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2006年8月31日 (木)

新図録発売開始

イベントのことばかり書いていたので忘れていました。

かねてから製作中だった新図録が完成し、先週から販売を開始しました。

タイトルは、以前のものを踏襲して「吉川英治 人と文学」。
価格1500円(税込)です。

本文を細谷正充氏に依頼し、写真も以前の図録製作以後に入手した資料などを含めて、新しくしました。

ネットからの直接販売はしていませんが、電話注文での通信販売はしています。

料金先払いなのは勘弁してください(苦笑)

ご興味のある方はぜひご注文ください。

もちろん、来館して購入してくださるのが、一番嬉しいです(笑)

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2006年8月30日 (水)

フランス人

先日、こんなお問い合わせがありました。

最近知り合ったフランス人から、「自分はEiji Yoshikawaのファンで『La Pierre Et Le Sabre』と『La Parfaite Lumiere』という作品を読んだのだが、この本の日本語版が欲しいので、手に入れてくれないか」と頼まれた。しかし、これが吉川英治のどの作品に該当するのか分からないので、教えて欲しい。

『La Pierre Et Le Sabre』と『La Parfaite Lumiere』というのは、日本語に訳すと、「石と剣」と「完全な光」になります。
これでは確かに作品名がピンと来ません。

実は、これは2冊とも『宮本武蔵』のこと。
フランス語版では上下2巻本として出版されているのです。

『宮本武蔵』は、海外でも20ヶ国ほどで販売されていますが、タイトルは最初に翻訳された英語版を踏襲して『Musashi』をタイトルとするものがほとんどです。
まあ、国によってアルファベットの表記は違ったりしますが、読みは『ムサシ』です。
漢字が使える中国・韓国は、そのまま『宮本武蔵』ですが。

そんな中にあって、フランスだけは、大幅にタイトルを変更し、しかも上下巻でタイトルが違う、という形になっています。

フランス人は理屈っぽく、偏屈だとは、俗にはよく言われることです。
フランス人に知り合いのいない私には、それが本当なのかどうかは分かりませんが、このタイトルの件を見ると、確かにそうなのかもしれないと、思えてきます。

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2006年8月28日 (月)

吉川英治賞トリビア-3

少し間があきましたが、最後に吉川英治文化賞に関連して。


☆吉川英治文化賞受賞者には海外の人もいる。

吉川英治文化賞は「日本文化の向上につくし、讃えられるべき業績をあげながらも、報われることの少ない人、あるいは団体」に贈呈している賞ですが、第40回までに16人の海外居住者の方が受賞しています。

内訳は、ブラジル4人/アメリカ3人/ネパール2人/韓国2人/ペルー1人/スリランカ1人/バングラデシュ2人(ただし夫婦での受賞)/タイ1人です。
このうち14人は海外居住の日本人あるいは日系人ですが、2人は外国人です。

ちなみに、日本在住の外国出身者からは2人が受賞しています。


☆家族で吉川英治文化賞を受賞した人たちが18組いる。

このうち夫婦が15組で、親子が3組(父と息子が2組、母と息子が1組)です。

もちろん、多くの受賞者の活動は家族の協力があって成り立っています。
この方々は特に家族で同じ活動を行っていたことから、単独ではなく、家族での受賞になっています。


☆学校の課外活動で受賞した学校が3校ある。

阿寒中学校(北海道)・飯田東中学校(長野県)・河合中学校(「河合中学校 古田忠久と理科部」として 愛知県)です。
皆さんの学校での活動も、長年継続されれば、いつか受賞する日があるかもしれません。


☆団体の受賞者は19団体ある。

上の3校を含めての数字です。

ちなみに、これまでの受賞者数は178者。
団体が19団体、家族が18組、家族ではない複数の個人が1組、個人が140人です。


☆吉川英治文化賞受賞者をまだ出していない県は8県ある。

受賞者の一覧表をよく見ると分かりますが、富山・山梨・岐阜・三重・和歌山・島根・佐賀・鹿児島の8県からはまだ受賞者が出ていません。

ただし、一覧表に書かれた都道府県名は、あくまでも吉川英治文化賞受賞時の居住地や団体の所在地を指しているもので、受賞者の出身地や活動を行っている土地のことではありませんので、この8県にゆかりの人がいないということではありません。

