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2006年5月31日 (水)

夫婦のゴルフ

昨日の写真と共に、よかったら展示してくださいということで、吉川文子夫人がゴルフの大会で優勝した時の優勝カップなどの賞品も送られてきました。

ゴルフは吉川夫妻が一緒に楽しんだ娯楽のひとつです。

文壇ゴルフ大会に揃って出場したりしていましたし、ともに誕生日のある8月(英治が11日、文子夫人は9日)には、別荘のある軽井沢に友人の作家や関係者が集まって誕生日ゴルフ会を開いたりしていました。

もちろん、普段から執筆の合い間を縫って夫婦でコースに出ること、しばしばでした。

そんな吉川夫妻には、ゴルフにまつわる伝説があります。

もともと、吉川夫妻については、文子夫人の方がゴルフが上手い、という風説がありました。

ある時、夫婦でゴルフのコンペに参加している最中、英治の打った球がラフにつかまり、一方、文子夫人の方はフェアウェー上にのせました。
すると、文子夫人が、自分の球をさして、英治にこうささやいたというのです。

「あなた、こちらをお打ちあそばせ」

吉川英治記念館館長である長男・英明氏に言わせると、「いくらなんだって『~あそばせ』なんて言い方は、母はしなかった」とのことで、もちろん、これは事実ではありません。

常に夫・英治を立て、かしずくように尽くしてきた文子夫人の印象が、こんな伝説を生んだのでしょう。

ちなみに、記念館で保管している資料の中に、発行年は不明ながら、吉川夫妻のハンディキャップ認定証があります。
それによると、英治も文子夫人もハンディキャップは同じ≪28≫。
文子夫人は女性ですが、一方で、英治よりも28歳も年齢が若いわけですから、差し引きして考えると、数字通り、その実力はどっこいどっこいだったのではないでしょうか。

吉川英治の名誉回復のために、このハンディキャップ認定証も展示しようと思います。

ただ、せっかくご提供いただいた文子夫人の優勝カップは、英治死後のものなので、今回は展示は控えようと思います。

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2006年5月30日 (火)

セーラー服

来週から開催する予定の「英治と文子 吉川夫妻の70年」展に使えるのではないか、と言って、吉川家から古い写真が送られてきました。
文子夫人の死後、家の中を整理している時に見つかったものだそうです。

セーラー服を着て、学帽らしきものをかぶった少女の写真です。
どうやら文子夫人の少女時代の写真のようです。

ちょっと不思議な感じがします。

というのも、文子夫人は「お父様、ごめんなさい」という回想文の中で、吉川英治と出会うまでの人生について、こんな風に書いているからです。

彫刻家であった父は身体が弱く、仕事は多くは出来ないので、とても生活は苦しかった。
父親の仕上げた品物を得意先に届けに行った帰りに、バス代の10銭を節約してそれで煙草好きの父に煙草を買い、徒歩で浅草から北千住まで帰宅したこともある。

こんな有様でしたので、小学校を終えるとすぐ、わたくしは働きに出る決心をいたしました。さいわい、千住でチョコレートを包む仕事が見つかりましたので、仲良しのお友達と、毎日、お菓子の下請け内職をしている家へ通いました。

調べてみると、当時の義務教育は尋常小学校までだったようなので、文章におかしなところはありません。
でも、そうすると、これは小学校時代の写真ということになるのですが、姿が小学生っぽくないのです。
それに、当時の小学校には制服があったのでしょうか?

ただ、同じ文章で、この数年後、よりよい収入を求めて銀座のふぐ料理店に勤めはじめたが、実年齢より大人びて見えたために、「お客の中にはいろいろなことをいいかける人も多く」、そのために店をやめた、と書いてもいます。

なるほど、この写真で小学生なら、今の中学生ぐらいの歳の時に、「いろいろいいかけ」られるのも納得できます。

え?
どんな写真かって?

それは展示を見に来てください。

お願いします。

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2006年5月29日 (月)

Img_7290
ユキノシタが咲いています。

下側の大きな白い花弁が目立つので気がつきませんでしたが、上の方にはちょっと柄があるんですね。

ユキノシタは「鴨足草」と表記することもあるようです。
そう言われると鳥の足に似ている気もしますね。

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2006年5月28日 (日)

お断りとお知らせ

開催中の特別展「青梅の吉川英治」は本日で終了します。

ホームページ上では引き続き「青梅の吉川英治・第二部」を開催すると告知していますが、吉川文子夫人が亡くなられたので、急遽、追悼のための展示を行うことになりました。

「英治と文子 吉川夫妻の70年」と題して、吉川英治と文子夫人の出会いから、文子夫人の死去までの70年間を振り返る展示を行います。

会期は6月6日から8月6日を予定していますが、会場の都合で、ロビーと常設展示室の一部については5月30日からこれに合わせた展示を先行して行います。

ご了解ください。

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2006年5月27日 (土)

写真コンテスト締め切り間近

写真コンテストの応募締切が近づいてきました。

そのため、最近問い合わせが増えています。

代表的な質問に、ここでまとめてお答えしておきます。

Q1=テーマが3つ(『街』『優しさ』『明日』)ありますが、これをひとつの作品に全て入れなければならないのですか?

A1=いいえ。いずれかをお選びください。

Q2=応募は1人5点までとありますが、それは各テーマにつき5点ということですか?

A2=いいえ。全部ひっくるめて5点です。なお、選考自体、部門ごとではなく、全体として行っています。

Q3=指定の応募表を入手したいのですが。

A3=指定の応募表はありません。自作のものを添付してください。

Q4=応募票に書き込む事項として「撮影状況」というのがありますが、何を書けばいいのですか?

A4=どんな時に、どういう風にして撮影したか、何を意図して、どういう工夫をして撮影したか、そういうことを簡単にお書きください。
例えば、「旅行に行ったら偶然お祭りをやっていて、地元の人に誘われて、息子も飛び入り参加しました」とか、「久しぶりに帰省したら、街が大きく変貌していて驚きましたが、その中にも昔見慣れたものがわずかに残っているのを見て、思わず撮影しました」とか、そんな感じで結構です。

Q5=結果はいつ頃わかりますか?

