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2006年3月31日 (金)

挿絵画家

昨日、山口将吉郎を取り上げたので、ちょっと挿絵画家について調べ直してみたところ、意外なことが分かりました。

当館でまとめた資料「吉川英治小説作品目録」などで確認したところ、吉川英治の小説作品(自叙伝など含む)に挿絵を描いたことのある画家は総勢80人に及びます(途中降板やピンチヒッター的起用も含めて)。

そのうち、手がけた作品数が5作品以上、もしくは作品に関わった期間が10年以上の画家を挙げると、以下の通りになります。

新井勝利≪11年3作品≫
井川洗涯≪1年6作品≫
石井鶴三≪16年5作品≫
伊藤彦造(伊藤新樹)≪13年3作品≫
岩田専太郎≪23年11作品≫
大橋月皎≪2年5作品≫
小田富弥≪10年4作品≫
鴨下晁湖≪6年5作品≫
木村荘八≪27年2作品≫
小村雪岱≪12年30作品≫
斎藤五百枝≪13年12作品≫
志村立美≪8年6作品≫
杉本健吉≪12年4作品≫
谷脇素文≪3年8作品≫
寺本琴風≪2年9作品≫
富永謙太郎≪6年6作品≫
山口将吉郎≪16年18作品≫

なんと、断トツで作品数が多いのが、小村雪岱なのです。
意外です。
作品数が多いのは短編を多く手がけているからですが、「江戸城心中」などの長編も手がけていますし、関わった期間も12年と長いことを考えると、吉川作品を代表する挿絵画家と言っても良いはずですが、なんとなく、そのイメージがありません。

作品数で後に続くのが山口将吉郎、斎藤五百枝、岩田専太郎で、10作品を越えるのは、小村雪岱を含めた4人だけ。
それぞれ「神州天馬侠」、「龍虎八天狗」、「鳴門秘帖」が代表作で、これはイメージ通りという感じ。

15年以上関わったのは木村荘八、岩田専太郎、山口将吉郎、石井鶴三の4人。
10作品以上の4人と重複する岩田専太郎、山口将吉郎が、吉川英治のパートナーとして双璧ということになるでしょうか。

杉本健吉の場合、作品は少ないですが、一つの作品が長期間に及んでいるので、吉川作品を代表する挿絵画家というイメージはかえって小村雪岱より強い。

現時点で、最もよく読まれている吉川作品というと「三国志」と「宮本武蔵」になりますが、そのどちらの挿絵も描いている矢野橋村は、上記の基準で選んだら、漏れてしまいました。
ピンポイントで代表的作品だけを受け持ったということなのでしょうね。

(なお、ここで言う関わった期間というのは、最初に手がけた作品の連載開始から最後に手がけた作品の連載終了までの期間のことです。)

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2006年3月30日 (木)

山口将吉郎

今日は山口将吉郎の誕生日だそうです。

1896年生まれといいますから、吉川英治より4歳年下ですね。

山口将吉郎と吉川英治といえば、何と言っても「神州天馬侠」の挿絵ですが、それ以外にも数多くの作品で挿絵を描いています。
ざっと列挙してみましょう。

「武田菱誉の初陣」(大正14年)
「神州天馬侠」(大正14~昭和3年)
「捨児の歌」(大正14年)
「ひよどり草紙」(大正15年)
「江戸三国志」(昭和2~4年)
「月笛日笛」(昭和5~6年)
「牢獄の花嫁」(昭和6年)
「魔海の音楽師」(昭和6年)
「もつれ糸巻」(昭和7年)
「恋山彦」(昭和9~10年)
「きつね雨」(昭和9年)
「胡蝶陣」(昭和9~10年)
「左近右近」(昭和9~11年)
「朝顔夕顔」(昭和10~11年)
「篝火の女」(昭和10年)
「魔金」(昭和11年)
「やまどり文庫」(昭和12~13年)
「新版天下茶屋」(昭和14~15年)

