮本武蔵』、まだ作品連載中の昭和11年に最初のものが作られ、いまのところ昭和48年のものが最新作となります。

原作の全体を映画化したものとしては、昭和15年の片岡千恵蔵主演の3部作(稲垣浩監督 日活京都)、昭和29~31年の三船敏郎主演の3部作(稲垣浩監督 東宝)、昭和36~40年の中村錦之助(萬屋錦之介)主演の5部作(内田吐夢監督 東映)がありますが、今回寄贈を受けたDVDは三船―稲垣の東宝3部作です。

先年DVD化された錦之助―吐夢の東映5部作も評価の高い作品ですが、こちらの方をより評価する人も少なくありません。

ちなみに、黒澤映画の外国での受賞暦の華々しさに隠れてしまっていますが、第1作の『宮本武蔵』は、1955年に全米公開され、同年のアカデミー外国語映画賞を受賞しています。
吉川英治原作の映画は数多ありますが、海外で受賞歴があるのは、この作品だけです。

実は、機会がなくてまだ三船版も錦之助版も、私は観ていません。
年齢的に劇場で観るのは無理ですし、館蔵資料のビデオを自宅のビデオデッキで観るのは、万が一のことがあると怖いですし。
でも、DVDなら、ビデオよりは万が一の可能性が低いので、今度借りて帰って、両作品を見比べてみようと思います。

| | コメント (0)

2006年1月17日 (火)

IMG_6741

ロウバイ(蝋梅)が咲きました。

少し前から花芽が大きく膨らんでいましたが、ここ数日の暖かさのせいか、花が開きました。

ロウバイは香りが良いですね。

花の少ない時期だけに、その色と香りに、ホッとします。

もっとも、数本あるロウバイのうち、咲いているのはこの木だけですが。

| | コメント (0)

2006年1月16日 (月)

図書館

今日、国会図書館に資料調べに行き、ある論文を複写しようとしたところ、著作権法の規定で、半分しか複写できない、と言われました。

近年、著作権者保護の観点から、複写制限が厳格になっていることは知っていましたが、実際に規定に引っかかったのは初めてだったので、少々面食らいました。

自分が≪被害≫にあったから言う訳ではありませんが、この複写制限には、どんな意味があると言うのでしょう?

ある論文を研究のために参照したい人は、大昔の学者のように手書きで書き写せとでも言うのでしょうか。
それは単に学術研究というものを滞らせるだけだと思うのですが。

一つの論文を手元に置くために、何日かに分けて図書館に通うとか、その本を所蔵している図書館をはしごするとか、数人の人間で手分けして複写するとか、そんな手間と小細工をしなければならない国を、果たして文化的と言えるでしょうか。

著作権法の第一条には

この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。

とあります。

つまり、「権利の保護」は「文化の発展」のために行われるものです。

いまある論文の筆者は現在の著作権者でしょうが、それを複写して自分の論文の資料にしようとしている人間は、未来の著作権者だと言うことが出来ます。

現在の著作権者の権利を保護するために、未来の著作権者を圧迫することは、文化の発展を阻害することであり、法の趣旨に反するのではないかと、私には思えます。

まあ、私は著作権についてあまり深く考えたことがありませんから、誰か、一体、複写を制限することで、何から何の権利を守っているのか、わかるように説明してくれませんかね?

| | コメント (0)

2006年1月15日 (日)

今日は久しぶりに暖かい日です。
昨夜は雨が降ったりもしたので、少し庭木も生き生きしているように見えます。
といっても、まだ花を咲かせているものは、ごくわずかですが。

そんな中、暖かさで勘違いしたのか、蝶が1匹飛び回っています。
またすぐに冷え込みが戻ってくるという話ですが、大丈夫なのでしょうか。

その蝶を見ていて、吉川英治のある川柳を思い出しました。

どう生きていくらむ蝶の行方かな

| | コメント (0)

2006年1月14日 (土)

史実

「一領具足組」は史実を少し変えているんじゃないか、というようなことを昨日書いたわけですが、そうした史実と小説の兼ね合いについて、吉川英治はこんなことを書いています。

だから私は、小説は、すべて空想が本則だと思う。史実は、時代の地上と空気を借りるだけだ。実在人物は、その効果を摂るのにある。服装、家屋、調度、あらゆる背景、時に、微細な女の櫛一つの考証にまで、たがわないことを、留意するのは、もちろん、作家常識の当然なつとめではあるが、それに、捉われることは、好まない。(「史実ナンセンス」より)
しかし小説を書く場合事実を拾い上げるに、もし事実というものの価値を非常に極端に考え過ぎたらば、所謂いい小説は書けない。そうかというて事実を軽蔑したら絶対にいけない。どんな空想にしても、それは正確に事実は事実として究明して、そうしてあらゆるものから推理的に突き進んでいく。つまり事実でなければならないという把握がなくちゃならないと思う。
その基準は、要するに小説というものは、読んでいる読者の心理がこれは嘘だということが頭にぴんと来たらその小説は失敗と思う。だから作者がどんな空想を書いても、読者の頭の中には、どうあってもこれは事実であるという感じを持たすことが、小説というものの一つの使命というてよいと思う。(「小説と史実」より)

