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2007年4月30日 (月)

お通夜

振り替え休日ということで、本日は開館しております。
明日5月1日が代休となります。
ご注意ください。

さて、≪秘蔵コレクション展――吉川英治じゃない吉川英治記念館≫に話を戻します。

先日触れた「お通夜」の絵を、展示しています。

掲載誌の「衆文」には、絵とともに岩田専太郎の文章が載せられています。
転載してみます。

木挽町の文藝春秋社クラブの二階。
此処で直木さんは仕事をしてゐた。
プラトン社時代から、励み、励まされ、仕事の上でも随分親交を続けてきた直木さんは、もう、あの、霊柩に飾つてある写真以外偲ぶべくもないのだ。
宵のうちのにぎやかさは、更けるにつれてしみじみとした淋しさに変つて来る。午前五時頃である。
霊柩の前で、ひそやかに、ありし日の故人を偲んでゐるのは、木の実さん、真舘さん、それから清二氏夫人である。その横の方で、黙然とゐるのが管君だが、絵にはない。
廊下を隔てた、別の部屋では、前の晩病院でお通夜をされた二三の人が、横になつて疲れを休めてゐる。
香西君と永井君が、二人共疲れて頭がボンヤリしてきたのだらう十五分程で勝負のつくやうな将棋を何番も立てつゞけにさしてゐる。別の盤で、佐々木さんも、黙々として将棋を指してゐる。笹本君が立つて、ボンヤリ将棋を俯瞰してゐる。
『夏なら、もう明るくなるネ』と、誰かゞ言った。

絵には、「昭和九年二月二十六日午前五時頃之図」と記されています。

文中の『木の実さん』とは直木の娘、『真舘さん』は結婚の約束をしていた最後の恋人の真舘はな子、『清二氏夫人』の清二氏とは直木の弟の植村清二(直木の本名は植村宗一)です。

『管君』とあるのは誤植で、菅忠雄のことでしょう。
『香西君と永井君』は香西昇と永井龍男。
『佐々木さん』は佐々木茂索で、『笹本君』は笹本寅。

個々人が識別できるほどの詳しい絵ではありませんが、文章と合わせて見ると、雰囲気は伝わってきます。

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2007年4月29日 (日)

実は赤いか

Img_8911
こういう花が咲いています。

私はずっとヘビイチゴだと思っていたのですが、最近、ミツバツチグリではないかと言われました。

ヘビイチゴはご存知の通り赤い実をつけますが、ミツバツチグリは実が赤くならないそうです。
そういえば、草思堂庭園のこの花は、どんな実をつけていたか思い出せません。
実がなるまで待ってみたいと思います。

ところで、ヘビイチゴの実には毒があるとか、お腹をこわすとか言われますが、私は子供の頃、ヘビイチゴを見つけてはよく食べていましたが、なんともありませんでした。
実は、いま住んでいる家の周りにも沢山あるのですが、食べる気がしません。

ちょうどそのあたりが、近所の猫の昼寝の場になっているので、糞尿がかかってないか心配なもので(苦笑)

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2007年4月28日 (土)

ゴールデンウィーク

今日からゴールデンウィークですね。

≪他人の休みは稼ぎ時≫という業務形態である私たちには、「大型連休」(NHK用語)なんかではありませんが、別の意味でゴールデンウィークです。

それはさておき、ゴールデンウィーク中の営業ですが、4月30日の月曜日は、通常は定休日のところですが、開館いたします。
その代わり翌日の5月1日は、火曜日ですが休館になります。

ご注意ください。

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2007年4月27日 (金)

挿絵原画

≪秘蔵コレクション展――吉川英治じゃない吉川英治記念館≫、続いてご紹介するのは、挿絵原画類です。

ある方から、吉川英治作品の単行本装丁原画などとともに一括でご寄贈いただいたものですが、詳しく調べたところ、下記のものが含まれていることが確認できました。

〇佐藤敬画「青い山脈」挿絵原画+タイトルカット原画=98枚(うち未使用2枚)

「青い山脈」石坂洋次郎
『朝日新聞』1947年6月9日~10月4日(7月2日休載)=全117回

〇福田豊四郎画「めし」挿絵原画+タイトルカット原画=106枚(うち未使用4枚)

「めし」林芙美子
『朝日新聞』1951年4月1日~7月6日=全97回
(林芙美子は連載中の6月28日午前1時に自宅で心臓マヒのため死去し、未完のまま絶筆となる)

〇佐藤泰治画「舞姫」挿絵原画+タイトルカット原画=113枚(うち未使用3枚)