A5=選考委員の都合で、選考会は6月26日に行われます。それ以降の、できるだけ早い時期に、応募者全員に直接郵送でお知らせいたします。

こんなところです。

ご応募をお待ちしています。

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2006年5月26日 (金)

くせ

こんなつまらぬブログでも、毎日書くとなると、何を書いたらいいか悩みます。
ネタが無いわけではありません。
吉川英治は“巨人”ですから、探せばネタなどいくらでも見つかります。
ただ、文章の取っ掛かりがつかめないのです。

そう言えば、吉川英治に書き出しがつかないときのことを書いた随筆があったような、と思い、探してみました。

「くせ」という随筆にこんなことを書いています。

原稿を書く場合には、ずいぶん癖らしいものが発作する。机の埃を吹くのは、前にいったが、少し苦吟してくると、あらぬ方へ、眼をすえる。馴れない女中は、恐いそうである。そんな時やむを得ない用事などを訊いてくると、とんちんかんな返辞をするらしい。
(略)
書けなくなると、ペンを紙の上へ持って行ったり、頬杖にしてみたり、同じ挙動を繰り返す。そして左の手は、指を櫛の歯みたいにして、髪を掻く。
なおなお、書けなくなると、今度は、机の上にあるマッチや煙草の箱に、ポチポチと、無意味な星みたいなものを書きならべるのだ。ポチポチと考えのつくまで、無数の点を書きつめるのである。

その星を見て、家人は、昨夜も書けなかったらしいと囁きあうのだとか。

もっとも、吉川英治の原稿を書くスピードは速く、書き出しさえつけば、一晩に40~50枚くらい書くことはざらだったようです。

さすがですね。

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2006年5月25日 (木)

Niwazekisho
今、この花が、草思堂庭園内のあちらこちらに咲いています。

私も、今の職についてから、多少は花に興味を持つようになりましたが、それでも、まだまだ花には疎いところがあります。

実はこの花を先日発行した館報『草思堂だより』15巻1号に掲載したのですが、そこでこれを≪ハゼラン≫と書いてしまいました。
そうしたところ、「違う!」という指摘が。

そう、間違えてしまいました。

これは≪ニワゼキショウ≫です。

ハゼランなら、以前このブログでも取り上げたことがあるのに、どうして間違えたんでしょう。
バカですね。

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2006年5月24日 (水)

谷中うぐいす

まったく唐突に、数年前のテレビ番組制作会社からの電話を思い出しました。
「ある映像を使用したいので吉川家の許可を得たい」というのが用件でした。

その番組はテレビ東京系の「美の巨人から」。
取り上げられたのは横山大観。
使用許可の依頼があった映像は、横山大観が≪谷中鶯≫を歌っている映像でした。

番組中では瞬間のことで気づかなかった方も多いと思いますが、その映像は横山大観と吉川英治がテレビで対談した時のものなのです。
昭和30年、横山大観の米寿記念の展覧会でのことです。

吉川英治は、この時のことを「落日の荘厳に似る」という、横山大観を追悼する文章の中に書いています。

なんと、対談中、酒好きで知られる大観は、番茶の土瓶に日本酒を入れ、それを茶碗で飲んでいたのだそうです。
英治の方も、勧められるままに、ついつい飲んでしまったとか。
つまり、テレビの画面上はお茶で口を湿しているように見えて、実は、酒を酌み交わしていたというわけ。

なかなか無い情景ですね。

しかし、そのおかげで、大観の≪谷中鶯≫が飛び出したのだそうです。

その大観と≪谷中鶯≫の話を、吉川英治は、別の随筆にも書いています。
吉川作品の挿絵も書いた画家の新井勝利からの伝聞と断って、こう書きます。
日本美術院の総会でのことだそうです。

(略)大観氏もめずらしく大酔の果て、例の老画学生ぶりを発揮して、「谷中うぐいす」を歌い出した。ところが、この歌の意味が今の新進にわからない。
というよりも「谷中うぐいす」が歌われていた時代の“夢”が今の中堅や新進の人にはない。あの頃の大観や古径や春草や誰や彼やが矜持していた苦節とか気概とか、上野の森を中心とするりんりたる美校男子の水々しさも誇りもない。
老大観の歌うのを見て、ひそかに、杯中に涙をたれた人もあるそうだが、分らない者は、ポカンとして、大観が寝仆れたのを、瘋癲病でも見るようにクスクス笑っていたという。
(随筆「鶯」より)

近代美術史に疎い私も、≪谷中鶯≫の何たるかがわかりません。どんな歌かも知りません。

そこで検索してみました。

東京美術学校の創設に尽力し、初代校長となりながら罷免の憂き目に会った岡倉天心が、谷中初音町に新たに日本美術院を興した時、即興で作ったのが≪谷中鶯≫の詩で、日本美術院の院歌として歌われたもの、ということがわかりました。
そして、その歌詞はというと、こんなものです。

谷中鶯 初音の血に染む 紅梅花 堂々男子は死んでもよい
奇骨侠骨 開落栄枯も 何のその 堂々男子は死んでもよい

番組中の映像では、歌詞がはっきり聞き取れませんでしたが、こうして文字にして見ると、自分たちの信じる理想の芸術を追求することへの強い志が感じられます。

英治は、大観の「谷中うぐいす」に、老いてなお枯れることのない若々しい魂を見たのでしょう。
納得がいきました。

ちなみに、吉川英治と横山大観は意外にも気が合ったようで、実は長年の交流がありました。
大観が、英治の長女・曙美の名付け親になっているくらいです。
しかし、この対談を最後に、以後、会う機会を失したままになってしまったのだそうです。

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2006年5月23日 (火)

加藤武朗読会

俳優・加藤武さんによる「宮本武蔵」の朗読会が、下記の要領で開催されます。

多くの方のご来館をお待ちしております。

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加藤武朗読の会

吉川英治原作「宮本武蔵」火の巻より『風車』(約50分)
朗読:加藤武
2006年6月11日(日)
開演:午後1時、午後3時(2回公演)
会場:吉川英治記念館母屋にて

