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2007年1月31日 (水)

ハーモニカ

今日はハーモニカ奏者の宮田東峰の命日(1986年)だそうです。

吉川英治とは何の関係もない人のように思えますが、実は、元々同じ会社の同僚でした。

吉川英治は大正11年から12年にかけて、東京毎夕新聞社に家庭・学芸面の記者として勤務しています。
その時、同社の校正部で働いていたのが宮田東峰でした。

検索してみると1898年生まれとありますから、1892年生まれの吉川英治よりは6歳年下ということになります。

尾崎秀樹著「伝記吉川英治」には、二人についてこう書かれています。

ハーモニカで有名な宮田東峰も校正部にいた。まだ二十歳前の青年で、誰もこの青年が後年ハーモニカの権威になろうなどとは夢にも思わなかった。しかし、その頃からすでに、ハーモニカは手離したことがなく、夕刊新聞であるために、二時過ぎになるとほとんどガランとしてしまう編集部にやってきては、よくハーモニカを吹いていた。英治の好きな「カルメン」の曲などを、力をこめて吹いてくれたものだ。

細かいことを言うと、吉川英治が東京毎夕新聞にいたのは満年齢で29~31歳の時ですから、宮田東峰が「二十歳前」ということはないのですが、なんにせよ、このように親しくしていた時期があったのです。

ちなみに、記録によると、吉川英治は、昭和35年5月10日に上野精養軒行われた「宮田東峰ハーモニカ五十年」の会に出席しています。
1960年に「ハーモニカ五十年」なら、1910年にハーモニカと出会っていたということで、生年からするとその時、満12歳。

いや、だからどうということはないのですが。

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2007年1月30日 (火)

有馬家文書-その5

「宮本武蔵書簡」を取り上げた文章において、よく言及されるのが

拙者も石にあたり すねたちかね申故

という一節です。

「あわれ剣豪武蔵も一揆の民の投石にあって負傷するとは」という、ある種、意外な歴史こぼれ話として紹介されているのを目にした方も多いでしょう。

実戦とは乖離した、むしろそうであるが故に発達した剣術の滑稽。
武蔵自身の老いの悲哀(島原の乱の終結は武蔵が没する8年前のこと)。

そういうニュアンスが、そこには込められています。

ただ、「丸岡有馬文書」自体に、有馬直純の武功の証明という意味合いがあるのなら、当然その裏返しもあると考えなければなりません。
有馬直純が原城本丸まで攻め込んで行ったことを証明することは、自身もまたそこにいたことの証明でもあるはずです。
その上で考えれば、石にあたったというのは、それだけの最前線に自分はいたということを誇示しているとも受け取れるように思います。

書簡は上記の一節のあと

御目見にも祗候不仕候

と続いています。
「ご挨拶に伺うべきところ(石にあたって怪我をしたため)それも出来ません」というようなことでしょう。

実際には、乱の終結直後では大名である有馬直純は様々な戦後処理に多忙であったはずで、面会に行けば邪魔なだけだったのではないでしょうか。

そのあたりに配慮して、しかし、上の身分である相手に恩着せがましい印象を与えることなく、挨拶に出向かないことの口実として、「私は怪我をしています」と書いたのではないか。
だから、石にあたってなどいない、あるいは、あたっていても大した怪我ではないのではないか。

この時代の歴史に疎い私の、単なる想像ですが。

それにしても、この「宮本武蔵書簡」が返書であるなら、当然、有馬直純から武蔵への書状もあったはず。
それが残っていれば、もっと詳しいことが分かるはずです。

どこかから発見されないでしょうか。

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2007年1月29日 (月)

有馬家文書-その4

せっかくなので、「宮本武蔵書簡」の全文を紹介しましょう。

                   宮本武蔵
          有左衛門佐様
               小性衆御中
被思召付 尊礼忝次第ニ奉存候
随而 せがれ伊織儀 御来ニ立申
遍大慶ニ奉存候 拙者儀老足
可被成御推量候 貴公様御意
之様 御家中衆へも手元に而申かはし候
殊御父子共 本丸迄早々被成
御座候 遍驚目申候 拙者も石にあたり
すねたちかね申故 御目見にも
祗候不仕候 猶重而可得尊意候
恐惶謹言
即剋              玄信(花押)

