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2006年12月24日 (日)

年末年始休館

さて、今年も本日が最終営業日となります。

12月25日から1月5日は年末年始の休館となります。
ご了承ください。

お問い合わせその他は、1月6日以降にお願いいたします。

このブログも休館中は更新しません。

では、皆様、良いお年をお迎えください。

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2006年12月23日 (土)

南方紀行

昨日触れた5回の海外渡航について、順次その内容を書いていこうかと思いましたが、吉川英治記念館の年内の営業は明日までで、ブログの更新もしばらく行いませんから、中途半端になってしまうので、やめておきます。

ただ、(5)の南方への旅については、当館で刊行している館報『草思堂だより』に以前連載したことがあります。

いまは館の公式サイトからのリンクをはずしてありますが、サーバー上に内容は残っているので、こちらからリンクを貼っておきます。
興味がおありの方はご一読ください。

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2006年12月22日 (金)

海外渡航

吉川英治は、この大連行きを含めて、5度、海外(租借地・植民地も海外とみなす)に渡航しています。

(1)大正9年秋~10年初め=大連
(2)昭和12年8月2日~24日=天津・北平(北京)ほか
(3)昭和13年9月14日~10月13日=上海・南京・武漢ほか
(4)昭和15年12月13日~21日=台湾
(5)昭和17年8月8日~29日=台湾・フィリピン・インドネシア・シンガポール・タイ・ベトナムほか

初めの大連を除けば、いずれも戦時色の強いものです。
つまり、(2)は東京日日新聞(現毎日新聞)の特派員として北支事変後の情勢を視察に行ったものであり、(3)はいわゆる「ペンの部隊」で海軍の揚子江溯江作戦に従軍したもの、(4)は「文藝銃後運動」の講演会、(5)は朝日新聞の特派員として対米英開戦から8ヵ月後の南方情勢の視察に行ったもの、なのです。

貧困に苦しみ、小学校も卒業していない吉川英治に、若い時期の海外への留学や観光といったものがないのは当然でしょう。
しかし、作家になった後にも自発的な海外渡航経験がないというのは、いかに歴史・時代小説を中心に書いているとしても、少し惜しい気がします。

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2006年12月21日 (木)

大連

自叙伝「忘れ残りの記」の巻末に収録されている吉川英治の『自筆年譜』の大正八年(1919)の項に、こんな記述があります。

翌年秋、満州に遊び、大連にて越冬。安ホテルに籠って応募原稿など書く。

「応募原稿など書く」ということについては、以前触れました

ここでは満州つながりで、前段について。

横浜で苦難の10代を過ごした後、東京に出てきた吉川英治は、苦学の決意を持っていましたが、その希望は適わず、蒔絵師の徒弟となり、輸出用の金属象嵌製品の製作に関わることになります。
その後、この師匠から独立、自営で工芸品生産を始めます。
しかし、折悪しく、まもなく第一次世界大戦中の好景気の反動の不況が訪れます。

商売が立ち行かなくなった吉川英治は、何とか活路を見出そうということで、大連に渡ったのです。
渡航先に大連を選んだのは、当時の恋人で、最初の妻となる赤沢やすが、既に大連に働きに行っていたためでした。

しかし、結局、大連に渡ったところで商売はどうにもならず、ホテルに逼塞せざるを得なくなったのでした。

とても「満州に遊び」などという優雅なものではありませんでした。

そもそも、大連以外にはほとんど行っていないようです。
尾崎秀樹の「伝記吉川英治」には、「日露戦の戦跡を訪ねたほかは、大連市内をさまよったくらい」と書かれています。
ということは、すぐそばの旅順に行ったぐらいなのではないでしょうか。

大正10年に入ってすぐに、母親の危篤の報を受けて帰国するわけですが、もしそんなきっかけがなかったら、一種の大陸浪人みたいなものになっていたのかもしれません。

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2006年12月20日 (水)

