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2007年2月28日 (水)

あるぷすと高野

昨日触れた「あるぷす大将」については、以前、その雑誌連載時のペンネームのことを書いたことがあります。

もうひとつ、「あるぷす大将」の連載については、ちょっと普通ではありえないエピソードがあります。

「あるぷす大将」は、『シオカラ虫の巻』『バクダン夫人の巻』『ジャズと尺八の巻』『廃業先生の巻』『着逃げ有馬の巻』『宝塚の巻』『断食武勇伝の巻』『高野の巻』『目高と田螺の巻』『都会放浪の巻』『鉄梯子の巻』の11章からなっています。
「あるぷす大将」は、雑誌『日の出』に連載されていたのですが、このうち『高野の巻』のみが『文藝春秋』に掲載されたのです。

『日の出』は新潮社の雑誌であり、『文藝春秋』は文藝春秋社の雑誌です。
連載中の小説を1回だけとは言え他誌に掲載するなど考えられないことです。

ちなみに、『日の出』の方を休載して『文藝春秋』に書いたのではなく、『日の出』に連載しつつ、別途『高野の巻』を『文藝春秋』に書いています。

なぜ、そんなことになったのか。

それは『高野の巻』が掲載された『文藝春秋』昭和9年4月号が、直木三十五の追悼号だったからです。

昭和8年の夏、吉川英治は高野山にしばらく滞在します。
この時、直木三十五も夏季大学の講師として高野山に来ていたのですが、入れ違いになって2人は会えませんでした。

その時の思い出を活用して、『高野の巻』は書かれています。

高野山を訪れた≪大将≫たちが、そこで作家の≪並木四十三≫の姿を見かける、という設定で、書かれているのです。
「四十三」は直木三十五の享年であり、もちろん、この人物は直木三十五をモデルにしたものです。

≪並木四十三≫を通して直木三十五の印象を描写し、彼への評価を登場人物の口を借りて語っているのです。

なぜ、そんな回りくどいことをしたのか、ということまでは分かりませんが、吉川英治は、この章に追記して、こう書いています。

風貌の描出、似せんとして似ざるの非、罪大なりといえど、故人また、常に地下の人を拉し、戯作弄弁するの癖あり、転縁今日君にいたる。苦笑せられよ。

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2007年2月27日 (火)

あるぷす大将

朝日新聞の週末版「be」に「サザエさんをさがして」というコーナーがあります。
先週、そこに≪忠犬ハチ公≫が取り上げられていましたが、その文章の中にこんな一節がありました。

そんなハチ公を、1932年10月4日付の朝日新聞が「いとしや老犬物語」と報じ、大フィーバーとなる。歌になり、「オンヲ忘レルナ」と修身の教科書に載る。なんと、「あるぷす大将」(34年、山本嘉次郎監督)という映画にも出演した。

この「あるぷす大将」という映画、実は吉川英治の同名小説を原作にしたものです。
うかつにも、この映画に≪ハチ公≫が出演しているとは知りませんでした。

原作小説の方は、概ねこんな話。

長野県南安曇郡穂高村大字駒ヶ原(そう明記されている)で育った串本於兎少年=通称≪大将≫は、山の子供たちの中でも飛びきりの自然児。
その野性の子が、ひょんなことから都会に出て、都会の風に翻弄されながらも、次第に自分なりの生き方を掴もうとする。

読み直してみましたが、≪ハチ公≫は出てきません。
小説が連載された昭和8~9年は、「be」の記事によると、まさに≪ハチ公≫フィーバーの頃なのですが。

ただ、犬をめぐるこんなエピソードが登場します。

≪大将≫は、彼のことを気に入って世話をしてくれる園伯爵未亡人が可愛がっている犬をうっかり屋敷の外へ逃がしてしまう。
慌てて探すが、どうしても見つからない。
そこで≪大将≫は、よく似た野良犬を捕まえてきて、きれいに洗い、替え玉にしようとする。

映画を観ていないので、どこまで原作を反映しているのか分かりませんが、≪ハチ公≫が出演するような場面はここぐらいです。

まあ、ひょっとすると、主人公に渋谷の街を歩かせて、そこに≪ハチ公≫を映し込む、という程度の『出演』かもしれませんが。

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2007年2月26日 (月)

企画展

明日からの企画展の展示作業のため休日出勤中です。
いや、本当なら休日出勤しなければならないほどの仕事のある企画展ではないのですが。

「吉川英治記念館の30年」というのがその企画展。
会期は2月27日~4月1日。

実は吉川英治記念館は、今年の3月23日で開館から満30年になるのです。
いや、開館が昭和52(1977)年3月23日ですから、3月22日をもってと言う方が正確でしょうか。