「舞姫」川端康成
『朝日新聞』1950年12月12日~1951年3月31日(1月2日は新聞休刊)=全109回

〇脇田和画「花ひらく」挿絵原画=2枚

「花ひらく」伊藤整
『朝日新聞 夕刊』1953年5月1日~7月31日=全91回

〇宮田重雄画「現代名作名画全集③獅子文六「自由学校」」(1954年3月30日 六興出版)中トビラカット原画=1枚

〇田代光画「太陽はまた昇る 下」(1953年5月20日 六興出版)中トビラカット原画=1枚

〇鈴木信太郎画「徳川夢声代表作品集 小説編 上」(1953年3月30日 六興出版)中トビラカット原画=1枚

この他に詳細が特定できていないものが10枚あります。

詳細が特定できている7種を、今回は展示しています。

詳しくは書けませんが、入手の経緯から考えて、いずれも過去に展示されたことがないものと思われます。

なお、「青い山脈」「めし」「舞姫」の挿絵原画は枚数が多いので、全ては展示できませんが、少しでも多くのものを展示できるよう、会期の前半(~6月3日)と後半(6月5日~)で中身を入替える予定です。

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2007年4月26日 (木)

平家物語帖

≪秘蔵コレクション展――吉川英治じゃない吉川英治記念館≫、続いてご紹介する展示資料はこれ。

平家物語帖

肉筆の画帖で、与謝野晶子が歌14首を、中沢弘光が絵15葉を描き、それに与謝野寛(鉄幹)が序文を加えたものです。

吉川英治の旧蔵品ですが、「随筆新平家」に収録されている『机のちり』(初出は「新・平家物語 第四巻付録」朝日新聞社 昭和26年11月)で、その入手の経緯を書いています。

秋のデパートの古書籍展で、平家関係の古書籍を漁っているうちに、古い水彩画家の中沢弘光氏が描いた「平家物語帖」と題したものに、与謝野鉄幹氏が序文し、晶子女史が小色紙二十余枚に、平家を歌った合作帖を見出した。これは史料にはならないが、晶子女史には、生前、辱知の御縁もあるので、偲び草にもと、求めておいた。

何度かこのブログでも触れているように、吉川英治は若き日に、川柳の師である井上剣花坊を介して与謝野夫妻とは親交がありました。
その思い出を偲ぶために購入したというわけです。

「新・平家物語」関連資料として展示することも出来たのですが、これだけのものを雑資料的に扱うのは気が引けて、なかなか展示できませんでした。

帖は両面になっていて、表面には序文の前半分+歌7首+絵8葉、裏面には序文の後半分+歌7首+絵7葉という形になっています。

この機会に全部をご覧いただけるように、会期の前半(~6月3日)には表面、後半(6月5日~)には裏面を展示します。

もちろん、物理的な理由からですよ。
2回足を運ばせて、倍儲けてやろうなんてことは……

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2007年4月25日 (水)

樋口一葉書簡

≪秘蔵コレクション展――吉川英治じゃない吉川英治記念館≫の展示資料ですが、まずご紹介するのはこれ。

半井桃水宛樋口一葉書簡

吉川英治が蒐集したもので、一時、英治から永井龍男に譲られましたが、吉川英治没後に吉川家に戻され、後に当館に移管されました。
既に存在は知られていたもので、全集類にも紹介されているものです。

書簡本体だけを巻子にしたもので、封筒がないのですが、明治25年7月8日のものとされています。

半井桃水は、一葉の小説の師であり、恋人でもあった人物として知られますが、筑摩書房版「樋口一葉全集 第四巻(下)」(1994年)によれば、この書簡は二人の交際の噂が広がり、そのために別離した2週間ほど後のものだそうです。

同書に掲載された読み下しを参照しながら書簡を見ると、一葉の桃水への複雑な想いが感じられます。

お前様御男子でなきか私し女子
でなきかいづれに致せ男女の
別さへなくは此様にいやなこと
も申されず

例えば、このような一節があり、これは「男女でなければ私たちの交際をとやかく言われることはなかったでしょうに」というような意味だと思うのですが、それは互いに独身である恋人同士の間で使う言葉だろうかとも思います。

その一方では、

萬一お前様御一身につきて
の御苦労などおあり遊ばさば
とてもとてもお役には立間敷ながら
其片はしをも御分ちいたゞき
何事によらず共々にといふ
やうに御坐候ハゞいか斗いか斗
うれしかるべきものを

などと、まるで妻が言いそうなことも書いているわけで、一葉と桃水の関係とは一体何なのか?と思ってしまいます。

他館で行われた一葉の展覧会には何度か貸し出したことがありますので、ご覧になったことがある方もいらっしゃると思いますが、当館内ではほぼ初めての展示です。

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2007年4月24日 (火)

吉川英治じゃない吉川英治記念館

本日から、企画展≪秘蔵コレクション展――吉川英治じゃない吉川英治記念館≫を開催します。

“吉川英治じゃない吉川英治記念館”とはどういうことかと言いますと、吉川英治とは直接関係がない資料を展示する展覧会ということです。

吉川英治の旧蔵品や、資料のご寄贈の際に吉川英治関連資料とともに一括でいただいたものなど、吉川英治の作品には直接は関係がない文学・美術関連資料が、当館にはあります。
これらは、そのままではなかなか展示の機会がありません。
そこで、相互の脈絡は別にして、一度まとめて展示することで、その存在を皆さんに知っていただこうというのが、この企画展の目的です。

どんな資料を展示しているかは、明日以降にご紹介します。

なお、会期は4月24日~7月16日。
ただし、会期を前半(~6月3日)と後半(6月5日~)に分けて、一部の資料を入替えます。

ご来館をお待ちしています。

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2007年4月22日 (日)