*昨年より吉川英治先生作「宮本武蔵」の朗読に意欲を燃やす、俳優加藤武が吉川英治記念館にて奉納の朗読会を開きます。観覧は無料ですが、吉川英治記念館への入場料が必要になります。
定員は各回50名。申し込みは不要ですが、定員を大幅に超えた場合は入場制限をする場合がございます。
ご了承ください。

<会場・問い合わせ先>
吉川英治記念館
〒198-0064
東京都青梅市柚木町1-101-1
電話(0428)76-1575

<交通> 
JR青梅線二俣尾駅下車徒歩15分
または青梅駅下車ののち都バス「吉野(玉堂美術館)」行きで「柚木」バス停下車

自動車の場合は中央高速・八王子インターから45分/圏央道・青梅インターから20分

<入館料>
大人500円/中高大学生400円/小学生300円

≪加藤武氏プロフィール≫
Photo
1929年5月24日生まれ。文学座所属の日本を代表する
新劇俳優。黒澤明作品をはじめとする多くの映画やテレビに出演。
最近は、「宮本武蔵」など語りの会を重ね、好評を得る。
今年は喜寿を迎えるがますます壮健。
市川崑監督の「犬神家の一族」(来年公開予定)にて
当り役の等々力署長で出演、撮影中。

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2006年5月22日 (月)

横浜散歩-番外編

手元にある資料写真などの中から、今回歩いた場所の往時の姿を写したものをいくつか並べてみましょう。
Benten
これは「横濱辨天通り」と題した絵葉書。
弁天通は≪南中舎≫のあった南仲通より1本陸側の通りです。
おそらく、通りの奥に見えている大きな建物が横浜正金銀行(現・県立歴史博物館)でしょう。
看板に横文字が多いのが、いかにも横浜ですね。

Onoe
こちらは「横濱尾上町通り」と題する絵葉書。
ということは、通りの左手にある赤く彩色された尖塔のある建物が指路教会ではないでしょうか。
したがって、その通りを挟んだところに≪日進堂≫があるはずですが、写真のアングルが悪くて、手前の大きな建物の後ろ隠れてしまっています。
残念。

尾上町通の奥に見えているのは、大江橋でしょうか。
その大江橋の先には、当時の横濱停車場、今の桜木町駅があります。
Teishaba
それがこれです。
なかなかいかした駅舎です。

ちなみに、この3枚の絵葉書は明治から大正にかけて発行されたものを復刻したもので、先日、横浜都市発展記念館で購入しました。
日本で私製絵葉書が解禁されるのは明治33年のことですから、それ以降の情景であることは間違いありません。
上の2枚には色がついていますが、当時はまだカラー写真はなく、いわゆる手彩色絵葉書です。
ですから、色については、実際通りである保証はありません。

Yokohamadock
これは、当館にある資料写真(といっても複写ですが)で、横浜ドックの往時の姿です。
真ん中近くにあるのが2号ドックで、左端にあるのが1号ドックでしょうか。
背後にかすかに見えている山は、伊勢山か掃部山だと思われます。

Kankan
これも資料写真として所蔵しているものですが、ドック内での作業風景。
正確な時代はわかりませんが、命綱をつけたりしているので、吉川英治の時代よりは、かなり後なのではないでしょうか。
しかし、よくこんな不安定な場所で作業ができるものです。
私なんぞは、この板の上に立つことすらできないでしょう、怖くて。

Shodai
これは「日本名勝風俗大写真帖」(昭和6年4月 忠誠堂刊)という本に掲載された掃部山公園の井伊直弼の銅像です。
発行年からして先代の銅像に間違いありませんが、今のものとあまり変わりがないですね。
真似て作ったのか、あるいは共通の元になった肖像画があるのでしょうか。
ちなみに、公園の解説板にはこうあります。

当時の銅像は、藤田文蔵、岡崎雪声によって製作され、その姿は「正四位上左近衛権中将」の正装で、高さは約三.六メートルを測りました。しかし、当初の銅像は、昭和一八年に金属回収によって撤去され、現銅像は、昭和二九年、横浜市の依頼により、慶寺丹長が制作したもので、その重さは約四トンあります。
なお台石は妻木頼黄の設計で、高さは約六.七メートルあり、創建当初のものが残っています。

そして、再建されたものは、東京都世田谷区豪徳寺にある井伊大老像をモデルにしているそうです。
先代もそうなのかもしれませんね。

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2006年5月21日 (日)

横浜散歩-その7

Dock_1
横浜ランドマークタワーのある、みなとみらい21地区は、かつての横浜ドックの跡地です。

既に書いたように、吉川英治はここで働いていました。
日雇い労働者の中に交じって働いていたところ、知人のつてで横浜ドックの船具工に採用されたのでした。

吉川英治のこの経歴と、後に小説『かんかん虫は唄う』を書いたことから、吉川英治が≪かんかん虫≫をしていたと言われることがありますが、これは正確ではありません。

Dock_2
≪かんかん虫≫とは、ドックで働く日当の安い臨時雇いの職工たちのこと。
船のサビを落とす時にかなづちで「かんかん」叩くので≪かんかん虫≫と呼ばれた、などと言われます。
これに対し、英治は一応正規採用された身でしたから、厳密に言えば≪かんかん虫≫ではありません。

とはいえ、こう書いています。

かんかん虫という呼称は、ぼくには少しもユモラスには聞えない。反対に、エキゾチックではあるが何か灰色の哀感とそして弱々しい明治世代の訴える“歌声”も持たなかった細民たちの無数の顔が、華やかな港の灯を背景として、泛んでくる。(略)
それにまた、当時ぼくの通勤し初めた横浜船渠の船具部という職場が、ほとんど彼らと隔差のない姿や範囲のものだった。違っているのは、彼らに期待できない危険極まる随所の足場仕事だとか烈しい重労働だけである。要するに会社常雇のA級かんかん虫が船具部であるといってもよい。

その危険な足場仕事の最中に、同僚のミスによって、ドックの底に転落してしまい、先日の十全病院に担ぎ込まれたわけです。

もっとも、いつも仕事が辛く危険だったわけではなく、雨の日などは船内仕事のような比較的楽な作業(通常は一般の≪かんかん虫≫がやる仕事ですね)にまわされたりしたようで、そんな時はうまく仕事を怠けていたようです。

