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2006年4月30日 (日)

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ヤマテッセンです。

少なくとも、当館ではそう名札をつけています。

しかし、検索してみると、ヤマテッセンはカザグルマの別名だとあります。
ところが、そのカザグルマを検索してみると、この写真の花とは似ていません。
カザグルマは多様な花で、花弁(正確にはガクだそうですが)は6枚から13枚まであるというのですが、これは4枚です。

これは本当にヤマテッセンなのでしょうか?

どなたかご存知ありませんか?

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2006年4月29日 (土)

ご記帳台

通夜・告別式の関係で、久しぶりの更新です。

通夜・告別式にご参列の皆様、誠にありがとうございました。

告別式翌日の27日から、吉川英治記念館展示室ロビーに故吉川文子名誉館長の遺影を置いております。
その前の受付をご記帳台として、来館者の皆様に芳名帳にご記帳いただいております。

急遽、特別展「英治と文子(仮称)」を開催することとしました。
会期など未定ですが、その会期終了まではご記帳台をそのまま設置しておく予定です。

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2006年4月25日 (火)

臨時休館のお知らせ

昨日書きましたように、当館名誉館長の吉川文子夫人が永眠いたしました。
その告別式のため、下記のように、吉川英治記念館は臨時に休館いたします。

4月26日(水) 終日臨時休館

電話の応答も出来ませんので、電話問い合わせはご遠慮ください。

なお、これ以外は通常通り営業いたします。

よろしくお願いいたします。

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2006年4月24日 (月)

吉川文子夫人死去

昨夜遅く、吉川英治未亡人の吉川文子夫人が亡くなりました。

享年85歳でした。

大正9年8月9日に東京下谷で生れた文子夫人は、身体の弱い父を助けて家計を支えるために働きに出た料理屋で吉川英治と知り合い、昭和12年に結婚しました。
翌年誕生した長男の英明(現館長)を筆頭に4人の子供に恵まれましたが、昭和37年、42歳で夫・吉川英治を亡くしました。
昭和41年4月の財団法人吉川英治国民文化振興会発足と同時に理事に就任。
昭和52年3月に吉川英治記念館が開館した後、昭和63年8月1日から吉川英治記念館館長となり、平成14年7月1日に長男・英明に館長を譲り、名誉館長となりました。

若くして夫と死別した後、40年以上にわたって、吉川家の中心として、吉川英治の業績と遺徳を世に伝える役割を果たしてきました。

心からご冥福をお祈りいたします。

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2006年4月23日 (日)

ファンタジー

個人的に愛読しているサイトを通じて、こんなサイトを知りました。

英語が苦手でいまひとつ正確な意図がわからないのですが、この筆者の考える作家(およびそれを目指す人)が読むべきファンタジー小説のリストのようです。

上に基本的なもの60作品のリストがあり、下に『包括的なリスト』というのがありますが、それをずーっと手繰っていくと……

Yoshikawa,Eiji,Musashi

いやぁ、アメリカ人にとって日本の歴史小説はファンタジーなんですね。

ちなみに、ざっと見たところ、日本人作家はあともう一人、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」が取り上げられています。
吉川英治と村上春樹が同じジャンルに分類されるなんて、日本人の発想にはないですねぇ。

個人的には、学生の頃とても好きだったロジャー・ゼラズニーの名が吉川英治と並んでいるということが、ちょっと感動ものですが。

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2006年4月22日 (土)

愛宕神社祭礼

明日、4月23日は、当記念館のある青梅市柚木町の愛宕神社の祭礼があります。

それぞれの町内に櫓が組まれ、昔ながらのお囃子にのって舞が舞われたり、山車の引き回しもあります。

青梅では、旧青梅町の住吉神社の大祭が複数の山車が出ることで有名ですが、こちらもなかなか味があります。

何より、そんなに人が殺到しませんから、写真愛好家の方などは、撮影しやすいかもしれません。

記念館に立ち寄ったついでに、祭りの写真を撮る、なんていうのはどうですか。

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2006年4月21日 (金)

