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2006年2月28日 (火)

青梅の吉川英治展

本日から特別展「青梅の吉川英治」を開催します。

吉川英治は、昭和19年3月から28年7月までの9年5ヶ月、西多摩郡吉野村で過ごしました。

現在の青梅市柚木町、吉川英治記念館となっている屋敷が、その時の住まいです。

吉川英治にとって吉野村時代は、大東亜戦争の敗戦の挫折から断筆し、晴耕雨読の生活の中で己を見つめ直し、試行錯誤の後、「新・平家物語」の執筆に到る、という自省と再起の時代でした。

そんな中、地元の人々と交流を持ち、また、吉野村の発展に様々な足跡を残しました。

そうした吉野村時代の様子を、地元に残る遺墨や写真を通して紹介しています。

観光でお見えになった方はもちろん、地元の方々にも、吉川英治がいかに吉野村、そして青梅市に深い関わりをもっていたかを知っていただければと思います。

会期はとりあえず5月28日まで。

その後、地元の別の方がお持ちの資料に内容を差し替えて、展示を継続する予定です。

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2006年2月27日 (月)

青梅の吉川英治

明日から、特別展「青梅の吉川英治」を開催します。

吉川英治の青梅時代の足跡を地元に残る資料などで展示するものです。

ただいま展示替え作業中。

展示内容はおいおいご紹介していきます。

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2006年2月26日 (日)

母屋

そう言えば、肝心の母屋がどういう建物か、ここで書いていない気がします。

現在吉川英治記念館となっている旧吉川英治邸は、地元の豪農・野村家の屋敷を買い取ったものです。
その母屋は、棟札によれば江戸時代末期、弘化4年(1848)に建てられたもののようです。
まもなく築160年ですね。

内部は3階になっていますが、野村家は養蚕を行っていたので、2階はお蚕部屋として、3階は物置にしていたようです。
先日引用した吉川英治の文章にもある通り、1階の半分は元々土間で、その土間部分の上に2階があります。

吉川英治が、その土間に床をつけて部屋にしたことも、先日の引用文にありますが、2階も、畳を入れて普通の部屋として利用していましたので、部屋数はかなりになります。
玄関の間や台所、あるいは離れを入れれば13部屋になりますか。

玄関を公開しても、その半分くらいしか見ることは出来ないのですが、以前は全く見えなかった応接間などが見られるようになっていますので、ぜひご覧いただきたいと思っています。

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2006年2月25日 (土)

座敷

先日から公開している母屋玄関の残りの一方、入って左手には、仏間と座敷が見えます。

ここは、以前から、吉川英治の命日である英治忌(9月7日)には来館者の皆様にお上がりいただいているところなので、その経験のある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

現在、玄関のところに、昭和26年に撮られた座敷の写真を展示しています。
その写真を見ると、吉川英治が、この座敷で執筆をしていたことがわかります。

実は、現在、母屋の隣にある離れに書斎の様子を復元していますが、この座敷を書斎にしていた時代もあるのです。

詳しく言うと、昭和19年に転居してから、昭和23、24年頃までは、離れを書斎にし、昭和25年の「新・平家物語」執筆の頃から座敷を書斎にし始めたようです。

座敷は二間続きになっていますが、そのうち床の間のある一間を寝室に、玄関からも見える一間を書斎にしていたそうです。

朝、起床すると、そのまま文机につき、食事も歯磨き洗顔もそこで済まし、トイレに立つ以外はずっと文机から離れなかった。

執筆が波に乗ってくると、そんな様子だったそうです。

しかし、大きな屋敷とはいえ、1階の4分の1を吉川英治1人が占めていたわけですから、家人はさぞ気を使ったでしょうね。

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2006年2月24日 (金)

囲炉裏

一昨日から公開している母屋の玄関に入ると、正面に居間があります。

今回、こういう形で居間も来館者の方に見えるようにしようという話になった時、吉川英治長男で、当館館長の吉川英明の口から、「あそこは元々囲炉裏があった」という話が出てきました。

現在は、掘りごたつになっている場所は、元々は囲炉裏だったというのです。

それならば、吉川英治在住当時に戻すということで、囲炉裏を復元しようということになり、先日来、自在かぎや鉄瓶などを心当たりに尋ねて探しています。

今日、ちょっと良さそうな自在かぎが見つかりました。

古いものなので、汚れていますが、ちょっときれいにして利用してみようと思っています。

さて、どんな感じになるでしょう。

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2006年2月23日 (木)