御礼

昨日開催した≪吉川文子一周忌追悼の夕べ≫は、無事何事もなく終えることが出来ました。

およそ250人の方々にご来場いただき、大変感謝いたしております。

こうしたイベントを行うのは初めてではありませんが、普段より規模が大きく、また、館外に会場を借りてというのはほとんど経験がないので、色々と至らない部分もあったことと思いますが、ご容赦ください。

いずれまた、こういう企画を行いたいと思っていますので、またその時はよろしくお願いいたします。

ご来場者の皆さん、会場をご提供いただいた天寧寺、およびお手伝いいただいた関係者、そして出演者の皆さんに、この場にて改めて御礼申上げます。

本当にありがとうございました。

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2007年4月21日 (土)

吉川文子追悼の夕べ

本日、吉川文子一周忌追悼の夕べを開催いたします。

入場券は既に完売しており、当日券発行の予定は今のところございません。
ご容赦ください。

ご来場予定の方は、入場券をお忘れにならないようお気をつけください。

また、終演予定は8時半ですが、会場がお寺ですので、足元が暗くなります。
ご注意ください。

終演があまり遅くならないよう、なるべく時間通りに進行したいと思いますので、出来る限り開演時間に間に合うようご来場ください。

よろしくお願いいたします。

では、皆様のご来場をお待ちしつつ、これから会場の準備に向かいます。

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2007年4月20日 (金)

剣の達人?

今日は辰巳柳太郎の誕生日だそうです(1905年)。

辰巳柳太郎と言えば、島田正吾と共に、若くして世を去った沢田正二郎の後を受けて、劇団・新国劇を支えた役者です。
そして、辰巳・島田が武蔵・小次郎を演じた「宮本武蔵」は、代表的演目の一つでした。

ところで、その「宮本武蔵」を書いた吉川英治は、そのために、しばしば人から「ああいう小説を書かれたのですから、剣をおやりになるんでしょう?」などと訊かれたそうです。
しかし、実際には、吉川英治は剣術も剣道もまったくやったことがありませんでした。
それでいて、多くの剣士や武道家から、武術の真髄を記したものとして「宮本武蔵」は評価されたわけですから、面白いものです。

さて、かつて、当館の館報『草思堂だより』に島田正吾さんからご寄稿いただいた文章に、こんなエピソードが紹介されていました(第3巻第3号所収「『宮本武蔵』--舞台こぼれ話」)。

「宮本武蔵」を大阪の歌舞伎座で公演中、その歌舞伎座の屋上スケートリンクで、どういう企画だったのか、剣術の試技が開かれて、巻藁の据え物斬りが行われていた。
剣術を学んでいる剣士たちが真剣で斬り込むけれど、なかなか巻き藁は斬れない。
すると、舞台の休憩時間中で、それを見ていた辰巳柳太郎は、突然「俺ひとつ試してみよう」と言って、主催者の了解を得て、これに挑戦、見事に巻藁を真っ二つにした。

辰巳・島田の両人も、吉川英治同様、「さぞかし剣道の腕も・・・・」などとよく言われたそうですが、実は、これまた吉川英治同様、2人とも剣を学んだことはなかったのだそうです。
どんなにうまく見えても、殺陣はあくまで殺陣で、剣とは別のものです。

にもかかわらず巻藁を斬れたのは、武蔵を演じているうちに身も心も武蔵になりきっていたからだろう、というわけです。

これこそ、本物の役者魂というものでしょう。

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2007年4月18日 (水)

髪の毛

毎月18日は「頭髪の日」だそうです。

「十(とう)=頭」「八(はち)⇒髪(はつ)」というダジャレなんでしょうね、きっと。

さて、吉川英治は、70歳で亡くなるまで、白髪もなく、黒髪がフサフサしていたそうです。

君はまだ髪が黒いじゃないか、とよく人から怪しまれる年齢になってきた。(略)たぶん人類のつきあいを知らん奴だということなんだろうと思う。小島政二郎、浜本浩など、ひとの顔を見るたび、麻のごとき頭髪を撫して、やたらにひがむので、ぼくは今年あたりはぜひ四、五本でも白くなって欲しいと念じているが、今のところ初霜ほどな白さも見えない。困ったものである。(「折々の記」所収『霜庭春語』より)

と書いたのが還暦の時。
最近では還暦を年寄り扱いすると怒られますが、うらやましい人は、今でも少なくないでしょう。

うらやましいと言えば、人によってはうらやましいを通り越して怒り出しそうな文章も残しています。

吉川英治は散髪が嫌いだったということが前提の、散髪について書いた文章なのですが。

僕と同じ理髪所へ来る江戸川乱歩は毛が少なくてうらやましい。あの髪なら十分間くらいだろうと訊くと、矢張り一時間近くはかかるそうだ。(「草思堂随筆」所収『不用毛髪』より)

江戸川乱歩の顔をご存知なら、爆笑ものでしょう。
それに随筆のタイトル自体がねぇ(苦笑)