揮毫

吉川英治が宿泊したことがある、という旅館には、たいてい、吉川英治の墨蹟が残っていたりします。

吉川英治は、割合そういう場での揮毫の依頼をあまり断らなかった人のようです。

それでも、こんなことを書いています。

だが、この揮毫家は無料であるから、勝手は云う。半紙などへは御免こうむる。墨汁もいやだ。手帖など出せば出す顔を見てやる。旅館の画帖などにしても、その中に自分のいやな人が先に書いていれば、所詮、書く気にはなれない。(随筆「非茶人茶語」より)

この部分の前に「女給氏からハンケチにサインを乞われるよりはまし」なんて文章もあります。
今でも、よくタレントなどが、レストランの紙ナプキンやバーのコースターにサインを書かされた、なんて話をテレビで披露していますが、手近なものに何か書かせようとするのは、昔も今もあまり変わらないのですね。

ちなみに、自分以外の作家の様子について、同じ随筆にこんなことも書いています。

気楽に何でも、乞われるままよく書いてやる人は久米正雄氏、ぶつぶつ云いながら嫌と云えない人が菊池寛氏、書いてくれるんだかくれないのだか分からない間に書いているのが横光利一氏、頼まれると欣しがって頼まれた以上丹念をこめて、目高だの、松の木だの一生懸命に書くのが村松梢風氏、きっと書かないで逃げてしまうのが大佛次郎氏、飲ませればいくらでものたくる田中貢太郎氏――限りがないからもうやめるがみんなその点でも一風ある。
潔癖に書かない人もある。いやしくもしない気持ちである、たとえば泉鏡花氏のように。

各人各様で、なかなか興味深い話です。

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2006年4月20日 (木)

温泉伝説

私の自宅はBSが見られないので確認できませんでしたが、夕べ「温泉遺産」という番組で、吉川英治が箱根の福住楼をよく利用していたという話が放送されたはずです。

この福住楼は、確かに吉川英治が何度も訪れた温泉旅館です。

しかし、著名人には、とかく伝説が生まれるもの。

全国には、吉川英治が逗留した宿というのが、たくさんあります。
実際、取材などで各地を旅していますから、それぞれの宿に逗留したというのは、事実ではあります。

ただ、当時の記録を見るとそこには一泊しかしていないのに、一月ぐらいそこにとどまって作品を執筆した、みたいな話になっている所も、無くはありません。
場合によっては、休憩しただけで、宿泊はしていないのに、そんな話になっていることも。

それは、私を含めた、過去の吉川英治研究者が、きちんとした年譜を作成してこなかった怠慢のせいでもあります。

しかし、嫌っている作家のことをそんな風に言い伝えたりはしないでしょう。
吉川英治に敬意と愛情を持っていればこその伝説なのだと思います。

ですから、あえてそういう伝説に抗議をして、訂正を迫ったりはしません。

ただし、「吉川英治が○○に泊って『□□□□』を書いたというのは、本当ですか」という問合せが来た場合は、「いいえ」と答えますが。

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2006年4月19日 (水)

チラシ

以前も書いたように、各所から送られてきた展覧会のチラシや招待券・優待券をロビーに置いて、来館者の方が自由に持ち帰れるようにしています。

そういうものの減り具合も見ていると面白いものです。

ジャンルを問わず、招待券はあっという間になくなりますが、同じ展覧会のものでも優待割引券になると、減りがにぶります。
世知辛いですね。

やはり知名度の高い人の展覧会のチラシはそうでない人より早く減ります。

ただ、この場合の「知名度が高い」というのは、微妙なものがあります。
例えば、近年は漫画家の展覧会も頻繁に行われるようになりました。
かなり有名どころの漫画家のからむ展覧会もありますが、当館では、そういう展覧会のチラシは、あまり減りません。
当館の来館者は、文学に関心のある、それも年齢層が高い方々が多いのですが、どうしてもそういう層の方々は漫画に抵抗感があるのでしょう。
かつての、漫画害悪論なんかが盛んに言われた頃を経ているからでしょう。