満洲での出版

満洲国と言えば、吉川英治の作品も満洲国で出版されていたようです。

実物を確認できているものでは、以下のものがあります。

「新書太閤記1 藤吉郎編上」満洲公論社 康徳11年8月
「新書太閤記2 藤吉郎編下」満洲公論社 康徳11年11月
「柳生石舟斎」満洲文藝春秋社 康徳11年12月

≪康徳≫は満洲国の元号で、康徳11年は昭和19年にあたります。

「新書太閤記」はまだこの先がありますから、続巻が出ていた可能性はあります。

「柳生石舟斎」は短編集で、「柳生石舟斎」「山浦清麿」「谷干城夫人」の3編が収録されています。

満洲国には、日本から出版物が流れ込んでいたはずですから、現地の出版社から刊行されなくとも、満洲国在住の日本人は吉川英治の作品に触れることは出来たと思われます。
ですから、どの程度の部数が流通したのだろうかなどと考えてしまいます。

いずれにせよ、日本の敗戦後、満州から引き上げるにあたっては、持ち出せる荷物に限りがあったでしょうし、制限もありましたから、多くの出版物が取り残されたはずです。
日本人以外にとっては、そんなものは価値がなかったでしょうから、廃棄されてしまったことでしょう。

そんな中、これだけでもよく残っていたと言えるのかもしれません。

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2006年12月19日 (火)

村山常雄さん

先週金曜日、村山常雄さんがご来館下さいました。
『シベリア抑留中死亡者データベース』の作成・公開により、今年、吉川英治文化賞を受賞なさった方です。

以下、村山さんとの会話の中から、印象に残ったことを。

村山さん自身がシベリア抑留経験者ですが、その端緒となった徴兵による軍隊への入営は昭和20年5月のこと。
つまり、軍隊経験は4ヶ月足らず。
それに対して抑留からの帰国が昭和24年ということで、軍隊経験より抑留経験の方が長いことになります。
村山さんによると、本来の徴兵年齢は21歳。
大正15年生まれの村山さんは、その時は20歳だったので、そのままなら徴兵にかからずに終戦になったはずが、戦争末期になって兵員不足を補うために徴兵が1年繰り上げになったため、召集されてしまったのだそうです。
志願兵は別として、徴兵で軍隊に行った者としては、一番最後の世代になるそうです。
その村山さんが今年80歳ですから、本当に戦争は遠くなったという感じがします。

実は村山さんが招集されたのは、満洲国のハルピンにおいてだったそうです。
日本内地よりハルピンで就職する方が初任給が高かったので、家族を支えるためにも少しでも給料の良いところにということで、ハルピンに行ったのだそうです。
内地に就職して、内地で召集だったら、シベリア抑留の憂き目には遭わなかったのかもしれません。
また、曲がりなりにも海外在住の人間を、その場で招集できてしまうというところに、満洲国の≪傀儡国家≫ぶりが見えるようです。

ハルピンと聞いて、個人的な興味からハルピン神社について聞いてみました。
特別に何か記憶に残っていることはないが、召集の際の集合場所がハルピン神社だったということでした。

ちなみに、私は「ハルピン神社には洋館の社務所がありませんでしたか?」と聞いたのですが、これは私の記憶違いで、撫順神社のことでした。
失礼しました。

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2006年12月17日 (日)

人違い

私は、忠臣蔵ファンではないので、今回チェックしてみるまで気がつきませんでしたが、吉川英治には、自身が好きだと言って、2度も小説に書いた「磯貝十郎左衛門の琴の爪」の主人公を間違えている文章があります。

昭和34年に『週刊文春』に連載した「美しい日本の歴史」の中に「又之丞の恋」という項目があります。
タイトルで一目瞭然のように、ここでは磯貝十郎左衛門の逸話を、潮田又之丞の話と間違えて紹介しています。

潮田又之丞は妻帯者で子もいますから、江戸時代とは言え、ちとまずいでしょう。
同じ細川家預かりだったので、うっかり間違えたのでしょうが、そのまま単行本(吉川英治文庫版「随筆私本太平記」ほか)に収録されてしまったのは、ちょっと残念なところです。

もっとも、単行本に初めて収録された時には、吉川英治は既に世を去っており、直すわけにいかなかったという側面はあります。
間違いも含めて著作物は著作物ですから。

時々、上記のような吉川英治の文章の間違いを指摘して下さる読者の方がいらっしゃいます。
こちらも勉強になるので、大変ありがたいことです。

ただ、対応に苦慮するようなことをおっしゃる場合が、たまにあります。

特に、「出版社に言って間違いを直させろ」というようなことを求められると、困ってしまいます。

web上の文章なら、気づかれないうちに、チョロッと直すことが出来ますが(今日、私自身やりました)、出版物を直すのは容易じゃありません。
一度出してしまったら、再版の時に直すのが精一杯でしょう。