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2006年8月24日 (木)

吉川英治賞トリビア-2

引き続き、吉川英治賞をめぐるあれこれ。


☆吉川英治文学新人賞を受賞して芥川賞を受賞した作家がいる。

一般的に、吉川英治文学新人賞はエンタテインメント系の賞とされています。
それと同じ系統にあるのは直木賞で、芥川賞は純文学系の賞とされています。
ですから、過去に11人が吉川英治文学新人賞受賞後に直木賞を受賞しているわけです。

その中にあって、花村萬月さんは1998年の第19回吉川英治文学新人賞を「皆月」で受賞し、その同じ年の上半期に第119回芥川賞を「ゲルマニウムの夜」で受賞しています。

ちょっと珍しいパターンです。


☆吉川英治文学新人賞と吉川英治文学賞の両方を受賞している作家は3人いる。

北方謙三さん、高橋克彦さん、伊集院静さんです。

北方謙三=4回(1983)「限りなき夜」⇒38回(2004)「楊家将」
高橋克彦=7回(1986)「総門谷」⇒34回(2000)「火怨」
伊集院静=12回(1991)「乳房」⇒36回(2002)「ごろごろ」

吉川英治文学賞は、長年にわたってエンタテインメント系で実績を残した作家が受賞することが多い賞です。
もっと砕けた言い方をすると、エンタテインメント系では『あがり』の賞です。
ですから、今後こうした例は増えるでしょう。

ちなみに、こうした賞の性格上、直木賞受賞作家が、後に吉川英治文学賞を受賞するケースはたくさんあります。
というより、過去42人の吉川英治文学賞受賞者のうち、33人が直木賞を受賞していますから、受賞していない方が少ない。

具体的に名前を挙げるのは申し訳ない気もするので、ここを見て、ご自分でお調べください。


☆吉川英治文学賞受賞者には1人だけ作家ではない人がいる。

尾崎秀樹さんです。
第24回(1990)に、「大衆文学の歴史」という上下巻の大著で受賞しています。

これは、大衆文学研究会を組織するなど、長年にわたって≪大衆文学の評論≫という分野を開拓し、確立していった功績に対して、という意味合いも含んでいます。

吉川英治は生前、大衆文学にはまともな評論がない、ということをしばしば嘆いていました。
その意味では、作家ではない尾崎さんの受賞は、賞の名前に適ったものと言えるでしょう。

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2006年8月23日 (水)

吉川英治賞トリビア-1

現在、「吉川英治賞の40年」展を開催中ですが、それにちなんで、吉川英治賞40年の歴史にまつわるいろんなデータをご紹介してみましょう。

まずは手始めに。


☆吉川英治文学新人賞は直木賞の登龍門である。

吉川英治文学新人賞は、吉川英治賞3賞の中では後発で、今年が第27回になります。
受賞者は合わせて41人(注)で、そのうち11人がのちに直木賞を受賞しています。
11人は以下の方々です。左が吉川英治文学新人賞、右が直木三十五賞になります。

赤瀬川隼=4回(1983)「球は転々宇宙間」⇒113回(1995上半期)「白球残映」
連城三紀彦=5回(1984)「宵待草夜情」⇒91回(1984上)「恋文」
山口洋子=5回(1984)「プライベート・ライブ」⇒93回(1985上)「演歌の虫」「老梅」
船戸与一=6回(1985)「山猫の夏」⇒123回(2000上)「虹の谷の五月」
高橋克彦=7回(1986)「総門谷」⇒106回(1991下)「緋い記憶」
景山民夫=8回(1987)「虎口からの脱出」⇒99回(1988上)「遠い海から来たCOO」
大沢在昌=12回(1991)「新宿鮫」⇒110回(1993下)「新宿鮫 無間人形」
伊集院静=12回(1991)「乳房」⇒107回(1992上)「受け月」
宮部みゆき=13回(1992)「本所深川ふしぎ草紙」⇒120回(1998下)「理由」
浅田次郎=16回(1995)「地下鉄に乗って」⇒117回(1997上)「鉄道員」
山本文緒=20回(1999)「恋愛中毒」⇒124回(2000下)「プラナリア」