合計18作品。
吉川英治の作家でビュー翌年の大正14年から昭和15年まで、昭和8年を除いてほぼ途切れることなく挿絵を描いています。
いわゆる少年少女小説を数多く手がけ、また、長編作品の比率が多いのが特徴でしょうか。

まさに名コンビです。

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2006年3月29日 (水)

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ワサビ(山葵)の花です。

ワサビにも花があるんですね、当たり前ですけど。

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2006年3月28日 (火)

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イヨミズキ(伊予水木)です。

先日触れたように、トサミズキよりも少し小さいです。

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2006年3月27日 (月)

さくらの日

今日、3月27日は≪さくらの日≫だそうですが、いま吉野梅郷は梅が満開です。

桜の前に梅見はいかがですか。

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2006年3月26日 (日)

室生犀星

昭和37年の今日、室生犀星が亡くなったそうです。

そのことは、このブログのネタ探しで≪今日の出来事≫をネットで検索していて気がついたのですが、実は偶然にも現在、常設展示室で室生犀星宛の吉川英治の書簡を展示しています。

さらに偶然にも、その書簡の書かれた日付が昭和35年3月26日。

ちょっと出来すぎていて気持ち悪いですね。

まあ、書簡の内容自体は、室生犀星から室生犀星が原作の舞台の入場券を送られたので夫婦で観に行った、という観劇の礼状であって、全く気持ち悪くもなんともないのですが。

当時の記録を見ると、昭和37年3月29日に青山斎場で行われた室生犀星の告別式に、吉川文子夫人が代理で出席したとあります。

ご存知のように、吉川英治はこの同じ昭和37年の9月7日に世を去っています。
室生犀星のほぼ半年後です。

既にガンに蝕まれていたため、告別式に出られる体調ではなかったのでしょう。

ちなみに、軽井沢にある吉川英治の別荘のほど近くに室生犀星夫妻の遺骨が分骨された詩碑があります。
昨年そこを訪ねた時のことを書いていますので、そちらもお読みください。

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2006年3月25日 (土)

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トサミズキ(土佐水木)が咲いています。

草思堂庭園内には、イヨミズキ(伊予水木)もあります。
イヨミズキの方がトサミズキより花が小ぶりです。

どうして土佐が大きくて、伊予が小さいのか、同じ四国なのに、と思ってしまうのですが、単に確認された自生地の所在地を指しているだけで、他意はないようですね。

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2006年3月24日 (金)

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先日触れた白花のカタクリです。
ついさっき写真に撮ったものです。いま咲いています。

よく見ると、花が白いだけでなく、葉に入った斑も白くなっています。

今年はどうもこの一株しか咲かないようです。
ただ、うまい具合に、庭園内の遊歩道からよく見える所に咲きました。

ご興味のある方は、ぜひお出でください。

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2006年3月23日 (木)

コンサート

CDリリースを祝うコンサート
平家夢幻

吉川英治原作「新・平家物語」から、心に響く九つのイメージを音楽にしたCDが今年1月8日にリリースされました。CDリリースを記念してコンサートを致します。華麗な一門の繁栄、そして余りにも悲しく滅亡した平家一族の物語を2台のピアノとヴァイオリンで表現し、吉川英治ならではの美しい文章の朗読を交えた作品です。
洋楽器が織り成す和の響き、音楽の一部となっている語り、文学と音楽が調和した独自の音世界をお楽しみください。

2006年4月27日(木)
開場 7:00PM  開演 7:30PM
スタインウェイ・サロン東京・松尾ホール(スタジオA)

チケット ¥3.000

出演
作曲・ピアノ 斎藤友子
ピアノ 西まこと
ヴァイオリン 東大路佳子
朗読 中村啓子

定員88名の小さなホールのため、定員になり次第締め切らせて頂きます。ご了承下さい。

協力 吉川英治記念館

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以上、チラシより転載しました。

ご興味のある方、チケットの購入ご希望の方は、こちらへ。

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2006年3月22日 (水)

