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2006年11月30日 (木)

資料の搬入搬出

博物館同士で資料の貸し借りをする時には、あまり問題は生じません。
お互いに、それなりの場数は踏んでいますし、専門業者に依頼しますから。

それでも、運搬用の段ボール箱に本を無理やり押し込んだために表紙が破損したなどということはありますが。

あと、作業員が色紙の上に汗を垂らしてしまったなどということも。

このことがあってから、梱包作業中は、夏ならギンギンに冷房を入れますし、冬なら暖房を切るようにしています。
汗は汚れの原因になりますから。

まあ、理想を言えば、収蔵庫を出てから梱包作業をし展示ケースに納めるまで同一の温度・湿度環境にすべきですが、なかなかそうもいきませんから、せめて汗だけでも防ごうという、小さな防御策です。

博物館以外に貸し出す時は、しばしばアクシデントに見舞われます。

ある所に資料を貸し出した時、相手方の人間が立会いに来ず、しかもろくに梱包の資材も持たないその辺の引越し業者みたいな運送会社だけを寄越したので、腹がたって、資料を引き渡さず、出直させたことがあります。

展示業者などでも、販売促進のための見本市とか、ショーウィンドウのディスプレイとか、そういうものばかりやっているところでは、資料を単なるモノ扱いしがちなので、気が抜けません。

百貨店の催事場での展覧会を何度か経験していますが、撤収の際に、こちらの作業が完全に終了しないうちに、次の催事の準備を始めようとする場合が多いので、いつも閉口します。
こちらからすると、展覧会全体の中でも撤収のための梱包こそが一番重要な作業なのですが、百貨店からすると、終った催事より次の催事が気になって、気が回らなくなるのかもしれません。

ま、しかし、学芸員になって2年目の頃、展覧会終了時にきちんとチェックしなかったために資料を紛失したことがあるので、えらそうなことは言えないのですが。

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2006年11月29日 (水)

資料の撤収

講談社Kスクエアで開催されていた「吉川英治賞の40年」展は26日で終了しました。

今回予算がなかったので、資料の多くは宅配便で送り、破損の危険のあるものだけ手持ちで私が運びました。
と言っても、私はクルマの運転をしないので、公共交通を利用して、です。

こういうやり方は、他人と接触する機会が多い分、リスクが多くなってしまう、とも思うのですが、背に腹は代えられません。
今回の場合、ちゃんとした美術品運搬を依頼したら、展覧会の規模の割りに経費がかかりすぎますから。

このあたりは、他の博物館施設も似たような部分があるでしょう。
借用する資料が1~2点で、手持ち可能な小型のものなら、学芸員が自分で梱包して持ち帰るようにすれば、学芸員の交通費だけで済みますからね。
業者に依頼したって、どのみち学芸員が立会いに出向くわけですから。

本当は、そういう金をケチるなと声を挙げなければいけないのが学芸員というものでしょうが、そう理想的にはいかないものです。

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2006年11月28日 (火)

大河ドラマ

この1ヶ月ほど、毎週日曜日の夜から月曜日にかけて、このブログのアクセス数が増えるという現象が起きています。

アクセスされているのはこのページなので、時間帯から言っても、NHK大河ドラマ「功名が辻」を見た人が、ドラマの中に出てきた≪一領具足≫について検索して、やって来られたことが推測できます。

なんだかんだ言っても、大河ドラマに人を動かす力はまだあるんですね。

ちなみにNHKの連続ドラマ(吉川英治原作のもの)と吉川英治記念館の動きには、シンクロしている部分があったりします。

例えば、1977~78年に田村正和主演の連続時代劇「鳴門秘帖」が放送されましたが、当館の開館はその1977年です。
役所広司主演の大型時代劇「宮本武蔵」が放送されたのは1984~85年ですが、1984年度は当館の入館者数が初めて15万人を突破した年度です。
そして、真田広之主演の大河ドラマ「太平記」が放送された1991年は、年単位では記念館開館から現在までの最高の入館者数を記録しました。
市川新之助(当時)主演の大河ドラマ「武蔵」が放送された2003年でも、年単位では入館者数が前年比10%増となりました。

吉川英治の作品は既に4回も大河ドラマになっていますし、もう今後大きな連続ドラマとしてテレビ放送されることはないでしょう。
ちょっと残念な気がします。

残念と言えば、せっかく、こうして「一領具足組」へのアクセスが増えているのに、現在刊行されている『吉川英治歴史時代文庫』にはこの作品が入っておらず、この作品に興味をもたれた方がいらしても、本を入手することが難しいことです。

惜しいなぁ。

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2006年11月26日 (日)

蟹江紀行―その5

さて、句碑と並ぶ今回の旅の本題である吉川英治の書簡です。
いずれも吉川英治から反町栄一に宛てたもので、昭和26年10月16日付と昭和30年12月30日付の2通です。
どちらも軸装されています。

吉川英治は昭和26年10月10日~15日に、「新・平家物語」取材旅行として福島県・新潟県を旅しています。
その際、新潟県内の案内役として同行したのが反町栄一です。
前者の書簡は、この取材旅行の案内をしてくれたことへの礼状です。
現在記念館となっている吉野村の自宅に帰宅した翌朝に書いたもののようです。

