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2006年5月21日 (日)

横浜散歩-その7

Dock_1
横浜ランドマークタワーのある、みなとみらい21地区は、かつての横浜ドックの跡地です。

既に書いたように、吉川英治はここで働いていました。
日雇い労働者の中に交じって働いていたところ、知人のつてで横浜ドックの船具工に採用されたのでした。

吉川英治のこの経歴と、後に小説『かんかん虫は唄う』を書いたことから、吉川英治が≪かんかん虫≫をしていたと言われることがありますが、これは正確ではありません。

Dock_2
≪かんかん虫≫とは、ドックで働く日当の安い臨時雇いの職工たちのこと。
船のサビを落とす時にかなづちで「かんかん」叩くので≪かんかん虫≫と呼ばれた、などと言われます。
これに対し、英治は一応正規採用された身でしたから、厳密に言えば≪かんかん虫≫ではありません。

とはいえ、こう書いています。

かんかん虫という呼称は、ぼくには少しもユモラスには聞えない。反対に、エキゾチックではあるが何か灰色の哀感とそして弱々しい明治世代の訴える“歌声”も持たなかった細民たちの無数の顔が、華やかな港の灯を背景として、泛んでくる。(略)
それにまた、当時ぼくの通勤し初めた横浜船渠の船具部という職場が、ほとんど彼らと隔差のない姿や範囲のものだった。違っているのは、彼らに期待できない危険極まる随所の足場仕事だとか烈しい重労働だけである。要するに会社常雇のA級かんかん虫が船具部であるといってもよい。

その危険な足場仕事の最中に、同僚のミスによって、ドックの底に転落してしまい、先日の十全病院に担ぎ込まれたわけです。

もっとも、いつも仕事が辛く危険だったわけではなく、雨の日などは船内仕事のような比較的楽な作業(通常は一般の≪かんかん虫≫がやる仕事ですね)にまわされたりしたようで、そんな時はうまく仕事を怠けていたようです。

ぼくはいつもポケットにしている袖珍本の芭蕉句集を出して盗み読みした。また、作句したり自由な空想に愉しみ耽ることができる。(略)ドックの一年何ヵ月が勤まったのは、ぼくに空想癖があった救いといっていい。そこの闇黒が苛烈なほど、自分を置く空想の世界は甘く、夕方の退けのブーが聞えてくるのも、いつの間にかのような気がした。

Dock_3
さて、現在、かつての横浜ドックのうち1号ドックには、日本丸が係留されています。
吉川英治が転落したのは、その1号ドックです。
そして、ランドマークタワーの足元にドックヤードガーデンとして改装・復元されているのが、2号ドックです。

写真はいずれも2号ドック=ドックヤードガーデンのもの。

2号ドックは1号ドックよりやや小ぶりだったようですが、それでも、現在の状況でも建物2階分の高さはあります。
よくドックの底へ転落して、1ヶ月で退院できるような怪我で済んだものです。

英治が、その事故を契機として、東京に苦学の決意で上京するということは、先日書いた通り。

その旅立ちの場となったのは、現在の桜木町駅。
当時は、ここが横浜駅でした。

Eki
横浜から東京に行くことなど、今では何の造作もありません。
毎日通勤している人も山ほどいるでしょう。

しかし、旅立ちの朝、母・いくは赤飯を炊き、桜木町の駅では、駅を離れる車窓から、母や弟・妹たちに涙目で手を振る吉川英治の姿がありました。

明治43年12月30日。英治18歳。
当時はまだ、それが奇異なことではなかったのです。

汽車が、高島町辺にかかると、車窓の右側に、船渠会社の構内が、すぐ、まる見えに望まれる。一号ドックにも、二号ドックにも、入渠船のマストが見えた。今日もそこの足場で生命がけの作業をしている木靴の仲間の顔が、あれこれ、ぼくの眼に泛かんでいた。長い間、世話になった組長の猪子さんに、黙って去って行くのが、悪かったと、急に思い出されたりしていた。

さて、以上で、私の思いつき文学散歩も終了です。

宿泊したホテルを9時20分頃に出て、桜木町駅にたどり着いたのが12時30分頃。
3時間ほどの行程でした。

横浜には、吉川英治ゆかりの場所がまだたくさん残っています。
いずれ、この続きに挑戦したいと思っています。
気まぐれなので、いつになるかわかりませんが。

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