玉堂美術館

当館のことではありませんが、一応お知らせを。

本日3月22日は、川合三男氏通夜のため、玉堂美術館は臨時休館となっています。

ご注意ください。

吉川英治記念館は、もちろん開館しています。

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2006年3月21日 (火)

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草思堂庭園内の梅は、ほぼ満開です

この梅は、長屋門から見て、母屋右側にある古木。
紅梅と白梅の木の幹が抱き合うように絡み合ったこの梅を、吉川英治はとても好んでいたそうです。

吉川英治の詩にこんなものがあります。

白梅は紅梅に倚り
紅梅は白梅に添ひ
相照
双映
いよいよ白く
いよいよ紅し

古臭い言い方ですが、「夫婦和合」ということを梅にたとえたものですが、まさにこの詩の当てはまる梅の木です。

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2006年3月20日 (月)

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今月から公開している母屋の玄関から見た居間です。

吉川英治が転居してきた当初、こういう感じに囲炉裏があったそうです。

手前の小机の上の電話機は、書斎との内線用の電話機です。

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2006年3月19日 (日)

訃報

今朝、当館から程近い玉堂美術館の館長(正確には前館長)の川合三男氏が亡くなられました。
56歳だそうです。

川合三男氏は川合玉堂の孫にあたる方です。
私は、吉川英治記念館に勤務し始めてから何度かお目にかかり、特に事務長を引き継いでからは、青梅ミュージアム協議会の会合などで色々お話しもし、これから協力して様々なことに取り組んでいこうという矢先のことでした。

大変残念です。

ご冥福をお祈りいたします。

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2006年3月18日 (土)

売り切れ

本日、開館以来29年間販売してきた当館の図録「吉川英治 その人と文学」の在庫が全て無くなり、売り切れとなりました。

この図録は、何度かの改訂はしているものの、ずっと内容が同じままでしたので、現在、内容を一新した新図録を製作中です。
その編集作業は進行中なのですが、完成して新旧の図録が並ぶということがないまま、その前に売切れてしまいました。

新図録は8月中の完成を目指しています。
ご期待ください。

また、偶然にも、本日、当館で販売しているビデオ『吉川英治と吉野の里』も売り切れになってしまいました。
こちらは、現在、時代に合わせて、VHSのビデオだったものを、DVDにする作業を進めているところです。
近日中には完成の予定です。
こちらもご期待ください。

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2006年3月17日 (金)

柚木吉野吟社

再び「青梅の吉川英治」展について。

吉野村(現・青梅市)では、吉川英治の疎開以前から俳句の愛好者たちが小さな俳句の会を互選で開いていましたが、終戦後、吉川英治を選者に招き、本格的な句会が行われるようになりました。
これが柚木吉野吟社です。

初期の同人には、吉川英治から直接俳名を命名された人もいました。
それは黙鍬子・守泉・鉄幹子・和楽・不珍・不染・梅屋・朗風の8人。

それは、例えば、黙鍬子さんは農協にお勤めでしたし、鉄幹子さんは散髪屋という風に、職業に関係するものであったりしたわけですが、それぞれに吉川英治の自筆の命名書が贈られました。

そのうち、現存する不染さんの命名書には、こう書かれています。

不染
染むなき箇性をいふ。自我主義には非ず。濁風悪流に超然たること、併せて塵外の風流心をさしてもいふ。

句会では、上位の者への賞品として、吉川英治の色紙や短冊、あるいは、吉川英治がその句会で抜いた句を清書した帖を贈られたりしました。

今年1月7日付で「俳句の恩」というタイトルの文を書き、そこでも触れましたが、こうして吉川英治が村人たちに俳句の指導をしたことには、自身の苦しい少年時代に、俳句に親しむことで自然に親しみ、生活に楽しみを感じる心を養ったという思いがあったと思われます。
終戦直後の困難な時代にあって、俳句を通して生きる歓びを感じ、希望を持って生きるということを伝えたかったのでしょう。

