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2006年5月20日 (土)

横浜散歩-その6

野毛山から谷を挟んで東隣の掃部山に足を運びます。

ここは『忘れ残りの記』に出てくる吉川英治ゆかりの地とは違いますが、「歴史上の人物あれこれ」という随筆(談話筆記ですが)に、英治は「面白い思い出」として、こんな話を紹介しています。

明治42年(英治は13、14歳の時のこととしていますが、実際には17歳の時です)、掃部山に井伊直弼の銅像が立ちました。

その銅像の除幕式が行われたんです。その日は餅や蜜柑を投げたものでね。僕ら子供連はその蜜柑拾いを目あてに、見物に行きましたが、大変な賑やかさでした。
(「歴史上の人物あれこれ」より)

このことが「面白い思い出」なのではなく、除幕式の後日談があるのです。

すると除幕式が終えてから数日経ったら、人々がアレヨアレヨと騒いでいるんだな。なんだと思ったら、掃部頭の銅像の首がないという。それで、その日の横浜貿易新聞という僕らなじみのある新聞が「掃部頭の首が二度取られた」と書いていた。

英治は、この事件の背景も語っていますが、やや不正確なので、他の資料を参照しながらまとめると、概要はこんな感じです。

Kamon
井伊直弼は、勅許なしに日米修好通商条約を締結し、安政の大獄で攘夷派を弾圧、そのために桜田門外の変で暗殺された、時の大老です。
外国との通商を許可したということは、後の横浜の発展の礎を作った人物ということでもあります。
そこで、旧彦根藩士(井伊家は彦根藩主でした)が中心となって、当時鉄道山と呼ばれていた山を購入して、そこに井伊直弼の銅像を立てました。
井伊直弼の官職は掃部頭(かもんのかみ)なので、以後この山は掃部山(かもんやま)と呼ばれることになりました。
Naosuke
しかし、この銅像の建設も、除幕式も、すんなりとは運びませんでした。
というのも、時の神奈川県知事は長州藩士・周布政之助の子、周布公平でした。
周布政之助は、単純に尊王攘夷派と括れる人ではないようですが、幕府の開国政策には反対していました。
また、安政の大獄で処刑された吉田松陰は、長州の人です。
当然、周布公平も井伊直弼に好感情は持っていません。
もちろん彼につながる旧長州藩の人々、桜田門外の変を起こした旧水戸藩の人々なども同様です。
そのため、周布公平は除幕式の開催を禁止します。
しかし、旧彦根藩士たちは除幕式を強行し、結果として銅像首切り事件が発生したわけです。

Landmark
英治が、この事件を引き合いに出したのは、表面の歴史は時代時代を画するものだが、そこに生きている人々の底流の歴史は、昨日と今日で急に変わるものではない、ということを語るためです。

なお、写真の銅像は首を切られたものではなく、昭和29年に再建された2代目の銅像。
初代は首を切られた挙句、戦時供出により撤去されてしまいました。

いま、井伊直弼の見つめる先には、横浜ランドマークタワーがあります。
この大きな変化を、井伊直弼はどう感じるのでしょうか。

次の目的地は、そのランドマークタワーです。

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