反町栄一は山本五十六と同郷(新潟県長岡市)で、長岡中学・海軍兵学校の後輩にあたり、「人間山本五十六」の著者として知られています。
実は吉川英治は戦時中、海軍の嘱託として「大日本海戦史」を執筆する予定でした。
これは結局執筆されませんでしたが、海軍関係ではニューギニアで玉砕した海軍大佐・安田義達を描いた伝記小説「安田陸戦隊司令」を書いています。
そのことが頭にあったので、二人は海軍を通じて戦中に知り合っていたのかとも思いましたが、この書簡の文面を見ると、この取材旅行の時が初対面だったようです。
それがはっきり分かったことは収穫でした。

一方、後者の書簡は、反町栄一からお歳暮に鴨を贈られたことへの礼状です。
当時の秘書が残した記録を見ると、確かに鴨2羽が送られてきたことが書かれています。
ただ、記録によると鴨が送られてきたのは12月18日で、20日に「礼状済み」との記載があり、書簡の日付と合いません。
実はこの時、吉川英治は熱海にある別荘に滞在しており、不在でした。
ですから、20日の礼状というのは秘書が代筆したもので、後から改めて自分でも礼状を書いた、ということだと思われます。

秘書による記録は数年分しか残されていないのですが、翌年の昭和31年にも反町栄一から鴨2羽が届いたことが記録されています。
また、書簡には「信濃川の鴨今年もお送りいただき」とありますので、少なくとも昭和29年にも届いていたことは間違いないでしょう。

ちなみに、昭和31年の記録の中に、黒川巳喜の名を見つけました。
お歳暮として「干はぜ」を贈られたようです。
これも蟹江の名産なのでしょうか。

さて、蟹江町歴史民俗資料館を辞した後、趣味で色々そのあたりを歩いてから、蟹江を離れたのですが、それは吉川英治とは関係がないので触れません。

末筆ながら、蟹江町民俗資料館では色々資料を頂戴したりするなど大変お世話になりました。
お礼申し上げます。

お近くの方は、12月3日までの展示ですので、ぜひ足を運んでみてください。

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2006年11月25日 (土)

蟹江紀行―その4

蟹江市内の尾張温泉に1泊して、翌11月21日、蟹江町歴史民俗資料館に足を運びました。
まずは一通り展示を見ます。

展示室の一つが小酒井不木の記念室となっていました。
小酒井不木が名古屋近辺の出身なのは知っていましたが、この蟹江町のことだったとは知りませんでした。

小酒井不木は履歴を見ると明治23年生まれですから、吉川英治よりは2つ年上。
「不木」のペンネームで執筆活動を始めるのが大正13年ということですから、関東大震災後に作家として独立した吉川英治と重なります。
つまり二人は同世代の作家になるはずですが、小酒井不木が昭和4年に39歳に夭折しているせいか、何となく吉川英治より一世代前の作家というイメージを持っていました。
吉川英治とほぼ同時期に活躍し、交流もあった江戸川乱歩の先輩格という認識があったからかもしれません。
展示されていた書簡類には、その乱歩や甲賀三郎、土師清二の名も見えました。

民俗展示の中に蟹江の郷土料理が紹介されていました。
その中にボラ雑炊というのがありました。
書簡にこんな一節があります。

善太川の渡辺氏の亭にて鰡(ボラ)づくしの御馳走は都客の小胃腑を驚倒せしむるに足るものに御座候(略)鰡といえば東京育ちの小生など少年時代よりあまり好魚ともおもい居らず候処 善太川にて初めていわゆる出世魚たる所以なる鰡を眼に見舌に味わい申候 平相国が青衿の時代厳島に詣でる船中にて獲たりという鰡は正にかくの如きものなるべしと思われ候

展示にはボラの料理はボラ雑炊ぐらいで、あとはフナ・アジ・モロコなどの料理が紹介されていました。
しかし、「鰡づくし」というくらいですから、もっと種類があるのでしょう。書簡中に「尾崎君がどて焼きに箸を取って居られたときは」とあるので、「どて焼き」というのがあったことがうかがえます。

それにしても、これは書簡の日付からして昭和20年の春のことと思われるのですが、配給制度下で食糧難の時代に「都客の小胃腑を驚倒せしむるに足る」ほどの振舞いというのはすごいことです。
以前、古川ロッパの「悲食記」を読みましたが、時に戦時中とは思えないほどの豪勢な食事をしていて、特に地方に行くと意外なほど豊富な食料があったことがうかがえ、興味深かったのですが、これもそんな一例ということでしょうか。

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2006年11月24日 (金)

蟹江紀行―その3

句碑を訪ねた後、「文学散歩道」と名付けられた佐屋川河畔を歩きました。
書簡にはこうあります。

御案内に従うて行くほどに行くほどに畷道の長さにはいささか凍え心地に御座候いし
然しあの畷はいかにも水郷的之趣に富み 春の半頃にてもあればさだめし歩み飽きぬ所なるべく 関東地方なれば利根沿岸の田舎 潮来あたりにも比見べきかなどと存候

なるほど、その風情は確かにあります。
また、散歩道は桜並木になっていて、春にはさぞ美しいだろうと思います。
写真は夜寒橋から見た佐屋川で、左岸が文学散歩道の桜並木です。
Sayagawa

とは言え、川に向けて造られたゴルフ練習場から打ち込まれる球が、ポチャン、ポチャンと水柱を立てる有様は、ゴルフ好きだった吉川英治でも、敬遠しそうな気もしましたが。


Kashima
「文学散歩道」を歩いた先に鹿島神社があります。
ここには吉川英治の句碑の発起人の一人でもある黒川巳喜の尽力によって造られた「鹿島神社文学苑」があります。
参道の両側に蟹江ゆかりの文人の文学碑を集めたものです。