吉川英治が吟社の新春句会(昭和22年)に参加した時の句を色紙に書いたものを、今回の展覧会で展示しています。

かど松のなき世もありぬ五十年
闇市もいつこへ雪のうるはしさ

なお、柚木吉野吟社は現在も続いており、盛んに投句も行われています。

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2006年3月16日 (木)

山手樹一郎

今日は山手樹一郎の命日だそうです(昭和53年)。
明朗な時代小説で人気のあった作家で、代表作はあの「桃太郎侍」です。

吉川英治記念館には、山手樹一郎と吉川英治、挿絵で有名な画家の斎藤五百枝と山口将吉郎たちが一緒に写った写真があります。

この写真は、吉川英治が博文館の雑誌『少年世界』で「龍虎八天狗」の連載を開始するにあたって、その記念の宴会を行った際のものです。
斎藤五百枝は、その「龍虎八天狗」の連載挿絵を担当することになっていました。
実は、その時、吉川英治は講談社の雑誌『少年倶楽部』に「神州天馬侠」を連載中でした。
そして、その挿絵を描いていたのが山口将吉郎です。

連載を掛け持ちすれば作家の負担は大きい。
当然、そのしわ寄せは挿絵画家にも及ぶ。
呉越同舟といった感じの取り合わせには、そういう配慮もあったのでしょう。

では、どうしてその席に山手樹一郎が加わっているのかというと、実は、山手樹一郎は博文館の社員だったのです。
この時にはまだ小説は書いていませんから、一編集者・井口長次(山手樹一郎の本名)として、同席していたのです。

後に山手樹一郎が書いた文章によれば、吉川英治とは先輩編集者のお供として数回会ったに過ぎず、当時は作家になろうとは思ってもいなかったので、吉川英治から何かを聞いておこうという欲も無く、したがって、会って何を話したかも覚えていないのだとか。

人の出会いとは、そんなものかもしれませんね。

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2006年3月15日 (水)

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カタクリの花が咲き始めました。

吉川英治記念館の草思堂庭園は、知る人ぞ知るカタクリの名所です。

元々は宅地造成で捨てられそうになっていたものをもらってきて植えたという話ですが、年々数を増やし、今では庭内いたる所に花を咲かせます。

中には花の白い珍しいものも咲くことがあります。

今年は姿を見せてくれるでしょうか。

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2006年3月14日 (火)

佐屋川句碑

電話で質問をいただきました。

愛知県蟹江町の佐屋川のほとりにある吉川英治の句碑に刻まれた句の意味を教えてください。

終戦後、創作の筆を折っていた吉川英治は、尾崎士郎とともに、蟹江に招かれ、そこに逗留したことがあります。

その時に吉川英治が詠んだ句が

佐屋川の土手もみぢかし月こよひ

この句が碑となっているのですが、その意味が知りたいというわけです。

もちろん蟹江に滞在中の一夜、佐屋川越しの月を見ての詠なのは言うまでもないことですが、わからないのは「土手もみぢかし」です。

土手が短い、とはどういうことでしょう。
しかも、土手短いのです。

句碑が出来た時の新聞記事が残っているので調べてみましたが、句の意味までは書かれていません。
他にも、いくつか資料を見てみましたが、不明です。

蟹江のあたりは、河川が入り組んだ所だそうです。
普通の川ならば、土手が長く続いているのに、ここでは入り組んだ河川によって短く寸断されている、という情景なのでしょうか。

ピンときません。

どう解釈すればいいのでしょう。

どなたかご教示いただけないでしょうか?