つまり、史実は尊重するが、小説として創作する時には、小説としてのリアリティを優先する、ということでしょう。

登場人物の心の動きや作者として読者に伝えんとする内容に照らしてみた時に、史実とは異なっても物語としてはこうでなければならないという場面が生じる、そういう場面では史実を曲げても小説としての流れを優先する。

「一領具足組」も、そうした考えで書かれているのでしょう。

| | コメント (0)

2006年1月13日 (金)

一領具足組

今年のNHK大河ドラマは、昔風に言うと「山内一豊の妻」ということになります。

さて、吉川英治は、数多くの作品を書いていますが、山内一豊を大きく取り上げた作品はありません。

ただ、山内一豊入国まで土佐の国を治めた長宗我部盛親を主人公にした作品があります。
それが表題の「一領具足組」。
雑誌『講談倶楽部』昭和4年4~8月号に連載された短編です。

関ヶ原の合戦で西軍に組したため領地・土佐を追われ、京都に隠居生活を余儀なくされた長宗我部盛親が、女好きの遊び人を装って世を欺き、大坂の陣が勃発するや、豊臣方に馳せ参じ、武士の意地を見せる。
そこに、長宗我部家の家臣たちの様々な人間模様が絡み合う。

あらすじは、こんな感じです。
ちょっと「忠臣蔵」っぽいですね。

タイトルにある≪一領具足≫というのは、長宗我部家が用いた半農半兵の家臣団で、実在したものだそうです。

ところで、物語は徳川家康から長宗我部家の居城・浦戸城明け渡しの命を受けた藤堂高虎の家臣、井出志摩守の土佐入りから始まります。

このあたりの史実に詳しくないので、少し検索してみたのですが、実際には井伊直政の家臣が、城受け取りに赴いたようです。
さらに、城明け渡しを拒んで一領具足が武装蜂起し、これを鎮圧するために山内一豊の弟・康豊が派遣されたといいます。
藤堂家はこの件では中心的な存在ではないようです。

にもかかわらず藤堂家を中心にしたのは、大坂夏の陣で長宗我部盛親軍と藤堂高虎軍が一戦を交えたという史実があるからではないかと思います。
城明け渡しの屈辱を、大坂夏の陣で晴らし、藤堂家に一泡吹かせる。
そういう物語構造にしたかったのではないでしょうか。

また、作品には桑名与次兵衛という人物が登場します。
長宗我部盛親と謀って、盛親に暗愚なふりをさせ、その存命に尽力しながら、それに気づかぬ他の家臣の恨みを買うという役どころ。
浦戸開城後は藤堂家に召抱えられ、最後は大坂夏の陣で盛親の面前で覚悟の討ち死にをすることになります。

史実では、長宗我部家の家臣に桑名次兵衛という人物がいて、これが一領具足の蜂起を抑えて浦戸城を開城し、後に藤堂家の家臣となり、大坂夏の陣で盛親の馬前で戦死しているのだとか。

この人物の存在も、あえて藤堂家を中心にした理由のような気がします。

この時期の吉川英治は、もっぱら伝奇的な作品を書いていましたが、こういう歴史小説的な作品も書いていたんですね。

| | コメント (0)

2006年1月12日 (木)

常冬の記

あまり寒いので、上記のようなタイトルの随筆が吉川英治にあったことを思い出しました。

と言っても、別に冬の寒さの厳しさを書いた随筆ではなく、鎌倉時代、寛喜年間の気候不順とそれがもたらした社会不安について書いたものです。

随筆の最後に、「四季なくして日本の文化はなかった」と書きながら、しかし、と続けます。

四季は決して、日本に和楽や優雅のみをもたらしている自然の恵みだけのものではない。夏の颱風、秋の洪水、冬の風雪、火山系に伴う地震の多さなど、自然はこの土壌の上の住民にたいして、実は酷烈過ぎるほどな災害をも不測に約しているのである。花笑い鳥歌う常春だけがお前たちの大地ではないぞと初めから明らかに示しているのだった。が、性懲りもなくすぐ忘れてしまうのがこの国の者の明るい一面でもあった。

ここ何年か、大きな水害や地震、そして今年の大雪など、自然がその厳しい一面をのぞかせることが多いような気がしますが、元々日本とは、そういう国土なのでしょう。

そして、そのことを都合よく忘れることで、前向きに生きてきたのが日本人なのかもしれません。

ただ、それも度が過ぎると、自らが作り出した文明を根底から突き崩してしまうような愚かな行動に至ってしまう。

昨年末からの耐震強度偽装問題などを見ていると、そんな気になります。

| | コメント (0)

2006年1月11日 (水)

新雑誌

昨年創刊された『今日から悠々』という季刊雑誌があります。

いま、その創刊第2号が出ていますが、そこに元当館事務長である城塚朋和氏の「名言・名句による 吉川英治の人生観」という文章が掲載されています。
ご興味のある方はご一読ください。