古文書を読む力がないので、書籍に掲載されたものを参照しました。
書籍によって、細部に微妙な違いがあるので、頭が痛くなります。

吉川英治がこの書簡を紹介している「島原役における彼の書簡」という文章にも、この書簡の中身が紹介されています。
それもやはり上記のものとは異なっています。

どれが正しいのか、よく分かりません。

ただ、吉川英治は、書簡の最後の一語を「辰刻」と読んでいますが、これに関しては「即剋(=即刻)」の方が正しいように思います。
有馬直純からの書状を受け取ってすぐに返信した、という意味に取れるからです。

ちなみに、上記の吉川英治の文章では、「丸岡有馬文書」の正式名を「島原御陣之節之御書状十六通」であると書いていますが、実際には「原城落城之砌書状 十六通」であることは、既に触れました。

多分記憶だけで書いたためにこうなったのでしょう。

ということで、お手持ちの宮本武蔵関連の本で、この書簡が紹介されている場合、末尾を「辰刻」としていたり、元の文書を「島原御陣之節之御書状十六通」としていたりした場合、それは吉川英治の文章から引いたものである、ということになります。

ちょっとした目印ですね。

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2007年1月28日 (日)

有馬家文書-その3

さて、「丸岡有馬文書」ですが、その内容については元東大史料編纂所教授の高木昭作氏が、当館の館報「草思堂だより」に詳しい解説を書いてくださっています。
現在は記念館のサイトからのリンクを切ってありますが、サーバー上には残っているので、こちらからご覧ください。

高木氏の文章と話が重複しますが、この「丸岡有馬文書」は、ひとつには島原の乱の原城攻略に際しての有馬直純の武功を証明するものであり、もうひとつには後日の評判を含めて、その一切を有馬家の名誉として記念し、保存したものである、ということになります。

「宮本武蔵書簡」は、原城落城直後に有馬直純からの書状への返書として書かれたと考えられています(冒頭に「尊礼忝き次第に存じ奉り候」とあり、末尾に「即剋(刻)」とあることから)。
そして、その中には確かに「殊に御父子共、本丸まで早々に成られ御座候こと、遍に驚目申し候」と、有馬直純の武功を讃える一文が含まれています。
有馬直純の武功を証明する書簡であることが伺えます。

その上で興味深いのは、この文書の中に宮本武蔵が名を連ねていることです。

宮本武蔵は、島原の乱において、養子・伊織が仕える豊前小倉藩主・小笠原忠真の甥で豊前中津藩主・小笠原長次に従って出陣したとされています。

年若き長次の後見的役割ではなかったか、という説もありますが、仮にそうだとしても、れっきとした大名である有馬直純の武功を証明する者としては、身分の釣り合いが取れていない気がします。

実際、リンク先にある文書全体のリストを見れば分かる通り、他は、名だたる大名・旗本ばかりです。

そこに名を連ねることが不思議ではないほど、宮本武蔵は著名人であったということなのでしょうか。

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2007年1月27日 (土)

有馬家文書-その2

「宮本武蔵書簡」の宛名が有馬直純(書面上の宛名は“有左衛門佐”)であることはよく知られています。

「その時歴史は動いた」でも紹介されていたように、当時、島原を治めていた日野江藩主・有馬晴信は岡本大八事件により改易となり、死に至ります。
しかし、有馬家は断絶したわけではなく、日向延岡に転封となります。
この時、晴信を継いで日向延岡藩主となったのが、晴信の長男・直純です。

後に有馬家は越後糸魚川を経て、越前丸岡藩に再度移封となり、そこで明治維新を迎えます。

当館で所蔵する「丸岡有馬文書」は、この有馬家に代々伝わったもので、近代になって有馬家から流出、それを入手した古書店によって、戦後、吉川英治のもとに持ち込まれたものです。

このあたりのいきさつについて、吉川英治は「島原役における彼の書簡」(『随筆宮本武蔵』所収)という文章を残しています。
ただ、吉川英治は、そこでこの書簡を「新発見の一書簡」と書いていますが、実際には明治18年に修史局(現・東大史料編纂所)によって、この書簡を含めた文書全ての写本が作られています。
この写本をもとに、東大史料編纂所から写真撮影の依頼がきたというわけです。
ですから、吉川英治の報告によって広く世に知られることになったものではありますが、「新発見」というのは、少々オーバーです。