吉川英治と縁のある人のものはないかと見てみると、狩野近雄の名がありました。

佐屋川や水深まりて秋沈む

とあります。
Kanou
狩野近雄は毎日新聞の学芸部長を務めた人物です。
吉川英治が「私本太平記」を毎日新聞に連載していた時には既にその役職からは外れていましたが、昭和36年3月の取材旅行には同行しています。

ちなみに、翌日、ついでに足を延ばした津島市の津島神社の境内には与謝野晶子の文学碑がありました。
あまりイメージにないかもしれませんが、与謝野鉄幹・晶子夫妻と吉川英治には交流がありました。
若き日に川柳の師としていた井上剣花坊を介して、知遇を得ていたのです。
そんなこともあって、吉川英治の随筆の中には、時々与謝野夫妻の話が出てきます。
と言っても、文学史的にどうこう言うような話は出てきませんが。

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2006年11月23日 (木)

蟹江紀行―その2

さて、吉川英治の句碑は蟹江川と日光川に囲まれた地区にあります。
住所で言うと蟹江新田字下西野。
事前に、かつて句碑を訪ねた人から、「田んぼのはずれの何もない場所」にあると聞いたのですが、なるほど、田んぼの中の農道が日光川にぶつかる地点、二つある野球場の境にある土手の上に句碑はありました。
すぐそばには大澪排水機場があります。
近鉄蟹江駅から3キロ弱。

句碑は昭和39年、佐藤観次郎、河瀬佐太郎、黒川巳喜らを発起人として建てられたもの。
設計も黒川巳喜。
ちなみに黒川巳喜は建築家・黒川紀章の父で、自身も建築家であり、俳人でもあるそうです。
Kuhi_1

吉川英治の「佐屋川の土手もみじかし月こよひ」の句を刻んだ石と、作家・井上友一郎による碑銘(写真右側)とがあります。
井上友一郎の「蟹江の文学碑」(『吉川英治全集月報40』所収)によると、碑銘はもともと尾崎士郎が書くはずだったが、尾崎の死によりお鉢が廻ってきたものだとか。
左側の木は、もともとは松だったそうですが、枯れてしまったため植え替えたものだそうです。

Kuhi_3
しかし、この句碑、どうも構造物として不可思議なものです。
その点を翌日、歴史民俗資料館の学芸員の方に伺ってみると、この場所には永久構造物を造ってはいけないということで(堤防だからでしょうか)、このような形になったのだそうです。

ちなみに、天幕を張って野点が出来るような設計になっているということで、そのためにちゃんと炉も切ってあるそうですが、野点をする機会もないので、今はそこに花が植えられ、案内看板が立てられています。

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2006年11月22日 (水)

蟹江紀行―その1

蟹江町歴史民俗資料館に12月3日まで吉川英治の書簡や遺墨が展示されているとの情報をいただいたので、定休日と休暇を絡めて愛知県蟹江町に一泊してみました。

元『中央公論』編集長で、後に衆議院議員となった佐藤観次郎と交流のあった吉川英治は、その佐藤の郷里である蟹江町を何度か訪れています。
それを記念して吉川英治の句碑が建てられていることは以前このブログで触れました。
吉川英治には蟹江町の印象などを書いた随筆は特にないのですが、吉川英治全集および吉川英治文庫の中に含まれている「書簡集」に、昭和20年4月に蟹江町の河瀬佐太郎に宛てた書簡が掲載されていますので、適宜引き合いに出しながら、蟹江町を歩いてみます。

11月20日、近鉄蟹江駅に降り立った私は、歴史民俗資料館は月曜日が休館ということなので、まず吉川英治の句碑を目指すことにして南の方へ歩き始めました。
車の多く通りそうな道を避けて、舟入地区の細い路地の中を歩いて行きます。歴史のある街は路地に味があるものですが、ここも良い感じです。
やがて、路地は蟹江川にぶつかります。
持参した地図には「二ツ矢橋」というのがあり、その橋で対岸に渡ろうと思っていたのですが、改修工事中であったため、その北の月見橋という橋を渡りました。
後でわかったのですが、この「二ツ矢橋」を吉川英治はおそらく渡っています。
歴史民俗資料館の学芸員の方によると、吉川英治が訪問した河瀬佐太郎宅はかつて、この「二ツ矢橋」そばにあったというのです。
吉川英治の書簡にはこうあります。

尊宅の前なる二軒家橋の辺りと尊宅の半洋風の一楼とは何共極めておもしろき対照にて今も眼にのこり居候
わけて橋の名二軒家というを偲べば往古この辺りの宿場的情調もおもわれ橋の古びも家々の漁家の佗びたるさまもなかなか捨てがたきもの有之よう被存候

吉川英治の記憶違いか、それとも後に橋の名が変わったか、「二ツ矢橋」を「二軒家橋」と表記しています。おそらく読みはどちらも「ふたつやばし」なのだと思いますが。

いずれにせよ、吉川英治が渡ったであろう橋を渡りそこねてしまいました。
残念です。

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2006年11月19日 (日)

