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2007年4月 3日 (火)

生原稿の閲覧

先日の全国文学館協議会の共同討議に話を戻します。

この共同討議は、昨年、仙台文学館で行われた資料情報部会を踏まえたものです。

その部会の発表で驚いたのは、生原稿そのものを閲覧に供している館があると知ったことです。
もちろん、無制限ではなく、一定の条件の下でのことですが、仙台文学館や神奈川近代文学館などがそうしたことを行っているそうです。

確かに、文学研究において、生原稿を見ることの意味は大きいものがあります。

文章表現の推敲の過程、出版時に見逃された誤字脱字、戦前の日本でしばしば見られた検閲による削除部分に書かれた内容、そういったものを確認するには、元の原稿を見るのが一番です。

とは言え、原稿を直接閲覧に供するのは、保存上は問題があるでしょう。

文学の研究上は、そこに書かれた内容が確認できればいいのであって、複製や写真版で事が足りるはずです。
あるいは、文学館が研究紀要や年報・館報の形で発表していけば良いことです。

実際に原稿に触れてみたい、触れて作家の息遣いを感じたい、などという要望は情緒的なものに過ぎません。
原稿の保存ということと比較衡量すれば、それは無視されるべきことであり、また、そうした情緒的欲求を満たすために展示があるとも言えます。

ただ、きちんとした複製を作るには費用がかかりますし、そうした原稿を素材にした研究を発表していくのは時間がかかります。

私は、色々と手続きを踏んで原稿そのものを閲覧に供するくらいなら、面倒でもその都度デジタルカメラで撮影してプリントアウトした「簡易複製」を作成した方がいいのではないかと思うのですが、どうでしょう。
ちゃんとした複製を作製するよりも安く、早く、しかも、資料の劣化を防げますし、閲覧に対する館の負担(資料への危害などの監視、資料の出し入れなど)を軽減することができて、メリットが大きいと思うのですが。

本当は、それをさらにネット上に公開してしまえば、研究者はそれを見ればいいので、双方手間が省けます。

その場合、画像の無断使用が行われることは、ある程度覚悟して、諦めなければいけないでしょうが。

ちなみに、当館では原稿の閲覧は行っていませんし、その予定もありません。
研究上どうしても必要だという場合には、上で提案したデジカメ方式をとることになるでしょう。

いずれにせよ、生原稿を館外の方が直接触れるような形をとることはないでしょう。

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