ぼくはいつもポケットにしている袖珍本の芭蕉句集を出して盗み読みした。また、作句したり自由な空想に愉しみ耽ることができる。(略)ドックの一年何ヵ月が勤まったのは、ぼくに空想癖があった救いといっていい。そこの闇黒が苛烈なほど、自分を置く空想の世界は甘く、夕方の退けのブーが聞えてくるのも、いつの間にかのような気がした。

Dock_3
さて、現在、かつての横浜ドックのうち1号ドックには、日本丸が係留されています。
吉川英治が転落したのは、その1号ドックです。
そして、ランドマークタワーの足元にドックヤードガーデンとして改装・復元されているのが、2号ドックです。

写真はいずれも2号ドック=ドックヤードガーデンのもの。

2号ドックは1号ドックよりやや小ぶりだったようですが、それでも、現在の状況でも建物2階分の高さはあります。
よくドックの底へ転落して、1ヶ月で退院できるような怪我で済んだものです。

英治が、その事故を契機として、東京に苦学の決意で上京するということは、先日書いた通り。

その旅立ちの場となったのは、現在の桜木町駅。
当時は、ここが横浜駅でした。

Eki
横浜から東京に行くことなど、今では何の造作もありません。
毎日通勤している人も山ほどいるでしょう。

しかし、旅立ちの朝、母・いくは赤飯を炊き、桜木町の駅では、駅を離れる車窓から、母や弟・妹たちに涙目で手を振る吉川英治の姿がありました。

明治43年12月30日。英治18歳。
当時はまだ、それが奇異なことではなかったのです。

汽車が、高島町辺にかかると、車窓の右側に、船渠会社の構内が、すぐ、まる見えに望まれる。一号ドックにも、二号ドックにも、入渠船のマストが見えた。今日もそこの足場で生命がけの作業をしている木靴の仲間の顔が、あれこれ、ぼくの眼に泛かんでいた。長い間、世話になった組長の猪子さんに、黙って去って行くのが、悪かったと、急に思い出されたりしていた。

さて、以上で、私の思いつき文学散歩も終了です。

宿泊したホテルを9時20分頃に出て、桜木町駅にたどり着いたのが12時30分頃。
3時間ほどの行程でした。

横浜には、吉川英治ゆかりの場所がまだたくさん残っています。
いずれ、この続きに挑戦したいと思っています。
気まぐれなので、いつになるかわかりませんが。

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2006年5月20日 (土)

横浜散歩-その6

野毛山から谷を挟んで東隣の掃部山に足を運びます。

ここは『忘れ残りの記』に出てくる吉川英治ゆかりの地とは違いますが、「歴史上の人物あれこれ」という随筆(談話筆記ですが)に、英治は「面白い思い出」として、こんな話を紹介しています。

明治42年(英治は13、14歳の時のこととしていますが、実際には17歳の時です)、掃部山に井伊直弼の銅像が立ちました。

その銅像の除幕式が行われたんです。その日は餅や蜜柑を投げたものでね。僕ら子供連はその蜜柑拾いを目あてに、見物に行きましたが、大変な賑やかさでした。
(「歴史上の人物あれこれ」より)

このことが「面白い思い出」なのではなく、除幕式の後日談があるのです。

すると除幕式が終えてから数日経ったら、人々がアレヨアレヨと騒いでいるんだな。なんだと思ったら、掃部頭の銅像の首がないという。それで、その日の横浜貿易新聞という僕らなじみのある新聞が「掃部頭の首が二度取られた」と書いていた。

英治は、この事件の背景も語っていますが、やや不正確なので、他の資料を参照しながらまとめると、概要はこんな感じです。

Kamon
井伊直弼は、勅許なしに日米修好通商条約を締結し、安政の大獄で攘夷派を弾圧、そのために桜田門外の変で暗殺された、時の大老です。
外国との通商を許可したということは、後の横浜の発展の礎を作った人物ということでもあります。
そこで、旧彦根藩士(井伊家は彦根藩主でした)が中心となって、当時鉄道山と呼ばれていた山を購入して、そこに井伊直弼の銅像を立てました。
井伊直弼の官職は掃部頭(かもんのかみ)なので、以後この山は掃部山(かもんやま)と呼ばれることになりました。
Naosuke
しかし、この銅像の建設も、除幕式も、すんなりとは運びませんでした。
というのも、時の神奈川県知事は長州藩士・周布政之助の子、周布公平でした。
周布政之助は、単純に尊王攘夷派と括れる人ではないようですが、幕府の開国政策には反対していました。
また、安政の大獄で処刑された吉田松陰は、長州の人です。
当然、周布公平も井伊直弼に好感情は持っていません。
もちろん彼につながる旧長州藩の人々、桜田門外の変を起こした旧水戸藩の人々なども同様です。
そのため、周布公平は除幕式の開催を禁止します。
しかし、旧彦根藩士たちは除幕式を強行し、結果として銅像首切り事件が発生したわけです。

Landmark
英治が、この事件を引き合いに出したのは、表面の歴史は時代時代を画するものだが、そこに生きている人々の底流の歴史は、昨日と今日で急に変わるものではない、ということを語るためです。

なお、写真の銅像は首を切られたものではなく、昭和29年に再建された2代目の銅像。
初代は首を切られた挙句、戦時供出により撤去されてしまいました。

いま、井伊直弼の見つめる先には、横浜ランドマークタワーがあります。
この大きな変化を、井伊直弼はどう感じるのでしょうか。

次の目的地は、そのランドマークタワーです。

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2006年5月19日 (金)

横浜散歩-その5

Huruhon
都橋を渡り、野毛山へ向って坂を上ります。

坂の途中に古本屋があります。

『忘れ残りの記』では、一家が飢餓にあえいでいた時に、畑の芋を盗んで命をつないだということを懺悔した後に、こんなことを書いています。

否みようもなく、ぼくには盗癖があったようだ。小学生当時にも、母の小銭をかすめたり、店の銭箱へ手を突っこんだ経験がある。いやそのほかにも一度、野毛坂の古本屋で、盗みを犯したことがある。よくやる店頭の立ち読みをしているうちに、無性に欲しくなって来たのである。(略)左側は伊勢山の高い石垣だった。ぼくは恐怖と後悔から手の書物を石垣の下の小溝に抛り捨てた。夢中で逃げた。