さて、昨日、俗に「丸岡有馬文書」と呼んでいる、と書きました。
この文書群は、ひとまとめにして漆箱に収められていますが、その箱には「原城落城之砌書状 十六通」と書かれており、これが正式な名前と言えます。

そのタイトル通り、島原の乱の最後、原城の落城に関連して有馬直純に送られた書簡など18点(書簡以外のものが2点含まれるので)を一括して保管したものです。

「宮本武蔵書簡」は、その中の1通だったのです。

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2007年1月26日 (金)

有馬家文書-その1

先日のNHKテレビ「その時歴史は動いた」のテーマは島原の乱でした。

島原の乱と言えば、当館で所蔵する吉川英治旧蔵品の「宮本武蔵書簡」が、島原の乱に関するものであることは、ご存知の方も多いのではないかと思います。
宮本武蔵について書かれた本には必ず出てくる重要資料ですし、web上で検索しても、数多くのサイトがひっかかります。

ただ、この書簡が、どういう背景を持つ資料であるのかについて、詳しく説明したものはあまり見当たりません。

この際なので、その点について触れてみたいと思います。

「宮本武蔵書簡」は、現在、軸装されているため、これのみ単独で存在しているものと思われがちですが、実は、あるひとまとまりの文書の一部をなしているものなのです。
それを我々は俗に「丸岡有馬文書」と呼んでいます。

お恥ずかしながら、私も、当館でそういう文書を所蔵していることは知っていましたが、それがどういう性格のものであるかはよくわかっていませんでした。
たまたま、平成14年に東大史料編纂所から、この文書の写真撮影についての依頼があり、その際にこの資料の内容について史料編纂所の方からご教示いただいたおかげで、大まかなことがわかりました。

以下、明日以降に記述することはその受け売りです。

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2007年1月25日 (木)

写真コンテスト入賞作品展

明日から、東京・銀座の富士フォトサロン(銀座ファイヴ2階)で、第9回吉川英治記念館写真コンテスト入賞作品展を開催いたします。
会期は1月26日~2月1日。
時間は10時~20時ですが、最終日は14時で終了いたします。

ご興味のある方は、ぜひお運びください。

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2007年1月24日 (水)

漫画化

リイド社の刊行する月刊誌「COMIC 乱 TWINS」の、今月発売の2月号から、吉川英治の作品を原作とした漫画「私本太平記」の連載が始まりました。
漫画家は岡村賢二さんです。

いや、不覚にもこの雑誌の存在を知りませんでしたが、時代劇漫画専門雑誌なんですね。
原作ものでは、他に池波正太郎の「仕掛人 藤枝梅安」(さいとう・たかを)、横溝正史の「人形佐七捕物帳」(田中つかさ)が掲載されています。

平成に入ってから、吉川英治のいくつかの作品が漫画化されています。
「宮本武蔵」は「バガボンド」(井上雄彦)となって大成功しましたが、「神州天馬侠」は2度漫画化されて、2度とも途中で終ってしまいました。

今度は無事に最後までいけるでしょうか。

いや、「バガボンド」もまだ最後までいってはいませんが。

しかし、月刊ペースで「私本太平記」っていうのは、大丈夫なんでしょうか。
吉川英治の原作は、新聞連載で約3年10ヶ月かかっているんですが。

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2007年1月23日 (火)

寄書き

先日、「美の巨人たち」というテレビ番組に、平櫛田中が取り上げられていました。

メインとなった作品は「鏡獅子」。
そのモデルが、六代目尾上菊五郎だと聞いて、少し腑に落ちたことがあります。

平成4年に都内在住の方から、「日章旗」をご寄贈いただきました。

戦時中、出征する兵士のために、日章旗に寄書きをするということが、広く行われていました。
今でも、新聞などを見ていると、戦地でそうした日章旗を記念に拾って帰ったアメリカ兵が、それを遺族に返還したいので持ち主を探している、というような記事が、たまに掲載されています。

