« 多磨霊園探訪 その5 | トップページ | 琴の爪 »

2006年12月10日 (日)

多磨霊園探訪 その6

このまま北側の門から出て行くことも出来ますが、元の正門に戻りながら、あといくつかの墓所を訪ねてみます。

Yosano
多磨霊園は広大なため園内を路線バスが通っているのですが、そのバス通りのそばに与謝野鉄幹・晶子夫妻の墓所があります。
向かって左が鉄幹(寛)、右が晶子の墓石です。墓石の前にはそれに対応するようにそれぞれの文学碑があります。残念ながら、文字の彫りが浅いこともあって、判読できませんでした。

先日も触れたように、吉川英治は川柳の師・井上剣花坊の通して夫妻の知遇を得ていました。

正門から北に伸びる大通りの方に戻っていくと、有島武郎の墓所があります。

Arishima
吉川英治は作家になる前に東京毎夕新聞の記者をしていた頃、有島武郎の取材をしたことがあると語っています(講演集「書斎雑感」所収『小説にならない小説の話』)。

ある時、有島武郎宅を訪ね、談話を取ったが、取材メモの書き方の覚束なさを見た有島武郎が、わざわざそのメモに手を入れてくれた。
その好意に甘えたついでに、談話の内容に合わせて子供の写真を貸してくれるように頼んだところ、有島武郎は隣室のストーブ脇の紙くずの中から写真を探し出して貸してくれた。
それから10日ほど後、有島武郎は≪情死事件≫を起こして亡くなる。
先輩記者たちがその事を話題にしている輪の中に入って、「先日自分が書いた記事に載せた写真は有島武郎がストーブの紙くずから出してくれたものだった」という話をしたら、先輩記者の一人から「子供の写真をストーブの紙くずから出してくる姿を見てピンと来ないような奴には新聞社の飯を食う資格はない」と言われた。

概ねそんな話です。

有島武郎が波多野秋子と情死したのは大正12年6月9日。
確かに吉川英治が東京毎夕新聞社に在籍していた頃(大正11年初頭から大正12年の関東大震災まで)です。
この吉川英治の話が事実なら、実際の情死のかなり前から身辺整理をしていたことになります。

ちなみに、この墓碑の右のレリーフが有島武郎、左は大正5年に先立った妻の安子です。
当然と言えば当然ですが。

さて、そこから南下して正門の近くまで戻ってくると、徳川夢声の墓所があります。
徳川夢声の本名は福原駿雄ですので、「福原家累代之墓」となっていますが、隣に「夢」と刻まれた碑があります。
Musei

徳川夢声は、活動弁士として名を馳せ、やがて映画・演劇・ラジオなどに活動の幅を広げ、トーキーの出現で活弁の仕事が無くなっても、その話芸を活かしてマルチタレントとして成功します。
その代表的な仕事が、吉川英治の「宮本武蔵」の朗読です。
今でもその朗読CD(新潮社「宮本武蔵名場面集」1~6)を入手することが出来ます。

以上で、この日は多磨霊園を後にしました。
聞けば、今回利用した案内図に掲載されていない吉川英治ゆかりの著名人の墓所がまだあるそうなので、いずれまた訪ねてみようと思います。

|

« 多磨霊園探訪 その5 | トップページ | 琴の爪 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 多磨霊園探訪 その5 | トップページ | 琴の爪 »