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2007年5月31日 (木)

続・横浜散歩-その2

ここで一旦、せっかく登って来た坂を下ります。
向うのは千歳町。

ぼくは七ツ。やがて千歳町の“横浜市私立山内尋常高等小学校”という長い校名の懸かっている小学校へ通学し出した。
戦後の横浜は、全く旧容を失ったが、その頃、植木会社の裏門から千歳町へ通うには、文字通り山坂越えての半里はあった、植木会社の園内だけでも、幾ヶ所となく上り下りの屈折があり、そこの表門を出て、桜並木と呼ぶ山手通りへ出、遊行坂を降って車橋を渡る。そして町中の水天宮さまと隣りあっている私立小学校のペンキ塗りの校門をやっと見るわけだった。

吉川英治が自叙伝「忘れ残りの記」の中に書くこの描写の逆をやろうというわけです。

Img_9121
“横浜市私立山内尋常高等小学校”は教師である山内茂三郎によって明治19年に設立された学校。
山内は夫婦で教師を務め、後に小学校から女子商業学校へと発展させました。
これは現在、蓮光寺の近くにある横浜学院の前身となります。

ちなみに、吉川家の墓を保存した蓮光寺の本多興学氏は、山内尋常高等小学校での吉川英治の同級生だそうです。

千歳町にあった学校は関東大震災で焼失し、後に現在の横浜学院の地(山手町203番地)に移転しています。
目印となるべき水天宮も現存しません。
しかし、現在の千歳町1丁目1・2番あたりが小学校のあった場所であろうと推定されています。
上の写真の右半分を占めている診療所や医院が入っているビルからその裏の駐車場のあたりになるのでしょうか。

Img_9125
車橋は、現在もその名の橋がありますが、これは昭和64年にかけ直されたもので、往時の面影は全くありません。

現在横浜市の中区と南区の境界になっているのが遊行坂です。

あとで詳しく見ますが、吉川家は英治の幼時に、この近辺のごく狭い範囲で引越しを繰り返しています。

家はまた引っ越した。山手通りの俗に桜並木とよばれる植木会社の表門通りから、遊行坂の降りへかかる坂の降り口で、座敷にいても庭越しに、横浜市街が一望に見えた。
また、坂を降りかけて左側の、ちょうど、ぼくが幼時の家のあった辺は、今そっくり小学校の校庭になっていた。

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ふたつの引用文は、いずれも「忘れ残りの記」の記述ですが、この小学校とは遊行坂の途中にある横浜市立石川小学校のことでしょう。
引用文のうち後者は昭和30年にこの地を歩いた際の英治の感想ですが、石川小学校は昭和3年から現在地にあるそうです。
下の写真は、遊行坂を上から見下ろしたもの。
木立もあって坂道からはよく見えませんが、写真左手の下方に石川小学校があります。
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2007年5月30日 (水)

続・横浜散歩-その1

昨日、横浜市にある馬の博物館で開催されている特別展「三国志をいろどる馬たち」を見学しがてら、その周辺を歩いてきました。
というのも、馬の博物館のある根岸台の一帯は幼少期の吉川英治にゆかりの場所だからです。
前回同様「吉川英治と明治の横浜」を主に参考にしながら歩きます。

今回の文学散歩のスタートはJR根岸線の石川町駅。
駅のすぐ西側に急な坂があります。
地蔵坂です。
Renkoji_1

この地蔵坂を3分の2ほど登った所に、蓮光寺というお寺があります。
吉川英治の没後、多摩墓地に新たに墓所を設けた際に、そちらに吉川家の墓所を合葬してまとめるまでは、この蓮光寺の墓地に吉川家の墓所がありました。
Renkoji_2

その際に不要となり解体された吉川家の墓石は、当時の住職であった本多興学氏が蓮光寺の境内に移して保存なさいました。
現在も寺の門を入ってすぐの左側にあります。
これです。
墓石には

明治廿四年三月四日
釋妙令信女
釋稚善童女
明治廿四年十月十一日

という文字が読めます(尾崎秀樹は「伝記吉川英治」で釋稚善童女の方の日付を「明治二十四年十月二十一日」としていますが、私には上記のように見えました)。
釋妙令信女は吉川英治の祖母・そめ、釋稚善童女は幼時に死んだ英治の姉・くにの、それぞれ戒名です。

この蓮光寺の墓地は蓮光寺そのものからは少し離れた所にあります。
今回は直接そこに向わなかったのですが、直接向えばおそらく徒歩で20分くらいの距離でしょう。
Jizozaka

昭和12年、結婚直後の吉川英治・文子夫妻が地蔵坂を登りきった場所(地蔵坂上)を歩いている姿を撮った写真が残っています。
おそらく蓮光寺を訪ね、その墓地に向う途中で写したものなのでしょう。
道路の合流点に数段の石段が見えます。
当時と同じものかどうかわかりませんが、いまも同じ場所に石段があります。
Jizozaka_2

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2007年5月29日 (火)

青森(2)