応接間

昨日から公開を始めた母屋玄関の部分は、元々は土間でした。
元来江戸時代末期の農家の屋敷なので、当時そのままの様子を残していたのです。

そこを吉川英治が転居後に改造したものです。

入口の洗い出しのタタキは農家によくある土間で、以前には、これが台所と炉部屋の方へ、つづいていた。そして、風呂に入るにも、台所をするにも、下駄をはいてやることになっていたのを、現在のように、直したのである。

と、随筆『ぼくのいなかや』(「折々の記」所収)に書かれています。

玄関右手の応接間は、転居当時は五右衛門風呂があった場所を改造したものですが、同じ随筆にこう書いています。

五坪の応接は、俗に“ゲヤ”と田舎でいう屋根裏じかのいわゆる下屋である。以前は飼蚕部屋になっていたのを、かんたんに改造した。これは、ぼくの設計にしては、大出来と思っている。
というのは五坪の三分の一を、切り落しにして、椅子と卓にし、あとを畳と平床にしたことにある。屋根裏は、前にいったように天井なしなので、竹でかくした。この竹のならべ方は、この辺の農家の炉部屋では、よくやっていることなのである。つまり煤煙ふさぎによいのであろう。
切り落としカマチに曲線をとったこと。床わきの出入口のふすま口を、一尺五寸、奥へふみ込ませて凹みを取ったことなどが、この和洋式応接を、たった五坪とは思わせない広さに感じさせている魔術である。(略)

自画自賛ですね。

この吉川英治ご自慢の応接間、今度の母屋公開によって、その様子をご覧いただけるようになりましたので、その自慢ぶりを確かめにお出で下さい。

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2006年2月22日 (水)

母屋公開

吉川英治記念館では、開館以来、英治忌(吉川英治の命日)を除いて、草思堂母屋は非公開としてきましたが、この度、玄関部分まで来館者の方に公開することになりました。

玄関は、入って左手が仏間・座敷、正面が居間、右手が応接間となっていますが、それぞれ玄関側の引き戸をガラス戸に換え、中をご覧いただけるようにしました。

当初予定より早い公開で、内部の展示はまだ出来上がっていませんが、とりあえず暫定的にでもご覧いただけるよう、本日から玄関を開放しました。

いままでより、吉川英治を身近に感じられるのではないかと思います。

ぜひお運び下さい。

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2006年2月21日 (火)

勝負の世界

今日は、将棋の永世名人・木村義雄の誕生日だそうです(1905年)。

吉川英治と棋士の付き合いでは、升田幸三とのエピソードを何度か書いていますが、木村義雄とも交流をもっていました。
昭和26年(1951)に六興出版から出た木村義雄の著書「勝負の世界」には吉川英治が序文を寄せています。

木村義雄氏にぼくがなお嘱してやまないことは、棋道の名人からさらに人間的名人につきぬけてゆくことである。一道の名人位に坐ったほどな人ならなほそこまで行けないはずはない。そこまで行きぬけたら本当の名人であり、将棋もまた単なる娯楽でなく偉大な人生鞭撻の道といつてよい。

なんだか宮本武蔵っぽい感じですね。

一方、そう書かれた木村義雄は、本文中でこんなことを書いています。

それから神仏だが、私は神仏をたのまない。勝負の世界は、神仏に祈願をこめたから勝てるなどといふ、生やさしいものではないと信じてゐるからだ。(略)
無論私は神仏の前にゆけば頭を下げる。しかし、この勝負に勝たしめ給へとは祈らない。

これはまるっきり、宮本武蔵の「独行道」にある『神仏は貴し、神仏をたのまず』です。

剣も将棋も勝負の世界は相通じるということでしょうか。

いや、この言い方自体、「五輪書」の中で

其道(注・武士の道)にあらざるといふとも道を広く知れば物毎に出あふ事也。いづれも人間におゐてわが道わが道をよくみがく事肝要也。

と言っているのと似てしまいます。

こういう≪勝負≫のような事柄での宮本武蔵は、トランプのジョーカーみたいなものですね。

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2006年2月20日 (月)

消えるか消えないか

今日2月20日は、歌舞伎の日なのだとか。
慶長12(1607)年のこの日に、出雲の阿国が江戸城で将軍徳川家康や諸国の大名の前で初めて歌舞伎踊りを披露したことに由来するのだそうです。