自筆解説

昨日、菊池寛の名を出しましたが、吉川英治と菊池寛と言えば、戦後の昭和23年に出版された新潮文庫の短編集「藤十郎の恋・恩讐の彼方に」の巻末解説を菊池寛が自分で書き、吉川英治の名を借りて発表したことは、文学史上よく知られたエピソードでしょう。

そこで菊池寛は、自分は日本の封建思想の打破を目指してきたリベラリストなのだということを書いているわけですが、その名を借りた吉川英治に対しては、こう述べていたということを、昨日触れた「菊池寛氏と私」の中で、吉川英治が書いています。

菊池さんほど、云いたいことを率直に云えた人はまず少ない。イヤだとおもうことは相手のいかんによらず、「イヤだ」とまッすぐに云える人だった。(略)
だが、その云える人が、戦争中にはやはり云えないことのみにぶつかった。終戦後もまだそうだった。この数年に、氏がめッきり老けこんだのは、精神的なそれに起因するところが多かったように見られた。
菊池さんは人間好きである。(略)
その人間菊池が、人間の中に減失を感じ、人間ぎらいになりかけた傾向が終戦後にはちらちら見られた。(略)よく私に云っていたことは、「自分はいつも中道をあるいているんだ。だから自然、時勢が極右すると自分の位置が左視され、時勢が左傾し出すと、今度は急に右視された。これでは中庸も何もあったものじゃない。正しいリベラリストの節操を保つことは日本では苦行にひとしい」という思いだった。この託ちごとは近来何度も聞かされた。私は氏のその思いにいつも同情を禁じ得なかった。

菊池寛が自分の思いを書き残すのに吉川英治の名を用いたのは、芥川龍之介や横光利一など吉川英治よりも関係が深かった友人たちを既に失っていたこともあるのでしょうが、こうして思いを語り合っていたこともその理由なのでしょう。

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2006年11月18日 (土)

読書随所浄土

読書と言えば、吉川英治が好んで揮毫した言葉にタイトルに挙げた「読書随所浄土」というのがあります。

私の前任者の調べによると、これは中国の名言集『酔古堂剣掃』中にある言葉だそうで、全体では

閉門即是深山
読書随所浄土

したがって、吉川英治はその後半だけを取り出して揮毫したことになります。

この言葉は、菊池寛も好んだ言葉で、高松市の菊池寛記念館には、この言葉を揮毫した色紙が所蔵されています。
こちらは全文が書かれています。
元々は菊池寛の方が先で、吉川英治は後からこの言葉を知って好むようになったようです。

吉川英治は随筆「菊池寛氏と私」で、菊池寛がこの言葉をよく揮毫していたということを紹介しています。
そこでもう一つ菊池寛が好んだ言葉として

但看花開落
不謂人是非

というものを紹介しています。
ちなみに文中では「但ダ看ル花ノ開落スルヲ。謂ワズ人ノ是非」と読み下しています。

そして、これらの古語を戦時中好んで揮毫していたと述べ、

戦時中の菊池さんの心裡を私はいつもそれらの辞句から読んでいた。

と続けています。

ただ、吉川英治は「戦時中の菊池さんの心裡」と書きますが、私にはリベラリストを自負しながら否応なく戦時体制に飲み込まれ、その挙句に公職追放の憂き目にあって逼塞していた戦後の姿の方が、よりしっくりくるような気もします。

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2006年11月17日 (金)

上野図書館

作家以前の吉川英治の、その後の読書の様子について、こんな記述があります。

とある日の午下り、私はヨシズ張りの牛飯屋に入った。
年の頃三十歳くらいの、やせがたで、人品いやしからぬ主人は、どう見ても商売人ではなくインテリらしかった。(略)話しているうちに、この主人が驚くべき博識であることがわかった。上野図書館の本を読破しようとしたが三分の一ぐらいしか読めなかったこと、印刷のこと、カンカン虫の話など淡々と話してくれた。(略)
(吉川英治全集月報29所収『一期一会』紀脩一郎)

これは、筆者が大学生の頃、関東大震災直後の東京・上野で奉仕活動をした時の思い出話で、この牛飯屋の主人こそ、吉川英治その人です。
何度か書いているように、関東大震災の時、吉川英治は勤務していた東京毎夕新聞社が発行不能になったため、新聞記者に見切りをつけて上野公園で牛飯屋の屋台を開いて糊口をしのいだのでした。

上野図書館というのは、現在の国立国会図書館の前身の一つ、帝国図書館のことです。
明治5年に書籍館として東京・湯島で開館、明治18年に上野に移転、以後、上野図書館と通称されるようになったそうです。
明治39年に現在まで継続する建物が新たに建築されています(昭和4年増築)。
戦後、国立国会図書館が成立すると、昭和24年からはその支部となり、平成12年には改装されて国際子ども図書館となっています。

吉川英治が東京に上京したのは明治43年の末ですから、吉川英治が通った上野図書館は今のものと同じ建物ということになります。

当時の上野図書館の蔵書数ですが、国立国会図書館のサイト内に、「明治39(1906)年末現在の蔵書数は約47万冊」という記述がありました。
また、昭和24年に国立図書館支部となった時点では約100万冊であったとも。
吉川英治が上野図書館の本を読破しようと考えたのが正確にはいつ頃かわかりませんが、少なくとも50万冊ぐらいは本があったことになります。
その三分の一なら、およそ16万冊。