その30年間を写真パネルで振り返り、皆さんにもどういう人たちが吉川記念館にご来館になったのか、どんな出来事があったのか、ということをご紹介しようという展覧会です。

なお、会期中に、「吉川英治記念館開館30周年記念謝恩抽選会」(長っ)という催しを開催します。
詳しくはこちらをご覧ください。

ということで、息抜きを終えて、展示作業を始めます。

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2007年2月25日 (日)

茶杓

先日、茶道裏千家の雑誌『淡交』の取材を受けました。

取材自体は、吉川英治自作の茶杓についてのものでしたが、それで思い出したことがありました。

青梅に住んだことのある、ゆかりの文化人というと、近代以降では、まず川合玉堂と吉川英治が双璧でしょう。
しかし、この二人に劣らぬ知名度のある人物が、他にもいます。

彫刻家の朝倉文夫です。

ただ、終戦間際の昭和20年に疎開してきて、1年ほどで東京のアトリエに戻るという、ごく短期間のことだったので、長期間居を構えた二人に比べて、印象が薄いことは否めません。

その朝倉文夫が、青梅疎開中の吉川英治と茶杓の思い出を文章に書き残しています。

吉川英治が当時住んでいたのは、現在、記念館となっている青梅市柚木町ですが、朝倉文夫がいたのは、多摩川をはさんですぐ向いの青梅市二俣尾でした。
青梅市内に住む弟子の松野伍秀の勧めで平溝と呼ばれる地区の高源寺という寺に身を寄せていたと「青梅市史」にあります。

ある日、その朝倉文夫の疎開先を吉川英治が訪ねたそうです。
当時、吉川英治はよく周辺を散歩していたそうですから、そのついでに立ち寄ったのでしょう。
平溝は、現在のJR青梅線軍畑駅から高水三山の谷を上っていった所ですが、吉川邸から歩いても40分かそこらの距離ですから。

いろいろな四方山話に花を咲かせるなかで、話が茶杓のことに及びました。
すると、吉川英治が、≪茶杓をつくった経験もあるらしく講釈をはじめた≫、と朝倉文夫は書いています。

朝倉文夫は、そこで話の腰を折って席を立ち、自作の茶杓を500本ばかり別室から持ってきて、吉川英治に見せたのだそうです。
それを見て、吉川英治は≪講釈をしないでよかったと肩息を≫ついたのだとか。

面白い話です。

茶杓を作るのが本業ではないにせよ、れっきとした彫刻の大家に茶杓の薀蓄を語ろうとした吉川英治も吉川英治ですし、それに対してこれでもかという本数の茶杓を持ち出す朝倉文夫も朝倉文夫です。

揃いも揃って大人気ない(苦笑)

昭和20年なら、朝倉文夫62歳、吉川英治53歳なのですが。

ちなみに、これは『羽後公論』という地方雑誌の昭和38年4・5月号に掲載された文章なので、あまりご存知の方が多くないエピソードだと思います。

吉川英治没後まもなくの文章であり、朝倉文夫の亡くなる約1年前の文章です。

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2007年2月24日 (土)

直木三十五の通夜

今日は直木三十五の命日です(昭和9年)。

直木三十五が亡くなった後、当時、吉川英治が主宰していた雑誌「衆文」では、同年4月号を『直木三十五追悼号』としました。

その中に、一枚の絵が収録されています。
岩田専太郎の描いた、直木三十五の通夜の情景です。

その絵の原画は当館で所蔵しているのですが、ほとんど展示したことがありませんでした。

近々、そうした当館で所蔵しているけれども、展示機会があまりなかった、吉川英治以外の文学・美術資料をまとめて展示することにしました。

題して≪秘蔵コレクション展――吉川英治じゃない吉川英治記念館≫。

この絵も展示する予定です。
会期は4月24日~7月16日。

会期が近づいたら、また告知しますが、いい機会なので、ここで一度お知らせしておきます。
珍しい資料もありますので、乞うご期待。

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2007年2月23日 (金)

スタンプハイク

明日から、吉野梅郷梅まつりが始まります(2月24日~3月31日)。

上記の期間中、吉野梅郷内の各名所にスタンプが用意され、スタンプハイクが出来るようになっています。

今年から、全ての場所をまわって、スタンプを全て押した方には、特典として当館の入場料金を100円割引にするサービスを行うことになりました。

紅梅苑の前で配布されている専用のスタンプ用紙に下記の10ヶ所のスタンプを全て押して、窓口で提示していただければ、割引いたします。

スタンプの設置場所は

1)紅梅苑
2)青梅市梅の公園
3)天満公園
4)青梅きもの博物館
5)梅郷中心地梅林
6)鎌倉の梅
7)岩割の梅
8)親木の梅(大聖院)
9)即清寺
10)吉川英治記念館