通りに古本屋はここぐらいしか見当たりませんが、ここのことでしょうか。
この店が明治30年以前から営業している店なら、間違いありませんが。

坂を上っていくと、道が左右に分かれます。
左に行くと野毛山動物園などがありますが、右(というか実際にはまっすぐ)に行くと、坂の頂上に横浜市立老松中学校があります。
ここは、かつての十全病院の跡地です。

その日ぼくは、ドックの底から担架でかつぎ上げられて、野毛山の十全病院へと運ばれてゆく間に、いつか意識を失っていた。何分か何十分かは、完全な仮死に落ち入っていたわけである。

Byoin
後日詳しく書きますが、吉川英治は明治42年から43年にかけて横浜ドックで働いていましたが、43年の11月頃、船の船腹で作業中に足場もろともドックの底へ転落し、大怪我をして十全病院に入院したのでした。

怪我は主に尾骶骨のあたりで、それ以外の怪我はたいしたことがなく、医者からも「うまく落ちたな、こんな程度ですんだのは奇蹟だ。命びろいしたんだよ、君は」と言われるほどのものでした。

患部の痛みはべつとして、ぼくは毎日のベッドに退屈も知らなかった。
朝晩のドックのブーは、ここの窓へも聞えて来る。ブーが鳴っても、あの鉄の門へ急がなくてもいい。木靴を穿いて危ない軽業師のような労役に就かないでもいい。そう思うだけでも、偶然な幸福に見舞われている気がした。事実、こんな安息は、何年にもなかった事だ。何もしないで、温かな食事を看護婦の手で給仕され、本も読めるし、自由な空想も描いていられる。嘘みたいな、昨日と今日の違いだ。災難だった、気の毒だったと、人の云ってくれるものが、自分にとっては、逆にこんなにも密かな愉しみだったのである。

とっくにドックの仕事に嫌気がさし、東京へ苦学に出たいと密かに考えていた英治にとっては、この事故はむしろ幸いというべきものでした。
また、母・いくも、英治のその思いに気づき、後押しをしてくれました。

退院するや、英治は父・直広に、「ドックで死んだと思って、東京で苦学させてください」と申し出ます。
直広は、快諾とはいかないものの、怒り出しもせず、あっさりとこれを許してくれます。

かくして、英治は横浜を離れ、東京へと旅立ちます。

そんな横浜最後の思い出の地が野毛山というわけです。

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2006年5月18日 (木)

横浜散歩-その4

Yoshidabashi
馬車道を進んで、JRのガードをくぐった先にある小さな橋が、吉田橋です。

明治2年、この場所に日本最初のトラス鉄橋が架けられました。
鉄橋ということで、人々はこれを≪鉄(かね)の橋≫と呼びました。

Kanenohashi橋のそばにある案内板には、現在の橋の高欄は≪鉄の橋≫を模したものだと書かれていますが、なんと言うか、いまは風景の中に埋もれてしまって、そんな風情はまったく感じられません。
パッと観ると、そもそも橋があるのかどうかすらわからないくらい存在感がありません。
また、橋の下は、いまは高速道路で、水ではなく車が流れています。

そんな橋のすぐ近くに、一時期、吉川家が居を構えていました。

明治42年、貧困の中、やむなく奉公に出した浜子(吉川英治の妹)が、奉公先で病に倒れ、家に帰されてきたものの、そのまま世を去ります。
9歳でした。
英治にも、母・いくにも、生涯の悔恨として心に深く刻まれることになった出来事でした。

運命は悪戯者というが、こんな弱者の家庭へも同じに見舞った。皮肉にも浜子の死後まもなく、ちょっと家運が開けた。どういう金が入ったのか、家は鉄ノ橋側の吉田町二丁目へ引移った。(略)
吉田町の家は、繁華街のすぐ横で相当な構えの家であった。

また、『忘れ残りの記』巻末の自筆年譜には、「初めて電灯のある住宅に住む」とありますから、結構な家だったのでしょう。

さて、吉川英治記念館には、吉川英治の戸籍謄本のコピーが展示してありますが、その住所は≪横浜市吉田町弐丁目五拾八番地≫。
実は、作家デビュー後の大正15年8月まで、ここが本籍地だったのです。

ただし、この戸籍謄本は、本来の原本が関東大震災で焼失したために、再発行したものです。
したがって、再発行の際に、吉川家が横浜で最後に住んだこの住所で申請した可能性はあります。
皆さんもそうだと思いますが、引越すたびに本籍を動かす人は滅多にいませんから。
焼失するまでの戸籍謄本は、吉田町以前に住んだ、羽振りの良かった頃の家の住所になっていたかもしれません。

Yoshidacho
それはさておき。
吉田橋から桜川橋に向う道と都橋に向う道に挟まれた三角地帯が、その住所にあたります。
本には、第一生命ビルとあります。
ビルの名称はそのままかもしれません(確認しませんでした)が、いまはテナントの不動産会社が目立っています。
なお、このビルの敷地が全てかつての吉川家だったわけではなく、その一部分であろうと思われます。

次は、野毛山に向います。

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2006年5月17日 (水)

横浜散歩-その3

吉川英治の横浜時代は、父・直広の事業の浮沈によって、恵まれた暮らしとどん底生活の間を何度も行き来します。
そんな中にあって、『忘れ残りの記』で≪小康時代≫と書いているのが、尾上町時代です。

尾上町は、先程の南中舎から、馬車道を通って、やはり歩いて10分もかからない所。

この時、直広は知人の援助により≪日進堂≫という新聞販売店を居抜きで譲り受け、経営していました。
英治は店員として、そこの帳場に座っていました。

その日進堂の位置は、今日の横浜でもそう変わっていず、桜木町駅から大江橋を渡って左側の、いま朝日新聞社支局となっている辺りである。(略)
店の斜向いに、日曜日以外は、いつも鉄扉の閉まっている教会堂と、脇沢金次郎翁の邸宅があった。