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2006年3月13日 (月)

GHQ

開催中の「青梅の吉川英治」展の展示資料として、終戦まもなくの時にGHQの将校がわざわざこの吉野の家までやって来た時の写真を展示しています。

元講談社で吉川英治の担当編集者だった大友端立の「青年よ大志を懐け」(昭和48年 講談社出版サービスセンター)には、吉川英治から聞いた話として、こんな話が紹介されています。

終戦後まもなく、ジープ2台に乗ってアメリカの将校がやって来て、「真珠湾攻撃についての海軍の資料を持っているだろう、それを出せ」と言ってきた。
「そんなものはない」と言っても納得しないので、「代わりに真珠湾攻撃についてよく知っている人間を紹介する」と応じた。
「それは誰だ」と言うので、「山本五十六元帥だ」と答えたところ、アメリカ兵は笑い出し、それまでの強硬な態度が緩んで、結局そのまま帰っていった。

写真はその時のものであろうと思われます。

戦後、作家の中からも、何人か公職追放処分を受けた者がいますが、吉川英治は海軍省嘱託を任ぜられていたにもかかわらず、特に処分は受けていません。
そのことに、この時の出来事が反映しているのかどうか。

いずれ調べねばならないテーマです。

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2006年3月12日 (日)

梅まつり

今日12日は、吉野梅郷の観梅市民まつりです。

青梅市梅の公園や、神代橋通りなどで、獅子舞や野点などのイベントが行われます。

残念ながら、梅の開花状況がいまひとつですが、獅子舞などは地元伝来のとても特色のあるものなので、一見の価値があると思います。

で、イベントの後は、ぜひ当館にお越し下さい。
昨日も書きましたが、満開の梅が1本ありますから、その下で記念写真を撮れば、ちゃんと梅郷に行ったという証拠になりますよ(微笑)

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2006年3月11日 (土)

草思堂庭園内の梅が1本だけ満開になっています。

よく見ると、メジロが花の蜜を吸いに来ています。

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2006年3月10日 (金)

指先でつむぐ愛

今日、フジテレビで放送されるドラマのタイトルです。

モデルとなっている福島智さんは、平成8年、母親の福島令子さんと共に、第30回吉川英治文化賞を受賞なさっています。

福島智さんは、目が見えず、耳も聞こえないという重複障害を持ちながら、母の令子さんと考案した≪指点字≫によってコミュニケーションを回復し、現在は障害者教育やバリアフリーの研究で、東京大学の助教授となっている方です。

私たちの財団で主催した講演会の講師にお招きした時、私も同行し、少し“お話し”をしたことがあります。

実際、指点字通訳者を介する必要はあるものの、普通に会話できるのです。
指点字で同時通訳して、間髪入れずにこちらの言葉に反応できるのです。

話す方に関しては、福島さんは18歳まで聴覚があったので、普通に身につけていたのでしょうが、それにしても驚きました。

ドラマの原作は、福島さんの妻・光成沢美さんによるものです。

実は、福島さんとお話しをした時に、つい、こんなことを聞いてしまいました(この時の通訳者は光成さんではありませんでした)。

「奥さんはおきれいな方ですが、触った感じが美人とか、そういう感覚はあるのですか?」

口に出してから、「あ、すごく失礼なことを聞いてしまったな」と思ったのですが、後悔先に立たず。
失敗したという思いがあって、どう答えられたか、記憶にありません。

たしか、「あまりそういうことは考えない」とか、そういうお答えだったと思うのですが。

その時は、そのまま流してしまいましたが、この場で、一言お詫びしておきたいと思います。

ごめんなさい。

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2006年3月 9日 (木)

大多摩

社団法人大多摩観光連盟のホームページの沿革には、こんな記述があります。

1946年9月 社団法人大多摩施設協会創設
この協会は、戦後、人心の荒廃に明るさをとりもどしていただくことを目的とし、当時の吉野村・三田村(現在の東京都青梅市梅郷・沢井地区)の村長・有識者及び、小説家吉川英治先生・日本画家川合玉堂先生などが種々協議した結果、旧東京都西多摩郡地域の行政組織を会員とし、設立されたものである。なお、大多摩の命名は吉川英治先生である。

大多摩観光連盟の前身である大多摩観光協会の設立に吉川英治が関わり、その命名もした、ということです。

さらに、この翌月に大多摩観光協会が行った青梅・甲府線調査団に、吉川英治も参加しています。
これは、奥多摩の氷川から、柳沢峠を越え、山梨の塩山に到る調査行で、この地域の国立公園化を目的とした基礎調査の一つでした。