最短は同じ年に受賞した連城三紀彦さん。最長は15年後に受賞した船戸与一さん。
第21回以降の受賞者からも、きっと直木賞受賞者が出るでしょう。
いや、船戸さんの例もありますから、1990年代に受賞した方でも、まだまだチャンスがあるに違いありません。

注目してみて下さい。

ちなみに、吉川英治文学新人賞の全受賞者はこちら

(注)41人は名義上。第10回(1989)の受賞者が岡嶋二人さん(「99%の誘拐」)なので、これを2人とすると42人になります。

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2006年8月22日 (火)

当選ハガキ

吉川英治賞40周年記念「受賞作家と語るひととき」の第1回、8月26日の宮部みゆきさんへの応募は20日に締め切りました。
ご応募いただいた方、ありがとうございました。

応募数が定員の50人を超えてしまいましたので、申し訳ございませんが、抽選にさせていただきました。

昨日、当選者の方にはハガキを発送いたしました。
アクシデントがない限り、ほとんどの方のところへ、今日か明日には到着するはずです。

ご応募いただいた方で、ハガキが届かなかった方は、残念ですが、ご容赦ください。


なお、第2回の諸田玲子さん、第3回の浅田次郎さんへの応募はまだ受付けています。
詳しくは、記念館の本サイトの方をご覧下さい。

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2006年8月21日 (月)

吉川英治賞の40年

関連イベントの告知ばかりしていましたが、明日から「吉川英治賞の40年」展が始まります(10月9日まで)。

実は10年前に「吉川英治賞30年」展というのを既にやっているので、今回はそれ以後の10年間の受賞者の方だけを特にご紹介する形の展覧会になっています。

ということで、展示替え作業中です。

定休日だからと思って泥棒に入っても、人がいますからね(笑)

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2006年8月19日 (土)

アホウドリ

先日、人気テレビ番組「トリビアの泉」に、東邦大学の長谷川博教授が登場しました。

それは

アホウドリはアホではないので呼び方を変えるべきだと主張している教授がいる

というトリビアの中ででした。

もちろん、こう主張している教授こそ、長谷川博さんです。

長谷川博さんは、昭和51年以来、30年にわたって鳥島でのアホウドリ保護に尽力している方で、この功績により平成10年に吉川英治文化賞を受賞なさっています。
私もお目にかかって、話をしたことがあります。
その時も、あの鳥の飛翔する姿にふさわしい「オキノタユウ(沖の太夫)」という名前に改めたい、ということは語っておられました。

しかし、どうもあの番組の作りはいただけない。
あれでは長谷川さんが、なんだか奇矯な変人のように見えてしまう。

番組では、長谷川さんのアホウドリ保護の取り組みについては、一言も触れていませんでした。
長谷川さんが登場した時の紹介テロップに「アホウドリ一筋30年」と書かれていただけです。

絶滅寸前だったアホウドリを、30年の歳月をかけて、人手を借りなくても自然再生していける一歩手前の状態にまで再生させた事に触れずに、あんな風に紹介したら、なんだかただの鳥オタクにしか見えないじゃないですか。

もう少し取材対象に対する敬意というものが持てないのでしょうか。

釈然としないし、気に入りません。

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2006年8月18日 (金)

設計

吉川英治の墓の設計者である谷口吉郎氏は、この吉川英治記念館の展示館の設計者でもあります。

雑誌『新建築』1977年1月号に、開館直前の吉川英治記念館の建物が紹介されていますが、そこに谷口氏が寄せた文章のタイトルは「追慕の館」というものです。
それが即ち、谷口氏の設計コンセプトということになるでしょう。

江戸時代に建てられた旧吉川英治邸、そして草思堂庭園にそびえる椎の巨木。
その風情を壊すことなく調和した、優れた建築物だと思います。

谷口氏は博物館の設計も多く手がけていますが、文学関係では他に藤村記念堂があります。

ホテルオークラも谷口氏の設計ですが、以前見たホテルオークラの写真には、吉川英治記念館の展示室内に設置されている行燈と同じデザインのものが写っていました。

……使いまわし?