ちなみに、続けて、色んな人物の散髪に対する態度を書いていて、それも興味深い随筆です。

三上於菟吉も地質の悪いカヤ原のように少ない組だがこれは自宅へ理髪師を呼んで退屈を娯しむ策をとっているらしい。菊池寛は、十分間と制限しておいて、時間が過ぎると刈りかけでも怒って帰ってしまう。そうかと思うと松竹の大谷竹次郎などは、毎朝理髪所へ寄ってからでなければ出社しない習慣だというから、そうなれば趣味でもあろうし、侍がびんを乱さないのと同じたしなみでもある。

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2007年4月17日 (火)

ぼくらが惚れた時代小説

という本を書店で見つけたので購入しました(山本一力・縄田一男・児玉清 2007年1月31日 朝日新書)。
発行日からすると、今頃気づくな、という部類ですか。

著者に縄田一男さんが含まれているので、吉川英治は間違いなく取り上げられているだろうと思い、購入したわけですが、確かに「宮本武蔵」を中心に取り上げられています。
ひとつの項目にもなっていますし。

しかしながら、そりゃないよ、と言いたくなるのがルビです。
わざわざルビを振って間違えるのは、ちょっと。

文中に吉川英治の作品名として「松のや露八」と「檜山兄弟」の名が挙げられているのですが、これの「露八」に「つゆはち」、「檜山」に「ひやま」とルビが振ってあります。

これは間違いです。
前者は「ろはち」で後者は「ひのきやま」なのです。

後者は吉川英治の創作ですが、前者は実在の人物ですから、注意が必要なところでしょう。

まさか縄田さんがそんな間違いはしないでしょうから、ルビは編集者が振ったのでしょうが、その編集者にとって吉川英治が遠い過去の人になってしまっているんだなぁと、つくづく思います。

ここ以外に気づいたのは「石井鶴三」の名前に対して「かくぞう」とルビを振っているところ。
もちろん、「つるぞう」です。

ま、しかし、こんな重箱の隅をつついている私はつい先日、当館の館報で人名を間違えているのに気づかずに校了して、その方のお嬢さんからお叱りを受けたばかりなのですが。

人の振り見て我が振り直せってやつですね(苦笑)

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2007年4月15日 (日)

根岸競馬場

当館から資料を貸し出している馬の博物館ですが、昨日書いたように「根岸競馬記念公苑」という場所にあります。
ここは江戸時代末期の慶応年間からの歴史を持つ横浜競馬場、通称・根岸競馬場の跡地で、競馬場時代の古いスタンドが残っていることで有名です。

吉川英治は自叙伝「忘れ残りの記」に、こう書いています。

ぼくの生まれた当時の両親は、横浜の根岸に住んでいた。その頃はまだ横浜市ではなく、神奈川県久良岐郡中村根岸という田舎だった。家の前から競馬場の芝生が見えたということである。

そう、根岸競馬場は吉川英治の出生地のすぐそば、吉川英治ゆかりの地なのです。

「忘れ残りの記」には、その他にもこんな一節があります。

ぼくの父は馬は持たなかったが(略)根岸倶楽部にはよく出入りしていたらしい。ぼくも競馬はたびたび見せられ、家庭でも競馬の話に賑わった。まだ横浜競馬も初期だったせいか、一般にも競馬を汚れたものと見るふうはなかった。

後年、菊池寛の勧めもあって馬主となる吉川英治ですが、その萌芽は既にこの頃にあったと言えるでしょう。

これ以外にも、根岸競馬場への明治天皇の行幸の話や、当時のスターだった神崎騎手の話などを、「忘れ残りの記」や様々な随筆に書き残しています。

いい機会なので、会期中に展示を観に行きがてら、周辺のゆかりの地を歩いてみたいと思っています。

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2007年4月14日 (土)

馬の博物館

横浜市にある馬の博物館で、今日から「三国志をいろどる馬たち」という特別展が開催されています。

その中の≪大衆文化における三国志≫というコーナーに吉川「三国志」が取り上げられており、当館から、三国志関連の資料として、吉川「三国志」初版本、原稿、新聞連載時の挿絵原画(矢野橋村画)、人形劇「三国志」人形(川本喜八郎作)を出品しています。

ご興味のある方はお出かけください。

馬の博物館
横浜市中区根岸台1-3 根岸競馬記念公苑
電話 045-662-7581
会期:4月14日~6月3日

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2007年4月13日 (金)

平成19年度吉川賞贈呈式 その2

続いて文化賞。

今年は受賞者が5人と例年よりも多かったので、スピーチも長引いて、贈呈式の終了が15分ほど伸びてしまったくらいでした。

スピーチの順に紹介しますと、まずは雨宮清さん。

この方のなさったことは、地雷除去機の開発ですが、その地雷除去機の姿は、いま日立のテレビCMでも見ることが出来ます(雨宮さんは山梨日立建機の社長です)。

商用で出かけたカンボジアで、地雷の被害を受けた老女と地雷で両親を亡くした少女に出会ったことがきっかけで、地雷除去機の開発に乗り出したそうです。
この老女と少女は、ありていに言ってしまえば物乞いをしていたわけですが、にもかかわらず、「自分を救ってくれ」ということではなくて、「あなたは日本人ですね、この国の人たちを助けてください」という風に言われたことが、心に残ったのだそうです。