スタンプハイクによる料金の割引は、青梅きもの博物館でも行っています。

ぜひチャレンジしてみてください。

以下、スタンプハイクのポイントを。

〇JR青梅線・日向和田駅からスタートすると、上記の順番に回れます。

〇6)、7)民有地内ですので、分かりにくい(かつ入りにくい)かもしれません。

〇8)は吉野街道を渡った反対側の地区にありますが、直近に信号機・横断歩道がないので、道路を横断する時はご注意ください。

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2007年2月22日 (木)

梅の公園

そろそろ観梅のシーズンになってきました。

吉野梅郷は、この地域に梅農家が多かったことから成立したもので、地域全体の民有地に広く梅が見られることが特徴です。

Umenokouen_1
その中に青梅市によって整備された「青梅市梅の公園」があります。
古い写真(2002年撮影)でなんなのですが、こんな感じです。

民有地の梅は、主に実を取るためのものなので、白梅が中心ですが、梅の公園は観梅のために整備されたものですので、様々な種類の梅が植えられています。

さて、数年前からこの梅の公園は、観梅時期だけ有料となっています。
中学生以上、一人200円です。

今年は本日、2月22日から3月29日までが有料期間となります。
有料となる時間は午前9時から午後5時まで。
この時間帯以外は無料です。

ご注意ください。

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2007年2月19日 (月)

尾鷲節

昨日の質問者の方から、もうひとつ質問がありました。

尾鷲節の歌詞の中に吉川英治作詞と伝わるものがあるが、何かその確証となるものはあるか。

というものです。

尾鷲節というのは、吉川英治がこの時の「新・平家」取材旅行の際に宿泊した三重県尾鷲市で、主に花柳界に伝わった民謡です。
冒頭は

尾鷲良いとこ朝日を受けて浦で五丈の網を引く

で、この七・七・七・五を一単位とした歌詞が、いくつか連なっていくもののようです。
そのため、歌詞は何パターンかあるということだそうです。

ここを見ると、そんな歌詞のひとつが掲載されていますが、

矢ノ川(やのこ)越ゆれば尾鷲が見える 見えるゆうべの宿の娘が

という一節が、「吉川英治作」と明記されています。

さて、その裏付けはあるだろうか、というご質問なわけですが、残念ながら、これが見当りません。

しかし、この取材旅行について書いた随筆などを見る限り、吉川英治は、確かに尾鷲の五丈館という旅館に宿泊し、そこで当時の町長が歌う尾鷲節を聞き、翌日、矢ノ川峠から尾鷲を見下ろしています。
したがって、歌詞の情景とは一致します。

もっとも、歌詞からすると、五丈館は「ゆうべの宿」になりますから、五丈館で町長の尾鷲節を聞いて、その場で「先生も何か歌詞を書かれませんか?」と請われて、この歌詞を考えついたとは思えません。

ただ、昨日も書いたように、吉川英治一行は尾鷲から車で矢ノ川峠を越えて熊野まで移動しているのですが、その車に五丈館の主人が同乗して道案内しています。
その車中、あるいは矢ノ川峠の茶屋あたりで、五丈館の主人に請われて、この歌詞をひねり出したかもしれません。

ということで、確証はありませんが、可能性はなくもありません。

これも全国にある吉川英治伝説のひとつかもしれませんが、そんな訳で、言い伝え通りにしておいて、問題はないでしょう。

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2007年2月18日 (日)

涸れがてよ

吉川英治の句に

茶売り女の乳も涸れがてよ冬の山

というものがあります。

昭和25年、吉川英治は連載中の「新・平家物語」の取材旅行で、紀伊半島に出かけます。
その際、尾鷲から矢の川峠を越えて熊野まで自動車で移動しました。

矢の川峠には茶屋があり、一行はそこで休憩します。
店を守っていたのは乳飲み子を連れた女性。
話を聞くと、以前は横浜に住んでいたが戦災に遭い、その後、夫も失ったため郷里の尾鷲に戻ってきた、身内に病人もいて、働かざるを得ないのだが、子連れではこんな仕事しか出来ない、とのこと。

その境遇に心打たれた吉川英治が色紙に書き、この女性に贈ったのが、上の句です。

さて、この句の「涸れがてよ」とはどういう意味か、との問い合わせをいただきました。

改まって問われると、確かに変わった表現です。

あれこれ辞書を調べたりして、導き出したのが、こんな解釈です。

古語に『かつ』という動詞の連用形につく補助動詞があります。
この語自体の意味は「・・・できる」「・・・にたえる」で、文献上は未然形と終止形しか確認できず、通常は打消しを伴って用いられる語だそうです。
活用はタ行下二段活用と推定されます。
これが後に、『がつ』と濁るようになり、「難(かた)」と混同されるようになった、と手元の古語辞典にあります。

