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2006年12月21日 (木)

大連

自叙伝「忘れ残りの記」の巻末に収録されている吉川英治の『自筆年譜』の大正八年(1919)の項に、こんな記述があります。

翌年秋、満州に遊び、大連にて越冬。安ホテルに籠って応募原稿など書く。

「応募原稿など書く」ということについては、以前触れました

ここでは満州つながりで、前段について。

横浜で苦難の10代を過ごした後、東京に出てきた吉川英治は、苦学の決意を持っていましたが、その希望は適わず、蒔絵師の徒弟となり、輸出用の金属象嵌製品の製作に関わることになります。
その後、この師匠から独立、自営で工芸品生産を始めます。
しかし、折悪しく、まもなく第一次世界大戦中の好景気の反動の不況が訪れます。

商売が立ち行かなくなった吉川英治は、何とか活路を見出そうということで、大連に渡ったのです。
渡航先に大連を選んだのは、当時の恋人で、最初の妻となる赤沢やすが、既に大連に働きに行っていたためでした。

しかし、結局、大連に渡ったところで商売はどうにもならず、ホテルに逼塞せざるを得なくなったのでした。

とても「満州に遊び」などという優雅なものではありませんでした。

そもそも、大連以外にはほとんど行っていないようです。
尾崎秀樹の「伝記吉川英治」には、「日露戦の戦跡を訪ねたほかは、大連市内をさまよったくらい」と書かれています。
ということは、すぐそばの旅順に行ったぐらいなのではないでしょうか。

大正10年に入ってすぐに、母親の危篤の報を受けて帰国するわけですが、もしそんなきっかけがなかったら、一種の大陸浪人みたいなものになっていたのかもしれません。

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