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2006年3月 8日 (水)

土筆の図

吉川英治が吉野村(現・青梅市)に家を求めた理由の一つに、子供の教育、ということもあったと言われています。

都会よりも、田舎の方が、子供がのびのびと成長できるのではないか。
そう考えていたようです。

そのため、吉川英治の4人の実子のうち、3人までが吉野村の小学校を卒業しています。

その子供達の恩師である小学校の先生に、こんな書を贈っています。

わが子ことし十春 二年ごし親しく膝下に教へをうけし
師のもとをはなれて分教場の庭より本校へうつることとなるを
よろこびもしつ また
師の君を
きのふの師として
離れゆくを幼な心にも
さびしみてありぬ
そのこころを

わすれめや学びの庭のつくしんぼ

師のお心はかくやと

おしえ子の育ち見恍るる春野かな

親竹の心はかくなり

若竹ののびや日の愛土の恩

書には、吉川英治自身の描いた土筆の図が添えられています。

ちなみに、10歳になったので本校に移るという意味の記述がありますが、吉野村は結構広い村なので、低学年の時は、それぞれの近くの分教場に通い、高学年になってから本校に移るという制度をとっていたので、そう書かれています。

その分教場の先生に対し、吉川英治がこう訊ねたことがあったそうです。

「戦争中、ほんとうに骨身にしみたのは何でしたか?」

「物のありがたみでしょうか」と答えた先生に対し、吉川英治は

「物に使われ、物にとらわれる人間はいやだ。先生がそういう考え方で、子供を教えてもらっては困る」

そう話したそうです。

さて、現在は軸に仕立てられているこの書、贈られた先生のご遺族から、今回の特別展「青梅の吉川英治」のために拝借し、展示しています。

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