菊本照子さんはアフリカのケニアのスラム街でストリートチルドレンの自立支援を四半世紀にわたって行っておられます。

アフリカの現状は、確かに悲惨なものだけれど、可哀想だから援助するという姿勢では何も変らない、日本にあってアフリカにないのはチャンスであって、人々はちゃんと能力を持っている、少し背中を押せば自立できるのだ、ということを話されました。
だからでしょう、この25年で、現地に人材が育ってくれたことが一番嬉しいということでした。

桜井政太郎さんは、自身が小学生の時に失明した視覚障害者ですが、視覚障害者の知識向上のために≪手でみる博物館≫を作られました。

人間は多くの情報を目から得ているわけですが、その視覚を失ったものは聴覚と触覚から知識を得るしかない、特に≪触察≫ということが重要で、それを通して本当の認識につながる、『百聞は一触に如かず』が私のモットーである、と述べられました。

実は、昨日、ご夫婦で当館にご来館くださいました。
文学館は、なかなか触って確かめるというような類の資料が無い所ですので、母屋にお上がりいただいて、建物そのものや、吉川英治が使っていたテーブルなどに触れていただきました。

なかなか、こうした場合でもなければ、そんな対応は出来ないのですが。

左野勝司さんは、石造文化財の修復・保存の第一人者で、今まさに行われている高松塚古墳の石室解体にも携わっておられます。

スピーチも、「文化庁からはよそで余計なことを言うなと言われてるんですが」と断りながら、石室解体の現状などに触れ、こうした大きな賞をいただいたからには、何が何でもこの国民の宝を守りぬくぞ、という気概でやっていきますと話されました。

最後の堀田健一さんは、既存の自転車メーカーが採算に合わないと尻込みした障害者用自転車の製作を30年にわたり続けておられます。

スピーチでは、最近協力関係にある筑波大学からの手紙で、筑波大学で実際に障害者用自転車を試作してみて堀田さんの工夫がよく分かった、必要としている人がいるのに、儲けにならないからと手をこまねいている風潮を乗り越えるきっかけに今度の受賞がなることを願っているということが書かれていたのが、とても嬉しかったという話をされました。

なんだか小学生の読書感想文みたいな文章ですが、ご勘弁を。

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2007年4月12日 (木)

平成19年度吉川賞贈呈式 その1

昨日は吉川英治賞の贈呈式でした(毎年4月11日と決まっています)。

受賞者は先日お伝えした通り

野間佐和子理事長の挨拶と各賞の贈呈の後、選考委員の代表による選評、受賞者の挨拶という流れは例年通りでした。

さて、今年の吉川英治文学賞受賞者は宮部みゆきさん。

昨年、吉川賞40周年のイベントにご出演いただいた時、時間を超過してお話しになった事が記憶にあり、スピーチも長いかな?と思いましたが、それほどのことはありませんでした(って失礼な)。

スピーチの内容自体とはあまり関係ありませんが、文学の世界を河にたとえられたのが、ちょっと印象に残りました。
というのも、吉川英治も文学を河にたとえたことがあったからです。

もっとも、その意味するところは異なっていて、宮部さんは、多くの文学者が作ってきた文学の歴史を河にたとえられたのだと思いますが、吉川英治が言わんとしたのは、純文学は源流の流れを生み出す大元の水であり、大衆文学はそれを取水して、人それぞれに届ける水道の水であって、一つの同じ河の流れなのだということだったのですが。

なお、昨年のイベントの好評を得て、今年から、その年の文学賞(または文学新人賞)受賞者に、吉川英治記念館の吉川邸母屋でお話をしていただくのを定例化することになりました。
今年は宮部さんに内諾をいただいておりますので、宮部さんを囲む会を開催することが予定されておりますが、まさか、昨年に引き続いて、ということになるとは思いませんでした。

昨年ご応募いただきながら定員オーバーで抽選にはずれた方、そういうことですので、正式告知を楽しみにしておいてください。

一方、文学新人賞は佐藤多佳子さん。

受賞作の「一瞬の風になれ」は高校生の陸上競技を描いたものですが、スピーチによると、本人はスポーツ観戦が好きで、執筆を放り出してまでそれに熱中してしまうほどだそうですが、競技経験はないのだそうです。
したがって、作品は4年間、ある高校陸上部を取材して書かれたものだそうです。

要項に掲載された選考委員の選評を見ると、登場人物の苦悩などが描かれないことへの引っ掛かりを述べておられる方もいらっしゃいます。
ただ、代表して会場で選評を述べた高橋克彦さんは、そこをむしろ評価なさっているようで、それを聞きながら佐藤さんが時々微笑んでおられたので、それこそが佐藤さんの意図だったのでしょう。
スピーチでも、そのようなことを述べておられました。

それにしても、昨年の今野敏さんも新人というには執筆暦の長い方でしたが、佐藤さんも1989年デビューと紹介されていますから、20年近い執筆暦があります。
なにより、宮部みゆきさんとは2歳しか違わないんですね。