作家という座り仕事のため足腰の強くない吉川英治は、馬やリヤカーも利用しての道中でしたが、奥多摩の自然は、吉川英治に強い印象を残したようです。

昭和25年には、今度は文子夫人も伴って、奥多摩の小河内から五日市までを踏破してもいます。

こうした運動の結果、この地域は秩父多摩国立公園(現・秩父多摩甲斐国立公園)に指定されました。

吉川英治が多摩に残した大きな足跡のひとつと言えるでしょう。

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2006年3月 8日 (水)

土筆の図

吉川英治が吉野村(現・青梅市)に家を求めた理由の一つに、子供の教育、ということもあったと言われています。

都会よりも、田舎の方が、子供がのびのびと成長できるのではないか。
そう考えていたようです。

そのため、吉川英治の4人の実子のうち、3人までが吉野村の小学校を卒業しています。

その子供達の恩師である小学校の先生に、こんな書を贈っています。

わが子ことし十春 二年ごし親しく膝下に教へをうけし
師のもとをはなれて分教場の庭より本校へうつることとなるを
よろこびもしつ また
師の君を
きのふの師として
離れゆくを幼な心にも
さびしみてありぬ
そのこころを

わすれめや学びの庭のつくしんぼ

師のお心はかくやと

おしえ子の育ち見恍るる春野かな

親竹の心はかくなり

若竹ののびや日の愛土の恩

書には、吉川英治自身の描いた土筆の図が添えられています。

ちなみに、10歳になったので本校に移るという意味の記述がありますが、吉野村は結構広い村なので、低学年の時は、それぞれの近くの分教場に通い、高学年になってから本校に移るという制度をとっていたので、そう書かれています。

その分教場の先生に対し、吉川英治がこう訊ねたことがあったそうです。

「戦争中、ほんとうに骨身にしみたのは何でしたか?」

「物のありがたみでしょうか」と答えた先生に対し、吉川英治は

「物に使われ、物にとらわれる人間はいやだ。先生がそういう考え方で、子供を教えてもらっては困る」

そう話したそうです。

さて、現在は軸に仕立てられているこの書、贈られた先生のご遺族から、今回の特別展「青梅の吉川英治」のために拝借し、展示しています。

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2006年3月 7日 (火)

吉野公民館

話を「青梅の吉川英治」展に戻します。

かつての吉野村(現・青梅市)に建てられた吉野公民館は、東京都内でも最初期に設立された公民館です。

公民館は、吉川英治の≪村の子供たちのために図書館を寄附したい≫という願いから誕生しました。

当時の村の小学校には満足な図書室すら無かったことから、吉川英治が村に図書館の寄附を申し出たのですが、やがて構想が膨らみ、青年たちをはじめ、村の人たちの文化的拠点となるような施設を造る、という計画に発展し、公民館の建設となりました。

建設費用の大半は吉川英治が負担しましたが、村人たちもまた、戦後まもなくの苦しい時代ながら、9割以上がこの公民館建設のために寄附を行いました。

落成は昭和24年10月。

吉川英治の希望通り、村の文化活動の拠点として、大いに活用されました。

また、吉川英治の呼びかけで、徳川夢声・宮田重雄・赤坂小梅などが来訪し、演芸会が行われたこともあります。

後に、公民館はその役割を青梅市梅郷市民センターに譲り、隣接する青梅第五小学校の講堂として使用されるようになります。

しかし、やがて老朽化のため解体されました。

今は青梅第五小学校の校庭に記念碑を残すのみです。

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2006年3月 6日 (月)

版画シリーズ

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はらださち版画シリーズ「草思堂の花々」の新作が出ました。

上からクマガイソウ(熊谷草)、ジロボウエンゴグサ(次郎坊延胡索)、チゴユリ(稚児百合)です。

それぞれ1枚525円(税込)。
限定30枚です。

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2006年3月 5日 (日)