吉川英治のような著名人のもとには、そうした日章旗への揮毫依頼が、多くあったようです。

このご寄贈いただいた日章旗も、昭和18年、出征にあたって、ご寄贈者の方が近所に住んでいた吉川英治の弟を介して、吉川英治に揮毫依頼したものだと言うことでした。

日の丸の右側に、「旭旗赴處即皇天 為○○○○君 吉川英治」と墨書されています。
そして、実は、左側には、「武運長久 平櫛田中」と墨書されているのです。

これについて、ご寄贈者の方は、吉川英治には揮毫を依頼したが、平櫛田中に依頼した覚えはない、とおっしゃるのです。
だとしたら、この日章旗が持ち込まれた時、偶然、平櫛田中が同席していた、という可能性があるわけですが、吉川英治と平櫛田中の間に交流があったという話は、あまり聞きません。

ただ、吉川英治も六代目とは交流がありました。
六代目は、吉川英治の「新書太閤記」を、まだ連載中だった昭和14年に、早くも舞台化し、翌15年にかけて、「藤吉郎編」「秀吉編」を上演しているのです。
その役作りを通して、深い交流をもったことが、吉川英治の随筆に書き残されています。

一方の平櫛田中も、この「鏡獅子」の製作のため、昭和12年頃から実際の舞台を見たり、試作を繰り返したりして、昭和33年に作品を完成させます。

六代目を間に挟めば、昭和18年に、二人が何かの形で同席したことは、十分にありえます。

もし、この日章旗に、六代目の署名もあれば、確実なのですが。

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2007年1月22日 (月)

老美人と歴史

ところで、随筆「霜庭春語」では、そのようにして男性を列挙した後に、こんなことを書いています。

美人といえば、むろん若いという意味をふくむが、老美人というものもある。多くは知らないが、先年、三淵忠彦氏の未亡人を小田原に訪ねたとき、裏の椿山荘から石段を降りてきた七十幾歳かの老美人があった。むかし山県有朋氏の何かであったと聞いたが、梅樹の下であいさつしたとき、何か中華の美人画を想い出したことである。

この文章には後日談があります。

この老美人に出会ったのは、昭和27年1月に「新・平家物語」の取材をかねて、志賀直哉らとともに伊豆半島を旅した時のこと。
この旅を回想する座談会(「新・平家今昔紀行 伊豆の巻」)の中で、このことにも触れています。

それによると、この「霜庭春語」を発表した後、この老婦人から人づてに抗議された、というのです。

吉川英治は、「山県さんの側室」と書くのをはばかって「山県さんの何か」と書いたのですが、それを「失礼だ」と言われたのだとか。
この老婦人にとっては「山県有朋の側室」であったことは、生涯の誇りであって、それを「何か」と書いたのでアベコベに叱られた、と吉川英治は発言しています。

時代や立場によって、ものの受け取り方は異なります。

明治生まれの吉川英治にとっても、側室ということははばかられるものとなっていたわけですが、当人にとってはそれが誇りであった。

歴史を見る上では、そうした感覚の違いというものにしばしば出くわします。

歴史時代小説作家である吉川英治としては、ちょっと失点という感じですが、幕末・維新から敗戦後までの年月の価値の移り変わりの速さも同時に感じるエピソードだと思います。

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2007年1月21日 (日)

老いと顔

一昨日、吉川英治が「年をとるにつれていい顔になってゆきたいと希っています」と書いていることに触れました。

「霜庭春語」という随筆では、「よい老人のよい顔というものは美人よりもむしろ印象的である」と言って、何人か例を挙げています。

高橋是清。
河合卯之助。
鈴木茂三郎。
川合玉堂。
横山大観。
前田青邨。
正宗白鳥。
永井荷風。
谷崎潤一郎。
佐藤春夫。
室生犀星。
長谷川如是閑。

また、例示する直前の文章では志賀直哉にも触れています。

ただし、良さのポイントはそれぞれに違うようで、いろんなコメントがついています。

実は路地を挟んだ隣家に住んでいた高橋是清については、孫を連れた姿を「慈愛にみちたいい顔」といい、2・26事件に触れて、「あんないい顔を短銃で撃った人の気がしれない」と書きます。