女性の年齢に触れるのは失礼かもしれませんが、吉川文学賞と文学新人賞の受賞者の年齢がこんなに近いのは、ちょっと不思議な感じがしました。

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2007年4月11日 (水)

ヤマブキソウ

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ヤマブキソウです。
これも8日に撮影しました。

ヤマブキに似た花なのでヤマブキソウということのようですが、草思堂庭園にはそのヤマブキもあります。
そちらの写真はいずれ改めて。

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2007年4月10日 (火)

シロバナエンレイソウ

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シロバナエンレイソウ(白花延齢草)が咲いています(撮影は8日)。

漢字を見ると、随分縁起の良さそうな名前ですね。
こちらによると、薬用になるということでこの名があるようですが、有毒植物でもあるとかで、なかなかややこしいですね。

庭内の目立ちにくい所にありますが、名札を立ててあるので、探してみてください。

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2007年4月 8日 (日)

ヒトリシズカ

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ヒトリシズカです。

昨年はフタリシズカを紹介しましたが、今年はこちらを。

名前は似ているがまったく異なる花、と思っていましたが、どちらも同じセンリョウ科なんですね。
言われて見ると、四方向に葉が出ているところなんかは似ている気もしますが、ちょっと意外でした。

もちろん、静御前にちなんだ名前で、当館にはふさわしい花と言えるでしょう。

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2007年4月 7日 (土)

作家と読者 その3

似たような逸話を持つ書簡を、吉川英治記念館ではもう1点所蔵しています。

昭和15年7月28日付、上田庄三郎宛の吉川英治書簡です。

宛名の上田庄三郎という人物からの「息子が作家になりたいと言っているので、一度会って相談にのってもらえないだろうか」という手紙(これは現存しません)に対する返書で、「お目にかかるくらいならばいつでもどうぞ」というようなことが書かれています。

上田庄三郎とは、多くの著書もある教育評論家です。
広い意味で言えば同じ文筆を業とする者ですが、吉川英治とは面識がありませんでした。
面識のない作家にそういう依頼をするとは、なかなか大胆です。

その願いを聞き入れた吉川英治の方は、やはり子供の将来にかかわることなので、粗略には出来なかったのでしょう。

さて、その作家志望の息子の名は上田建二郎。

実は元日本共産党委員長の不破哲三氏なのです。

あるきっかけで、この書簡は不破氏から当館にご寄贈いただいたのですが、その際に当館館報の『草思堂だより』にこの書簡にまつわる思い出をお書きいただきました(「五四年目の手紙」第4巻1号掲載)。

それによると、当時小学生の建二郎少年は、夏休みに父親に連れられて吉川邸を訪問します。
建二郎少年が持参した自作小説の原稿に目を通した後、「二〇歳になって、まだ書く気があったらもう一度お出でなさい」と、吉川英治は言ったそうです。

建二郎少年は、作家にはならず、不破哲三という名の政治家になったわけですから、的確なアドバイスだったと言えるでしょう。

それにしても、地方の文学少女にアドバイスの手紙を送り、親馬鹿(失礼)な父親の依頼を受けて作家志望の息子と面会するとは、まったく律儀な話です。

もちろん全ての依頼に応じたわけではないのでしょう。
何か感じるものがある場合に限られることだと思いますが、それにしても。
多忙な執筆の合い間に、よくそんなことに気がまわったものだと思います。
いくらでも断ることは出来たでしょうに。

こういうところが、吉川英治の人間性なのでしょう。

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2007年4月 6日 (金)

作家と読者 その2

では、吉川英治が読者からの質問にどのように答えているか見てみましょう。

2通の書簡のうち、最初の昭和3年4月16日付のものでは「御志望の文学上の事ニ就てはわづかな紙片では到底御答へいたしきれません」という、ある意味ありきたりな返事をしています。
しかす、すぐに重ねての手紙が来たのでしょう。
わずか6日後の22日付書簡では、その送られてきた手紙の質問項目に吉川英治が赤字でナンバーを振り、それぞれについて箇条書きにして個別に回答しています。

その質問と答えを列挙してみます。

(1)小説だけ上手に出来ても、何等の学識も作家としての経路を踏んでゐなかったら、いけないのでございましようか

(1)の御問合せのやうなことはよく聞かれますがさういふ形歴的なことは文壇にはまつたく大した階梯とはならないもので それは憂惧するに足りないことです。と言つて、それが故ニ学識は要らないといふ意味では阿りません 形式的な学校歴は有るもないも同格だといふ意味で阿ります

(2)それから、小説家は、歴史はもちろん、地理学や、種々のそれに必要な土地(国々)の様々を、よく知ってゐなければなりませんで〔し〕よう。

(2)は無論それに通達してゐなければなりますまい。けれど 地 歴 のみならず すべての常識に於さうです。又、一口に文学と言ひ小説と言つても自ら部門が有ること故 それにも依ります。 又それを専門的ニ研究するとなれば 歴史中の一問題すら一生涯を賭してもなほ困難な事実はいくらも阿りますので この辺は程度とその作家のうん蓄如何に依る問題で一概にはここに御明答いたしきれません。