吉川英治の場合、亡くなっているので、勝手に文章もいじれません。
まあ、注をつけるのが関の山ですね。
それだって、いま出ている本を回収して注を入れて出し直すなんてわけにはいきませんし。

そもそも、うちは記念館であって、出版社ではないのです。

ということで、お願いです。

吉川英治の文章に間違いを見つけたら、それはご自分でどこかに発表なさってください。
昔ならそんな場所はなかなかなかったでしょうが、今ならインターネットがあります。
その上で、その発表したものをご教示ください。
よろこんで勉強させていただきます。

このブログにトラックバックを送ってくださっても結構です。

お待ちしております。

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2006年12月16日 (土)

前線の忠臣蔵

昨日、「新編忠臣蔵」が二度にわたって「くろがね叢書」に再録されたことを、「単に吉良邸への討入の時期にあわせて、忠臣蔵を大きく取り上げただけのようです」と書きました。

これはもちろん、連載ではなく単発で取り上げていることをさして言ったものです。

前線の将兵に読ませるために編集された出版物に忠臣蔵を取り上げることには、それなりの意図はあったはずです。

第24輯の目次にある佐次たかしの漫画ですが、実はタイトルは「一億憤激米英撃摧 大東亜戦争忠臣蔵」となっています。
角書きの「一億憤激米英撃摧」には「やむにやまれぬきちくせいばつ」というルビが振られています。
もちろん、米英を吉良に、日本を浅野に譬えている漫画です。

これが象徴するように、自らの正当性を主張し、将兵に「忠臣たれ」と求めているのでしょう。

吉川英治の「新編忠臣蔵」は、既に書いたように、「くろがね叢書」のために書いたものではなく、再録ですから、その執筆意図はまたそれとは別だと思いますが、しかし、そのように読めてしまう部分もなくはありません。

例えば、「くろがね叢書」にも収録されている、作品の最後の一文はこんなものです。

無事に。――内蔵助にとっては、実に無事に――死を永遠の生として逝った好い日であったと云える。

なんとも複雑な気分になる一文です。

「新編忠臣蔵」は、昭和11年の初版を含めて、12度単行本化されてます。
その全てにこの一文は含まれていますが、昭和25年の比良書房版(戦後の最初の版)以降、この後にもう一文が追加されています。

またそれは、時の悪法にたいする、人間の正しい人間提示であった。

この一文が加わることで、上記の文の意味が限定的になるような感じが、私にはします。

解釈は分かれるところでしょうが。

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2006年12月15日 (金)

くろがね叢書

この「新編忠臣蔵」ですが、ある出版物に部分再録されています。

それが表題の「くろがね叢書」です。

本書は海軍省恤兵部および報道部の直接指導の下に海軍省外廓團體「くろがね會」の編纂した前線讀物です。皆様の戦陣の餘暇を幾分でも御慰め出來れば誠に幸甚です。

と各巻の巻頭にありますが、これがこの叢書の性格を表しています。
発行は月刊だったようです。
前線に配布されるもので、非売品でした。

この「くろがね叢書」の第12輯(昭和18年11月30日発行)が『忠臣蔵・特輯』で、そこに「新編忠臣蔵」の冒頭の2章=「浅野内匠頭」「赤穂早打帳」が収録され、第24輯(昭和19年11月30日発行)に掉尾の7章=「討入炬燵孫子」「此一期月雪花」「吉良方義士」「武士は泣くもの」「上杉家不戦始末」「泉岳寺炉辺話」「細川家義士夜話」が収録されています。

「新編忠臣蔵」は全部で20章あり、掲載されているのが9章で、残りは11章。
当館で所蔵しているのはこの2冊なので、残りはその間に連載されていたのかとも思いましたが、調べてみると、どうやらそうではないようです。
単に吉良邸への討入の時期にあわせて、忠臣蔵を大きく取り上げただけのようです。

