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2007年2月25日 (日)

茶杓

先日、茶道裏千家の雑誌『淡交』の取材を受けました。

取材自体は、吉川英治自作の茶杓についてのものでしたが、それで思い出したことがありました。

青梅に住んだことのある、ゆかりの文化人というと、近代以降では、まず川合玉堂と吉川英治が双璧でしょう。
しかし、この二人に劣らぬ知名度のある人物が、他にもいます。

彫刻家の朝倉文夫です。

ただ、終戦間際の昭和20年に疎開してきて、1年ほどで東京のアトリエに戻るという、ごく短期間のことだったので、長期間居を構えた二人に比べて、印象が薄いことは否めません。

その朝倉文夫が、青梅疎開中の吉川英治と茶杓の思い出を文章に書き残しています。

吉川英治が当時住んでいたのは、現在、記念館となっている青梅市柚木町ですが、朝倉文夫がいたのは、多摩川をはさんですぐ向いの青梅市二俣尾でした。
青梅市内に住む弟子の松野伍秀の勧めで平溝と呼ばれる地区の高源寺という寺に身を寄せていたと「青梅市史」にあります。

ある日、その朝倉文夫の疎開先を吉川英治が訪ねたそうです。
当時、吉川英治はよく周辺を散歩していたそうですから、そのついでに立ち寄ったのでしょう。
平溝は、現在のJR青梅線軍畑駅から高水三山の谷を上っていった所ですが、吉川邸から歩いても40分かそこらの距離ですから。

いろいろな四方山話に花を咲かせるなかで、話が茶杓のことに及びました。
すると、吉川英治が、≪茶杓をつくった経験もあるらしく講釈をはじめた≫、と朝倉文夫は書いています。

朝倉文夫は、そこで話の腰を折って席を立ち、自作の茶杓を500本ばかり別室から持ってきて、吉川英治に見せたのだそうです。
それを見て、吉川英治は≪講釈をしないでよかったと肩息を≫ついたのだとか。

面白い話です。

茶杓を作るのが本業ではないにせよ、れっきとした彫刻の大家に茶杓の薀蓄を語ろうとした吉川英治も吉川英治ですし、それに対してこれでもかという本数の茶杓を持ち出す朝倉文夫も朝倉文夫です。

揃いも揃って大人気ない(苦笑)

昭和20年なら、朝倉文夫62歳、吉川英治53歳なのですが。

ちなみに、これは『羽後公論』という地方雑誌の昭和38年4・5月号に掲載された文章なので、あまりご存知の方が多くないエピソードだと思います。

吉川英治没後まもなくの文章であり、朝倉文夫の亡くなる約1年前の文章です。

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