交友のあった河合卯之助については「ろくろを懸け、酒をのみ、ろくろを懸け酒をのみ、あんな顔が出来たのだろう」と書き、鈴木茂三郎は「政治家にしてはきりょうが好すぎる」と評しています。

川合玉堂は「あの画趣と平和な歳月をそのまま人としたような顔」。
横山大観は「苦渋がある」。
前田青邨は「まっ白な髪がおかしいほど童色をたたえている」。
正宗白鳥は「古怪な気味があって石みたいだ」。

荷風以下の人々については、「文壇にはまことに古怪が多い」と書いた上で列挙しています。

写真でしか顔を知らない人たちばかりですが、玉堂・大観などは、なるほどという感じがします。

しかし、「石みたい」って(苦笑)

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2007年1月20日 (土)

微笑

吉川英治が≪顔づくり≫を意識するようになったきっかけがありました。

20代の後半、まだ作家となる前、職にあぶれていた時期のこと。
職探しに出歩くのだが、なかなか仕事を得られない。

その時、吉川英治は母親からこう言われたそうです。

或る時、母に云われた。後ろ姿にも、顔にも、貧相な、苦労負けみたいなものを、若いくせに、ぶら下げていて、たれが、おまえの履歴書などをとりあげるもんですか――と。なるほどと思った。
(随筆「焚き反古の記」より)

そう言われた英治は

朝。鏡を見ることにきめた。意識的に、つねに、微笑をもつことに心がけた。(略)顔を洗いに出て、歯ぶらしを咥えながらも、水仙の顔を見て、自分の顔も明るくもてるように気をつけた。

その結果、母親から、今度は「このごろ、おまえは、寝ていても、笑い顔をしているのね」と言われるまでになります。

ただ、微笑だけでは、すぐには運命は開かれません。
英治自身、そう言われた頃が、人生の中で物質的にも、精神的にも、最悪の苦闘をしていた時期だったと書いています。

関東大震災を機に作家へと転身し、成功をおさめるのは、これから数年後のことでした。

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2007年1月19日 (金)

顔づくり

吉川英治記念館では定期刊行物として館報『草思堂だより』を発行しています。
いま、その最新号の編集作業中ですが、今日、そこに掲載する広告の原稿が届きました。
講談社のもので、「田中宥久子の造顔マッサージ」という本のものですが、「造顔」という言葉で、ちょっと引っ掛かりました。

吉川英治に「顔づくり」という文章があります。

(前略)作品だけでなく顔作りもままになりません。独りで書斎にこもっている終日にはいつか鬼みたいなものになってしまいます。そんなときムリに机から顔を剥がして客間へ出ると、客に恐いような顔つきを見せはしまいかと惧れられます。ですから机を立つ前に一呼吸して、切れ物みたいに研がれている自分の顔をなでまわし、つとめて柔らげてから応接へ立ってゆきますが、それでもときによって頭のなかの幻想がまだ醒めきれない顔をしているにちがいないと思うことがしょっちゅうです。

つまり、吉川英治の言う≪顔づくり≫とは、顔の切り替えということになるでしょうか。

同じことはある人物との対談でも語っていて、そこでは、顔を切り替えるために、人と会う直前にタバコを一服する、本当は1本吸いたいけれど、あまり待たせても悪いので、半分ほど吸ってから出て行くことにしている、ということを言っています。

顔が変わるほどの執筆中の作品への集中度、客に嫌な思いをさせたくないという配慮、そして、客から嫌な奴だと思われるのもイヤだと言う少しばかりの見栄、そんなものが感じられる文章です。

ちなみに、「顔づくり」の冒頭には

年をとるにつれていい顔になってゆきたいものと希っています。

と書いています。
年齢にふさわしい、円熟した顔になりたいと望んでいるわけで、広告の本の「10年前の顔になる」という謳い文句とは、言ってみれば真逆ですが、そのあたりは男と女の違いなのでしょうか。

それとも時代なのでしょうか。

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2007年1月18日 (木)

