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2007年2月10日 (土)

文学館とは-その5

よく、「今の作家の方々の記念館をつくる時は大変ですね」などということをおっしゃる方がいます。

「今の作家は、パソコンで原稿を書いているから、生原稿なんてものがないので、展示するものがないでしょう?」というわけです。

生原稿どころか、ケータイ・メールの普及で、書簡などというものもほとんど遣り取りされていないでしょう。
執筆資料だって、データベース化されていたりするのかもしれません。

いま当館で展示しているようなものは、ほとんどないのかもしれません。

しかし、この心配は、実は不思議な心配をしているとも言えます。

だって、文学は展示できないのですから。

何を展示したところで、それは文学そのものではないのですから、生原稿でもパソコンのプリンターから打ち出した紙でも、どっちだって別に関係はないはずです。

でも、多くの人はそうは思わないでしょう。

それは、生原稿に書かれた直筆文字の筆跡や推敲の様子、そうしたところに、その作家の人間性が現れると、多くの人が受け止めているからです。

逆に言えば、多くの人が文学館の展示を通して観ようとしているものは、文学ではなくて、その作家の人間性そのものである、ということになります。

その作家がどう生き、何を愛し、どのように創作に臨んだのか。
どのような生活をし、どのような家族・友人を得て、どう時代に対峙したのか。

文学を展示できない文学館が、展示によって表現できるものはそれにつきますし、また、来館者の方々が感じたいのも、そういうことなのではないかと思うのです。

さらに言えば、その来館者の方が、それぞれの人生の中で、その作家の作品を通して何を得たか、その作家の作品とどう関わったか、それを再確認することが、文学館へ足を向ける理由なのではないでしょうか。

「昔から来たいと思っていたんです、念願がかないました」と言ってくださる来館者の方が時々いらっしゃいます。
それは、その方の人生の中で吉川英治の作品が大きな役割を果たした、そのことの確認であり、つまりそれは、その方の人生そのものの確認作業なのだと思うのです。

研究者目線で見れば、文学館は第一義的には図書館だということになるのかもしれません。

しかし、図書館とは別に文学館が存在することの意義は、上記のような部分にこそあるのだという気がしています。

なお、付け加えて言うならば、原稿をパソコンで書いている作家の展示は、そういう意味では、不可能ではありません。
作家の人間性を表わすものは筆跡だけではないはずですし、来館者が自分を投影する対象は映像化された作品でも良いわけですから。

蔵書やコレクション、使用した文房具や、衣類・装飾品など身の回りの品々、そうしたもので人となりを表現できるでしょう。
また、時代が新しいので、画像・映像資料には事欠かないのではないでしょうか。

ただ、そうなってくると、石原裕次郎や美空ひばりといったスターの記念館(ひばりの方は閉館になりましたが)と見分けがつかなくなってしまう可能性はありますが。

ということで、石原慎太郎から話を始めて、石原裕次郎が出てきたところで、この話は締めたいと思います。

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