机龍之介

先日ご紹介した萬年橋碑の碑文を読んで、オヤッと思われた方はいらっしゃらないでしょうか。

市川雷蔵の当たり役で有名な眠狂四郎。
その原作者である柴田錬三郎は、この≪眠狂四郎≫という主人公の名を考案する際に、中里介山の小説「大菩薩峠」に登場する≪机龍之介≫を意識して、こんなことを考えたといいます。

≪机≫は人間が毎日使うものであり、したがって、誰にでも覚えやすい、実に秀逸な命名である。だが、それ以上に人間にとって欠くことが出来ないのは何か?それは≪眠り≫だ。よし、これを名にしよう。

面白い話ですが、これは柴錬が気負い過ぎなのではないかという気がします。

というのも、≪机≫という姓は、青梅・奥多摩地区に実際に存在する姓なのです。
作者の中里介山は青梅に近い羽村に住み、また、「大菩薩峠」の物語の発端の舞台が、青梅・奥多摩地区であるので、≪机≫という姓が登場することは、まったくもって自然なことなのです。

萬年橋碑の碑文をよく読んでいただくと、そこに「机久壽」とあります。
一瞬、熟語か何かかと思われるかもしれませんが、これは人名です。

むろん、主人公の名にそれを採用したのは、中里介山のセンスですが、一から作り上げた架空のものではないのです。

しかし、日本にはいろんな姓があるものです。
ひょっとして、≪椅子≫さんもどこかにいらっしゃるのでしょうか?

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2006年3月 4日 (土)

納税

確定申告の時期ですね。

当館の資料に、吉川英治の秘書が残した業務日誌というものがあります。
その昭和30年6月17日の部分に、こんな記述があります。

品川区役所より特別区民税三〇年度分納入告知書送附あり。直ちに区役所税務課を訪れ、従来吉野村にて村民税納付し有る事実を申し入れ納入告知書を返納す。

吉川英治は、昭和28年に吉野村(現・青梅市)から品川区北品川に転居しています。
そのため、品川区が区民税を納付するように通知してきたわけです。
しかし、実は、吉川英治は転居の際に吉野村に住民票を残したままにしており、住民税は吉野村に対して納めていました。
その事情を話し、品川区には納税できないことを伝えに行った、そういう記述です。

都会である品川区と違い、さしたる産業もない吉野村にとっては、吉川英治の納める税金は非常に大きな比率を占めていました。
何しろ、吉川英治は昭和34年には高額納税者番付の作家部門で1位になっているくらいですから。
一説には、村の住民税収入の8割にも及んだとも言います。

この事は、吉野村にとって大きな支えとなったことでしょう。
また、吉野村が昭和30年に合併によって青梅市に編入されても、引き続き吉川英治は青梅市に税金を納め続けました。

その金額が累計でどれほどになったのか、私は吉川家の人間ではないので、詳しくは知りません。

しかし、吉野村・青梅市に大きな恩恵をもたらしたことは、間違いありません。

ちなみに、以前、田中康夫長野県知事が同様のことをやろうとして批判を受けました。
でも、納めた税金の使い道を納税者が自由に決められないのなら、納める先ぐらいは自分の納得できる場所に決めたいものですよね。

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2006年3月 3日 (金)

卒業記念

吉川英治記念館のちょっとした修理などに入ってもらっている大工さんは、地元の出身の方です。

その大工さんから、長年ご寄託いただいている短冊があります。

吉川英治は、地元の子供たちのために、様々なことをしてきました。

例えば、終戦直後のものがない時代には、自分の専用原稿用紙を、生徒たちのノート代わりにと学校に寄付したり、資金を提供して優れた生徒を表彰する「梅花賞」というものを創設したりしました。

そんなひとつとして、昭和25年と26年、地元の吉野中学校(現・青梅西中学校)の卒業生全員に、はなむけのための短冊を贈りました。
大工さんの話では当時一学年に90余人ほどの生徒がいたということですが、その全員に1枚ずつ短冊を書いて贈ったのです。