今も同じ行燈がホテルオークラにあるのかは知りませんが。

ロビーの壁面には大谷石が使用されています。
そのため、最近出版された「大谷石百選」(2006年7月 大谷石研究会)という本の中にも取り上げられています。

なお、平成2年に増築された新館(特別展示室などがある部分)は、谷口氏の設計ではありませんが、そのデザインを引き継いでいます。

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2006年8月17日 (木)

経筒

今朝、職員が、自宅でとっている新聞に吉川英治のことが出ていた、と言って、記事の切抜きを持ってきてくれました。

8月11日付の読売新聞多摩版に掲載された「文学の道 たま散歩・夏」という連載記事の第2回に、多磨霊園が取り上げられています。

東京都府中市と小金井市にまたがるこの墓地には多くの著名人の墓があります。
その1人として吉川英治が取り上げられているのですが。

記事にはこうあります。

最も北側の一角にあるのが吉川英治の墓。机の上に湯飲み茶わんが乗っているユニークなデザインだ。

……〇| ̄|_

それは「湯飲み茶わん」じゃなくて「経筒」なんですよ。
「文机の上に経筒が載った」デザインなんです。
「湯飲み」だなんて言ったら、設計者の谷口吉郎さんが泣きますよ。

手元の資料によると、谷口吉郎はこう述べています。

姿の選定に迷い、考えあぐねていると、未亡人(注:先日亡くなった文子夫人)が写経されていると聞いた。それがヒントになる。

吉川英治の≪庶民性≫には、「湯飲み茶わん」の方がイメージに合うと思い込まれたのかもしれませんが、残念ながら、間違いです。

新聞の読者数に比べれば、このブログの読者数など月とスッポンどころか、太陽とミジンコぐらいの差があるでしょうから、気付かない人が多いでしょうが、とりあえず訂正しておきます。

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2006年8月16日 (水)

第8回みたけふるさと祭り

今年も、明日8月17日から20日にかけて、青梅市内の御岳渓谷周辺で、みたけふるさと祭りが開催されます。

詳しい情報はこちらをご覧いただくとして、御岳商店会の抽選に、吉川英治記念館からも景品を提供しています。

ちなみに、モノは吉川英治の『随筆宮本武蔵』です。

「そんなもんいらん、食えるもんがいい」とか言わずに、帰りの電車の中ででも読んでみてくださいね。

なお、みたけふるさと祭りのチラシ(ピンク色の紙に印刷された二つ折り縦長のものです)をご持参いただくと、吉川英治記念館の入館料が割引になります。

ぜひお運びください。

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2006年8月11日 (金)

不達不入

先日まで開催していた「英治と文子 吉川夫妻の70年」展が終了しましたので、少し展示を入れ替えました。

その中に、表題にある「不達不入」の文字を書いた軸があります。

一見すると、何か中国の古典に由来する四字熟語のようですが、実はそうではありません。

ゴルフというスポーツからは、≪ゴルフ格言≫と呼べるような言葉が数多く生れています。
その中のひとつに

Never up, never in.

というのがあります。
「カップに届かなければ、カップには入らない」という意味だそうですが、ゴルフをやらない私からすると、「そんなん当り前やんけ」と言いたくなるような言葉です。

さて、晩年ゴルフを愛した吉川英治が、この“Never up, never in.”を漢語に訳したものが、この「不達不入」なのです。
「達せずんば入らず」とも読みます。

兵庫県の広野ゴルフ場にあるゴルフミュージアムにこの言葉についての展示があるそうですが、訪ねたことがないので、実見はしていません。

それにしても、こう書き、こう読むと、何か偉大な哲学的言葉のように見えてくるから不思議ですね。

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2006年8月 9日 (水)

芸名

今日、8月9日は、4月に亡くなった吉川文子夫人の誕生日です。

だからというわけではありませんが、同じ8月9日生れにどんな人がいるのか調べてみたら、面白い人を発見しました。

佐藤蛾次郎さん(1944年生)です。

面白いというのは、「佐藤蛾次郎」という芸名は吉川英治とかかわりがあるからです。

吉川英治の小説『神州天馬侠』は、何度か映像化されています。
1961年には、7月2日から12月24日にかけてフジテレビで連続ドラマとして放送されました。

この『神州天馬侠』には≪泣き虫蛾次郎≫という登場人物がいます。
悪役の≪鼻かけ卜斎≫という男の弟子で、主人公たちの妨害をする悪たれ小僧として登場しますが、最後に3歳で生き別れた母親と再会し、悪の道から抜け出すという役です。