逆に言うと、漫画に抵抗感がない世代の来館者が少ない、ということかもしれません。

同様のことは、現代美術系のチラシがあまり減らないことにも結びつくかもしれません。
いや、若いほど現代美術には関心があるはずだというのは、一種の偏見でしょうが。

漫画家が不評なのに反して、挿絵画家の人気は高いですね。

神奈川近代文学館の吉屋信子展のチラシは、中原淳一の挿絵がドーンと出ていたせいか、あっという間になくなりました。

最近ちょっと意外なのは、徳島文学書道館の夏目漱石展のチラシが全然減らないこと。
文学館としては、漱石・芥川はいわば≪キラーコンテンツ≫なのですが。

原因の一つには、やはり関東からは遠い所での展覧会だからということはあるでしょう。
多少知名度が落ちても、身近な土地で行われる展覧会には興味が湧くものですが、知名度が高くても、行く可能性がない所のものには関心は持てないでしょうから。
ただ、もう一つ、既視感もあるのかもしれません。
というのも、ここ数年、この夏目漱石展はパッケージ化されて、各地の文学館を巡回していますから。
それぞれの地元では、反響があるのでしょうが、その都度つくられるチラシが各所に送られるので、なんだか、いつ、どこの博物館・美術館へ行っても、絶えずどこかの夏目漱石展のチラシがあるので、食傷気味になってしまうのかもしれません。

まあ、私の勝手な印象ですが。

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2006年4月18日 (火)

キャプション

先日、来館者の方から、妙なことを訊ねられました。

吉川英治と妹って双子だったの?

ん?
それはなんのことでしょうか?

写真の説明に歳が同じに書いてあるよ

ええ、そんなはずはないがなぁ、と思いながら指摘された場所を確認してみました。

まず、多摩川の河原で家族とくつろぐ吉川英治の写真があります。そのキャプションはこうです。

「多摩川の河原で。右から吉川英治(59歳)・次女香屋子・文子夫人・次男英穂――昭和26年」

一方、その隣に自宅の庭で家族とくつろぐ吉川英治の写真が並んでいるのですが、そのキャプションはこうです。

「吉野村の庭で。左から英治、次女香屋子、文子夫人、妹かえ。(59歳)――昭和26年」

それぞれを単独で見れば、59歳というのが吉川英治の年齢であることは明らかだと思うのですが、こうして並べると、表記方法の不統一もあって、吉川英治も妹のかえも昭和26年に59歳であるかのように、見えなくもありません。

もっとも、落ち着いて考えていただければ、吉川英治をさしおいて妹の年齢だけ表記するはずはありませんし、≪モーニング娘。≫じゃあるまいに、≪かえ。≫なんて名前はありえない(そのつもりなら「かえ(59歳)。」とするはずです)のですが。

学芸員がキャプションの文案を考える時は、出来る限り誤解を招かないよう、しかし簡潔にまとめるということを心がけてはいます。
今回のものも、それぞれなら誤解を招くようなものではないのですが、たまたま製作時期が異なり、担当した人間も違ったため、表記が不統一(年齢を英治の後に入れるか、文章全体の最後に入れるか)になってしまい、二つ並べた時に誤解を呼んでしまったわけです。

全くもって、人に正確に何かを伝えるということは、難しいものです。

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2006年4月17日 (月)

雑誌とテレビ

ワールド・ムック592『鞄の力』という雑誌に「作家が愛した鞄たち。」として吉川英治が取り上げられています。

興味があればご一読を。

また、4月19日の22時から BS-i で「温泉遺産」という番組が放送されますが、そこに箱根の福住楼が取り上げられ、吉川英治の写真が出てくるそうです。

いや、電話で写真の使用許可願いがあっただけなので、内容は知らないんですが。

気になった方はご覧ください。

私は家にBSがないので、見られませんけど。

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2006年4月16日 (日)