ということは、この語を命令形に活用させると、『がてよ』になります。
「難」はつまり『がたし』で、「・・・することが難しい」「・・・しにくい」という意味です。
これと混同されると言うことは、「涸れがてよ」とは、「涸れにくくあれ」ということになるのではないか。

つまり、「峠の茶屋で茶を売る母の乳が涸れることのないように」ということなのではないか。

質問者の方には、こうお答えし、とりあえずご納得いただきました。

しかし、この解釈の難点は、上記のように、文献上では「がてよ」という命令形は見られない、という点です。

五・七・五にまとめるために、無理やり造語したのか、それとも解釈の誤りか。

どう思われますか?

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2007年2月17日 (土)

白梅紅梅図

どういうものか、今週は吉川英治が残したある歌についての問い合わせが相次ぎました。
いずれも、その歌の正確な文言を教えて欲しいという問い合わせでしたので、以後の問い合わせ用に、一度ここに紹介しておきたいと思います。

白梅は紅梅に倚(よ)り
紅梅は白梅に添ひ
双照双映
いよいよ白く
いよいよ紅し

「双照双映」の部分は「相照双映」としているものもあります。

一目で意味は感得できるものでしょう。

吉川英治の考える夫婦のあり方を、白梅と紅梅になぞらえたものです。

共に支え合い、そうすることで共に輝く。
一方の輝きが増せば増すほどに、他方もまた輝く。
そのように照らし合い、映え合う関係が、夫婦の理想像である。

そういう意味でしょう。

現在、この歌を書いた軸を展示しています。
昭和35年の書初めに書いたものです。

ご興味のある方は、ぜひご来館ください。

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2007年2月16日 (金)

白梅

Img_8719
一般に、紅梅と白梅では紅梅の方が開花が早いものです。
しかし、この草思堂庭園内の井戸の横にある白梅は、早くも四分ほど開花しています。

先日写真を載せた早咲きの紅梅2本の他は、紅梅でもまだチラッとしか開花していないのですが。
もちろん、白梅ではこの1本だけが咲いています。

Img_8730
せっかくなのでもう1枚。

枝先の花が開いているので、ちょうど絵になるかと思って撮影しましたが、いかがでしょうか。

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2007年2月15日 (木)

西行

今日は西行の忌日だそうです。
もちろん、旧暦でのことですが。

西行は、当然ながら、吉川英治の「新・平家物語」でも重要な登場人物として、作品の初め頃から何度も顔を出しています。
「随筆 新・平家」に収録された『出家の話』という文章では

西行のような出家こそ、出家の真実を意味するものだろうが、あれまでの真実に徹しようとした者は、暁天の星と云ってよい。

と評価しています。

しかしながら、私は、西行というと、吉川英治のこの戯れ句をいつも思い出してしまいます。

西行の野糞してゆく花野哉

……(苦笑)

もう1句あります。

西行はどうも野糞をしたらしい

どうして、こう西行の野糞にこだわったのか、よくわかりませんでしたが、どうも「西行の野糞」というのは、西行にまつわる定番の伝説のようですね。

とは言え、こんな句にしなくても、という気はしますが。

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2007年2月13日 (火)

Img_8657

マンサクです。

1月の終り頃にはもう咲き始めていたのですが、今頃写真を掲載してみました。
撮影は一昨日です。

茶花として生けるには、わびた感じで良い花だと思いますが、華やかさはないですね。
それと、欠点は、香りが良くないこと。

それにしても、春の早い時期に咲く花はどうしてみんな黄色いんでしょうね?

ちなみに、昨日振り替え休日で開館したため、本日は休館です。
ご注意ください。

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2007年2月12日 (月)

開花状況

Img_8651
本日は月曜日で本来は定休日ですが、振り替え休日なので開館しています。

さて、そろそろ、吉野梅郷の梅の開花状況についての問い合わせ電話が増えてきました。

毎年のことですが、この地域の梅が満開になるのは基本的に3月中旬過ぎですとお答えすると、「そんなに遅いの!」と驚かれます。

今年は暖冬で、開花は早まりそうですが、それでも3月に入ってからの方が、見ごろであろうと思います。
今年は雨が少ないため、暖かさの割には開花が進んでいません。

観梅の方は、もう少し待たれた方が良いと思います。

え、そんなことは連休前に言え?