明治44年の上京から震災までがざっと12年間。
毎日およそ37冊の本を読まないと、その数には達しません。

……ちょっと眉唾だなぁ。

しかし、東京に出てきてからいくらか安定してきたとは言え、決して豊かではない生活の中でも、むさぼるような読書が続いていたことは確かなのでしょう。
小学校中退の学歴しかない吉川英治には、この濫読が作家としての大きなバックボーンになったことは間違いありません。

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2006年11月16日 (木)

子供時代の読書

今日は押川春浪の命日だそうです。
明治時代に「海底軍艦」などの冒険小説で人気のあった作家です。

吉川英治の自叙伝「忘れ残りの記」を見ると、押川春浪も、吉川英治の子供時代の読書のラインナップの一つだったようです。

その南太田尋常高等小学校の裏門すぐそばに、貸本屋の看板が懸っていた。(略)
貸本屋の主人公は、学校の小使いさんだった。だから顔も分っていたし、ぼくの家庭も知っていた。鞄を外すと、そこの薄暗い小部屋に倚りかかって日に一冊ずつ読んで帰った。それがおもしろくて止められなくなっていた。(略)
いわゆる大阪版という講談本だ。厚ぼったいが、読みではなく、一時間か一時間半で一冊は読めてしまう。半年もたつと、もう小使いさんの家の棚には、僕の読むものはなくなってしまった。(略)
貸本屋を卒業すると、まもなく縁日の露店の古本屋で、涙香の翻訳物や押川春浪の冒険物などを漁り出し、それが昂じて、すぐ帝国文庫へ手をつけ出した。何しろその頃の旺盛な読書欲は、蚕が桑を食うような早さであった。本を買うのに、小遣いが間にあわないのである。帝国文庫に眼をつけ出したのは、何しろあの五、六百ページもある厚さが魅力だったのだ。(略)
(『「梅暦」読み初めし頃』より)

年譜からすると、これが10歳の頃の様子です。

この少し前、7歳頃の読書の様子も出てきます。

巌谷小波の“世界お伽噺”を知って、それに読み耽ったのもこの頃からである。ぼくの読書の初めといっていい。博文館の少年世界は、まだ少し難しい感があった。(略)
たしか定価は一部七銭だったと思う。家庭では、そうそう七銭の本は買ってくれないのである。(略)
貸本のお伽噺は、すべて一冊一銭だった。だが、馴れて来ると、一銭持って一冊借りにゆき、格子の外から歩き歩き読み初める。そして読み終ってしまうと、途中から又、大急ぎで引返して「小母さん、これはもういつか読んだ本だからほかのと取り換えてくんない?」とべつな本を借りて帰ったりした。
(『牛乳と英語』より)

この後、この小細工がばれて、恥ずかしい思いをするという話も出てくるのですが、それは措くとして。

テレビもラジオもない時代だったとはいえ、ものすごい読書の仕方です。

「忘れ残りの記」には、もう1ヶ所、自身の読書暦について書かれたところがあります。

(略)ぼくらはそろそろトルストイだのモウパッサンだの、やれ江戸文学では秋成か西鶴だなどと小生意気をいい出していたので、曙山や黙禅や幽芳などではあきたらなくなり、よく分からないくせに四迷、独歩を経て、また泉鏡花に傾倒していた。誰もいちどは罹るという鏡花病にぼくもそろそろ初期程度の徴候をもち出していた。
文学者になりたいとか、将来、その方面にどうとかいう考えなどを、ぼくは当時も以後も、いちども持ったことはない。とまれ唯好きであったに過ぎない。だから読書の選択なども手当たり次第で、押川春浪の冒険小説の類でも、その一冊に興味をもつと、春浪物全部を漁りつくして読破しなければ気がすまないという風だった。
(『赤レンガ』より)

実はこの部分は、文章の流れが年譜とうまくかみ合っていないので、正確には何歳の時のことかわかりませんが、本人は≪十二歳頃≫の感覚で書いているようです。
ちなみに、吉川英治は文中の自分の年齢を数え年で書いていますので、満年齢なら10歳のことです。

10歳で押川春浪は、まだ可愛いものですが、10歳でトルストイ・モーパッサンときては、ちょっと引いてしまいますね。

明治の子供っていうのは、早熟だったんですね。

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2006年11月15日 (水)

杉の伐採

先日、東京都が推進するスギ花粉対策の一環として行われる、現在の杉を伐採して花粉の少ない品種の杉に植え替えるという事業の、記念式典があり、石原慎太郎都知事も出席したとか。

いま、吉川英治記念館のあたりも含む≪吉野梅郷≫地域では東京都に先んじて、杉を伐採し、他の樹木に植え替えるという計画が進んでいます。
青梅市梅郷地区の民有地では既に梅に植え替えた山があります。
そして当館のすぐ裏の山も、杉を伐採し、つつじに植え替える作業が進んでいます。
こちらは当館の裏にある愛宕神社の社有地です。

こちらはスギ花粉もさることながら、地域の景観を向上させようというのが、大きなモチベーションになっています。

杉林には四季の変化がほとんどありません。
春に花粉が飛ぶくらいです。
ですから、自然の豊かさも感じにくいものです。

そういうところを改善し、あわせて花や紅葉によって、人が集まれる場所にしようというわけです。

何しろ木ですから、すぐには結果が出ませんが、何年か後には、春は花、初夏には若葉、秋には紅葉といった変化に富んだ美しい森になっているでしょう。

今から楽しみです。

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2006年11月14日 (火)

