« 横浜散歩-その2 | トップページ | 横浜散歩-その4 »

2006年5月17日 (水)

横浜散歩-その3

吉川英治の横浜時代は、父・直広の事業の浮沈によって、恵まれた暮らしとどん底生活の間を何度も行き来します。
そんな中にあって、『忘れ残りの記』で≪小康時代≫と書いているのが、尾上町時代です。

尾上町は、先程の南中舎から、馬車道を通って、やはり歩いて10分もかからない所。

この時、直広は知人の援助により≪日進堂≫という新聞販売店を居抜きで譲り受け、経営していました。
英治は店員として、そこの帳場に座っていました。

その日進堂の位置は、今日の横浜でもそう変わっていず、桜木町駅から大江橋を渡って左側の、いま朝日新聞社支局となっている辺りである。(略)
店の斜向いに、日曜日以外は、いつも鉄扉の閉まっている教会堂と、脇沢金次郎翁の邸宅があった。

Church
ここに言う教会堂とは、指路教会のこと。
ヘボン式ローマ字に名を残す、ジェームス・カーチス・ヘップバーン(通称ヘボン)にゆかりの教会だそうです。
写真の建物は、関東大震災に被災した後、大正15年に再建された建物で、英治の見たものではありません。
英治が目にしていたのはこの先代の教会堂で、赤レンガの建物だったようです。
何度かの移転の後、英治の生まれた明治25年以降、現在地にあるということなので、ちょうどいい目印になります。

Nissindo
この教会の斜め向かいに日進堂はあったということですから、写真の小さな雑居ビルがその場所のようです。
本には吉住ビルとありますが、いまもそのままです。

直広は、この折角の店を人任せにし、自分は再起を期して相場に手を出し、その挙句、借金だけを増やして、わずか1年半で店を閉める羽目になります。
しかし、英治はこう回想します。

およそ尾上町の一年半ほど、ぼく自身にとって自身の好きな事がやれていた時期は前後にない。薄暗い帳場格子の中は、借金取にたいして録音されたような断りを云うほか、まったくぼくの小書斎となっていた。

この小書斎で、英治は好きな書物を読み、それ以上に絵を描いて過ごしていました。
上に名を挙げている脇沢金次郎に将来の希望を問われ、「絵かきになりたい」と答えたほどでした。

ところで、この文章に続いて、こうあります。

そこで、ぼくは初めて小説を書いたことがある。高島米峰氏主宰の「学生文壇」が創刊され、その第二号に投じた小説が当選した。題はいま考えると、ひどく古風なもので、“浮寝鳥”というのであった。

この、『浮寝鳥』という小説、実は未発見です。
雑誌「学生文壇」の初期のものがまだ確認できていないのです。

どなたかお持ちではないでしょうか?

さて、再び馬車道に引き返して、次は吉田橋に向います。

|

« 横浜散歩-その2 | トップページ | 横浜散歩-その4 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 横浜散歩-その2 | トップページ | 横浜散歩-その4 »