お察しの通り、この役を演じたのが、佐藤蛾次郎さんでした。

このドラマへの出演を契機に、役名を芸名にしたのだそうです。
これが初めて演じる大きな役であったので、初心を忘れないためにそうしたのだと、何かで読んだ記憶があります。

ちなみに、この『神州天馬侠』には、≪泣き虫蛾次郎≫のライバルで、果心居士の弟子の≪鞍馬の竹童≫という少年も出てきます。
もしこちらを演じていたら、佐藤竹童だったのかもしれませんね。

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2006年8月 8日 (火)

貧しさと貧乏

電話で問い合わせがありました。

吉川英治の有名な川柳は「貧しさもあまりの果ては笑い合い」ですか、それとも「貧乏も……」ですか?

これは吉川英治が大正時代に川柳家・雉子郎として活躍していた頃の代表句です。
貧乏も行きつくところまで行ってしまったら、もうつらいとか何とか言うより、笑うしかない、というような句です。
英治自身の味わった貧困生活が、反映された句でもあります。

で、これは、「貧しさ……」が正解です。
この句に「貧乏も……」では、いささか語感が硬すぎる気がします。

ちなみに、「貧乏も……」で始まる句が別にあります。

貧乏もある日はたのし梅の花

ところで、この句ですが、私はてっきり、「どんなに貧乏な暮らしでも、何か臨時の収入があったりして、たまにはちょっとお金がある日もある。そんな日には、いつもよりちょっと贅沢をして楽しみましょう」というような意味なのだと思っていました。
つまり、「有る日」は楽しいのだと思っていたのです。

ところが、先日この句の書かれた軸を展示のために拝借したところ、

貧乏も或る日はたのし梅の花

と書かれていました。
つまり、「貧しい暮らしの中にも楽しみはある、ご覧、梅の花も咲いているよ、花を楽しみましょう」というような句だったのですね。
お金の「有る無し」ではなく、心をあり方を言っていたのです。

気がつきませんでした。
どうも私は発想が即物的でいけませんね。

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2006年8月 7日 (月)

巌流島怪談

吉川英治は、昨日触れた小倉の宮本武蔵顕彰碑を実際に訪ねています。
昭和12年1月17日のことです。

その同じ日、風師山という所から、関門海峡に浮かぶ巌流島を眺めています。
眺めただけで、上陸はしていません。

その巌流島をめぐる怪談めいた話を現地で聞き込み、それをやはり「随筆宮本武蔵」の『遺跡紀行』に書いています。

ひとつは、毎年、盆の16日の晩になると、巌流島にある佐々木巌流の墓から火の玉が飛び出し、また小倉の武蔵の碑からも火の玉が飛び出し、空中で斬り合って消える、という話。

そう、実はすぐ近くなんですよね、伊織が仕えた小倉と巌流島は。
そんな近くにあれば、火の玉くらい飛ぶでしょう。

もうひとつは大正頃の話として、巌流島に小さなドックが作られて人が住んでいた時期があったが、ドックがなくなって、番人夫婦だけが島に残った、すると、毎夜、誰もいないはずの島で誰かが追いつ追われつ駈け巡る足音がする、とうとう番人の老婆は狂い死にし、老爺は島を離れた、という話。

それが成仏しきれぬ佐々木巌流であろうというわけです。

場所柄、成仏しきれないのは平家の霊かもしれないとも思いますが、壇ノ浦の合戦は海上戦なので、足音は鳴らさないでしょうから、やはり小次郎なのでしょうかね。

いずれにせよ、あまり人が住むような所ではない気がしますね。

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2006年8月 6日 (日)