歌舞伎と言えば、吉川英治の作品も何度か舞台に上っており、その関係から吉川英治は歌舞伎役者とも交流をもっていました。
名優と言われる六代目菊五郎とも親しかったのですが、その六代目と、こんな話をしたことがあるそうです。

六代目(菊五郎)が生きていた頃、ある時、彼が沁々、ぼくに云った。「うらやましいな、あんたの仕事は」「なぜ」「だって、文章は残るだろ。そこへゆくと、舞台の芸なんて、消えちまうもの」――ひと息、おいてから、こんどは、ぼくの方から云った。「うらやましいナ。君の仕事は」「へエ、何がね」「だって、舞台の芸は、消えちまうが、書いたものは、消えないもの。残したくないものまで残るもの」「……あ。そうか」と、笑いあったことがある。
(「折々の記」所収『消える・消えない問答』)

同じ随筆で、徳川夢声からも、文章も映画も後に残るけど、テレビは消えちゃうから楽だ、と言われたとも書いています。

いまや、映像の記録媒体は進歩し、舞台もテレビもその気になればいくらでも後に残せるようになりました。
おかげで、いまや売れっ子になったタレントが、売れない時代の映像を見せられて恥ずかしがる、なんてテレビ番組が、いくらでも見られるようになりました。

しかし、たいていの人がそうだろうと思うのですが、見ようと思って録画したものでも、結局見ないままにしてしまうものです。
残すことが出来るからといって、全てに残すほどの価値があるわけではないのです。

ただ、視点を変えれば、そうした残すほどの絶対的な価値があるわけではないものも、その時々の社会を構成している要素であり、その意味において、資料価値はあります。

そういう意味では、どんなものも消えてはならないのでしょう。
残したくないものでも。

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2006年2月19日 (日)

教科書

以前、吉川英治の文章が、どういう風に教科書に採用されているかを、調べてみたことがあります。

吉川英治記念館には、何らかの形で吉川英治が取り上げられている教科書が13冊所蔵されています。

その内訳が、道徳9冊、国語4冊と、なぜか道徳の方が比重が大きいのです。
しかも、国語の4冊のうち1冊は文学史、1冊は書道なのです。

さらに細かく調べるべく、東京・江東区にある教科書図書館を訪ねました。
1992年のことです。

その時のメモを、転載してみましょう。

中学校では吉川英治本人の文章は小説からは「扇の的」(「新・平家物語」)のみ。書簡から「吉川英明宛」「杉本苑子宛」の2つが採用されている。
高等学校では本人の文章は「門出」(「忘れ残りの記」)、「一門都落」(「新・平家物語」)の2つが採用され、書簡では「吉川英明宛」が採用されている。
このうち「吉川英明宛」書簡は中学校と高等学校で重複する。

戦後の平成3年までの中学・高校の国語教科書を調べた結果です。
それを、以下のように分析しています。

これらの文章の役割はどのようになっているだろうか。
まず、「扇の的」と「一門都落」の2つは古典の部分で取り上げられている。いずれも、古文とセットにされており、古文と現代人である生徒をつなぐ、媒介として扱われている。
「吉川英明宛」「杉本苑子宛」の2つの書簡は当然ながら手紙文の文例である。
ということで、鑑賞するための文章として採用されているのは、「門出」のみということになる。
しかし、これは自叙伝で小説ではない。しかも、この「門出」という文章は、同じものが記念館所蔵の道徳の教科書にも採用されているのである。
こうした事実から、国語教科書における吉川英治は、作家としては、せいぜい古典を現代人の身近なものとした、という程度の評価で、むしろその人間性や人格の方に教育的価値があると見なされている、といえるであろう。

このことが頭にあったので、「中学総合的研究 国語」での大衆文学の評価のされ方が印象深かったのです。

ところで、教科書図書館で興味深かったことが一つ。

国語教科書を調べ終えた私が、道徳の教科書も調べようと職員に声をかけてみると、所蔵されていない、というのです。
道徳という教科には、≪教科書≫はなく、全て≪副読本≫である、だから収集の対象としていない、という説明でした。

10年以上前の話ですから、今はどうか知りませんが、おかしな話ですよね。

おかげで、道徳の≪教科書≫でどの程度、吉川英治が採用されているのかは、確認できませんでした。
それっきり、調査を中断したままです。

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2006年2月18日 (土)