ご寄託いただいているのは、その時の短冊です。

卒業生たちは、教師に引率されて吉川邸を訪ね、そこで吉川英治の講話を聞き、後日、その短冊を受け取ったそうです。

短冊には、こんな句が書かれています。

わすれめや学びの庭のつくしんぼ

優しく、温かさを感じる句です。

現在、特別展で展示しています。

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2006年3月 2日 (木)

万年橋

昨年の8月22日の記事にも書きましたが、多摩川にかかる万年橋のたもとに「萬年橋碑」という石碑があります。

吉川英治が原文を書いた、その碑文を今回はご紹介します。

渓谷から田園へと 多摩川の姿は この萬年橋を境として 全く趣を変へて行きます
地勢の示すやうに 由来この渡頭は 河東河南の村々に跨り 吉野御嶽五日市などの要衝に
当りながら 久しく昔の儘の姿で 通路は大雨毎に洗ひ流され 為に対岸の村人は そのたびに糧も
失ひ 交通も絶たれ ただ自然的な宿命の下に 暗澹たる年月を過ごして来たのでした その頃に
吉野村畠中の鈴木義長 机久壽 土方太右衛門 村上民和 土方重太郎等の諸氏が一心発起 架橋
を誓うて財を投じ 官を説き 村人を諭しました 人々もよく和協して 各戸零細を積み
労力を捧げて 遂に明治三十年五月 始めて木橋万年橋を架し 越えて明治四十年 鉄橋と
し 茲に積年の難問題を見事に解決しました またこの事は 実に多摩渓谷に鉄橋架設の
実現を見た 最初のものでもあったのです
見たまへ自然と文化との調和を また半世紀前の村人たちの逞しい文化精神を
山水の美こそは 正に日本の天與です 然し郷土先人たちの愛郷心も公徳心も剋己心も
その美に劣るものではありませぬ ここに遺徳を仰がうとして 一碑を建てたわけであります
朝暮に往来する人々も 観光の遊子たちも 歩をふと橋畔に止められて この一石に心琴を触れら
るる時 なほ郷土には一草一花の薫もあることを 相共に大きな歓とせらるるでありませう

前半は橋の歴史を書いたもので、碑文の白眉は「見たまへ……」以降にあります。

そこにどんな思いが込められているのか。
それは当館に残る碑文の下書き草稿(特別展で展示中)を見れば明らかです。

平和日本のゆくて 文化郷土も眼ざめよの声も頻りの秋 それら先人の徳を慕ふ有縁の人々が一碑を建ててその遺徳を長く仰がうとする志も また美しき余風の一つではありますまいか 歩をとめてこの橋畔に憩はるる観光の遊子も悠久の山河から眸を転じ ふとこの一石に眼のふるる折もあらば 国敗れて山河あるのみならず なほこの一草一花の郷にあることを共に歓びあひたいとおもふ

碑文の書かれたのは昭和21年。

敗戦から一年余のこの時、吉川英治は、苦難に立ち向かった先人に倣い、敗戦の挫折をむしろ糧として、新しい平和日本を築くことを願っていたのです。

さて、万年橋は数年にわたって改修工事が進められてきましたが、ようやく今年6月にその工事も終わるそうです。
その際に、万年橋碑の周りもきれいに整備し直すとのこと。

お近くをお通りの際は、ぜひ足を止めて味わって欲しい碑です。

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2006年3月 1日 (水)

梅の3月

本日から、営業時間が冬時間から通常時間に戻ります。

10時開館、16時30分受付終了、17時閉館です。

さて、3月は青梅・吉野梅郷の梅の時期です。

ですが、今年は本当に開花が遅れています。

いま草思堂庭園内で花を開いている梅は2本だけ。
普段の年なら1月には咲いている早咲きの梅が、まだ2~3分咲きです。

通常は満開になるのは20日前後ですが、さらに遅れるんじゃないでしょうか。

ということを書くと、月の前半のお客様が減ってしまいかねないので、なんなのですが。

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