遅筆

あるニュースサイトに、こまつ座の舞台の初日が、井上ひさしさんの台本執筆の遅れにより再延期となった、という記事が載っていました。

井上さんといえば、自ら≪遅筆堂≫を名乗るほど、こうした事例の多い方ですが、実は、吉川英治に絡んだ遅筆事件もあったのです。

昭和60年頃、吉川英治の「宮本武蔵」を、アメリカでミュージカル化しようという話が持ち上がりました。
昭和56年に英語版「MUSASHI」がアメリカで出版され、話題になったことがきっかけでしょう。
その台本を井上さんが担当することになったのです。
昭和61年には、アメリカから音楽担当のヘンリー・クルーガー氏が来日し、当館を含め、宮本武蔵ゆかりの地を実地に取材しています。

ところが、いつまで経っても台本が出来上がりません。
結局、計画から20年以上、ミュージカル化は頓挫したままです。

漏れ聞くところでは、まだ断念したわけではない、とおっしゃっているとか。

今からでも実現すれば面白い試みだと思いますが、時機を逸したことだけは確かですね。

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2007年1月17日 (水)

文学賞

芥川賞・直木賞が発表されましたね。

今回受賞者がなかった直木賞ですが、吉川英治は昭和10年の直木賞創設時からの選考委員でした。

形の上では昭和37年7月23日に発表された第47回(昭和37年上半期)まで選考委員を勤めていますが、同年9月7日に世を去る吉川英治は、この時がんの再発で最後の入院をしており、7月24日に手術を受けていますから、もちろん選考委員会を欠席しており、選考は行っていません。
その前の第46回も欠席で、実際に選考委員会に参加したのは、昭和36年7月18日の第45回(昭和36年上半期)まででした。

ところで、そんな今日、こんな問い合わせの電話がありました。

吉川英治文学新人賞というものがあると最近知ったが、どうすれば応募できるのか?

吉川英治文学新人賞というのは公募ではなく、前年に新聞・雑誌・単行本として発表された作品を対象にしたものなので、原稿のままでは対象になりません、どんな形でも活字になっていれば、その雑誌や単行本を担当部署にお送りになれば、目は通すと思います、とお答えしましたが、ご納得いただけたかどうか。

電話の声から拝察するに、結構なご高齢の方のようでした。
年齢的に言って、吉川英治のファンなので吉川英治文学新人賞にチャレンジしてみたいと思われたのかもしれません。

残念ながら吉川英治文学新人賞は無理ですが、公募の文学賞はいくつもあるので、ぜひ挑戦していただきたい、と付け加える前に電話は切れてしまいました。

せっかくのやる気をそいでしまったのでなければいいのですが。

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2007年1月16日 (火)

林不忘

今日は林不忘の誕生日(1900年)だそうです。

本名は長谷川海太郎。
林不忘のペンネームで「丹下左膳」シリーズを生み出す一方、牧逸馬のペンネームでは推理小説や家庭通俗小説を、谷譲次のペンネームでは「めりけんじゃっぷ」シリーズを書くなど、一人で三つのペンネームを使い分けたことで知られています。

この人物への吉川英治の評価というのがどうだったかというと、こんな一文が残っています。

僕は、牧逸馬氏などは、汁粉屋でいちど、背中あわせに会っただけで、作品も、人がらもはっきり嫌いである。
(随筆「下頭橋」より)

吉川英治は、晩年こそいかにも円満な人柄という印象を持ちますが、若い時期の逸話やその頃の文章などからすると、案外激しやすい人だったようです。
とは言え、こうあからさまに誰かのことを「嫌いだ」などと書いている文章は、他にありません。

ただ、文章の主眼は、編集者が匿名座談会で好き勝手な悪罵を浴びせているのは不快である、ということで、その中でさらっと書いていることなので、どういうところがどのように嫌いなのかは、うかがい知ることが出来ません。

しかし、多少はこういう面があった方が、人間らしいですよね。

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2007年1月14日 (日)

丸木俊・追記

昨日書いたことにつき、「原爆の図」を展示する丸木美術館に問い合わせてみたところ、懇切なお返事をいただきました。

まず、原爆記念堂発起人の件ですが、丸木俊の著書『生々流転』(実業之日本社1958年11月1日発行)の中に記述があり、発起人になった人物として、湯川秀樹、吉川英治、木辺宣慈、朝倉文夫、藤田藤太郎、高津正道、滝波善雄、河井弥八、服部之総らの名前が挙がっているのだそうです。