読んでみよう

その「中学総合的研究 国語」の吉川英治の項目ですが、ひとつだけ、どうもしっくりこないことがあります。

この参考書では、人名辞典のように作家名が列挙されていて、その業績を解説した後に、『読んでみよう』という、作品の一節を抜き出して紹介しているコーナーがあります。

吉川英治の場合は「宮本武蔵」が取り上げられているのですが、抜き出されているのが、こういう文章なのです。

会ったにせよ、武蔵が、自分の一心を、どの程度までうけ容れてくれるだろうか。彼女は、武蔵に会うよろこびとともに、武蔵に会ってのかなしみにも、胸が痛んで来るのであった。

どうでしょう。
あまり「宮本武蔵」らしくも、吉川英治らしくもないような気がするのですが。

月並みかもしれませんが、やはり、冒頭の

――どうなるものか、この天地の大きな動きが。
もう人間の個々の振舞いなどは、秋風の中の一片の木の葉でしかない。なるようになッてしまえ。
武蔵はそう思った。

の部分か、最後の

波騒は世の常である。
波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い、雑魚は踊る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。

あたりが、「宮本武蔵」っぽいんじゃないでしょうか。

ちなみに、この部分は……と続けようと思って1時間ほど探してみたのですが、どうも見つからないのです。
たぶん、お通の言葉だと思うのですが、心当たりのページを繰って見ても出てこないのです。

このままでは立場上マズイので、もう一度探してみよう。

追記

わかりました→ここ

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2006年2月17日 (金)

学習参考書

吉川英治の名と文章が掲載されているということで、旺文社の「中学総合的研究 国語」という学習参考書が送られてきました。

『近代文学の流れを知る』という項目で、1/3ページを使って吉川英治が紹介されています。

私が中学生だった頃、文学史の授業の中で吉川英治の名が出てきた記憶はありませんから、ちょっと面白く感じます。

また、同じ章に、『近代の文芸用語』という用語解説のコーナーがありますが、そこでは≪大衆文学≫について

文学の永遠のテーマ≪人間を描く≫という点で、純文学に比して何ら見劣りすることのない、優れた未評価の作品が目白押しである。

と書かれています。

さらに言えば、≪純文学≫について

純粋に芸術的感興を追求する小説の意味だが、興味本位の娯楽的通俗小説とされる「大衆文学」との差は明確でなく、現在では学問的には意味を成さなくなっている。

とも書かれています。

学校教育の中での大衆文学への評価が、こうした状況にあるとはうかつにも気がつきませんでした。

教科書ではなく学習参考書だから、ということはあるのかもしれませんが。

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2006年2月16日 (木)

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ようやく梅がほころび始めました。

元々、ここ吉野梅郷の梅は3月中旬に満開になる遅咲きな梅ですが、この写真の木は、早い年ならば12月には咲き始める早咲きの梅です。
それがようやく今になって数輪、花を開き始めました。

今日の雨で乾燥が解消され、気温も高くなれば、開花が進むでしょうが、それでも全体としては満開の時期が遅くなりそうです。

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2006年2月15日 (水)

海外での日本文学

海外における日本文学の受容ということを語る時、見過ごされがちなのですが、吉川英治の「宮本武蔵」は非常に大きな位置を占めています。

講談社インターナショナルの調べでは、1999年5月現在のデータとして、アメリカ・イギリス・オーストラリア・ドイツの4カ国で翻訳出版された「宮本武蔵」発行部数は、合計1,007,119部であるとのことです。
しかも、「宮本武蔵」が翻訳出版されている国は、この他にもフランス・インドネシア・スウェーデン・ノルウェー・オランダ・イタリア・ルーマニア・韓国・ブラジル・ブルガリア・スペイン・ハンガリーなどがありますし、正式な許諾を得ずに発行された“海賊版”も出回っていますから、実際の数は、これを大きく超えることが推測されます。

果たして、日本の文学作品で、海外において100万部以上も発行された作品が他にあるでしょうか。

数年前、ある格闘技の試合をテレビで見ていた時、見覚えのある絵を刺青にしている外国人選手がいました。
確か東欧の選手だったと思います。
その絵は、生頼範義が描いた宮本武蔵の絵。
そして、それは英語版を中心に外国語版「宮本武蔵」のいくつかで表紙絵に採用されたものでした。