「紅騎兵」は幕末維新に材をとった作品で、その展開にしたがって、関西から東北まで戊辰戦争に関わる土地を転々と移動していきますが、物語の開幕と終幕が八戸なので、青森ゆかりの作品とします。

江戸の旗本・溝口造酒雄は、養子となり八戸藩の藩主となった。
南部藩の支藩である八戸藩は、勤王派の南部藩に反して佐幕を唱えたため、南部本藩から差し向けられた勢力によって佐幕派は閉門、藩主の造酒雄は謹慎の身となる。
しかし、幕府御用の研師・七之助とその妹・お咲の手引きにより八戸城下を脱出、江戸へ出た彼らは幕府の警備隊の一翼・小南部隊となる。
造酒雄には幼時からの許婚で、いずれ八戸へ迎え入れる約束を交わした相手の由利操がいた。
その操は弟・由利楠太郎が勤王派となったことを苦にした父の自害によって、江戸を離れ土佐藩の親類の元へ預けられていたが、造酒雄が八戸を出て幕軍の中にいると知り、土佐を出奔、その姿を追う。
恋の一念に動かされるのみの操だが、佐幕派の造酒雄を追うが故に勤王派から敵視され、たびたび苦境に陥るところを、勤王派の中にあって彼女に同情的な香川譲の尽力によって、難を逃れる。
一方の造酒雄は操を思いながらも、幕軍の敗走と共に落ちのびる日々。
二人がついに出会うのは、皮肉にも、官軍に包囲され落城寸前の八戸城内であった。
だが、信念を持って佐幕に立ったわけではない造酒雄は、命を惜しみ、彼を恋慕するお咲と共に城を抜け出し逃亡してしまう。
裏切られ、八戸城に取り残された操を救出に来たのは、香川であった。
しかし、その行為は、かつて操への邪恋を香川に阻まれた官軍の久保田数馬に復讐の口実を与えるものだった。
避けられぬ死を前に操に恋を告白する香川とそれを受け入れる操。
真実の恋を確かめ合った二人は莞爾として死に向かうのであった。

初出は『読売新聞』昭和7年6月11日~8年1月18日に連載。
長編なので、あらすじも長くなってしまいました。

平成になってからは単行本化されておらず、一番新しいものが「吉川英治全集補巻1 井伊大老・紅騎兵」(昭和59年 講談社)になります。

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2007年5月27日 (日)

青森(1)

青森県を舞台にした作品には、「紅騎兵」と「鬼」の2作品があります。

執筆順とは逆になりますが、短編ですぐに読める「鬼」からご紹介。

「鬼」の主な舞台は五所川原。

津軽藩の足軽頭・棟方与右衛門は、同僚を殺害したうえ藩金を持って逐電した福原主水を討つよう君命を受けながら、主水の話にほだされて、その逃亡を見逃してしまう。
幸い閉門五十日という軽い沙汰で済んだものの、それ以後、周囲からは穀つぶしと蔑まれていた。
その屈辱に耐えながら、何か自分に出来るご奉公はないものかと模索していた与右衛門は、長年の藩の困窮を救うため、岩木川の治水開墾事業を藩主に献言し、自らその奉行として五所川原へ赴く。
周囲の反対、自然の暴威、貧苦の上に労役を強いられる百姓たちの抵抗にあいながらも、強い決意で事業を推し進める与右衛門。
事業達成のためには、苛烈な仕打ちも辞さない与右衛門を、民は陰で≪鬼≫と呪った。
しかし、ついに治水事業は成果を挙げ、開墾地の田は青々と育ち、豊かな収穫を予想させるまでになった。
かつて与右衛門を≪鬼≫とののしった百姓たちも、その成果に対し、与右衛門様は救いの神よと感謝し、事業達成の祝宴を開くことにした。
だが与右衛門は、事業の完成を見届けると、民に対する過酷な仕打ちを詫びる遺書を残して、覚悟の切腹を遂げてしまうのであった。

初出は『オール読物』昭和12年1月号。

現在も刊行中の「吉川英治歴史時代文庫76 柳生月影抄 名作短編集二」(講談社)に収録されています。

070704追記

平成に入って刊行されたものとしては、この他に「吉川英治時代小説傑作選 さむらい行儀・無宿人国記」(平成15年3月 学研M文庫)もあります。

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2007年5月26日 (土)

北海道

「吉川英治作品紹介」の第1回は北海道。
ここから始めて南下していきたいと思います。

北海道を舞台にした作品は「函館病院」1作だけです。

時は明治二年。 函館に落ちのびた幕府軍は、西欧列強から≪蝦夷島新政府≫のお墨付きを受け、祝賀ムードの中にあった。
そんな函館へ、江戸は柳橋で芸妓をしていたお銀が、やはり柳橋で箱丁であった清七をともなって上陸する。
彼女は、芸妓時代のなじみでもある蝦夷政府総統・榎本釜次郎(武揚)と面会するや、彼らと共に五稜郭に籠城している恋人の見国鉄太郎を返してくれと迫る。
「もう日本国内で佐幕だ、勤王だと言っている時代ではない。つまらない強がりのために、自分の大事な人を犬死させられない」というお銀の言葉に沈黙する榎本。
その時、寸時の平穏を破って、再び函館に戦火が上る。
戦闘に巻き込まれたお銀は、清七ともはぐれ、成り行きから高松凌雲が営む野戦病院=函館病院に身を置くことになる。
やがて幕兵・官兵の別なく負傷者の治療にあたる凌雲の姿に感化されていくお銀。
榎本が官軍に投降して、ついに戦争は終り、野戦病院も解散となる。
お銀も凌雲らと共に函館を去ることになった。
ついに見国鉄太郎には会えぬまま、横浜へ向かう船に乗り込んだお銀が、その甲板から見たものは、落城迫る五稜郭から脱走した挙句、盗人となって処刑されようとしている見国鉄太郎、その人の姿であった。