引き受けていたんですね。

一方、「カニの図」については、『丸木スマ画集』(1959年11月10日大塔書店発行)に掲載されている作品のうち、現在所在不明になっている『かに』(1950年制作 1951年女流画家協会展出品作)という絵があるということをご教示いただきました。

もし、この絵が、赤松俊子から贈られた「カニの図」に相当するとしたら、代表作とも言うべきものを受け取ったことになります。
それが今、吉川家では見当らない、というのは、非常に残念なことです。

人に譲ったのか、別の形で流出したのか。

何か糸口が見つかるといいのですが。

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2007年1月13日 (土)

丸木俊

今日は丸木俊の命日だそうです(2000年)。

記念日関係のサイトでそのことを知り、そう言えばと思って確認してみました。

吉川英治の秘書が残した業務日誌にこんな記述があります。
昭和30年11月4日の項です。

赤松俊子氏来訪 原爆紀念堂建立の発起人依頼の件に付き御来宅あり 其の折丸木スマ女史筆のカニの図贈らる

赤松俊子はつまり、丸木位里の妻・丸木俊であり、丸木スマは丸木位里の母親です。

ここに言う「原爆紀念堂」は、現在の原爆資料館のことではなく、丸木夫妻の「原爆の図」を展示することを目的とした施設のことのようです。
検索してわかった範囲では、昭和29年に白井晟一によってその建設計画が発表され、そのための募金も行われたようですが、結局実現しなかったもののようです。

参照すべき資料が手元にないのでわかりませんが、発起人の依頼とともに、募金の依頼もあったのではないでしょうか。

ただ、吉川英治がこの時、依頼に応じて発起人に名を連ねたのかは、当館の館蔵資料からははっきりしません。
また、この時に贈られたという丸木スマの「カニの図」についても、少なくとも当館に移管されているものの中には含まれていませんし、吉川英明館長の記憶にもないそうです。

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2007年1月12日 (金)

格差

先日、あることの取材で来館した方から、「吉川英治がいま生きていたら、いまの世の中に対してどういう思いを抱くと思うか」ということを聞かれました。

正直なところ、あまり意味のない質問だと思います。
結局のところ、それは吉川英治ではなく答える者の意見でしかありませんから。

と思いながらも、こんなことを答えました。

吉川英治の社会的関心の内の大きな部分を占めていたのは、都市と地方の格差の問題でした。
爛熟する都市と、そこから文化的・経済的に立ち遅れ疲弊する地方農村。
その格差は、貧困による娘の身売りといった個人的な悲劇を生むだけでなく、国家的な問題でもあります。
その是正のため、また、都市の模倣ではない、地に足の着いた地方文化の育成のため、地方の青年を教化することを目的とした組織として、自ら会長となって日本青年文化協会なるものを立ち上げたほどです。
翻って現在を見るに、欧米の先進諸国と、途上国の間の格差は、様々な軋轢を生み、テロなどの温床となっています。
その図式は、吉川英治が憂慮した都市と地方の格差というものを、地球規模に拡大したものと言えるでしょう。
この地球規模の格差を是正しなければ、悲劇が絶えることはないでしょう。
そういうところに関心を向けるのではないでしょうか。

もちろん、私の勝手な意見ですが、どう思われるでしょうか?

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2007年1月10日 (水)

花花花

Img_8300
上から蝋梅と福寿草と青梅草です。

昨年、蝋梅が咲いたと書いたのが1月17日、福寿草が咲き始めたと書いたのが1月29日、昨日あたりから青梅草が咲いていると書いたのが2月3日。

今年は蝋梅はとっくに咲いていましたし、福寿草は昨日あたりから咲き始め、青梅草は今日咲いているのに気がつきました。
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昨年よりはかなり早いようです。

と言うより、昨年が遅過ぎたのですが。
今年の状況でも、少し遅いくらいです。

これから次第に花が増えていくでしょう。

Img_8299
なお、昨年も書きましたが、青梅草とは福寿草の野生種の一つで、青梅ではかつて広く見られたものです。
当館の草思堂庭園では数年前から増やしているところです。