昨日、館内の暖房を入れるためにボイラー室に入ったら、室内にヒヨドリが入り込んでいました。
無人のはずの所で、変な物音がしたのでビックリしました。

実は時々こういうことがあります。
どうやら換気扇の所から入り込むようなのですが、なんでわざわざそんな所にもぐり込むのだか。

以前、屋根の隙間に鳥が巣を作ったことがありますが、そういうことなんでしょうかねぇ。

今回は生きているうちに発見して、何とか外に逃がしてやりましたが、そのまま死んでしまっていたこともあります。

鳥が死ぬと言えば、記念館の展示室ロビーの大きな窓ガラスに、時々鳥が激突して、命を落とすことがあります。

不憫で仕方がないのですが、と言って、窓を塞いでしまうわけにもいきません。

何かいい方法はないでしょうか?

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2006年4月15日 (土)

桜が実にきれいです。

吉野街道から母屋越しに見た桜と、記念館展示室前から眺めた桜と、愛宕神社境内の桜です。
山桜が多いので、全体に白っぽい感じ。

見る人が少ないのが、とても惜しいですね。

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Sakura

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2006年4月14日 (金)

吉川英治賞贈呈式 3

文化賞の続きです。

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村山常雄さんは、シベリア抑留中に無念の死を遂げた日本人の名簿を独力で調査・整備してホームページで公開しておられます。

村山さん自身がシベリア抑留経験者です。
帰国後、教師になり、そのかたわら抑留経験を書き綴ってきましたが、教職を辞してから、70歳の誕生日を期に抑留中死亡者のデータベース化に着手したといいます。

その強い執念に驚きます。

スピーチでは、そこに足を踏み込むきっかけになった俳句をご紹介になりました。
聞き間違いでなければ、こんな句です。

シベリアのツル来て帰らざる兵士

シベリアから自由に渡ってくるツルと、ついに故国の土を踏めなかった抑留中死亡者が見事に対比された句だと思います。

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本村義雄さんは≪くまごろう号≫と名づけた自動車で全国をまわり、こどもたちへの童話口演活動を行ってきました。
もともと八幡市(現北九州市)の職員として市内での口演活動を行っていたそうですが、学生時代からの夢であった全国行脚をを行うために、市職員を早期退職してのことです。
実に、自動車の中に寝泊りしての全国行脚で、活動は全くのボランティア。
現在までに日本全国を5周。
約1400ヶ所の市町村を訪ね、6600回もの口演を行いました。

本村さんの方法は、事前に連絡を取って、日程を決めて口演するのではなく、自動車で走って、目に付いた学校や保育園・幼稚園に飛び込んで、その場で口演をするというもの。
スピーチではお金を取らないボランティアなのだから、行けば喜ばれるかと思っていたが、そうではなかったとおっしゃっていましたが、活動を始めたのが昭和60年からだそうですから、やむを得ない気はします。

スピーチでは、テレビではない生の語りの魅力を、こどもたちに伝えたいということを語られましたが、実は、北九州の魅力を全国に伝えることも、もう一つの使命なのだとか。

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2006年4月13日 (木)

吉川英治賞贈呈式 2

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続いて文化賞ですが、こちらの選考委員は秋山ちえ子・城山三郎・堀田力・三浦朱門・吉川英明の各氏。

挨拶は堀田力さんで、4人の受賞者の皆さんの受賞理由の概要を説明してくださいました。






田村晧司さんはいまや数少なくなった琵琶職人で、職人暦は半世紀におよぶ第一人者ですが、48歳の時に脳梗塞で右半身の自由を失いながら、以後、左手だけで琵琶を作り続けてこられました。

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受賞スピーチも、後遺症で言葉がうまく出ない部分があるので、お嬢さんが共に登壇なさってスピーチの代読をなさいました。
実は、私が座った席の前の席に田村さんの奥様がいらしたのですが、はじめは奥様がスピーチの代読をなさる予定だったようなのですが、恥ずかしいからあなたがやって、とお嬢さんに頼んでいるところを目撃してしまいました(笑)