Img_8661
ちなみに、写真は草思堂庭園内の梅です。
この写真の2本は、毎シーズン最初に開花する木です。
この2本は満開に近づいていますが、他は咲いているものでもまだ一分程度、開花していない木はたくさんあります。

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2007年2月11日 (日)

梅梅梅

都知事の言葉に反応して愚にもつかないことを長々と書いてしまいましたが、その間に、草思堂庭園の花々が少しずつ開き始めました。
梅の花も、今年は満開の時期が早まりそうです。

と言っても、この一帯の梅は元々3月中旬から下旬が満開の時期ですから、早まっても3月にならないと見頃とはならないでしょう。

ところで、都知事の来た日の閉館後、一部展示替えをしました。
書画および書簡類を、年末年始仕様から、梅にあわせたものに入れ替えたのです。

梅のものばかりにならないように注意したつもりなのですが、気がついたら、14点も梅の句や詩歌を書いた書画を出してしまっていました。

ちょっと一部紹介してみましょう。

いじらしや国敗れても梅は咲く

敗戦の翌年、昭和21年の句です。
この句は軸装されています。
これと、軸のしつらえが同じものがあるのですが、そちらに書かれているのは

古画古陶展げて梅の香もよそに

双幅とみるには、句の雰囲気が随分違います。
こちらは、世事をよそに風雅な趣味に没頭しているかのような感じです。

ただ、この頃、吉川英治は、敗戦のその日から創作の筆を絶っていた、その最中であったわけで、そう考えると、一旦世間から身を離して思索に耽る姿にも見えてきます。

咲く日だけおもひ出されて町の梅
町中の梅咲く日だけ見られけり

同じことを詠んだ句です。
ともに色紙ですが、筆の運びや字の配置や雰囲気からは、同じ時に書いたもののような感触を受けます。
ちなみに前者には落款がなく、後者には落款があります。
本人の評価としては後者が優れているということでしょうか。

母あらばなどおもふ日の梅うらら
厳かに春待つ父や梅の花

両親と梅の詠み込まれた句です。
母親に対するものと父親に対するものでは、やはり感じが違いますね。

そうそう、明日は祝日なので開館いたします。
休館は13日になります。
ご注意ください。

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2007年2月10日 (土)

文学館とは-その5

よく、「今の作家の方々の記念館をつくる時は大変ですね」などということをおっしゃる方がいます。

「今の作家は、パソコンで原稿を書いているから、生原稿なんてものがないので、展示するものがないでしょう?」というわけです。

生原稿どころか、ケータイ・メールの普及で、書簡などというものもほとんど遣り取りされていないでしょう。
執筆資料だって、データベース化されていたりするのかもしれません。

いま当館で展示しているようなものは、ほとんどないのかもしれません。

しかし、この心配は、実は不思議な心配をしているとも言えます。

だって、文学は展示できないのですから。

何を展示したところで、それは文学そのものではないのですから、生原稿でもパソコンのプリンターから打ち出した紙でも、どっちだって別に関係はないはずです。

でも、多くの人はそうは思わないでしょう。

それは、生原稿に書かれた直筆文字の筆跡や推敲の様子、そうしたところに、その作家の人間性が現れると、多くの人が受け止めているからです。

逆に言えば、多くの人が文学館の展示を通して観ようとしているものは、文学ではなくて、その作家の人間性そのものである、ということになります。

その作家がどう生き、何を愛し、どのように創作に臨んだのか。
どのような生活をし、どのような家族・友人を得て、どう時代に対峙したのか。

文学を展示できない文学館が、展示によって表現できるものはそれにつきますし、また、来館者の方々が感じたいのも、そういうことなのではないかと思うのです。

さらに言えば、その来館者の方が、それぞれの人生の中で、その作家の作品を通して何を得たか、その作家の作品とどう関わったか、それを再確認することが、文学館へ足を向ける理由なのではないでしょうか。

「昔から来たいと思っていたんです、念願がかないました」と言ってくださる来館者の方が時々いらっしゃいます。
それは、その方の人生の中で吉川英治の作品が大きな役割を果たした、そのことの確認であり、つまりそれは、その方の人生そのものの確認作業なのだと思うのです。

研究者目線で見れば、文学館は第一義的には図書館だということになるのかもしれません。

しかし、図書館とは別に文学館が存在することの意義は、上記のような部分にこそあるのだという気がしています。

なお、付け加えて言うならば、原稿をパソコンで書いている作家の展示は、そういう意味では、不可能ではありません。
作家の人間性を表わすものは筆跡だけではないはずですし、来館者が自分を投影する対象は映像化された作品でも良いわけですから。

蔵書やコレクション、使用した文房具や、衣類・装飾品など身の回りの品々、そうしたもので人となりを表現できるでしょう。
また、時代が新しいので、画像・映像資料には事欠かないのではないでしょうか。