格闘家であるその選手が、宮本武蔵に心酔し、その刺青を入れたことは想像に難くありません。
そして、それが吉川英治の作品を通してであろう事も。

これは小さな一例にすぎませんが、確かに、吉川武蔵は世界に広がっているのです。

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2006年2月14日 (火)

ランキング

昨日触れた「史上最高の小説ベスト100」には、日本人の作品では川端康成の「山の音」と紫式部の「源氏物語」の2作品が入っています。

これはまだ良い方で、欧米で企画されたこうしたランキングに日本人の作品が入っていることは、滅多にありません。

アメリカの出版社が行った「20世紀の小説ランキング・ベスト100」、イギリスのBBCが行った「世界最高の小説ベスト100」にも日本人の作品は見えません。

吉川英治は、フランス人作家モーリス・デコブラが来日した際に、吉川英治宅を訪問した際のことを随筆に書き、こう書いています。

デコブラ氏ぐらいな作品を書く人間は、日本には若い人の中にも幾人もいると思う。川口松太郎君あたりと並べて見たって、ひいき眼なしに、川口君の方がよっぽど増しだ。もし、直木三十五を仏蘭西に生れさせたら、デコブラを給仕につかうぐらいな金持になっているだろう。
それが、日本の文壇に生れたばかりに、ボロ自動車一台持ちかねたり、所得税未納者としていじめつけられたりしている。(略)
産業や軍備ばかりでなく、現状では、日本の文壇は、外国作家のそれと比べても、少しも質が劣っているとは僕には思われない。純文学の若い作家などには、そういう信念があるだろうか。(略)

なにも、欧米人に評価されることがいいことだとは思いません。
しかし、欧米人によるランキングを見て、「これが入っているんなら、日本の○○の方が、ずっと良い作品だ」という思いにかられる人は多いのではないでしょうか。

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2006年2月13日 (月)

飢え

吉川英治は、美味い不味いの前にまず胃袋を満たさねば話にならない、というような生活を少年時代から長く過ごしてきました。
そのことは、自叙伝「忘れ残りの記」に詳しく書かれています。
「どうも、ぼくのこの四半自叙伝は、貧乏ばなしに尽きてい、読者も又かと思われるだろうし、書いているぼくも実は気がヒケ出しているのである」と自分で書くほどに、先の見えない貧乏暮らしが続いた青春時代でした。

住み込みで働く英治の奉公先へ幼い弟が「家中きのうから何も食べていない」と泣き込んできたり、いよいよ食べるものに困って畑からジャガイモを盗んだり、そんな暮らしが赤裸々に書かれています。

食通に嫌悪を感じるのも、無理からぬところでしょう。
しかし一方で、こうも書きます。

ハムスンの「飢え」の中に、一週間も胃に物を入れない奴が、路傍の牛骨を拾って、いきなり、かぶりついた後で、へどを吐くところがあるが、彼はまだ幸福だった、なぜなら、独身者だった。
独身者なら、何も、ハムスンの「飢え」の人生ぐらいは、大した事業じゃない。第一、自分の体一つのくせに、あんなに食えなくなってるのが滑稽だ。
(「草思堂随筆」所収『歳寒飢語』より)

「お前、甘っちょろいよ」ということでしょう。

ちなみに、このハムスンの「飢え」は、先年発表された『史上最高の小説ベスト100』の中に含まれています。

これは、世界54ヶ国の作家100人の投票で決まったものだそうですが、受け取り方は人それぞれですね。

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2006年2月12日 (日)

食通・続き

吉川英治の≪食通≫攻撃は他にもあります。

柳橋や築地など、一流どこの饗膳は、あわれ、味覚の奈落である。そこのお客は、通や思い上がりばかり食べて、真の食味を知らず、冥加を知らない。
(「折々の記」所収『めしや変遷』より)

もっとも、そう書いている吉川英治にも、あれが美味いの、これが不味いのといった、食にまつわる文章がないわけではないのです。
また、一流のもてなしの膳の上の細やかな気遣いに感服したりもしています。

それでいて、上のような言葉になるのは、やはり、≪食≫が「生きる」ということと直結する暮らしをした経験があるからなのでしょう。

食うことは生きる喜びであり、明日を生きるための、文字通り≪糧≫である。
ズシリと手にかかるどんぶりの重みに、一日の労働を乗り越えた充実感を実感する。

そういう意味においての≪食≫。

そして、その枠内で、より美味いものを求めはするが、それ以上となれば、もはやそれは生きる喜びとは別次元の枝葉でしかない。

そういう考え方だったのではないでしょうか。

上に続けて、こう書いています。

庶民の胃ぶくろは、うんと正直だ。だいいち、答えを知っている。よろこべば、満腔でよろこび、そのカロリーは社会力の石炭だ。

「庶民の舌」ではないところが、ミソなのだと思います。

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2006年2月11日 (土)