Church
ここに言う教会堂とは、指路教会のこと。
ヘボン式ローマ字に名を残す、ジェームス・カーチス・ヘップバーン(通称ヘボン)にゆかりの教会だそうです。
写真の建物は、関東大震災に被災した後、大正15年に再建された建物で、英治の見たものではありません。
英治が目にしていたのはこの先代の教会堂で、赤レンガの建物だったようです。
何度かの移転の後、英治の生まれた明治25年以降、現在地にあるということなので、ちょうどいい目印になります。

Nissindo
この教会の斜め向かいに日進堂はあったということですから、写真の小さな雑居ビルがその場所のようです。
本には吉住ビルとありますが、いまもそのままです。

直広は、この折角の店を人任せにし、自分は再起を期して相場に手を出し、その挙句、借金だけを増やして、わずか1年半で店を閉める羽目になります。
しかし、英治はこう回想します。

およそ尾上町の一年半ほど、ぼく自身にとって自身の好きな事がやれていた時期は前後にない。薄暗い帳場格子の中は、借金取にたいして録音されたような断りを云うほか、まったくぼくの小書斎となっていた。

この小書斎で、英治は好きな書物を読み、それ以上に絵を描いて過ごしていました。
上に名を挙げている脇沢金次郎に将来の希望を問われ、「絵かきになりたい」と答えたほどでした。

ところで、この文章に続いて、こうあります。

そこで、ぼくは初めて小説を書いたことがある。高島米峰氏主宰の「学生文壇」が創刊され、その第二号に投じた小説が当選した。題はいま考えると、ひどく古風なもので、“浮寝鳥”というのであった。

この、『浮寝鳥』という小説、実は未発見です。
雑誌「学生文壇」の初期のものがまだ確認できていないのです。

どなたかお持ちではないでしょうか?

さて、再び馬車道に引き返して、次は吉田橋に向います。

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2006年5月16日 (火)

横浜散歩-その2

川村印章店を追い出されたのをいいことに、しばらくは実家でブラブラしていた吉川英治。
まあ、その時13歳だったのですから、それが普通なのですが、しかし、当時の吉川家は普通ではありませんでした。
父親は裁判沙汰の末に投獄されていて不在、恵まれた家に生まれ育った母親は自らたつきを立てる才はない。
当然、家は困窮していく。
そこで、意を決した英治が、新聞の職業案内欄から自分で探し出して勤めることになったのが、印刷会社の南仲舎でした。

Nanchusha
本によると、正確には≪南中舎≫。
場所は南仲通4丁目。
写真のメナードの看板の出ているビルからその隣のレストランのあるビルあたりにかけてが、南中舎の所在地だったようです。

先程の川村印章店から、歩いても10分とかかりません。

南仲通りには、生糸取引所とか、米穀仲買商などが軒を並べていて、活版所はその喧騒の中にあった。だからここで印刷されるのは、相場の気配新聞や商事関係が殆どといってよい。

Ginko
南中舎の場所から南仲通を北西に向うとすぐに、いわゆる馬車道と交叉します。
そこに神奈川県立歴史博物館があります。
明治37年に建てられた横浜正金銀行本店の建物を利用した博物館です。
建物は国指定の史跡です。
吉川英治が南中舎に勤めたのは明治38年ですから、前年には既に出来ていたことになりますが、『忘れ残りの記』には言及がありません。
本当に目と鼻の先なのですが。

南中舎に勤めた期間が1年足らずであったこともあるのでしょうが、そういう華々しいものに対しては引け目を感じ、背を向けたくなるような、そんな心情だったのかもしれません。

この南中舎で、吉川英治は人生最初の給料を得ます。

以前の川村印章店では、一銭の小費いも、徒弟初期には無い約束だったから、自分で働いて得た金は南仲舎が初めてなのだ。それをポケットにして帰る日の夕方には、やたらに何か買って帰りたかった。(中略)けれど母に見せないうちは、一銭減らすのも何だか惜しまれた。

こんなところにも、母親への想いが透けて見えます。

次は、馬車道を南西に歩いて尾上町に向います。

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2006年5月15日 (月)

横浜散歩-その1

横浜に1泊してきました。
せっかく横浜まで出かけたので、吉川英治にゆかりの場所を何ヶ所か歩いてみることにしました。

ただし、まったくの気まぐれと言うか、気の迷いと言うか、とにかく、急な思い付きだったので、何の下準備もせず、ただ1冊の本だけを持っていきました。

「吉川英治と明治の横浜――自伝小説『忘れ残りの記』を解剖する」(横浜近代文学研究会編  1989年)という本です(以下、単に「本」と呼びます)。

出版から17年も経っていますので、きっと状況も違うことでしょうから、人の調査の後追いでも、まあ、それなりの価値はあるでしょう(横着な)。

とりあえず、関内周辺を歩くことにします。
というのも、宿泊したホテルがそこにあるからですが。

ホテルの所在地は横浜市中区住吉町。
その同じ住吉町に、吉川英治が小学校を中退して、最初に奉公に出されて勤めた≪川村印章店≫があります。
まずはそこを探します。

川村印章店は馬車道から横浜公園へ向って柳並木になっていた住吉町通りの角から東側へ二軒目のちんまりした一店舗だった。
(『忘れ残りの記』から。以下同じ)

Kawamura
この描写などから、本では現在は関内桜通りに面した住吉町3丁目の一画が、その場所だと書きます。
本では、「現状は「ハンズマートヤマナカ」である」としていますが、今は居酒屋になっているようです。
たまたま隣の土地が更地になっていましたので、間口の割りに奥行きがある、いわゆる≪うなぎの寝床≫風であるのがわかります。

(略)初奉公のぼくは、勿論、店の表つきを見て這入ったわけではない。その家のしきいを初めて踏んだのは露地の裏口からであった。(中略)何か冷やッこい他人の家と足の裏に感じたとき、又してもぼくはここで一と泣きしたくなった。

と書く裏口は、写真の右手にあったのでしょう。

吉川英治は、この生涯最初の勤め先で、≪小さい筆禍≫を起こして、店を追い出されます。
その筆禍の内容は『忘れ残りの記』に、上記のタイトルの章がありますので、そこを読んでみてください。

私は、次の勤め先となった南仲舎に向います。

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2006年5月14日 (日)

