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2006年2月12日 (日)

食通・続き

吉川英治の≪食通≫攻撃は他にもあります。

柳橋や築地など、一流どこの饗膳は、あわれ、味覚の奈落である。そこのお客は、通や思い上がりばかり食べて、真の食味を知らず、冥加を知らない。
(「折々の記」所収『めしや変遷』より)

もっとも、そう書いている吉川英治にも、あれが美味いの、これが不味いのといった、食にまつわる文章がないわけではないのです。
また、一流のもてなしの膳の上の細やかな気遣いに感服したりもしています。

それでいて、上のような言葉になるのは、やはり、≪食≫が「生きる」ということと直結する暮らしをした経験があるからなのでしょう。

食うことは生きる喜びであり、明日を生きるための、文字通り≪糧≫である。
ズシリと手にかかるどんぶりの重みに、一日の労働を乗り越えた充実感を実感する。

そういう意味においての≪食≫。

そして、その枠内で、より美味いものを求めはするが、それ以上となれば、もはやそれは生きる喜びとは別次元の枝葉でしかない。

そういう考え方だったのではないでしょうか。

上に続けて、こう書いています。

庶民の胃ぶくろは、うんと正直だ。だいいち、答えを知っている。よろこべば、満腔でよろこび、そのカロリーは社会力の石炭だ。

「庶民の舌」ではないところが、ミソなのだと思います。

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