松島興治郎さんは特別天然記念物で絶滅危惧種であるコウノトリの飼育員として、保護増殖に取り組んでこられました。

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大変に申し訳ないのですが、日本に野生のコウノトリがいたということを、今度の受賞まで、私は知りませんでした。
昭和46年に国内の野生コウノトリが、保護活動もむなしく、一度絶滅しているということから、同じような状況にあるトキほどの注目を浴びなかったという部分があるのかもしれません。

しかし、そんな中にあって、ロシアから譲り受けた幼鳥を元に繁殖に成功し、昨年には自然への試験放鳥を行うまでになっています。

ちなみにその場所は兵庫県豊岡市。日本最後の野生コウノトリ生息地だった場所です。

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2006年4月12日 (水)

吉川英治賞贈呈式 1

昨日は、吉川英治賞の贈呈式でした。

ちょっとその様子をお伝えしたいと思います。

ちなみに、今年の吉川英治賞受賞者は以下の通り。

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文学賞=該当者なし

文学新人賞=今野敏 「隠蔽捜査」

文化賞=田村皓司・松島興治郎・村山常雄・本村義雄

今年は、中心となる文学賞が該当者なしで、ここ三年は二人受賞だった文学新人賞も一人受賞ということで、少し華やかさに欠ける感じがしました。
スピーチも人数が少ない分、早く終わってしまいましたし。

さて、贈呈式は野間佐和子理事長による挨拶と賞状などの贈呈の後、選考委員の挨拶、受賞者の挨拶、花束贈呈という流れで進みます。

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文学新人賞の選考委員は浅田次郎・伊集院静・大沢在昌・高橋克彦・宮部みゆきの各氏で、挨拶は高橋克彦さん。

選考の際は、「隠蔽捜査」が断トツの票を集めたので、この作品の受賞自体には異論はなかったが、著者が既にデビューから28年というのが、≪新人≫なのか、ということが議論になったのだそうです。

ただ、吉川英治文学新人賞は、純然たる意味での新人賞ではありませんし、文学賞へのノミネートは今回が初めてということで、推薦されたのでしょう。

高橋さんいわく、年数の浅い他の候補者との間に不利が生じるのではないかという考えもあるだろうけれど、年数を経ていれば良い作品が書けるというものではないのだから、それは問題ではない、とのこと。

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一方、今野さん自身は、謝辞として、創作を行う者は、常に次のステップを考えていなければならないものであり、この受賞は、新しいスタートラインを与えてくれたものだと思う、と話されました。

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2006年4月11日 (火)

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ニリンソウです。

これは先週撮影したもので、まだ咲き始めてすぐの頃のもの。
今は、やや盛りを越えつつあります。

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2006年4月10日 (月)

大衆即大知識

表題は吉川英治の座右の銘です。

インテリは、往々にして大衆を自分たちが教え諭してやらないと何もわからない、無知で愚かな存在だと思いたがる。
確かに大衆の個々の人間の総合的な知識はインテリに劣るかも知れない。
しかし、職業を持っていれば、その職業についての経験知というものがあり、趣味や打ち込むものを持っている者は、その一点については専門家顔負けと言うこともある。
人それぞれがその人生の中で身に付けた知識というものは、インテリが簡単に軽んずることが出来ない、深さと広がりがある。
そうした個々の知を集積した大衆というものは、恐るべき大知識である。

概ねそんな意味です。

わたしは、この「大衆即大知識」という言葉を見る度、これってインターネットだな、と思ったりします。

一つ一つのサイトの持つ情報の量や質は、そのサイトの主宰者の関心いかんによってまちまちですが、検索によってそれらを集積すれば、それは「大知識」になります。
そこから得られるものはとても大きい。
しかもそれを個々人の小さなパソコンで手に入れられるのですから、恐るべきことです。

ただ、現状では、この「大知識」は、とても偏っているように思えます。

インターネット辞典の「Wikipedia」を例にとると、地方のテレビ局に所属し、その周辺地域でしか姿を見ることの出来ない女性アナウンサーの名前が何人も出てくる一方で、吉川英治と親しかった戦前の文筆家の安藤徳器などという人物については、項目がありません。