母を詠む

母の日なので、吉川英治の母を詠んだ川柳・俳句・短歌をいくつか列挙してみます。

母あらばなど想う日の梅うらら
世の母をみなわが母と思いつもわれにひとりの母ありませば
めし茶わん手にふと冬の朝寒み母なきのちのながくもあるかな
奈良に来ても伊勢路に来ても見ればみとれぬ母ある人の母ともなうを

吉川英治は29歳で母を亡くしているため、母親不在の喪失感を込めたものが多くあります。
これらはその代表です。

母となり子となり足も拭いて呉れ
お母さんと呼んで見し用もなけれど
おふくろは俺におしめもあてかねず
こんな事書くかと思う母の文

母親の無償で無条件の愛情と、それに安心しきって身をゆだねている姿です。

吉川英治の母親への思いと、母子の関係が見えるようです。

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2006年5月13日 (土)

マザコン

昨日触れた「夏隣り」(随筆集「折々の記」所収)という随筆の最後に、吉川英治はこう書きます。

母は、確実に、子の胸に住む。三十年前に亡くした母も、まだ、ぼくの想いの中には、そこはかとなく生きている。だからぼくは妻へも正直に云っておく。ぼくにとって、この世で知った女性のうち、第一の恋人は母だよ、と。

同じようなことは複数の随筆に書き残しています。
例えば、

僕は種々に思うが青春時代の恋愛などは青春期にあっては人生で一番良い絶対的なものとして陶酔するが長い人生を通して見るとどうしても恋愛は第二義的なものになると思う。
ほんとに忘れられない「愛」は母の「愛」だと思う。母の愛だけは、特に思い出そうとしなくても、何かの生活にふれる度にフッと思い出す。そしてそのことを考えている間は、自分は童心に帰り、青年期の夢、励み、希望を思い出して、一つの力となり人生の生甲斐となっていることが多い。

恋愛至上主義的な昨今、こんなことを言えば、その男性は≪マザコン≫呼ばわりされ、女性から毛嫌いされることでしょう。

しかし、そういう女性も、自身が母親となれば、案外、我が子からそのように思われることを望んだりするのです。

堂々巡りですね。

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2006年5月12日 (金)

母の日

もうすぐ母の日ですが、吉川英治は「夏隣り」という随筆にこう書いています。

いったい母の日とは、何をする日か、意味するのか、考えると、分からない。
母を思えというのか。ばかなことである。母が子を思う、子が母を思う。そんな特別な日があるなんてことからして、おかしいではないか。

母親への深い敬愛の気持ちを生涯持ち続けた吉川英治にとって、子が母を思うのは当たり前のことであり、そのために日を設定することなど滑稽だ、という思いがあったのでしょう。

今、母の日がいつから始まったのか確認しようと検索してみましたが、引っかかるのは母の日のギフトや企画の紹介ばかりです。

だが、どうも、安っぽい母性観が、社会表皮に浮わつくだけで、すこしいやな云い方だが、人間下落だと云えなくもない。

吉川英治は、同じ随筆でこうも書いているわけですが、今のすっかり商業主義的になってしまった母の日を見たら、だから言っただろうと苦い顔をしそうな気がしますね。

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2006年5月11日 (木)

Img_7107
キエビネも咲いています。

去年、普通のエビネランは紹介しましたので、今年はこちらを。

キエビネとエビネは、5年ほど前までは椎の木の下にかなりの数があったのですが、ここ数年数が減ってしまいました。
なまじ増やそうとして株分けしたのが良くなかったみたいです。

また時間をかけて、増やしたいと思っています。

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2006年5月10日 (水)

Img_7101
キンランです。

撮影している時には気がつきませんでしたが、花の上にクモがいるみたいですね。

ちなみに、撮影している私の方は、ワイシャツの袖に葉ダニがびっしりついてしまいました(苦笑)

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2006年5月 9日 (火)

横須賀

「横須賀市立図書館の郷土史コーナーに吉川英治の著作が置かれているんですが、吉川英治は横須賀と何か関係があるんですか?」という問い合わせの電話がありました。

吉川英治が横浜で生まれたことはよく知られていると思いますが、実はわずかながら横須賀にも縁があります。

本人の自筆年譜によれば、明治41年のこと。

吉川英治は父親の事業の失敗による家の没落で、明治36年、11歳の時から様々な職を転々としながら家計を助けるという暮らしをしてきました。
そうした仕事の一つとして、続木商店という所に勤め、その横須賀支店に約1年間住み込みで働きました。
この続木商店の主たる業務は海軍への物品の納入で、吉川英治も、横須賀軍港に停泊する軍艦の酒保に商品を届けるなどしていました。

自叙伝「忘れ残りの記」によると、苦難の少年時代に経験した様々な仕事の中では、続木商店は割と楽しく働くことが出来た場所だったようです。

それでも、その住み込み店員時代のこととして、家族が二日間何も食べていないということを弟が伝えにやって来たため、なけなしの5銭を与え、自分もあわてて店の商品の缶詰を“前借”して届けたというエピソードや、商品を納めに行った軍艦・新高で、このまま隠れていたらどこか外国に行けるだろうかと夢想した、などという話が出てきます。

ちなみに、小説の中では、ただ1作、「燃える富士」の中に横須賀が主たる舞台として登場します。
江戸幕府によって建設中の横須賀造船所が、重要な舞台になっているのです。

横須賀造船所は、結局明治維新後に明治政府によって完成され、後に海軍工廠となりますから、続木商店時代の吉川英治には馴染みのある場所ということになるでしょう。

そのあたりを踏まえて、ぜひ一度読んでみてください。

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2006年5月 8日 (月)

平家夢幻コンサート

吉川文子名誉館長の葬儀でバタバタしていたので、すっかり触れるのを忘れていましたが、先月27日に、斎藤友子さんの「平家夢幻」のコンサートに行ってきました。
以前、このブログでも告知した、コンサートです。

わたしは、実は、10年ほど前に行われたこの曲の初演のコンサートも聴いていますし、CDでもひと通り聴いています。
しかし、今回の方が、良かったような気がします。
初演は大きなホールで、どこか音が抜けるような感じがありましたし、CDはやはりCDです。
今回は定員88名という小さなホールが会場でしたが、かえって音が良く聴こえました。
ピアノ2台にヴァイオリン1台という構成からしても、これくらいがちょうど良かった気がします。