参考までに第12輯と第24輯の目次を紹介して、他の掲載作品を列挙してみましょう。

◎第12輯
表紙…清水三重三
グラビヤ…義士遺芳集
「浅野内匠頭」吉川英治作/岩田専太郎画
「赤穂早打帳」吉川英治作/岩田専太郎画
「内蔵助道中」平山蘆江作/鰭崎英朋画
「不破数右衛門」長谷川伸作/鴨下晁湖画
「雪の子別れ」笹本寅作/木俣清史画
「三村次郎左衛門」海音寺潮五郎作/鰭崎英朋画
「江戸の雪」邦枝完二作/鴨下晁湖画
「元禄武士道」湊邦三作/木俣清史画
「討入り」三上於莵吉作/鰭崎英朋画
「主税御預記」山手樹一郎作/鴨下晁湖画
「義士の判決」土師清二作/木俣清史画

◎第24輯
表紙…鴨下晁湖
グラビア…『銃後写真だより』
漫画…佐次たかし
「新編忠臣蔵」吉川英治作/高田弘輝画
――諧謔小説輯――
「新家庭音頭」辰野九紫作/篠原信行画
「愉しき青春」鹿島孝二作/北田寿画
「結婚進軍歌」サトウ・ハチロウ作/江戸川宏円画
銃後朗報…編輯部選/佐次たかし画

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2006年12月14日 (木)

新編忠臣蔵

吉川英治には、忠臣蔵を描いた作品としては、昨日の「べんがら炬燵」の他に、そのもの「新編忠臣蔵」という作品もあります。

こちらは雑誌『日の出』昭和10年1月号~12年1月号まで連載された長編です。
「べんがら炬燵」のちょうど1年後から連載が始まったことになります。

「磯貝十郎左衛門の琴の爪」の話は、こちらにも登場します。
それも、作品の最後の場面に。

「べんがら炬燵」では、磯貝十郎左衛門が吉良邸の内部、特に上野介の寝所の所在を聞き出すために、吉良邸に奉公している侍女に接近し、恋情を抱く、という形になっています。
もちろん、琴の爪のこの侍女のものです。

「新編忠臣蔵」でも、この設定は引き継がれています。
ただ、「べんがら炬燵」ではこの侍女は身投げしますが、「新編忠臣蔵」では侍女のその後は語られません。

堀内伝右衛門の目線で、さてはあの路傍で見かけた女がそうであったかと思わせるだけです。

秘めた恋は、秘したままにしておこうということでしょうか。

なお、この作品も吉川英治歴史時代文庫に収録されています。
上下2巻(補巻1・2)になっています。

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2006年12月13日 (水)

琴の爪

暦上の討ち入りの日付が12月14日ということもあって、この時期、何かと忠臣蔵の話題が出ます。

忠臣蔵と言えば、吉川英治がお気に入りで、講演や随筆で再三にわたって触れているエピソードに「磯貝十郎左衛門の琴の爪」の話があります。

討ち入り後、細川家にお預けとなった大石内蔵助他17名の中に、討ち入りを行った旧赤穂藩士のうちで最年少の磯貝十郎左衛門がいた。
世話役の細川家家臣・堀内伝右衛門の残した記録によると、一同切腹と沙汰が決まり、それぞれが衣装を改めて切腹に向かった後、残された衣服を片付けていると、磯貝十郎左衛門の服の袂から袱紗に包んだ琴の爪が出てきた。

そんな話です。

秘めた恋の存在を思わせるこのエピソードは、真山青果によって「元禄忠臣蔵 大石最後の一日」として歌舞伎になっていたり、澤田ふじ子も「幾世の鼓 磯貝十郎左衛門と多佳」という短編小説に仕上げていたりしますが、吉川英治も、やはり小説化しています。

それが「べんがら炬燵」という短編。

お気に入りのエピソードを小説化したものですが、秘めた恋の話よりは、討ち入り後切腹までの最後の日々を送る大石たちと堀内伝右衛門の交流、そして伝右衛門の抱える家庭の問題の方に紙幅が割かれています。

同じエピソードを元にする以上、「琴の爪の女」をどのように設定するかが重要なポイントですが、上記の2作品と比較すると、そのあたりはちょっと物足りない感じもしますが、恋の物語とは別の味わいのある作品です。