今の40代より若い人が関心のある、サブカルチャー方面の情報なら、捨てるほどありますが、そこからちょっとはずれた情報は、皆無に等しい。

地方女子アナが安藤徳器より価値がないとは全然思いませんが、逆に安藤徳器が女子アナより語るに値しない人物だとも思えません。
どちらについての情報もあってこそ、インターネットは「大知識」たり得る、と思うのです。

私が、こんな誰が読んでいるかもわからないブログを書いているのも、一つには、そのあたりに狙いがあります。

たとえ、今日一日のアクセス数が少なくても、ブログを介してネット上に吉川英治に関連する情報を撒き散らしておけば、何かの時に検索に引っかかることもある。

ま、吉川英治は安藤徳器と違って、既にネット上に多くの情報があるので、屋上屋かもしれませんが、それでも何かの役には立つのではないか、という気持ちで、毎日書いています。

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2006年4月 9日 (日)

ついさっき撮影した草思堂庭園の様子です。

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ここに見えているだけでも、散り残った紅梅・白梅、ミツバツツジ、ユキヤナギ、イヨミズキ、ヤマザクラと、花に溢れています。





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庭園の背後に見える愛宕神社のサクラも、見事に咲いています。

まだ、一分咲き程度の木もあって足並みは揃っていませんが、今日は天気もいいので、よく青空に映えています。



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この愛宕神社境内のサクラは、地元の人たちの慰安のためにと、吉川英治が植えたものです。

神社だけでなく、近くの民家のサクラの中にも、吉川英治にもらった苗を植えたものという木があります。

吉川英治の願い通り、半世紀後の今日、人々の目を楽しませてくれています。

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2006年4月 8日 (土)

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ミツマタの花が咲いています。

和紙の原料となる三椏です。

普通は黄色い花ですが、草思堂庭園には赤い花のミツマタがあります。

写真は4年前に撮影したものですが、気に入っているので、今年の写真の代わりに使ってみました。

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2006年4月 7日 (金)

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シラネアオイが咲いています。

これは4日に撮影したものですが、つぼみがまだいくつもありますので、これからしばらくが見頃です。

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2006年4月 6日 (木)

村上元三

4月3日に、村上元三氏が亡くなりました。

村上元三氏と言えば、吉川英治の「宮本武蔵」に対して、戦後初の時代小説として「佐々木小次郎」を書いた作家です。

天稟に満ちた若き美青年という吉川英治が創出した小次郎像を引き継ぎつつ、吉川武蔵のストイックな求道主義に対して、小次郎のロマンティックで多感な青春を描いた作品になっています。

昭和16年に「上総風土記」で村上氏が直木賞をとった時、吉川英治はその選考委員でしたが、面識を得たのは戦後のことで、親しく会話を交わすようになるのは、村上氏がその直木賞の選考委員に加わった昭和29年以降のことのようです。

吉川英治とは同郷で、境遇も似た長谷川伸に師事した村上氏に、その長谷川伸の近況を聞くのが、会話の際の常であったとか。

ある時、年を取るにしたがって、ますます師匠のことがこわくなると言う村上氏の言葉に、吉川英治は「うらやましいなあ」と答えたと言います。
小学校中退で文学の師を持つことのなかった吉川英治にとって、師をおそれる感覚というものは、経験のないものであり、そうした師弟関係があるということに羨望を覚えたのでしょう。

村上氏は享年96歳だそうです。

70歳で世を去った吉川英治は、きっとそのことにもあの世で「うらやましいなあ」とつぶやいているような気がします。

なんだか変な感じの文章になってしまいましたが、村上氏には、ご冥福をお祈り申し上げます。

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2006年4月 5日 (水)

キング・コング

撃墜されたB-29爆撃機の愛称が“Filthy Fay Ⅱ”だったと書きました。

当時のアメリカ軍人は、自分が乗る飛行機などに女性名の愛称をつけることがよくあったそうです。
あの有名な「エノラ・ゲイ」も、機長の母親の名前だと言います。

で、ちょっと英和辞典を引いてみましたが……

「みだらなフェイ」って意味なんですね、“Filthy Fay”って(苦笑)

