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2006年5月19日 (金)

横浜散歩-その5

Huruhon
都橋を渡り、野毛山へ向って坂を上ります。

坂の途中に古本屋があります。

『忘れ残りの記』では、一家が飢餓にあえいでいた時に、畑の芋を盗んで命をつないだということを懺悔した後に、こんなことを書いています。

否みようもなく、ぼくには盗癖があったようだ。小学生当時にも、母の小銭をかすめたり、店の銭箱へ手を突っこんだ経験がある。いやそのほかにも一度、野毛坂の古本屋で、盗みを犯したことがある。よくやる店頭の立ち読みをしているうちに、無性に欲しくなって来たのである。(略)左側は伊勢山の高い石垣だった。ぼくは恐怖と後悔から手の書物を石垣の下の小溝に抛り捨てた。夢中で逃げた。

通りに古本屋はここぐらいしか見当たりませんが、ここのことでしょうか。
この店が明治30年以前から営業している店なら、間違いありませんが。

坂を上っていくと、道が左右に分かれます。
左に行くと野毛山動物園などがありますが、右(というか実際にはまっすぐ)に行くと、坂の頂上に横浜市立老松中学校があります。
ここは、かつての十全病院の跡地です。

その日ぼくは、ドックの底から担架でかつぎ上げられて、野毛山の十全病院へと運ばれてゆく間に、いつか意識を失っていた。何分か何十分かは、完全な仮死に落ち入っていたわけである。

Byoin
後日詳しく書きますが、吉川英治は明治42年から43年にかけて横浜ドックで働いていましたが、43年の11月頃、船の船腹で作業中に足場もろともドックの底へ転落し、大怪我をして十全病院に入院したのでした。

怪我は主に尾骶骨のあたりで、それ以外の怪我はたいしたことがなく、医者からも「うまく落ちたな、こんな程度ですんだのは奇蹟だ。命びろいしたんだよ、君は」と言われるほどのものでした。

患部の痛みはべつとして、ぼくは毎日のベッドに退屈も知らなかった。
朝晩のドックのブーは、ここの窓へも聞えて来る。ブーが鳴っても、あの鉄の門へ急がなくてもいい。木靴を穿いて危ない軽業師のような労役に就かないでもいい。そう思うだけでも、偶然な幸福に見舞われている気がした。事実、こんな安息は、何年にもなかった事だ。何もしないで、温かな食事を看護婦の手で給仕され、本も読めるし、自由な空想も描いていられる。嘘みたいな、昨日と今日の違いだ。災難だった、気の毒だったと、人の云ってくれるものが、自分にとっては、逆にこんなにも密かな愉しみだったのである。

とっくにドックの仕事に嫌気がさし、東京へ苦学に出たいと密かに考えていた英治にとっては、この事故はむしろ幸いというべきものでした。
また、母・いくも、英治のその思いに気づき、後押しをしてくれました。

退院するや、英治は父・直広に、「ドックで死んだと思って、東京で苦学させてください」と申し出ます。
直広は、快諾とはいかないものの、怒り出しもせず、あっさりとこれを許してくれます。

かくして、英治は横浜を離れ、東京へと旅立ちます。

そんな横浜最後の思い出の地が野毛山というわけです。

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