小倉の碑の下

宮本武蔵にまつわる伝説はたくさんあります。

昨日触れた吉川英治の「随筆宮本武蔵」にも、それは数多く紹介されています。
特に、『遺跡紀行』という章に書かれた、取材旅行での見聞記には、史実には出てこないような奇妙な話がいくつも出てきます。

そのひとつ、現在の北九州市にある宮本武蔵顕彰碑についての話をご紹介しましょう。

これは、一般に「小倉碑文」として知られる碑ですが、当時、小倉藩小笠原家の家老職にあった武蔵の養子・伊織が建てたものです。

この碑は手向山という小さな山に建てられたものですが、明治になって、この手向山に砲台が造られることになり、同じ小倉の延命寺山に移転されます。
その移転作業中のことについて地元の古老が語っているのを、吉川英治が紹介しています。

何でも碑の下を掘ったところ二つの甕が現われて、その一つの石ブタを開くと、大たぶさを結び、紋服を着た大男の遺骸が、澄んだ水に浸っていたが、外気に触れると間もなく崩れたようになってしまったといって騒いだ事は、今にたしかに記憶しております。
(『小倉紀行』より)

碑の下から甕が出てきたというのが事実かどうかはともかく、この大男が武蔵であるはずはありません。
なぜって、この碑が建てられたのは、武蔵の死後9年目の事なのですから。

伝奇小説主体に書いていた頃の吉川英治なら、この話から、「実は武蔵は熊本では死んでおらず、ある目的のため養子・伊織のいる小倉に名を変えて潜んでいた、その目的とは・・・・・・」なんて小説を書いたかもしれませんが、「宮本武蔵」の頃以降、歴史小説にシフトしていくので、そうはなりませんでした。

ちょっと残念な気もします。

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2006年8月 5日 (土)

武蔵と田村麻呂

ある本を読んでいて、面白い記述に出会いました。

征夷大将軍として、東北の雄・アテルイと戦ったことで知られる坂上田村麻呂について、甲冑を着て、刀と弓矢を持ち、立った姿で埋葬された、という伝説があると言うのです。

さて、熊本市の中心街から少しはずれた所に、武蔵塚というものがあります。
その名の通り宮本武蔵が埋葬された塚であるとされています。
武蔵はここに、遺言に従って甲冑その他を着けて武装した姿で埋葬されていると伝えられています。

なんだかよく似ています。

この武蔵塚は藩主が参勤交代に用いる街道の脇にあり、君恩に報いるために、地下にあってもその行列を守りたいという武蔵の願望から、そのような埋葬がなされたのだとされます。

吉川英治も

細川家の寵遇に対して彼がいかに感銘していたかも思い遣ることができる。同時に、当時の侍の通念である「武士道の完璧」が最期の死に至って完成し、その対象とする侍の奉公というものは、生存中だけの主従関係に止まらず、死後においてもというほど強いものであったことを、ここに見届けておく必要がある。
(「随筆宮本武蔵」『熊本紀行』より)

と書いています。

しかし、坂上田村麻呂の伝承と類似しているとなるとどうでしょう。

征夷大将軍たる坂上田村麻呂の埋葬方法とされるものを、自分も真似てみる。

剣の極意をもって政治にも関わり合いたいと考えていたとされる宮本武蔵が、せめて埋葬の姿だけでも、自分を征夷大将軍になぞらえてみたかった。
幕府を開いた徳川家の手に握られた征夷大将軍の座に、かなうものならば自分が座ってみたかった。

そんな思いが込められているなどと考えるのは、邪推が過ぎるでしょうか。

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2006年8月 3日 (木)

吉村昭氏死去

作家・吉村昭氏がお亡くなりになったそうです。

吉村氏は昭和54年に第13回吉川英治文学賞を「ふぉん・しいほるとの娘」で受賞なさっています。

私がこの記念館に勤め始めて間もない頃、何かの取材の途中に吉村氏が吉川英治記念館に立ち寄られたことがあります。
もう14、5年前になります。
その日はたまたま当時在職中だった先代の学芸員が不在で、私が代りに少しだけ館内をご案内しました。
そんなほんのわずかな接触の印象ですが、まじめで鋭い方だと感じました。

私が吉村氏にお目にかかったのはその一度きりですが、ご冥福を申し上げたいと思います。

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