さて、「みだら」と言われてしまった≪フェイ≫という女性。
時代背景から考えると、おそらく女優フェイ・レイ(Fay Wray)のことでしょう。
戦地で兵士たちが女優のピンナップを大事に持っていたなどという話も聞きますから。

1907年生まれで、特に1920年代・30年代に活躍した美人女優。
とすると、戦場の兵士たちにとっては、少し年上という感じなので、現在なら自衛隊員がイラクで装甲車に≪黒木瞳号≫って名づけるような感覚でしょうか?

その代表作は「キング・コング」(1933)。
最近ピーター・ジャクソン監督がリメイクした作品のオリジナル版です。
そこで、コングに愛される美女を演じたのが、フェイ・レイです。

ところで、この映画「キング・コング」ですが、吉川英治と少々関係があります。
この映画を観た吉川英治が、そこからヒントを得て、「恋山彦」という作品を書いたというのです。

吉川英治は、B-29が墜落した時、長男の英明とともに、今は記念館になっている吉野の家の庭で、その機影を見たそうです。

真っ赤に燃える火の玉となって頭上をかすめて行った飛行機に、自分が作品のヒントとした映画の主演女優の名がつけられていたとは、さすがの吉川英治も夢にも思わなかったでしょう。

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2006年4月 4日 (火)

慰霊祭

去る4月2日、吉川英治記念館からほど近い青梅市柚木町の山中で、ある慰霊祭が行われました。

昭和20年4月2日。
東京多摩地区にあった中島飛行機の工場を爆撃する任務にあたっていたアメリカ軍のB-29爆撃機の1機が、日本軍の高射砲撃により被弾しました。

よくB-29は日本の高射砲の射程より上の高度から爆撃をしたので高射砲が役に立たなかったなどと言いますが、この時は、より正確な爆撃のために通常より低い高度からの爆撃だったので被弾したのだそうです。

被弾したB-29、愛称“Filthy Fay Ⅱ”は、青梅市柚木町に疎開していた吉川英治の家(現・記念館)の屋根をかすめるようにして、背後の山中に墜落しました。
乗員11人のうち6人は落下傘で脱出したものの、5人は機とともに墜落死しました。

住民の敵国兵への反感は強く、落下傘での脱出後に捕らえられた乗員が護送される際には、石を投げつけた者もいたと聞きます。
当然、死者への配慮も、なされませんでした。

それに対し、吉川英治は「敵国人であっても、死ねば同じ人間なのだから、丁重に埋葬するべきだ」と住民を諭し、そこで村の警防団が散乱する死体を回収し、近くの即清寺に埋葬することとなりました。

日本の敗戦後、進駐してきたアメリカ軍は、この話を知り、即清寺から遺体を回収していきました。

平成11年、B-29の墜落地点を所有する地主が、慰霊碑を建て、以降個人として慰霊を行ってきました。

そのことが周囲に伝わり、今年、在日アメリカ軍横田基地の副司令官なども出席しての、日米合同慰霊祭が開催されることになりました。

当館館長の吉川英明も出席しました。

しかし、敵同士でも同じ人間だと言った吉川英治の心や、誰も知らぬ山中の小さな碑を建てた地主の平和への祈りは、今のこの世界に届くものなのでしょうか。

届くものであって欲しいと願わずにはいられません。

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2006年4月 3日 (月)

大正むさしあぶみ

吉川英治の代表作の一つ「親鸞」の挿絵を描いたのは山村耕花です。

山村耕花は「大正むさしあぶみ」という本を出版しています。
これは、大正12年の関東大震災後の東京をルポした画文集です。

その中に『牛丼屋』を描いたものがあります。

実は、吉川英治は、関東大震災後、勤務していた東京毎夕新聞社が発行不能状態に陥ったため、さっさと見切りをつけて、上野公園で罹災者相手の牛飯屋の屋台を開いているのです。