初出は『週刊朝日』昭和9年新春特別号。
現在も刊行されている吉川英治歴史時代文庫76「柳生月影抄 名作短編集(二)」(講談社)に収録されていて、今でも読むことが出来ます。

ここでも読めますが、本を買って他の短編も読んでみてください(笑)

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2006年12月10日 (日)

多磨霊園探訪 その6

このまま北側の門から出て行くことも出来ますが、元の正門に戻りながら、あといくつかの墓所を訪ねてみます。

Yosano
多磨霊園は広大なため園内を路線バスが通っているのですが、そのバス通りのそばに与謝野鉄幹・晶子夫妻の墓所があります。
向かって左が鉄幹(寛)、右が晶子の墓石です。墓石の前にはそれに対応するようにそれぞれの文学碑があります。残念ながら、文字の彫りが浅いこともあって、判読できませんでした。

先日も触れたように、吉川英治は川柳の師・井上剣花坊の通して夫妻の知遇を得ていました。

正門から北に伸びる大通りの方に戻っていくと、有島武郎の墓所があります。

Arishima
吉川英治は作家になる前に東京毎夕新聞の記者をしていた頃、有島武郎の取材をしたことがあると語っています(講演集「書斎雑感」所収『小説にならない小説の話』)。

ある時、有島武郎宅を訪ね、談話を取ったが、取材メモの書き方の覚束なさを見た有島武郎が、わざわざそのメモに手を入れてくれた。
その好意に甘えたついでに、談話の内容に合わせて子供の写真を貸してくれるように頼んだところ、有島武郎は隣室のストーブ脇の紙くずの中から写真を探し出して貸してくれた。
それから10日ほど後、有島武郎は≪情死事件≫を起こして亡くなる。
先輩記者たちがその事を話題にしている輪の中に入って、「先日自分が書いた記事に載せた写真は有島武郎がストーブの紙くずから出してくれたものだった」という話をしたら、先輩記者の一人から「子供の写真をストーブの紙くずから出してくる姿を見てピンと来ないような奴には新聞社の飯を食う資格はない」と言われた。

概ねそんな話です。

有島武郎が波多野秋子と情死したのは大正12年6月9日。
確かに吉川英治が東京毎夕新聞社に在籍していた頃(大正11年初頭から大正12年の関東大震災まで)です。
この吉川英治の話が事実なら、実際の情死のかなり前から身辺整理をしていたことになります。

ちなみに、この墓碑の右のレリーフが有島武郎、左は大正5年に先立った妻の安子です。
当然と言えば当然ですが。

さて、そこから南下して正門の近くまで戻ってくると、徳川夢声の墓所があります。
徳川夢声の本名は福原駿雄ですので、「福原家累代之墓」となっていますが、隣に「夢」と刻まれた碑があります。
Musei

徳川夢声は、活動弁士として名を馳せ、やがて映画・演劇・ラジオなどに活動の幅を広げ、トーキーの出現で活弁の仕事が無くなっても、その話芸を活かしてマルチタレントとして成功します。
その代表的な仕事が、吉川英治の「宮本武蔵」の朗読です。
今でもその朗読CD(新潮社「宮本武蔵名場面集」1~6)を入手することが出来ます。

以上で、この日は多磨霊園を後にしました。
聞けば、今回利用した案内図に掲載されていない吉川英治ゆかりの著名人の墓所がまだあるそうなので、いずれまた訪ねてみようと思います。

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2006年12月 9日 (土)

多磨霊園探訪 その5

Eiji_2
亀井勝一郎の墓所から東に少し行った所、忠霊塔のすぐそばに吉川英治の墓所があります。
車の通れる表通りから一つ入った区画なので、少し目立ちにくくなっています。

以前にも書きましたが、設計は建築家の谷口吉郎で、文机の上に経筒を載せた形になっています。繰り返しますが、湯飲みじゃありません
Eiji_3

経筒は六角形になっています。
その正面の部分には「吉川英治」の名が、そして左側の区画に「文子」と刻まれています。
「文子」の文字に赤い色が残っていることから分かるように、初めから夫妻の名が刻まれていました。

また、文机の部分の側面に吉川英治の父・直廣と母・いくの名も刻まれています。

写真では正面からの姿が多いので、ちょっと後ろ側を覗いて見ました。
座布団風の部分があるんですね。
まさにこの場に姿無き吉川英治が存在しているような感じです。
Eiji_4