ところで、この雑誌、50歳以上の方を対象としたものだそうで、そのためか活字がすごく大きくなっています。
表紙に≪大きな活字の人生教養誌≫とうたっているぐらいです。

これからの出版物には、こういう配慮も必要なのかもしれません。

読みやすいですよ。

| | コメント (0)

2006年1月10日 (火)

梅の花

寒い日が続きますね。

日本海側を中心に各地から大雪のニュースが伝わってきます。
ところが不思議なもので、東京周辺ではほとんど雪が降っていません。

雪どころか、雨もほとんど降らないため、草思堂庭園内もすっかりカラカラに乾いてしまっています。

毎年、草思堂庭園内で一番最初に咲き始める梅の木があります。
早い年ならば、前年の12月のうちに花がほころび始めるのですが、今年は寒さと水不足でまだ咲き始めません。

この分では今年の梅は全体に開花が遅くなるかもしれません。

大雪に苦しんでいる方には申し訳ないのですが、同じ所にばかり降らないで、こちらにも少し降ってもらいたいものだ、などと思ってしまいます。

| | コメント (0)

2006年1月 9日 (月)

成人の日

本日は月曜日ですが、成人の日のため、開館しています。
といっても、私などは1月15日が成人の日だった時代の人間ですから、どうも今の第二月曜日が成人の日というのは、馴染めませんが。

ところで、毎年一家族か二家族ほどは、吉川英治記念館に成人の日の記念写真を撮りにいらっしゃいます。
今年も、ご近所の方らしいご家族が記念撮影にいらっしゃいました。

吉川英治が暮らした母屋は江戸時代の日本家屋ですから、これを背景にすると和服が映えるんですよね。
振袖を着た女性の記念撮影には、もってこいです。

午後2時くらいまでが、日当たりも良くて、ちょうどいいですよ。

来年はぜひどうぞ。

ちなみに、本日開館しましたので、明日は休館になります。
ご注意ください。

| | コメント (0)

2006年1月 8日 (日)

柿の種

昨日ご来館になったお客様からこんな質問を受けました。

吉川英治の「けんかすな兄よ弟よ柿のたね」という句は、どういう意味なんですか?

私は、「『同じ柿の実の中のタネ同士、つまり血を分けた兄弟なのだから、けんかするなよ』という意味でしょう」と答えました。

ところが、質問をしたお客さんが、この回答を聞いて怪訝な顔をしています。
そしてややおいて、

あ、おつまみの「柿の種」じゃないんですね

・・・・・・・・・!?

まあ、「『柿の種』はあられもピーナッツも両方あるから美味しいのだぞ、だから兄弟は仲良くしろよ」と解釈しても、意味は通らないこともないですが(笑)

| | コメント (0)

2006年1月 7日 (土)

俳句の恩

年末年始は古書市の多い時期です。
たくさん送られてくる目録の中で、気になったものがあったので、購入してみました。

岩村通世「俳句の基礎知識」(組合書店 昭和25年8月10日)という本で、これに吉川英治の序文が掲載されていました。

そこにこんな一節があります。

私は、俳句にたいし、ひとつの「俳句の恩」ともいふべき感慨をもつてゐる。少年時、私の家は貧しく、私は不良にちかい子であつた。しかし、ある夕、露店の古本屋で買つた五銭の芭蕉句集が、ふと、私の伴侶となり、いつか、うろ覚りに、俳句をとほして、自然を観る眼を教へられ自然をとほして生活のたのしみ方を知り、そして貧しい家の中の母や弟妹のすがたにも、あはれと、慈しみを、抱くやうになつた。また、次第に、文学に眼をひらいてゆく契機にもなつた。拙い著作に、生涯を托し、今日のあることは、いはゞ五銭で買つた芭蕉句集のおかげである。母の愛についで、俳句の恩をいまも思ふのである。

この文章を書いた頃、吉川英治は、いま記念館のある吉野村(現青梅市)に住み、地元の俳句の会=柚木吉野吟社の同人たちと交わりを持ち、その句会に参加したりしていました。
俳句の指導を行い、請われて同人たちに俳号を与えたりしていました。

吉川英治がそうした交流の中に込めていた思いが、この文章から読み取れます。

敗戦直後の苦しい時代の中にあっても、俳句を通して自然に眼を開き、生活の楽しみを知り、そして生きる喜びを心に持って欲しい。

そういうことだったに違いありません。

60年前に比べて、いまは格段に豊かになりましたが、そうなったらそうなったで、苦しみの種は尽きません。
自然に眼を開き、生活の楽しみを知り、生きる喜びを心に持つことは、現在でも必要なことでしょう。

| | コメント (0)

2006年1月 6日 (金)

新年

あけましておめでとうございます。

本日から館の営業を開始するとともに、当ブログも再開いたします。

どうぞよろしくお願いいたします。

kagamimochi

| | コメント (0)

« 2005年12月 | トップページ | 2006年2月 »