アートプログラム青梅を見に行きました

吉川英治記念館では、アートプログラム青梅にこの3年、会場を提供していますが、一昨年・昨年はタイミングが合わず、中心会場である青梅織物工業協同組合の建物には足を運んでいませんでした。
というのも、第1回のアートプログラム青梅では夜間も開場していたのが、第2回以降は夕方5時で閉まってしまうようになったため、自分の勤務を終えてから見学に行くということができなかったのです。
しかし、今年は会期中は月曜日も会場を開けているということで、昨日、定休日を利用して見学に行ってきました。

青梅織物工業協同組合の敷地には5つの建物がありますが、そのうちの3つの建物が展示会場になっています。
BOX-KI-O-KUと名づけられた建物は元都立繊維試験場で、ここに内田あぐり・小滝雅道・作間敏宏・林田直子の4氏の作品。
SAKURA-FACTORYと名づけられた建物は元組合の織物加工工場で、ここに戸谷成雄・袴田京太朗の2氏の作品。
女子更衣室は、そのまま元女子更衣室で、ここに佐藤時啓氏の作品。

特に興味を引かれたのは、一つは作間敏宏氏の「colony」という作品。
部屋一つを真っ暗にし、その中に薄暗い照明に照らされた布がぶら下がっている、というもの。
その布には人名がたくさん書かれている。
なかなか不気味。

もう一つは佐藤時啓氏の作品。
建物の窓をピンホールカメラに変え、窓外の風景がスクリーンに上下反対に映し出されている、というもの。

ただ、何と言うのか、個別の作品については興味を引かれたり、面白いと思ったりするのですが、全体として見てみると、いずれの作品も建物の≪場の空間≫をうまく生かしたものではあっても、≪場の歴史≫とは全く切れてしまっている感じなのが、少し残念な気がします。
それは実は、当館に展示されている作品にも感じることではあるのですが。

とか思いながら展示を見終えて、帰ってしまったのですが、実は、もう一会場あったんですね。

この織物工業協同組合の近くに都立農林高校というのがあるのですが、そこの講堂にも展示があったのです。
その話は聞いていたのに、コロッと忘れていました。
しかも、横を通ったのに(苦笑)

失敗しました。

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2006年11月13日 (月)

お叱りへの釈明

何度も書いているように、現在アートプログラム青梅2006の一環として、吉川英治が生活していた母屋に、武蔵野美術大学大学院の学生らの作品を展示しています。

昨日、これについて、来館者の方からお叱りを受けました。

自分は吉川英治の大ファンで、母屋を見るのを楽しみにしていたのに、あんな作品が置かれていては邪魔で、じっくり見ることが出来ない。
どうして日本家屋にそぐわない現代美術など展示しているのか。
吉川英治にまったく似合っていない。
入館料を返して欲しいくらいだ。

私は口下手ですし、頭に血の上っている方に何を言っても聞き入れてもらえそうにありませんから、その場ではただお言葉を伺うだけでしたので、以下に少し釈明させていただきます。

まず、今回の展示は、現代美術のイメージとかけ離れている日本家屋の中に作品を置くことで、どのような空間が生まれるか、ということを試したものです。
お叱りを下さったお客様にはご不快だったかもしれませんが、作品は学生たちが真摯に製作したものです。

また、これは吉川英治の精神に反することではありません。
吉川英治は「育つものが好きだ」と随筆にも書き残しています。
若者を愛し、完成してしまったものよりも、成長過程にあるものを愛したのが吉川英治です。
作品を展示する機会に恵まれない学生に場所を提供することは、吉川英治の心から外れたものだとは思いません。

もちろん、「吉川英治記念館」と名乗っている以上、お客様が「吉川英治の世界」を期待してご来館なさるのは当然のことであり、お客様が望まれる形でそれをご提供できなかったことは、お詫び申し上げます。
また、いまご来館になると、このような状態であるということの告知が不足していたことは否めません。
それが十分であれば、この時期を避けてご来館いただくことも可能であったはずであり、その点は反省いたしております。

申し訳ございませんでした。

ただ、上記のような考え方に基づくものであることをご理解ください。

なお、こうした展示は、今回が初めての試みです。
来館者の方がどういう受け止め方をなさるか、正直なところ、はっきり読めないまま、実行いたしました。
その意味でははっきりご意見を賜って、大変ありがたいことでした。
今後に反映できるところは、反映させたいと思います。

ありがとうございました。

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2006年11月12日 (日)

菊花展終了

草思堂菊花展は本日で終了です。

菊は生ものなので、いい状態を3週間保つのはなかなか難しいですね。
元々次々に花が咲いていく懸崖は良いとして、盆養・だるま・福助は、すっかりくたびれてしまっています。

来年は期間を少し短くした方が良いかもしれません。

なお、アートプログラム青梅2006は、23日まで続きます。

常設展示も、今日・明日で一部入れ替えます。

来週はまた少し雰囲気が変わっているはずです。

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2006年11月11日 (土)

見学マナー

私の事務室は、多目的展示室の隣にあります。
その多目的展示室では、現在アートプログラム青梅2006の一環として、様々なアート作品が展示されています。

さて、さっき、事務室で仕事をしていると、隣の多目的展示室から「ギシッ」という木のきしむ音が聞こえてきました。
「さては」と思い、事務室から出て多目的展示室を見てみると、二人の男性がいました。