以前に触れたように、宮武外骨の「震災画報」に引用された大正12年9月30日付朝日新聞の記事によれば、吉川英治の開いたような素人屋台や、被災した料理屋の仮営業の露店が当時5364軒もあったといいますから、山村耕花が描いたものが、吉川英治が開いた屋台である可能性は限りなく低いでしょう。

しかし、スケッチの題材を求めて歩く山村耕花が、屋台をやっている吉川英治と出会っていた可能性がないとは言いきれません。
案外、歩きつかれて、吉川英治の屋台で腹ごしらえをしていたかも。

ちなみに紀脩一郎が、この時に吉川英治のやっていた屋台に入って、しばらく話し込んだという話を『一期一会』(「吉川英治全集」月報29所収)という文章に書き残しています。

紀脩一郎は、後年、「あの時の屋台の主人こそ吉川英治だったのか」と雑誌の記事で知ったと描いていますが、山村耕花はどうだったのでしょう。
「親鸞」の挿絵の打ち合わせの席などで、そんな話になったのでしょうか。

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2006年4月 2日 (日)

川柳漫画

吉川英治の小説の挿絵を書いた画家の中には、別の形で吉川英治の≪作品≫を絵にしている人たちもいます。

大正末から昭和初期に、≪川柳漫画≫というものが流行しました。
川柳を題材にしたひとコマ漫画です。
昭和5年から7年にかけて「川柳漫画全集」などというものが刊行されたほどです。

この川柳漫画で最も名を成したのが、吉川英治の出世作「剣難女難」の挿絵を描いた谷脇素文。
素文は何冊も川柳漫画の単行本を出していますが、その1冊「川柳漫画 うきよさまざま」には、吉川英治(雉子郎)の代表句『柳原涙のあとや酒のしみ』を漫画にしたものが収録されています。

同じ句を漫画化して一枚刷りの版画にしたのが近藤浩一路。
「新書太閤記」の挿絵画家の1人です。

先程の「川柳漫画全集」の中で、雉子郎の『店先に一ツ落ちてる果物屋』を漫画にしているのが田中比左良。
吉川英治には珍しい現代小説「あるぷす大将」の挿絵を描いています。

雉子郎の作品を漫画化してはいませんが、「川柳漫画全集」に作品を載せている画家の中には、先日触れた池部鈞や、やはりデビュー当時の吉川英治作品の挿絵を描いた前川千帆も含まれています。

彼らは、大衆小説家・吉川英治と川柳家・雉子郎の双方を知る人たちと言えるでしょう。

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2006年4月 1日 (土)

挿絵画家2

ちなみに、昨日のリストで1~3年で多くの作品を手がけている井川洗涯、大橋月皎、谷脇素文、寺本琴風は、吉川英治が作家デビューした直後の大正末期、複数のペンネームを使い分けて濫作していた時期の作品を手がけた画家たちです。

この時期には、他に弥生美術館で有名な高畠華宵、漫画「スピード太郎」が今も評価されている宍戸左行、俳優池部良の父親である池部鈞なども吉川作品に挿絵を描いています。

本画の方での評価が高い川端龍子や堂本印象も吉川作品の挿絵を手がけています。
石井鶴三なども含め、当時は挿絵専業ではない普通の画家も、こういう仕事をよくやっていたのですね。
もっとも、本画家が余技的に挿絵を描く分にはいいけれど、挿絵専業の画家は一段下のものと見る風潮も、当時の画壇にはあったし、今もそれは消えていない気はしますが。

女性が一人だけいます。
長谷川春子です。
姉である小説家・長谷川時雨と吉川英治は交流がありましたから、人脈的にはつながりますが、あまり吉川英治の作品世界と女性画家というのは、イメージがうまく結びつきません。
ただ、手がけたのは戦前の伝奇的作品ではなく、戦後に書かれた「袴だれ保輔」という、「新・平家物語」のスピンオフ作品的な小説です。
その分だけ女性画家でも違和感がないのかも知れません。

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