ただ、そうなってくると、石原裕次郎や美空ひばりといったスターの記念館(ひばりの方は閉館になりましたが)と見分けがつかなくなってしまう可能性はありますが。

ということで、石原慎太郎から話を始めて、石原裕次郎が出てきたところで、この話は締めたいと思います。

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2007年2月 9日 (金)

文学館とは-その4

文学は展示できない、というところから、文学館とは第一義的には図書館である、とする考え方があります。
収書ジャンルを限定した、特殊図書館であることが、文学館の最も重要な存在価値であるとする意見です。

しかし、その論を究極まで推し進めれば、展示をともなうような文学館は不要で、レファレンス機能が充実し閲覧も出来る、そういう特殊図書館だけあればいい、ということになります。

それはそうなのかもしれないと思うこともあります。

毎年膨大な数の書籍が発行され、同時に多くの書籍が絶版になっていきます。
図書館でも全ての本を所蔵しているわけではありません。
というより、まんべんなくあらゆる書籍を収集することは、不可能です。

出版文化がこんなに膨大なものになってしまっては、図書館も専門化し、分散していくよりほかないのではないかと思います。

文学館は、文学ジャンル、それも、それぞれの館が扱う特定の作家に限定して収書活動を行い、それによって専門図書館のネットワークの一翼を担うべきではなのでしょう。

昨年、全国文学館協議会の資料情報部会に出席した際、「原稿」まで一定の条件を満たせば閲覧に供している文学館が存在することを知って、非常に驚きました。

確かに、文学の研究にとって、原稿そのものを見ることは大きな意味を持つことだと思います。

文学館を図書館の一変種と考えるならば、そこまでして初めて文学館としての機能を満たしているというものでしょう。

その意味で、「原稿」はもちろん、所蔵図書の閲覧すら行っていない当館のような施設は、文学館としての機能を充分に果たしていないと言えるのかもしれません。

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2007年2月 8日 (木)

文学館とは-その3

博物館(人文系の)と比較してみても、やはり文学館は特異な存在になります。

変な例ですが、こんなことを考えてみてください。

ある所に、正月に雑煮ではなく汁粉を食べる習慣のある家が一軒あるとします。

もし、この一家が、その地域の昔の習慣をただ一軒守って、今でも雑煮の代わりに汁粉を食べているのだとしたら、民俗資料館なんかの調査、記録の対象となるでしょう。

しかし、それが単に、その一家の主人がアンコが好きだから、という好みの問題なら、調査の対象とはならないでしょう。

人文系の博物館というのは、大まかに言えば、人間がなしてきた営みについて、調査、記録し、実物資料の展示によって、それを伝えようとする施設ですが、その場合の人間は、広くは「人類」全体、狭くても一定以上規模を持つ地域や集団という、広がりを持ったものとしての人間だからです。

ですが、その一家のアンコ好きの主人が作家だったとしたら、文学館の調査、記録の対象になります。

文学館も、人間を扱いますが、それは作家という特殊な個人のことだからです。

文学館は、美術館が美術を展示しているように文学を展示しているわけではなく、博物館が対象とはしない一個人というレベルの人間を扱っている、そういう施設であるということになります。

博物館業界の鬼っ子というわけです。

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2007年2月 7日 (水)

文学館とは-その2

常々思っていることがあります。

美術作品というものは、基本的にオリジナル作品1点のみのものです。
したがって、それを鑑賞したいと思う者は、それを手に入れるか、それを手に入れた者を訪ねるかしない限り、作品を観ることが出来ません。

美術館は、自ら作品を所蔵したり、所蔵者から借り出したりして、それを展示し、人々に鑑賞の機会を与えています。

つまり、美術館は作品を展示・公開する場を提供することで、芸術家と鑑賞者を繋ぐという役割を美術というシステムの中に有している、ということになります。

一方、文学館は、そうではありません。

文学という芸術は、活字化されたものを通して読者に鑑賞されます。
雑誌、新聞、単行本、デジタル化されたデータ、いずれにせよ、「生原稿」という≪オリジナル≫ではなく、こうした複製されたものによって、享受されるものです。

したがって、文学というシステムの中で、美術館に相当するものは、そうした活字化されたものを作り出す出版社、販売する書店、貸し出す図書館、なのであって、文学館ではありません。

もちろん、それらの機能を文学館が持つことも出来ますが、こと展示に関して言えば、文学館は美術館とはまったく性格の異なるものである、ということになります。

美術館が壁に絵を飾れば、それは美術を展示していることになりますが、文学館が作家の生原稿をショーケースに並べたところで、それは文学を展示しているということにはならないのです。

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2007年2月 6日 (火)