思っていた以上に小ぶりで、とても上品な感じのするデザインです。
こう言ってはなんですが、霊園内を歩いていると、自己顕示欲の塊のような墓石をいくつも目にします。
それに対して、総じて文人の墓石はシンプルなものが多いようです。
その中にあって、吉川英治の墓石はシンプルな上にデザイン的にも優れたものだと思います。

Eiji_1
また、きれいに手入れされた植木に囲まれ、非常に物静かな印象を受けます。

改めて、文子夫人の冥福をお祈りします。

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2006年12月 8日 (金)

多磨霊園探訪 その4

直木三十五追悼碑からまっすぐ北上した所に、その碑を建てた菊池寛の墓所があります。
が、その前に、北西にある野村胡堂の墓所を訪ねました。
Kodo

吉川英治と野村胡堂は、その馴れ初めははっきりしないのですが、大正時代の終わり頃には交流があったようです。
野村胡堂がまだ報知新聞在職中だった頃に、その報知新聞に野村胡堂の推薦で吉川英治が「江戸三国志」を連載(昭和2年11月22日~4年2月24日)したことなどが知られています。

墓所には、その野村胡堂と妻・ハナの年譜が設置されています。決して著名人というわけではないハナの年譜まであるところに好感が持てます。

そして菊池寛の墓所へ。
菊池寛と吉川英治の付き合いは、吉川英治自らが

菊池さんと私の交友は、年月は長いが、まことに淡々たる交わりだった。交友は淡なること水のごとくに――とむかしのたれかが訓えていたそのように私は菊池さんに心がけて交わった。(『菊池寛氏と私』「折々の記」所収)

と書いているようなものでしたが、多くの局面で行動を共にし、交わりの淡さとは逆によく理解し合っていた関係だったと言えると思います。
Kan

菊池寛という人は、身なりにあまり構わず、食べこぼしなどにも無頓着、顔もほとんど洗わない、というような人だったそうで、当館館長の吉川英明も、実際に会った印象を「これが本当にそんなに偉い人なのかと思った」と言います。
そんな人物像とは反対に、その墓所は、非常にすっきりと品良くまとまっています。
ちなみに、「菊池寛之墓」の文字は川端康成によるものだそうです。

菊池寛の墓所から北東に亀井勝一郎の墓所があります。
Kamei
吉川英治と亀井勝一郎の交流というのは大きなものではないのですが、亀井勝一郎は吉川英治から大衆文学関連の蔵書を譲り受けており、それは現在、日本近代文学館に「亀井勝一郎文庫」の一部として所蔵されています。

墓石の左手にある石碑に刻まれた「歳月は慈悲を生ず」という言葉が印象的です。

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2006年12月 7日 (木)

多磨霊園探訪 その3

横光利一の墓所から北東、正門から北東に斜めに延びる通りのロータリーの近くに「直木三十五追悼碑」があります。

碑文は以下の通り。

直木三十五ノ
文名ハ自ラ不
朽ニシテ金石
ニ刻シテ後世
ニ傳フルノ要
ナキヲ信ズタ
ダ知友彼ヲ偲
ブノ情此處ニ
コノ碑石ヲ建
ツ後人コノ碑
畔ヲ過ギリテ
思ヒヲ彼ノ作
品ニ走スルコ
トアラバ幸也
昭和十年二月二十四日
菊池寛撰
菅虎雄書

吉川英治はこの碑のことを随筆『友情碑』(「草思堂随筆」所収)の中で、こう書いています。

直木三十五の記念碑が建った。多磨墓地の住んでもみたいようないい場所である。(略)あの男らしい着流しの石碑で、今に、あの辺を散歩する者が、足やすめによりかかって直木の頭にひじをかけながら恋を語っても、怒りそうもない設計である。
誰も知っているとおり、これはもっぱら菊池寛の面倒見のよい友情で建ったので、碑銘の撰文も菊池寛になっている(略)、文辞も菊池寛のふだんのままで、いかにも友達が建てたものという友情があふれていて、国家碑にも、戦役碑にも、社団碑にも見られない、一つの「友情碑」を見せている。