ご興味のある方はぜひお運びください。

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2007年1月 9日 (火)

代休

昨日も書いたように、本日は代休です。

昔と違って、今は祝日が「○月の第×月曜日」という形になっているものが多いので、こういう風に火曜日代休になることが多くなっています。
ご注意ください。

ちなみに、昨日は成人式の記念写真を撮る人はいませんでした。
残念。
まあ、いま庭ではロウバイぐらいしか咲いていませんからねぇ。

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2007年1月 8日 (月)

成人の日

昨日書けばよかったのですが。

本日は月曜日ですが、祝日のため開館しております。
明日がその代休になります。

毎年、成人の日には、記念写真を撮りに来る方が1組ぐらいはいらっしゃるのですが、今年はどうでしょうか。
いつも一番最初に咲く梅が、今年はまだ咲いていませんので、ちょっとポイントが見つけにくいかも。
でも、振袖と古い日本家屋っていうのは、雰囲気が合っていて、いい記念写真になると思いますよ。

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2007年1月 7日 (日)

真田幸村

今年のNHK大河ドラマ「風林火山」は、山本勘助が主人公だそうですね。
昨年の山内一豊(の妻)に続き、従来ならば脇役どころを主人公にするパターンを展開しようということでしょうか。
人気の高い戦国時代で、大物は一通り主役になっていますから、仕方がないところなのでしょう。

ところで、NHK大河ドラマについて検索していて、Wikipediaの『大河ドラマ』の項目にこんな記述を見つけました。

最大の山場である巌流島の決闘は21.8%を記録するが、それ以外は10%代前半で推移する。巌流島の決闘以降はまったくオリジナルであるが、ドラマは更に迷走して武蔵村なる虚構のユートピアが登場。政治向きの話を入れて武蔵とほとんど関わりのない徳川家康や淀殿、真田幸村が登場するが中途半端な観は否めなかった。

2003年の大河ドラマ「武蔵 Musashi」についての記述です。

ここに真田幸村の名が挙げられていますが、実は、原作となった吉川英治の「宮本武蔵」にも真田幸村は登場しています。

最後の巻である「円明の巻」に入ってすぐのあたり。
武蔵の弟子である伊織の行方知れずの姉がお通であることがわかり、夢想権之助と伊織はお通が世話になっている奈良の柳生家を訪ねる。
しかし、入れ違いとなって会えなかったため、権之助の母の供養のため河内の天野山金剛寺を詣り、さらに高野山に足を伸ばそうとしたところを、正体不明の者どもに襲われ、伊織は谷底へ落ち、権之助は拉致されてしまう。
実は、襲撃してきたのは九度山に隠居する真田幸村の家臣たちで、権之助を徳川方の隠密と誤解してのことであった。
同じ頃、細川藩の家老・長岡佐渡は高野山に参った帰途、真田幸村の子・大助に声をかけられ、九度山で幸村と面会する……

吉川英治の「宮本武蔵」でも、真田幸村はこの場面に唐突に登場し、前後のストーリーには全く関わってきません。
また、この一連の場面には武蔵本人は登場しません。
それこそ中途半端の感が否めません。

ただ、宮本武蔵は徳川と豊臣の最後の決戦となった大坂の陣に参加していたと小倉碑文や「二天記」に記されています。
そして、大坂の陣は真田幸村の人生のクライマックスでもあります。
ここには両者の接点が存在します。

思えば、吉川「武蔵」の始まりは関ヶ原の合戦です。
関ヶ原で幕を開け、大坂の陣で幕を閉じる、というのも、まとまりが良い感じがします。

実際には巌流島で幕を閉じていますが、もしかしたら、場合によっては大坂の陣まで話を進めようという腹案があったのかもしれません。

もっとも、一人の人間の成長物語としてみれば巌流島で終るしかないとは思うのですが。

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2007年1月 6日 (土)

新年

あけましておめでとうございます。

本日から新年の営業を開始いたします。
本年もよろしくお願いいたします。

しかし、営業再開と同時に新年最初の連休で、さあどうなるかと期待していたら、いきなりの雨でちょっとがっかり(苦笑)

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