文学館とは-その1

石原都知事が、館内の展示をご覧になりながら、こんなことをつぶやかれました。

文士の記念館っていうのは、結局こうなるんだよなぁ。

続けて、「結局読まないんだ」とおっしゃったので、「こうなる」というのは、ご自分の態度という部分で言われたのでしょう。
色々展示してあっても、結局のところ細部まで解説を読むということはしない、ということを。

ただ、それに応じて私が、「文学は本で読むもので、展示するものではありませんから」と答えると、「そう」と言ってうなずかれましたから、もう少し踏み込んだ意味もあるのでしょう。

つまり、文学館などというものは、どこに行っても同じようなものを同じように展示していて、自分は興味を引かれないし、存在自体あまり文学的に意味のあるものではない、というような意味が。

そう思ってしまうのは、東京都近代文学博物館の閉鎖という事実に、私が引っかかっているからかもしれません。

石原都知事が就任してすぐに着手した都政の見直しの中で、都立施設の統廃合が積極的に進められ、その結果、東京都近代文学博物館は閉鎖となりました(所蔵資料は江戸東京博物館に移管)。
仮にも作家(ご本人は文士という言い方にこだわりをお持ちのようですが)を名乗る者が文学館を廃止するのか、と当時話題になったものです。

上記のつぶやきと、この事実を重ね合わせると、石原都知事は文学館に価値を見出していないのではないか、という気になってしまうわけです。

ただ、それにも関わらず、突然、吉川英治記念館に来館されたのは、自身が吉川英治と面識があったからでしょう。
文学的な興味によってではなく、故人への想いによって、動かされたのだと思います。

そこにこそ文学館の価値はあるのかもしれません。

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2007年2月 5日 (月)

噂をすれば

影とやら。

一昨日、石原慎太郎都知事の名をこのブログで出しましたが、なんと、昨日、都知事が当館にご来館になりました。
先日触れた通り、青梅マラソンのスターターのために青梅にいらしたわけですが、急遽、吉川英治記念館を見たいと言い出されて、ご来館になったのでした。

石原都知事は、「太陽の季節」で昭和30年下半期の芥川賞を受賞しているわけですが、その受賞式で吉川英治と初めて会って以来、文壇ゴルフなどで何度か顔をあわせているという間柄です。

吉川英治とゴルフと言えば、あるコンペで優勝した喜びのあまりゴルフのスパイクのまま風呂場に入っていった、という話があります。

石原都知事は、その現場にいらしたのだそうです。
で、あれには裏話があって・・・とおっしゃるのです。

吉川英治とはゴルフ仲間であった大岡昇平は、吉川英治本人とはゴルフを通して親しくしつつも、大衆的、通俗的な文学というものを、全くと言っていいほど評価していなかった。
一方の吉川英治は、もちろん大衆とともにあることを己の文学的使命としてきた人です。

そして、その時、吉川英治は「昇平いるか!昇平!」と言いながら風呂場に入ってきて、「見ろ、お前に勝ったぞ!」と言ったのだとか。

石原都知事の大岡昇平に対する論評がその通りであるなら、まるで江戸の敵を長崎で、といった話になりますね。

違いますか(笑)

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2007年2月 4日 (日)

雪女

話を一昨日に戻しますが、届けられた“YOKOSO! JAPAN WEEKS”の「COUPON BOOK 2007」を見ていたら、島根県松江市の小泉八雲記念館も掲載されていました。
当館同様、このキャンペーンに協力して割引サービスを行っているようです。

ざっと調べてみましたが、文学館でこのキャンペーンに参加しているのは吉川英治記念館と小泉八雲記念館の2館だけのようです。

ところで、この小泉八雲と青梅には意外な関係があるのをご存知でしょうか。

小泉八雲の「怪談」の中に収録されている『雪女』の舞台は、実は青梅だというのです。

英語版「KWAIDAN」の序文に、以下のような記述があるそうです。

One queer tale, "Yuki-Onna", was told me by a farmer of Chofu, Nishitama-gori, in Musashi province, as a legend of his native village.

訳すと

この「雪女」という奇妙な物語は、武蔵の国、西多摩郡、調布のある百姓が、その土地に伝わる言い伝えとして、私に語ってくれたものである。

武蔵の西多摩となれば、これは現在の東京都です。
東京都には調布市というのがありますが、あちらは旧北多摩郡に属しています。

実は、都内多摩地区には≪調布≫という地名がかつて何ヶ所かあったのです。

現在の青梅市は、青梅町を中心に周囲の1町6村が合併して出来た市です。
そのうちのひとつが、吉川英治が住んだ吉野村。
現在の柚木町・梅郷・和田町・畑中が該当します。
そして、その吉野村から見て、多摩川の下流側に隣接していたのが調布村なのです。
現在の駒木町・長淵・友田にあたります。

