« 武蔵と田村麻呂 | トップページ | 巌流島怪談 »

2006年8月 6日 (日)

小倉の碑の下

宮本武蔵にまつわる伝説はたくさんあります。

昨日触れた吉川英治の「随筆宮本武蔵」にも、それは数多く紹介されています。
特に、『遺跡紀行』という章に書かれた、取材旅行での見聞記には、史実には出てこないような奇妙な話がいくつも出てきます。

そのひとつ、現在の北九州市にある宮本武蔵顕彰碑についての話をご紹介しましょう。

これは、一般に「小倉碑文」として知られる碑ですが、当時、小倉藩小笠原家の家老職にあった武蔵の養子・伊織が建てたものです。

この碑は手向山という小さな山に建てられたものですが、明治になって、この手向山に砲台が造られることになり、同じ小倉の延命寺山に移転されます。
その移転作業中のことについて地元の古老が語っているのを、吉川英治が紹介しています。

何でも碑の下を掘ったところ二つの甕が現われて、その一つの石ブタを開くと、大たぶさを結び、紋服を着た大男の遺骸が、澄んだ水に浸っていたが、外気に触れると間もなく崩れたようになってしまったといって騒いだ事は、今にたしかに記憶しております。
(『小倉紀行』より)

碑の下から甕が出てきたというのが事実かどうかはともかく、この大男が武蔵であるはずはありません。
なぜって、この碑が建てられたのは、武蔵の死後9年目の事なのですから。

伝奇小説主体に書いていた頃の吉川英治なら、この話から、「実は武蔵は熊本では死んでおらず、ある目的のため養子・伊織のいる小倉に名を変えて潜んでいた、その目的とは・・・・・・」なんて小説を書いたかもしれませんが、「宮本武蔵」の頃以降、歴史小説にシフトしていくので、そうはなりませんでした。

ちょっと残念な気もします。

|

« 武蔵と田村麻呂 | トップページ | 巌流島怪談 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 武蔵と田村麻呂 | トップページ | 巌流島怪談 »