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2006年11月25日 (土)

蟹江紀行―その4

蟹江市内の尾張温泉に1泊して、翌11月21日、蟹江町歴史民俗資料館に足を運びました。
まずは一通り展示を見ます。

展示室の一つが小酒井不木の記念室となっていました。
小酒井不木が名古屋近辺の出身なのは知っていましたが、この蟹江町のことだったとは知りませんでした。

小酒井不木は履歴を見ると明治23年生まれですから、吉川英治よりは2つ年上。
「不木」のペンネームで執筆活動を始めるのが大正13年ということですから、関東大震災後に作家として独立した吉川英治と重なります。
つまり二人は同世代の作家になるはずですが、小酒井不木が昭和4年に39歳に夭折しているせいか、何となく吉川英治より一世代前の作家というイメージを持っていました。
吉川英治とほぼ同時期に活躍し、交流もあった江戸川乱歩の先輩格という認識があったからかもしれません。
展示されていた書簡類には、その乱歩や甲賀三郎、土師清二の名も見えました。

民俗展示の中に蟹江の郷土料理が紹介されていました。
その中にボラ雑炊というのがありました。
書簡にこんな一節があります。

善太川の渡辺氏の亭にて鰡(ボラ)づくしの御馳走は都客の小胃腑を驚倒せしむるに足るものに御座候(略)鰡といえば東京育ちの小生など少年時代よりあまり好魚ともおもい居らず候処 善太川にて初めていわゆる出世魚たる所以なる鰡を眼に見舌に味わい申候 平相国が青衿の時代厳島に詣でる船中にて獲たりという鰡は正にかくの如きものなるべしと思われ候

展示にはボラの料理はボラ雑炊ぐらいで、あとはフナ・アジ・モロコなどの料理が紹介されていました。
しかし、「鰡づくし」というくらいですから、もっと種類があるのでしょう。書簡中に「尾崎君がどて焼きに箸を取って居られたときは」とあるので、「どて焼き」というのがあったことがうかがえます。

それにしても、これは書簡の日付からして昭和20年の春のことと思われるのですが、配給制度下で食糧難の時代に「都客の小胃腑を驚倒せしむるに足る」ほどの振舞いというのはすごいことです。
以前、古川ロッパの「悲食記」を読みましたが、時に戦時中とは思えないほどの豪勢な食事をしていて、特に地方に行くと意外なほど豊富な食料があったことがうかがえ、興味深かったのですが、これもそんな一例ということでしょうか。

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