IMG_6783

マンサクが咲き始めました。

春一番最初に「まず咲く」から、マンサクという名になったとも言われますが、やっと今ごろ咲いたのか、という感じですね、今年の場合は。

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2006年2月10日 (金)

食通

お菓子といえば、吉川英治はこんなことも書いています。

到来物の生菓子のふたをひらく。もらい物をくさすわけではさらさらない。ふと、寸感をもったのである。
きれいだ。菓子とはいえ、光琳梅だの、椿の花だの、意匠、色の配合、一種変わった手芸品ともいえよう。手がこんだものだと感心する。だが、これは菓子だ。菓子にすぎない。手芸品を食べるという感じを伴うのは妙なものだとおもう。
(略)
むしろ、素朴な“ゆであずき”が美味い、と正直にぼくらはいいたい。(後略)
(「折々の記」所収『デザイン過剰』より)

青少年期に社会の底辺の暮らしを味わったからでしょうか、吉川英治は、食については素朴で実質的な、身近なものが良いという思いがあったのでしょう。

なにしろ、若い頃は、1人が1個ずつの卵で、卵かけご飯を食べるのが夢だった(つまり、普段は家族の人数分より少ない卵を1つの碗の中で混ぜ合わせて、みんなで分けていた)と語っているくらいです。

そこで、こういうことになります。

食通の世界なんて、すぐ突き当たるものである。美味い物食いを追う食通などは、おおむね“通の沽券”と“通のジレンマ”ばかり食べているようなものだ。醍醐味は、苦労の遊戯にあると云うならそれも遊びで結構なことだ。しかし結局、死に際には、案外正直に、「水がいちばん美味いや」なんていうかもしれない。
(「折々の記」所収『市味山心』より)

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2006年2月 9日 (木)

蜜パン

お菓子の話では、吉川英治は≪蜜パン≫というものが好きだったようです。

抹茶の菓子にも、あれこれほとほと上菓子には飽きてきて、近ごろはまま子供の頃によく食べた“蜜パン”なるもので一服やったりしている。食パンに黒蜜をなすッたものである。ところがその蜜にまたいいのが少ない。そこで葛餅では古舗の名のある亀戸の船橋屋から蜜だけ時々もらってそれをやる。
(随筆『舌のすさび』より)

東京の亀戸天神近くにある船橋屋は、今も続く有名店ですが、そこから肝心のくず餅は置いておいて、黒蜜だけもらっていた、というわけです。
そして、この続きがあります。

クズモチ屋の古舗へ蜜だけくれというのも何だかわるい気がするのであるが、じつは或る年の正月、その船橋屋の屋根看板をつい書かされてしまったことがあるのである。(略)こっちは屠蘇機嫌か何かだったにちがいない。あとではどんな字をぬたくッたやら覚えてもいなかった。また気味が悪くて自分では以後見にも行っていない。しかし一場のそんな酒の上の業が、蜜となったかと思うと、おかしくもあり、蜜パンの味もまた、わたくし独りにはかくべつな風味がある。

船橋屋には、今もこの看板が残っています。
屋根看板と書いていますが、今は店内に掲げてあります。

どんな字が「ぬたくッ」てあるのか、興味のある方は、足を運んでみてください。

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2006年2月 8日 (水)

お菓子

今朝の新聞記事に、調布市の武者小路実篤記念館でバレンタインチョコを売り出すという記事がありました。

バレンタインチョコのような限定的なものはあまり見かけませんが、今はどこの博物館・美術館もミュージアムショップに力を入れていて、こうしたお菓子類が売られていることも珍しくなくなりました。

かくいう吉川英治記念館でも、吉川英治ゆかりの和菓子処・紅梅苑のお菓子を販売しています。
この店は、吉川英治夫人の吉川文子によって始められたものです。

吉川英治記念館と紅梅苑は2キロほど離れた場所にあるため、徒歩のお客様だと、20分ほど歩かなければなりません。
吉川英治記念館の近くに吉川英治ゆかりのお菓子屋がある、という情報は、多くの方がご存知なのですが、2キロも離れているとまではご存じない方も多く、「そんなに離れてるの?」と驚かれることもしばしばあります。
そのため以前から、「吉川英治記念館にも紅梅苑のお菓子を置いてくれれば便利なのに」という声が寄せられており、ミュージアムショップの改装を機に販売を始めたものです。