(3)作家とし、旅行が一番必要のやうにある方に、承つた事がございますが、それはほんとうだと思ひますけど、必ずさう致さないともよろしいのでございますか

(3)旅行といふ一つのことが作家の必要にはちがひ阿りませんが より以上 作家として知らなければならなひことは人と人生で阿ります 人とはどういふものか人生とはどういふものか それを知らないで単なる陶酔的な旅の嘆美は無意味ではないかと思はれます 尤も旅をすれば自然そこにある世態とか人間とか人生とかを 深く観るやうになるのは当然ですけれども その前により以上な予備智識を以て さらに御修養にも這入るべきだと考へられます

(4)それから、時代物作家として、種々先生の御作を拝見致して居りますがあれは事実あった事でなくてもよろしいのでございますか。

例へば、ある物を中心として、何か小説を書くと致します、そして其の中の主人物に、其の時代の有名なある人物を、勝手に関係させる、結びつける等、自分の想像の侭に引き入れてよろしいのでしょうか。

(4)時代小説にも現代小説にも実在の史実をとることも阿り まつたく仮想人物を出すことも阿り またその中性な場合も阿ります 要は 時代小説といへど現代小説にせよ 又恋物小説にしろ 心は一つで その姿を違えるばかりです 手法と表現の差が阿るだけです。
又 その時代の著名人物が空想的な作品ニ現はれる場合も それは決して 時代事件その者の性格 すべてを無視していい加減ニ織り交ざつてゐるのではありません そこに必然的な史実根拠が阿つて空想と歴史との境のない程度までの当然性がなければならないのです この辺の事は頗るデリケートな構想の話にならなければ容易ニ御納得のゆくようには簡単ニ書記切れませんが 決して 自己の勝手な想像で実在の人間をどう動かしてもいいと言えないことだけを申上げて置きます

現在の目で第三者的に見れば、質問にはやや幼稚さを感じますが、しかし、当時の、高等教育を受けていない庶民の立場からすれば、おかしなところはないのでしょう。

対する吉川英治の答えには、簡潔ながら、その文学観が窺えます。

このやり取りのあった昭和3年4月というと、月刊誌連載が「神州天馬侠」「万花地獄」「龍虎八天狗」「女来也」「続鳴門秘帖」の5本、加えて新聞連載(「江戸三国志」)が1本という状況。
そんな中で、こうした書簡を書いた、その律儀さというか、誠実さに感心します。

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2007年4月 5日 (木)

作家と読者

先月、九州にお住まいの方から、吉川英治の書簡をご寄贈いただきました。
ありがとうございました。

ご寄贈いただいたのは、ご寄贈者のお母さま宛に出された吉川英治の書簡2点と、年賀状1点です。

詳しい内容は明日以降に紹介しようと思いますが、概要は以下のようなものです。

ご寄贈者のお母さまは若き日、病院で働きながら、作家になることを夢みる文学少女でした。
ご寄贈いただいた中の書簡2点は、ご寄贈者のお母さまが、作家になるにはどうしたらよいか、という相談の手紙を吉川英治に送ったことに対する返信となっています。

その日付は昭和3年4月16日と同4月22日。

吉川英治の書簡としては、かなり古いものの部類に入ります。
その点がまず貴重です。

内容的にも面白い点があります。

それは、2通目の書簡に、元々の相談の手紙も同封されており、やりとりの中身が部分的ではあるものの、分かるようになっていることです。

作家の元には同じような相談の手紙は山ほど届くものだと思います。
マメな人なら返事を書くでしょうが、無視する場合も少なくないでしょう。
そして、そうした手紙をいちいちきちんと保存しておくことは、まずないと思います。
事実、吉川家にもそうした種類の読者からの手紙は残されていませんでした。

ところが、この書簡の場合は、ある理由から元々の送られてきた手紙を同封して送り返しているため、それが今まで残ったという点で珍しいものになっています。

それにしても、作家を志す若い女性が、なぜ吉川英治なのか、という気がします。
しかも、昭和3年なら、「鳴門秘帖」などの作品で人気作家となっていたとは言え、まだ作家デビューから5年ほどの新人作家です。

その点は、ご寄贈者の方に問い合わせてみましたが、確たることはわかりませんでした。

ただ思うのは、学歴もなく、様々な職を転々とした挙句に作家となったという吉川英治の経歴に、やはり学歴もなく、働きながら作家を夢見ていたご寄贈者のお母さまが共感と希望を持たれたのではないかということです。

吉川英治に寄せる読者の思いの一端がうかがえる書簡だと思います。

なお、ちょうど月も4月なので、早速、展示に使用させていただいています。
ご興味のある方はお運びください。

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2007年4月 4日 (水)

茶杓

茶道裏千家の雑誌『淡交』の4月号が送られてきました。

先日受けた取材の結果が「近代の茶杓 吉川英治」(池田瓢阿)という記事になって掲載されています。
興味のある方はご一読を。

さて、月が変わったので展示替えをしたのですが、そこに掲載されている吉川英治自作の茶杓「銘 重陽」を、せっかくなので展示に出しました。
こちらも、興味のある方はぜひお運びください。

