« エンメイ | トップページ | 受領証 »

2006年6月 4日 (日)

新刊書から

新刊といっても少し前のものですが、2月に「おじさんはなぜ時代小説が好きか」(関川夏央 岩波書店)という本が出ました。
最近になって書店で見つけて購入しました。
中に、吉川英治を中心的に取り上げた≪吉川英治の『宮本武蔵』と「修養主義」≫という章があります。

面白く読んだのですが、中にひとつ大きな事実誤認があるので、指摘しておきます。

女性に対する愛着と恐怖、これも吉川英治の実生活の反映かもしれません。吉川英治がこの小説(注:『宮本武蔵』のこと)を書きはじめた昭和十年夏、彼はある女性と知り合って非常に親しくなった。その件で奥さんに責められて、つらさのあまり、ふと縁先にあった女中の下駄をひっかけて、そのまま温泉に逃げたといいます。それくらいこわい奥さんになったのは、吉川英治が蒔いた種のせいには違いないのですが。

53ページにこう記述されています。

吉川英治というと、非常な人格者のようにイメージする人が多いと思いますが、これは、吉川英治の数少ない女性スキャンダルで、実際に、こんな出来事があったのです。

ただ、年が間違っています。

吉川英治は長い付き合いの後に大正13年に赤沢やすという女性と結婚します。
しかし、その後、吉川英治が作家として名を成すようになると、次第に夫婦関係がギクシャクし始めます。
そんな中、昭和5年のある日、散々飲み歩いた挙句、四谷の芸妓に車で送られて帰宅します。
当然、妻はその芸妓との関係を疑います。
一方、妻も執筆に追いまくられる英治の身の回りの世話もせず、遊び仲間と好きな花札に夢中になっている。
ついにいたたまれなくなった英治は、「女中の下駄をはいたまま」出奔します。
それを自分のためだと思った四谷の芸妓がその後を追い、温泉地を彷徨いながら、しばらく一緒に過ごすことになります。

結局この旅暮らしは断続的に翌昭和6年まで、およそ1年間続くことになります。

つまり、昭和5~6年の出来事なのです。

これを昭和10年にしてしまうと、とても困ったことになってしまいます。

実は、昭和10年に出会った女性こそ、先日亡くなった文子夫人のことなのです。

文子夫人と出会ったのは、確かにまだ、やす前夫人との離婚が成立する前のことではあるのですが、その頃には完全に夫婦仲は冷えていて、ごたごたするような状態ではなかったのです。

ここだけはぜひ、訂正してもらいたいと思うのです。

|

« エンメイ | トップページ | 受領証 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« エンメイ | トップページ | 受領証 »