スペースの関係もあり、限られた品種しか置いていませんが、前日までに何をいくつ欲しいというご連絡をいただければ、普段は置いていない商品でも取り寄せておくことも出来ます。

特に団体などの場合、吉川英治記念館と紅梅苑の両方に立ち寄る時間がスケジュール的に取れない、という時には、あらかじめご連絡いただければ、必要な数を吉川英治記念館で受け取れるようにすることも可能です。

ぜひご利用下さい。

それにしても、ひとつだけ悔しいのは、ミュージアムグッズよりも、お菓子の方が売り上げが良かったりすることです。
全体としての売り上げが伸びることはうれしいのですが、なんだか、ちょっと、負けたような気になってしまうのです(苦笑)

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2006年2月 7日 (火)

オンデマンド

ある資料をどうしても見たいので、自分が見学に行く時にそれを展示しておいてもらえないか、というご依頼を受けることがたまにあります。
今日もそんなお電話がありました。

私自身、他の博物館に出かけて、「あの資料が見たくてここに来たのに展示してないの?」とガッカリすることが、あったりします。

ですから、そういうことを望まれるお客様の気持ちは、わかるのです。

博物館の資料の中から、自分が見たいものを選択して、事前に伝えておけば、実際に見学に行った時にそれが展示されている、といったオンデマンドな博物館があれば、そんな有難いことはありません。

しかし、全ての人のそうした要求に応えることは、不可能です。
それぞれに異なる要求に応じて、何でもかんでも展示できるような空間を確保することは出来ませんし、労力的にも困難です。

美術品コレクションを持っている旅館が、常連のお得意様から、「今度泊まりに来た時には、あの掛軸を出しといてよ」などと言われて、それを次の宿泊の際に床の間に掛けておく、などということは出来るでしょう。
先日ご来館になった旅館・岩惣の支配人は、実際にそういうことをしているとおっしゃっていました。

ただし、それはお互いのことをよく分かっている常連さん相手だから出来ることでしょう。

面識もない方から、いきなりの電話一本で出来ることではないはずです。

デジタルアーカイブとか、バーチャルミュージアムとかいった、資料をデジタルデータ化して閲覧できるようにしたシステムは、そうした要求に対する一つの回答ではあるでしょう。

しかし、博物館の価値は、実際のモノがそこにある、という点にあります。
実際にそのモノを目にすることが出来るからこそ、人はその場所まで足を運ぶのです。

パソコンのディスプレイで見られればそれで良い、とはいかないところが、人間の人間たるところかもしれません。

ただ、理解していただきたいのは、博物館が提供するサービスの対象は、現在を生きている人間だけではない、ということです。

ちょっと大きな口を叩かせていただくと、100年後、1000年後の人々にも、博物館はサービスしなければならないという宿命を持っています。
そのために、展示と保存のバランスを考えなければなりません。

そのために、一定のローテーションで、同じ資料にばかり負担がかからないように、展示替えをするわけです。

そのあたりのことをご了解いただければと思います。

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2006年2月 6日 (月)

資料の寄贈

浜松にお住まいの方から、色紙を1枚ご寄贈いただきました。

吉川英治の「茄子畑 時の大臣(おとど)の 母者人」という句に、杉本健吉の茄子の絵が添えられたものです。

昭和28年5月30日。
雑誌『週刊朝日』関東地区愛読者大会が東京の歌舞伎座で開催されました。
これは、吉川英治の「新・平家物語」連載3周年と徳川夢声の「問答有用」連載100回を記念したもので、さらに、当時行われていた『週刊朝日』表紙コンクールの抽選会を兼ねていました。

表紙コンクールというのは、期間中に『週刊朝日』の表紙を飾った画家の絵を対象に読者投票を募り、投票者の中から抽選でその絵の原画をプレゼントするという企画。
この時が第3回で、対象となる画家には片岡球子や曽宮一念などの名があります。

寄贈者の方は、読者欄の投稿者の中から編集部が選んだ全国12地区の読者代表のうち、東海地区代表としてこの愛読者大会に招待された方だそうです。
そして、その時に記念として贈られたのが、この色紙なのだそうです。