私は普段、ロックのライブなら行きますが、こうしたクラシック系のコンサートには行きません。
生演奏と言いながら、ロックではアンプにつないでスピーカーを通した音を聴いています。
鍵盤楽器と言えば、キーボードか電子ピアノばかりです。
そうした機材を通さない、楽器の生の音を聞くのは、久しぶりでした。

やはり、良い音ですね、生のピアノの音って。
とても気持ち良かったです。

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2006年5月 7日 (日)

訃報

平成元年度吉川英治文化賞受賞者の萱野茂さんが、昨日お亡くなりになりました。

報道にあるように、アイヌの民俗資料を探査・収集して二風谷アイヌ文化資料館を設立するなど、アイヌ文化の保護継承に尽力した方です。

私が吉川英治記念館に勤め始める前に受賞されているので、面識はないのですが、ご冥福をお祈りしたいと思います。

と書いてふと思いました。

アイヌの皆さんも「ご冥福」っておっしゃるんでしょうか。
アイヌの死生観、アイヌの葬送観においては、≪死≫にはどういう意味があるのでしょうか。
多くの日本人が持つ仏教的なものとは、やはり違っているのでしょうか。

同じ国土を共有しながら、そんなことも知らないなんて。

日本が広いのか、私の見識が狭いのか。

多分その両方なのでしょう。

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2006年5月 6日 (土)

芍薬の使者

一昨日、ヤマシャクヤクの写真を載せましたが、今朝はもう散っていました。
花の命は短いですね。

ところで、シャクヤクと言えば、吉川英治の小説「宮本武蔵」の中の『芍薬の使者』の場面が思い出されます。
「宮本武蔵」の中でも最も印象的な場面の一つでしょう。

吉岡伝七郎から試合を求められた柳生石舟斎が、それを断るためにお通を伝七郎の滞在する宿に使者に出す。
お通は断りの文とともに、石舟斎が手ずから切った芍薬の一枝を伝七郎に届ける。
試合を断られたうえに花を贈られた伝七郎は立腹し、芍薬をお通につき返す。
その芍薬をお通は宿の手伝いの娘に譲る。
偶然にも同じ宿に泊まっていた武蔵の部屋に、娘がその芍薬を持ち込む。
武蔵は、その芍薬の枝の切り口を見て、そこに並々ならぬものを感じる。
そして、それが柳生の城から届けられたものと知り、柳生の剣の奥深さを感じる。

という場面です。

長谷川櫂著「俳句的生活」(中公新書 2004年)に、この場面への言及があるというので、ちょっとその部分を読んでみました。

それは第1章『切る』の冒頭。
この章で著者は、芍薬の切り口に何も感じなかった吉岡伝七郎とそこに非凡を見た宮本武蔵というこの挿話を枕にして、俳句の「切れ」の味わいを論じています。

吉川武蔵には、娯楽小説として楽しめるだけでなく、こうした引用の仕方を可能にする教訓めいた部分も多分にあります。
それは人によっては批判の対象となるものですが、しかし、この両面があるからこそ、小説「宮本武蔵」は現代まで読み継がれてきたのだとも言えます。

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2006年5月 5日 (金)

パフォーマンス

閉館の際には、旧吉川邸母屋の雨戸を全部閉めます。
大きな家なので、ちょっとした仕事です。

そのうち、母屋南西側の座敷の周りの雨戸を閉める姿は、ちょっと見ものです。

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建物の角の部分の2辺分の雨戸が、1ヶ所の戸袋に集められているので、写真のように、一度枠からはみ出させて、クルッと90度回転させて、入れ直さないといけないのです。

普通の民家ではまず見られないことなので、たまたま目にしたお客さんは、みな驚かれます。

閉館時間近くに来館した方は、ぜひ注目してみてください。

ちょっとしたパフォーマンスです。

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2006年5月 4日 (木)

Img_7094
ヤマシャクヤクです。

今日この状態ですから、綺麗なのは明日か明後日くらいまででしょうか。

これは椎の木の下に生えていますが、この場所に植えた記憶はないので、自然に出てきたものでしょう。
今年初めてなので、花もまだ少し小さい感じがします。

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2006年5月 3日 (水)

Img_7088
オドリコソウです。

茎の途中に花が咲くので、ちょっと気がつきにくいですね。

花を横から見ると、笠をかぶった踊り子のようだということでこの名があるそうですが、これだけ花が詰まっていると、まるでディスコ(古いですか)みたいですね。

シソ科だそうですが、そう言われると、刺身についてくるシソの花(実?)に似ている気もします。

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2006年5月 2日 (火)

青梅住吉神社大祭

明日5月3日は、青梅市にある住吉神社の大祭です。
山車も出ますし、伝統的なお囃子などもあって、見どころもたくさんある大きなお祭りです。

吉川英治記念館では写真コンテストを開催していますが、その被写体にもよく選ばれるお祭りです。

ただ、このお祭りのため、青梅駅近くの青梅街道は車両通行止めになります。

したがって、通常は当館までおいでになる方には、青梅駅前から都バス「吉野行き」に乗ってください、とご案内するのですが、明日は都バス「吉野行き」は、青梅駅からは5分ほど離れた「青梅市民会館下」の臨時バス停からの発車になります。

お祭りを見てからバスで吉川英治記念館においでになる、というのでなければ、JR青梅線「奥多摩行き」に乗って二俣尾駅で下車して、徒歩でおいでになる方が、道に迷わずに済むかもしれません。

当然、自家用車も青梅街道を迂回する車で吉野街道が混み合う可能性がありますので、ご注意ください。

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2006年5月 1日 (月)

Img_7069

藤棚のフジが咲き始めました。

将来は、この藤棚を広げて、来館者の方が下を通れるようにしたいと考えています。

ただ、このフジ、古木で、幹は風格があるのですが、いかんせん花が少し短い。
花が1尺ぐらいあると見栄えがするのですが、ちょっと地味なのです。

花の長いものを挿し木したらどうかとか、もう1本フジを植えたらどうかとか、色々と意見は言ってくださるのですが。

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