この文章からイメージしていたもの以上に、実物は小さな碑でしたが、確かに、シンプルながら良く行き届いたデザインの碑であると思います。

ちなみに吉川英治は、上記の文章に続けて、こんなエピソードも書き残しています。

(略)除幕式の時に、参列者の中にいた故人の愛人が、そばの女性にささやいて、
「あたし、会いたくなってしまったわ」
とツイ言ってしまった。この際、甚だ怪しからんのろけだとは思ったが、そういう気持を呼び起こさせるほどこの碑の方がふだん着なのだからやむを得ない。
(略)
直木に聞えたら、
「ばかっ」
と顔のやり場に困るだろう。

吉川英治は、随筆『直木三十五のこと』(「草思堂随筆」所収)の中で、直木三十五を同じ大衆文壇を支えてきた「戦友」と書いていますが、「戦友ではあっても、彼の自尊毒舌ぶりや、彼の傍若無人さには、正直、時には不快を感じ、暗黙の競争心を煽られた」とも書いており、親友と言うよりはライバルと言った方がふさわしい関係に思えます。
それでも、この随筆『友情碑』には、直木への深い情が感じられます。

Naoki
そんな、数多くの人の情を結晶した碑ですが、残念ながら、今はあまり顧みられているように見えませんでした。
実はこの写真のフレームの外は、落葉(それに少々のゴミ)が山のように集められているのです。
小さな碑なので、埋まりそうです。

少し悲しくなってしまいました。

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2006年12月 6日 (水)

多磨霊園探訪 その2

Hunabashi
次に、その少し西にある舟橋聖一の墓所を訪ねます。

舟橋聖一は、作家の中では吉川英治にとって競馬仲間と言っていいでしょう。
馬を預けていた厩舎も同じでした。
東京競馬場で撮られた菊池寛・舟橋聖一・吉川英治の3人が並んだ写真が現存しています。
生前、吉川文子夫人にうかがったところによると、舟橋聖一の持ち馬の「マンゲツ」号は、吉川英治が所有する「ミカヅキ」号に対して付けられた名なのだそうです。

さらに西に進むと江戸川乱歩の墓所があります。

Ranpo_1
乱歩は本名が平井太郎なので、「平井家之墓」となっていますが、わかりやすいように「江戸川乱歩墓所」と刻まれた石柱も立てられています。
乱歩は吉川英治より2歳年下の同世代で、作家活動の時期も大体同じくらい、作家デビューまでにいろいろな色を転々としていることも似ています。
作品ジャンルは異なりますが、同じ大衆文壇を担う者として交流がありました。
ちなみに、先程の舟橋聖一の競馬に対して、こちらは2人が将棋を指している写真が残っています。

少し北に転じた所に横光利一の墓所があります。

Yokomitsu
こちらも作品ジャンルは異なりますが、菊池寛を通じての交流があったようです。
文藝春秋社による「文春講演会」の際に旅先で撮られた写真に、3人に佐佐木茂索を加えた4人で写っているものが残っています。

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2006年12月 5日 (火)

多磨霊園探訪 その1

12月4日、急に思い立って多磨霊園に足を運びました。

もちろん、今年亡くなった吉川文子名誉館長が吉川英治とともに眠る墓所にお参りするためです。
また、それと同時に、多磨霊園には多くの著名人の墓所があり、吉川英治とゆかりのある人物も少なくないことから、そうした人々の墓所を訪ねることも目的でした。

多磨霊園への行き方はいくつかありますが、今回はJR中央線武蔵境駅から西武多摩川線に乗り換え、多磨駅で降りるという方法をとりました。
ちなみに、この多磨駅は2001年の改称までは「多磨墓地前駅」というそのまんまの駅名だったそうです。

駅から多磨霊園の正門までは歩いて10分ほど。
正門を入ると、管理事務所を訪ねました。
ここで霊園内の案内図をもらえると聞いたことがあったからですが、確かに、入口を入った所に著名人の墓所の場所を記した案内図が置かれていました。
コピーを繰り返したものと見えて、かなり文字が潰れてわかりにくいのですが、何とか読めないこともありません。
これを頼りに霊園内をまわってみます。