もっとも、4月に「重陽」では季節が合いませんが。

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2007年4月 3日 (火)

生原稿の閲覧

先日の全国文学館協議会の共同討議に話を戻します。

この共同討議は、昨年、仙台文学館で行われた資料情報部会を踏まえたものです。

その部会の発表で驚いたのは、生原稿そのものを閲覧に供している館があると知ったことです。
もちろん、無制限ではなく、一定の条件の下でのことですが、仙台文学館や神奈川近代文学館などがそうしたことを行っているそうです。

確かに、文学研究において、生原稿を見ることの意味は大きいものがあります。

文章表現の推敲の過程、出版時に見逃された誤字脱字、戦前の日本でしばしば見られた検閲による削除部分に書かれた内容、そういったものを確認するには、元の原稿を見るのが一番です。

とは言え、原稿を直接閲覧に供するのは、保存上は問題があるでしょう。

文学の研究上は、そこに書かれた内容が確認できればいいのであって、複製や写真版で事が足りるはずです。
あるいは、文学館が研究紀要や年報・館報の形で発表していけば良いことです。

実際に原稿に触れてみたい、触れて作家の息遣いを感じたい、などという要望は情緒的なものに過ぎません。
原稿の保存ということと比較衡量すれば、それは無視されるべきことであり、また、そうした情緒的欲求を満たすために展示があるとも言えます。

ただ、きちんとした複製を作るには費用がかかりますし、そうした原稿を素材にした研究を発表していくのは時間がかかります。

私は、色々と手続きを踏んで原稿そのものを閲覧に供するくらいなら、面倒でもその都度デジタルカメラで撮影してプリントアウトした「簡易複製」を作成した方がいいのではないかと思うのですが、どうでしょう。
ちゃんとした複製を作製するよりも安く、早く、しかも、資料の劣化を防げますし、閲覧に対する館の負担(資料への危害などの監視、資料の出し入れなど)を軽減することができて、メリットが大きいと思うのですが。

本当は、それをさらにネット上に公開してしまえば、研究者はそれを見ればいいので、双方手間が省けます。

その場合、画像の無断使用が行われることは、ある程度覚悟して、諦めなければいけないでしょうが。

ちなみに、当館では原稿の閲覧は行っていませんし、その予定もありません。
研究上どうしても必要だという場合には、上で提案したデジカメ方式をとることになるでしょう。

いずれにせよ、生原稿を館外の方が直接触れるような形をとることはないでしょう。

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2007年4月 1日 (日)

母と宗教

以前書いた「母を詠む」という文章にコメントがつきました。
せっかくなので、その回答をここに書きます。

大正10年、吉川英治は、職を求めて山崎帝国堂の面接を受けます。

その時、面接官から「君には何か宗教はあるか」と聞かれた英治は、「自分には宗教はない」と答えます。
すると、「当社では宗教のないような人物は採用していません」と言われてしまいます。
そこで仕方なく立ち去りかけた英治ですが、いささか釈然としないものがあったので、最後に言い添えました。

それが、ご質問の言葉。

僕の胸にはいつも死んだお母さんが住んでいる。でお母さんさえあれば、僕は決して悪いことはできない。決して怠けられない。決して人をあざむけない。

「そんなことじゃいけないでしょうか」と問い直したところ、面接官はしばし考え、追って連絡しますと言い、後日採用の通知が来た。

そういう話の一部なんですね、この言葉は。

で、出典をお尋ねですが、これはいくつかあります。

○「吉川英治対話集」(昭和42年5月25日 講談社)所収 『文学への道』

吉屋信子との対談で、初出は『婦人公論』昭和27年5月号。初出時のタイトルは『文学と人生』でした。
『母の思い出』という小見出しの部分に出てきます。

○「吉川英治対話集」(昭和42年5月25日 講談社)所収 『私の好きな女性』

石坂洋次郎との対談で、初出は『婦人倶楽部』昭和30年6月号。
『母こそ私の宗教』という小見出しの部分に出てきます。
同じ本に同じ話が、2ヶ所で出てきているわけです。

○「書斎雑感(講演集)」(昭和52年8月1日 講談社)所収『親鸞聖人について』

これは「吉川英治文庫」の161巻。
タイトルからわかるように、元は昭和36年5月10日に行った大阪真宗青年会連盟での講演です。
初出は、毎日新聞の昭和37年10月1日号から9回に分けて連載されています。
なお、上の吉川英治の言葉の引用部分は、この本での表現を用いています。

○「われ以外みなわが師 私の人生観」(平成9年4月21日 学陽書房)所収『就職と母』

この本は、昭和47年に大和書房から出た単行本を文庫化したもので、その間にいくつかの版があります。
内容は、吉川英治の様々な文章を集めたもので、実は、この部分も上の「吉川英治対話集」の吉屋信子との対談から抜き出したものです。
目次で言うと、第一章『わが青春の時』の中の『追想』という部分に収録されています。

いずれも、絶版で書店での入手は困難でしょうから、図書館でお探しください。

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