この調布村出身の親子が、松江市の小泉八雲宅の奉公人をしており、その人物が八雲に「雪女」の話を伝えた、というわけです。

現在、青梅市内の多摩川にかかる≪調布橋≫のたもとに「雪おんな縁の地」という碑が建てられています(上の英文と訳文はそれを参照しています)。

青梅マラソンのついでに、調布橋を訪ねて、東京に雪女、という意外さを味わってみてはいかがでしょうか。

もちろん、当館にも足を運んでいただければ、ちょうどいい文学散歩になるかと。

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2007年2月 3日 (土)

青梅マラソン

明日2月4日、青梅マラソンが開催されます。

コースは吉川英治記念館が面している吉野街道とは、多摩川の対岸にあたる青梅街道になります。

もちろん吉川英治記念館は通常通り営業していますが、青梅街道が交通規制を受ける分、吉野街道が混み合う可能性があります。
お車でご来館の方は、ご注意ください。
なお、交通規制は6時~16時です。

また、当日は、通常は青梅駅前から発車している都営バス「吉野」行きが、青梅市民会館下の臨時バス停からの発車になります。
青梅駅前からは徒歩で5分ほど離れています。
それとともに、日曜日には運行している「玉堂美術館」行きのバスが、11時30分~15時30分の間、運休となります。
こちらもお気をつけください。

ちなみに、例年、青梅マラソンは2月の第3日曜日に開催されていましたが、その日に、石原都知事の思いつきの「東京マラソン」が開催されることになったため、開催日が前倒しとなり、第1日曜日に変更となりました。
青梅マラソンは、毎年スタートの号砲を撃つスターターに著名人を招いていますが、今年はなぜかその石原都知事です。

「罪ほろぼし」ってことでしょうか(笑)

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2007年2月 2日 (金)

Yokoso! Japan

“YOKOSO! JAPAN WEEKS”の「COUPON BOOK 2007」というものが届きました。

“YOKOSO! JAPAN WEEKS”は独立行政法人国際観光振興機構が外国人観光客の来訪促進のために行っているキャンペーンで、この「COUPON BOOK 2007」を持参した外国人観光客に対して所定のサービスを行うというもの。

吉川英治記念館も、このキャンペーンに協力しており、この「COUPON BOOK 2007」を持参した外国人観光客に対して優待割引を行うことになっています。
期間は1月20日~2月28日です。

ぜひご利用ください、って日本語で書いても仕方がないのですが。

ところで、この「COUPON BOOK 2007」には、当然、割引が適応される施設として当館が紹介されています。
そのタイトルが≪Yoshikawa Eiji Kinenkan≫となっています。

実は、当館には正式な英語名称というものがあります。

Yoshikawa Eiji House & Museum

つまり、「吉川英治の家と展示館」というわけで、外国人にもどういう施設なのか、すぐに分かるであろうということでつけたものです。
せっかく工夫してつけた名称なので、これを使用して欲しかったですね。

同じ見開きに、当館のご近所、玉堂美術館も掲載されていますが、≪Gyokudo Bijutsukan≫になっています。
≪Kinenkan≫も≪Bijutsukan≫も、このままでは英語を使う外国人には通用しないんじゃないでしょうか。

他の項目を見る限り、日本語での読みをそのままローマ字にする、という方針ではないようなのですが。

ちなみに、当館の紹介文は、こうなっています。

You may just find the man behind the literary legend, the writer Yoshikawa Eiji, who loved the land of Japanese plum.

もう一声、「the author of “MUSASHI”」と入れてくれた方が、外国人にも何者かわかりやすかったと思うのです。

自分の都合ばかり言うようですが、せっかくの取り組みなのに、ちょっと残念です。

なお、以上は英語版をもとにして書いたのですが、送られてきたものにはその他にハングル版、中国語(簡体字)版、中国語(繁体字)版があります。
私はハングルは読めないのでおくとして、中国語版では同じ箇所をこう書いています。

表現熱愛梅之郷的国民文学作家原型的紀念館

日本の漢字で書きましたが、これが簡体字になっているか繁体字かの違いだけです。

こちらも≪宮本武蔵≫の文字を入れてくれた方が、分かりやすかったかなぁ、という気はします。

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2007年2月 1日 (木)

吉川文子一周忌追悼の夕べ

吉川英治夫人で吉川英治記念館の名誉館長であった吉川文子さんが亡くなってもう9ヶ月。
4月には一周忌を迎えます。
早いものです。

吉川英治記念館ではこの一周忌の直前、4月21日(土)に「追悼の夕べ」を開催することになりました。

詳細はこちらをご覧ください。

会場はお寺のため席数に限りがあります。
また、青梅市内での開催ですので、遠くの方はご不便とは思いますが、より多くの方にお集まりいただければと思います。

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