吉川英治の墓所は、正門からまっすぐ北に進む大きな通りを突き当たった辺りにあるのですが、そこは主要な墓所をまわった後で訪ねることにしました。

まずは正門のすぐ西側の区域に川合玉堂の墓所があると知り、そこに向かいます。
ご承知の通り、吉川英治と川合玉堂は戦前から交流があり、戦時中から戦後の時期、同じ青梅の旧吉野村に住み、頻繁に行き来しあった仲です。
Gyokudo

中央の「川合玉堂之墓」の右にある新しい「川合家」のお墓には、今年亡くなった川合玉堂直系の孫で、玉堂美術館館長であった川合三男さんもお入りのはずです。
青梅ミュージアム協議会の一員として何度もお目にかかってはいましたが、あんなに早くお亡くなりにならなければ、もう少しお話を色々伺えただろうにと、残念でなりません。

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2006年12月 3日 (日)

住井すゑ、小川芋銭

先日、茨城県からいらしたお客様が、こんな話をしてくださいました。

近所に住井すゑが住んでいて、親しくしていたのだが、よく小川芋銭の絵を吉川英治に買ってもらった話を聞かされた。

このエピソードは、先年製作された映画『住井すゑ 100歳の人間宣言』の中にも取り上げられているもので、もう少し詳しく書くと、こういう話です。

「橋のない川」で知られる作家の住井すゑは、昭和10年、夫である犬田卯の喘息の療養、夫妻の作品に対する官憲の圧迫などの理由により、東京から夫の実家である茨城県牛久村(現牛久市)に移住します。
しかし、その生活は非常に苦しいものであったため、同じ牛久に住み、懇意にしていた画家・小川芋銭に援助を求めます。
これに対して小川芋銭は、自分も裕福ではないのでお金はあげられないが、自分の絵をあげるから、それを売って生活の足しにしなさいと言って、絵を住井すゑに託します。
住井すゑはその絵を持って吉川英治を訪ねますが、吉川英治は何も言わずに絵を買い取ってくれ、そのおかげで生活の苦境をしのぐことができた。

先日のお客様の話では、「当時の文壇でお金を持っていると言えば、吉川英治と島崎藤村だと考えて、この二人の所を訪ねたが、島崎藤村は絵を買ってくれなかった」と、住井すゑはいつも話していたとか。

吉川英治が住井すゑを援助したというのは、イメージ的には意外かもしれません。
しかし、吉川英治はイデオロギーの右左ということには執着がなく、実際、左右どちら側の人間とも交流がありました。
また、農村青年の教化のために自ら日本青年文化協会を立ち上げるなど農村問題には強い関心を持っていましたから、その点で共通性がないわけでもないのです。

ところで、住井すゑが小川芋銭の絵を吉川英治に売りに行ったのは、一度だけではなく、度々のことだったそうです。
それならば、吉川家には大量に小川芋銭の絵が残っていて然るべきところです。

実は、『住井すゑ 100歳の人間宣言』の製作者から、このエピソードを取り上げるにあたって、吉川英治が購入した小川芋銭の絵を撮影したい、という申し出があったので、吉川家に確認を取ってみたのですが、今はそれらしいものは1点も残っていないという答えでした。

小川芋銭の作風は、吉川英治の好みではないということはないと思うのですが。

不思議と言えば不思議ですが、おそらくは人に譲ったのでしょう。
つまり、小川芋銭は嫌いではないが、所有に執着するほどでもない、というところでしょうか。

となると、絵を買ってあげていたというより、ほとんど無償援助していたのと同じですね。

太っ腹だ。

071108追記
この文章にはちょっと勘違いがあったようです。
こちらの文章で補足していますので、ご覧下さい。

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2006年12月 2日 (土)

青梅奥多摩渓谷駅伝

明日は第68回青梅奥多摩渓谷駅伝競走大会が開催されます。

そのため、奥多摩街道から青梅街道にかけて、9時50分~13時30分の間、交通規制が行われます。

吉川英治記念館は、青梅街道とは多摩川を挟んだ対岸の吉野街道に面しています。
吉野街道は交通規制の対象には含まれませんが、迂回路として若干の混雑が予想されます。

ご注意ください。

というようなネガティブ情報は、「じゃあ明日は行くのやめよ」ということになりかねないので、あまり書きたくないのですが(苦笑)

でも、いらっしゃる方のことを考えると、やはりお教えしておかないと、申し訳ないですからね。

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