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2006年1月14日 (土)

史実

「一領具足組」は史実を少し変えているんじゃないか、というようなことを昨日書いたわけですが、そうした史実と小説の兼ね合いについて、吉川英治はこんなことを書いています。

だから私は、小説は、すべて空想が本則だと思う。史実は、時代の地上と空気を借りるだけだ。実在人物は、その効果を摂るのにある。服装、家屋、調度、あらゆる背景、時に、微細な女の櫛一つの考証にまで、たがわないことを、留意するのは、もちろん、作家常識の当然なつとめではあるが、それに、捉われることは、好まない。(「史実ナンセンス」より)
しかし小説を書く場合事実を拾い上げるに、もし事実というものの価値を非常に極端に考え過ぎたらば、所謂いい小説は書けない。そうかというて事実を軽蔑したら絶対にいけない。どんな空想にしても、それは正確に事実は事実として究明して、そうしてあらゆるものから推理的に突き進んでいく。つまり事実でなければならないという把握がなくちゃならないと思う。
その基準は、要するに小説というものは、読んでいる読者の心理がこれは嘘だということが頭にぴんと来たらその小説は失敗と思う。だから作者がどんな空想を書いても、読者の頭の中には、どうあってもこれは事実であるという感じを持たすことが、小説というものの一つの使命というてよいと思う。(「小説と史実」より)

つまり、史実は尊重するが、小説として創作する時には、小説としてのリアリティを優先する、ということでしょう。

登場人物の心の動きや作者として読者に伝えんとする内容に照らしてみた時に、史実とは異なっても物語としてはこうでなければならないという場面が生じる、そういう場面では史実を曲げても小説としての流れを優先する。

「一領具足組」も、そうした考えで書かれているのでしょう。

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