実は、今回の出品作品の中に「スギノイス・キリノイス」(石井健)という2脚の椅子があるのですが、展示作業中から、誰かがこれに座るんじゃないかと心配していたのです。

その二人の男性は、そ知らぬ顔で会場を後にしましたが、椅子を展示するための黒い布を張った台にしっかり足形が残っていました。
やっぱり、あの木のきしむ音は椅子に座った時の音だったのです。

現場を押えることが出来なかったので、何も言わずにその二人を見送らざるを得ませんでした。

一昨年のアートプログラム青梅2004の際に行った山口啓介さんの『青梅の本棚』という作品展の時も、本物の本を蜜蝋と樹脂で固めて製作した作品を、多くの来館者が平然と持ち上げたり触ったりするので、閉口しました。

人間には好奇心がありますから、不思議なものがあれば触ってみたくなるし、椅子があれば座ってみたくもなるでしょう。
ここが商店なら、それでもいい。
商店に置いてあるものは商品であり、椅子はもちろん座るための椅子ですから。

でも、ここは博物館で、置いてあるものは展示品であり、作品です。
好奇心に負けて、ちょっと指でつついてみるぐらいのことは咎めだてしませんが、持ち上げたり座ったりというのは、行き過ぎです。
そこを思いとどまるのがモラルでありマナーというものでしょう。
いい大人なんですから。

こういうことを言うと、「客商売のクセに客にケチをつけるのか」とか、「だったらケースに入れておけ」とか、そういう反論が出てきたりするのですが、少し考えてみてください。

監視カメラや警報装置に囲まれて、床には「この線から出るな」「ここを歩け」と指示が表示され、壁には「手を触れるな」「近づくな」と張り紙がベタベタ貼られていて、それにちょっとでも違反しようものなら警備員がすっ飛んできて注意され、それを二、三度繰り返すと強制的に摘み出される。

そんな、あたかも客を敵視するような状況が愉快でしょうか。

お客様に気分よく楽しんでいただくためには、最低限守っていただかないといけないことというものもあるのです。

そこをご理解いただきたいと思います。

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2006年11月10日 (金)

バスガイド

今の時期、吉川英治記念館では団体のお客様が増えます。
観光バスを利用し、秋の紅葉と味覚を楽しむお客様方です。

今日も今日とて、そうした団体のお客様からの依頼で、解説を行ったのですが、終了後、その団体を引率してきたバスガイドさんから質問を受けました。

解説の中で話したことを踏まえた質問の他に、「『剣難女難』は吉川英治の小説ですよね?」などと聞かれたので、ちょっと驚きました。
失礼ながら、バスガイドさんで『剣難女難』なんて作品名を出す人は、今まで出会ったことがありません。

「吉川英治って何した人ですか?」とはよく聞かれるのですがね(微笑)

受付の女性職員は、よくバスガイドさんに当館の小学生用パンフレットを、「これは分かりやすいですよ」などと言って渡しています。
確かに、分かりやすいのはもちろんのこと、バスのお客様に解説するのにも、ポイントが絞ってあるので使いやすいだろうと思いますが…

ちなみに、当館には研修のため新入バスガイドの団体がやって来ます。
ここだけの話ですが(笑)、トイレでこっそり煙草を吸う娘さんが、たいてい一人はいます。
新入バスガイドということは高卒なら未成年だし、そうでなくてもあまりバスガイドが人前で煙草を吸うのは推奨されていないでしょうから、それで隠れて吸うのでしょう。

でも、危険なので、トイレで吸うのはやめてくださいね。

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2006年11月 9日 (木)

年賀状配達

今日、青梅市内の老人会の方が団体で来館なさいました。

その中のお一人が郵便局のOBで、こんな話をしてくれました。

自分の先輩たちは昔この吉川英治邸の配達も担当していたのだが、毎年正月に年賀状を配達するのを楽しみにしていた。なぜなら、年賀状の配達に行くと、三の重まであるおせち料理を配達員に振舞ってくれたからだ。

昔は今と違って年賀状の数も少なかったからと、その方はおっしゃっていました。
付け加えれば、世帯数自体もその当時は少なかったはず。

きっと当時の配達員の人達は、吉川家宛以外の年賀状を大急ぎで配り終えてから、最後にいそいそと吉川家に足を運んだんでしょうね。

もっとも、吉川英治がこの地で正月を迎えたのは期間的には昭和20~28年。
昭和20年や21年あたりにこんなことが出来たのかどうかいささか疑問ですから、この『恩恵』にあずかれたのは5~6年間ぐらいのことではないでしょうか。

それにしても、地元にはまだまだ吉川英治のエピソードというのは残っているのでしょう。
特にこういう細かいエピソードは、こちらとしても、なかなか発掘しようにも難しいものです。

それだけにこういうことをご教示いただけるのは、とても嬉しいことです。

これを読まれている方の中に、もしそうした逸話をご存知の方がいらしたら、ぜひご教示ください。

よろしくお願いいたします。

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2006年11月 8日 (水)

菊花展の投票結果

会期の初めに書きましたように、草思堂菊花展は来館者の投票で優秀花を決めることになっています。
その投票が昨日で終わりました。
結果は以下の通りです。

◎草思堂賞

盆養の部=橋本隆(富士の新雪)


◎吉川英治記念館館長賞

懸崖・盆栽の部=吉田忠(北都の金星)


◎紅梅苑賞

福助・ダルマの部=山崎徳信(開竜秋峰)