以来、50年以上大事にしてきたが、自分も80歳を越えたので、どうすればこの色紙にとって一番良いかと考えて、吉川英治記念館に寄贈することに決めたと、こちらからかけたお礼の電話に対して、そう話してくださいました。

とてもうれしいことです。
ありがとうございます。

寄贈者の方の思いに応えられるよう、大事に、末永く活用していきたいと思います。

まずは、茄子の絵柄なので、今年の夏の時期に展示して、皆様のお目にかけたいと思います。

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2006年2月 5日 (日)

今日も寒いですね。
お昼過ぎになっても、日陰にはこんなに霜柱が。

IMG_6778

これで5cmほど伸びています。

私は、青梅に住み始めるまで、霜柱を見たことがありませんでした。
多摩地区は、土質や気温が霜柱の出来やすい条件を持っているようです。

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2006年2月 4日 (土)

トラックバック

先日書き忘れましたが、現在、このブログでは、トラックバックを表示しない設定にしてあります。

トラックバック自体はつけられますが、ページ上に表示はされません。

昨年の一時期、トラックバック・スパムが相次いだためにそのようにしてあります。

そのようにしてからはトラックバック・スパムはついていません。

もうしばらく様子を見たうえで、トラックバックの表示を復活させようと思っているところですが、当面はこのままでおくつもりです。

ご了解下さい。

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2006年2月 3日 (金)

今朝の読売新聞・多摩版に、吉川英治記念館・草思堂庭園の青梅草の記事が載りました。

これがその青梅草です。

IMG_6768

青梅に原生する福寿草の野生種です。

先日掲載した福寿草の写真と比べていただくと、茎が細長く伸びた上に花が咲くのが特徴であることがお判りいただけるのではないかと思います。

地元の人の話では、昔は園芸用に青梅から出荷していた時期もあったそうですが、採取しすぎたことや宅地開発されてしまったことなどで数を減らし、今ではかなり珍しくなっているものです。

草思堂庭園では、10数年前から毎年花を咲かせていましたが、3年ほど前に地元の方から譲り受けて、数を増やしました。

昨日あたりから花を開き始めました。
写真は今日撮影したものです。

ご興味のある方はぜひお運び下さい。

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2006年2月 2日 (木)

リンクその他について

個人で日帰りドライブルートを紹介するサイトを作っておられる方から、そこに当館の名前を出してよいか、相互リンクしてもらえるか、というお問い合わせのメールが届きました。

直接お答えはしましたが、リンク許可などの連絡がたまにありますので、この機会に、当館の基本的な考え方を書いておきたいと思います。

まず、何人であれ、吉川英治記念館について言及することは、まったくの自由であって、許可を要するようなことではありません。
事実無根の中傷でない限り、批判的な意見であろうと、当館にそれを止める権利はありません。

リンクも同様で、当館サイトのコンテンツを、あたかも自分の作成したもののように装うというような行為は別にして、参照先としてリンクをつけることは、正当な行為であって、自由になされるべきものであると考えています。

ですから、吉川英治記念館について、個々のサイトにおいてどのような言及をなさろうが、どこにリンクをおつけになろうが、そのこと自体は自由に行っていただいて構いません。

ただ、吉川英治記念館について書きましたよ、リンクを張りましたよ、とお知らせいただけると、こちらとしても、参考になりますので、ありがたく思います。

なお、当たり前のことですが、当館サイトやこのブログの文章を、引用元を示さず、リンクもつけずに流用なさることは、おやめ下さい。
一義的には、それは盗用になりますし、そうした文章が氾濫すると、何かを調査する際に、コピーされた文章ばかりが見つかって、肝心の引用元にたどり着けない、などといった事態を招き、インターネットの持つ検索能力を低下させることになります。

よろしくお願いします。

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2006年2月 1日 (水)

おわび

これを書いている今は、もう既に2月3日なのですが、一言おわびを。

2月1日付で、富士フォトサロンでの吉川英治記念館写真コンテスト入賞作品展は明日2日の午後2時までですと、あらかじめ告知しておくつもりだったのですが、すっかり忘れていました。

最終日の2日に、2時過ぎに来て、「もう終わったの?」と残念がっておられるお客様がいらっしゃいました。

このブログで告知して、その方がそれをご覧になる可能性は、低いかもしれませんが、忘れていたことには、違いありません。

大変失礼いたしました。

ご容赦下さい。

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