どんな花か写真でご紹介したいところですが、実は昨日の強風で花びらが飛び散ったり、鉢が転倒したりして、少し状態が悪くなってしまっているので、やめておきます。

この日曜日まで花は展示していますが、そのあたりを割り引いて見ていただければと思います。

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2006年11月 6日 (月)

写真コンテスト入賞作品展終了

第9回吉川英治記念館写真コンテスト入賞作品展の吉川英治記念館内での展示は昨日で終了しました。

いま撤収しているところです。

なお、この展覧会は、東京有楽町の銀座ファイブ内にある富士フォトサロンでも開催します。
会期は来年1月26日~2月1日です。

そちらにもどうぞお運びください。

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2006年11月 5日 (日)

幸福と文学

先日触れた「文化の日」という随筆に、こんな一節がありました。

(略)人間は明け暮れ幸福をさがしている。幸福とはなにか?わかってもいないで目でさがしている。じつはそれにぶつかっている人でも幸福は別にその当人へ何ら注意もしないから、風のようにさりげなく通ってしまう。幸福とはそんなもので、今が幸福であることを心で噛みしめない者にはただの日常のことでしかないのである。

幸福とは平凡な日常の中にある、その平凡さこそが幸福である、そうした意味のことは、家族にも繰り返し語っていたそうです。
これはそれを文章にしたものと言えるでしょう。

面白いのは、その少し後。

だが文学作品の中では幸福の幻影をこんな単純にはしていない。作中の人間像がそれぞれ特殊な境遇や性格を持つからである。したがってそれら主人公が対象とする幸福にはむずかしい幸福の核分子が実験され、「幸福とは何か」の問題を読者に提供しているわけだ。そういう科学的思惟を幸福というものにそそいでみるのも、人生を深く観ることではいいことにちがいない。けれどそのことが直ちに現実の自分の幸福を充たすことであるかのように思ったら大きな誤算を生むであろう。

文学の描く「幸福」は思考実験であり、それを実人生と混同してはならない、実人生での「幸福」はもっと単純なものだ、ということでしょうか。

吉川英治の考える「文学」と「人生」の距離感がうかがえます。

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2006年11月 4日 (土)

おうめ産業観光まつり

今年もおうめ産業観光まつりの観光コーナーの一画に青梅ミュージアム協議会のブースを設けてPR活動を行います。
会期は今日と明日の2日間です。
割引券となるチラシを配布しますので、ご興味のある方はお運びください。

お祭りなんで、露店も出ますし、イベントも色々あるようですから、お気軽に。

場所は青梅駅に近い永山公園。

なお、アートプログラム青梅2006のメイン会場となる青梅織物工業協同組合の一連の建物群も近いので、あわせて足を運んでいただくと、1日たっぷり楽しめますよ。

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2006年11月 3日 (金)

文化の日

今日は文化の日ですが、吉川英治に「文化の日」という随筆があります。
昭和35年11月3日の『中部日本新聞』など地方紙に掲載されたものです。

戦後復興の波に乗って爛熟の度を増していく都市文化と、その恩恵にあずかれずにいる地方文化の格差を是正し、健全な文化発展に導かねばならないということを書いた文章です。

こうした主張は、戦前、日本青年文化協会という農村青年を教化することを目的とした団体を主宰していた頃から主張していることでもあります。
吉川英治がいま記念館のある青梅市(当時は吉野村)に移住した理由も、一つにはそうした考えに基づき、自ら地方に身を置こうとしたということがあったと思われます。

さて、いま現在の日本においても、大都市圏と地方の格差というのは大きいままです。
そうしてみると、結局、明治維新はその負の面として地方を疲弊させ、以来100年以上、誰もそれを解消できずにいるということなのかもしれません。

それはそれとして、文中にこんな一節がありました。

ところが、できることでもこのごろはやりたがらないクセがぼくらの社会にはいってしまった。たとえば、文化の日とか元日の朝ぐらいは家々の前はキレイに掃くという習慣をやりあってみたらどうか。全市スガスガしい朝を見るだけでもお互いの心が和むと思うが、休日の街ときたらまるで紙クズだらけが寒々としている廃墟の観だ。ある休日の朝早く所用があって銀座裏から商店街をあるいたとき、私はまったく都市人の不精さとよく口にする平和だの文化観などにどれほど本気なのやらと疑った。

耳が痛いと同時に、何だ、俺の親や祖父の世代だって、結局大して変らんではないか、という感慨も持ってしまいます。

だがまだ文化国家と誇るには文化の日を幾十秋も重ねなければ、文化万歳と呼べそうにないことは選挙演説会の会場をのぞいただけでもすぐわかる。

と、吉川英治が書いてから半世紀近く。
いまも、この嘆きは通用しそうです。

世の中というのは、変っているようで、芯の部分はあまり変っていないのだな、と感じてしまいます。

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2006年11月 1日 (水)

営業時間

本日から営業時間が冬時間になります。

10時開館は変わりませんが、16時閉門、16時30分閉館になります。

吉川英治記念館は西側に山が迫っているので、冬場は3時頃には太陽が山に入ってしまい、急激に暗くなってしまいます。
青梅市梅の公園の最寄り駅は「日向和田」と言いますが、昔は、多摩川をはさむ駅の対岸を「日陰和田」と呼んでいたほどです。
そんなわけで、すぐに暗くなってしまうので、閉館時間を早めています。

ご了承ください。

なお、期間は2月末日までです。

ご注意ください。

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