初出は『中央公論』昭和7年2月号。
一話読切りの短編です。

一番最近の収録本は、「吉川英治幕末維新小説選集7 飢えたる彰義隊」(2000年 学陽書房刊)です。

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2007年5月25日 (金)

吉川英治作品紹介

思いつきで、新しいカテゴリーを作ることにしました。

「吉川英治作品紹介」というものです。

吉川英治は生涯に200を越える作品を残しています。

吉川英治記念館で発行している「吉川英治小説作品目録」の索引には、281の作品タイトルが掲げられています(戯曲・自叙伝・紀行文を含むが、随筆は含まない)。
ただし、これは連載時と単行本時でタイトルが違うものなどが含まれていますので、同一作品でタイトルが違うものなどを除くと251作品となります(「太閤記」と「続太閤記」を一括の「新書太閤記」として)。

その一方で、例えば、Wikipediaの「吉川英治」の項目に名前の出てくる作品は27作品。
また、「日本近代文学大辞典」(昭和52年 日本近代文学館編 講談社刊)では49作品。
前者では1割強、後者でも約5分の1です。

もっと簡単な紹介なら、出てくるのは「宮本武蔵」「新・平家物語」くらいで、「剣難女難」「鳴門秘帖」「親鸞」「三国志」「新書太閤記」「私本太平記」あたりの名前が出てくれば上出来といったところでしょう。

そこで、そうした有名どころ以外の作品を順次ご紹介していけたらと思うのですが、ただ紹介するのもなんなので、≪ご当地作品≫という枠組みでご紹介していこうと思います。
つまり、都道府県別に、ゆかりのある作品をご紹介する形で進めていってみようと思います。

不定期に、私の作品読み直しのペースに合わせて掲載しますので、どう転ぶかわかりませんが。

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2007年5月24日 (木)

ゴルフ場

今日は、日本で最初のゴルフ場が出来た日(1903年 神戸ゴルフ倶楽部)で、それを記念して「ゴルフ場の日」ということになっているそうです。

ゴルフ場と言えば、吉川英治が理事として設立に関わったゴルフ場があります。

千葉県野田市にある紫カントリークラブです。

オープン当時からある≪すみれコース≫のクラブハウスには、吉川英治が書いた「紫コースの発足を祝して」という文章の原稿が額装されて飾られているそうです。

ここにその文章の一部が、「紫カントリー「紫」の由来」として掲載されています。
どこにも吉川英治が書いたという明記が無いのが気に入りませんが、ご参照下さい。

吉川英治は紫カントリークラブの≪命名者≫ということになっていますが、上の文章を読むと、発案者というわけではないことがわかります。

手元にある紫カントリークラブの会報(19号 1971年)によると、当時の社長と吉川英治が相談して決めたと、その当の社長が発言していますので、社長の側から提示したいくつかの案の中から吉川英治がこれを選んだということなのでしょう。

ちなみに、≪紫≫には二重の意味があって、一つは吉川英治の文章にあるようにかつて武蔵野に広く見られたムラサキグサと、所在地である野田が醤油で有名なこと(醤油は『むらさき』とも呼びます)をかけています。

ところで、上のリンク先で(中略)とされてしまっている部分に、こんな一節があります。

日本のゴルフはまだ若い。オールド・ゴルファーにしてもみなお若い。かつまたその上紫コースに立つならばいよいよ夢多からんとも言えようか。
ともあれ、ゴルフも日本の土の上でこうなって来たからには、真似や追従ばかりでなく、何かにつけぜひ独自なものへとしてお互い作り上げてゆきたいものだ。それも実社会から浮きあがった浮薄な風潮でなしに、清楚で健全な生活のうちのものとして育てたい。

残念ながら、その後の日本におけるゴルフの位置付けは、この吉川英治の願いとは、随分違ったものになってしまっているような気がします。

なお、紫カントリークラブの開場は昭和36年4月16日。
吉川英治がゴルフをすることが出来たのは、この年の夏頃までで、翌年9月7日には世を去りますから、紫カントリークラブでプレー出来たのは、ほんの数回だったようです。

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2007年5月23日 (水)

これは何の実?

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来館者の方が「これは何なのか」と首を傾げて連れの方と相談なさっている場面にしばしば出くわします。

このキウイのようでもあり、緑色のビワにも見えるものは、実はロウバイの実です。

ちなみに、花は↓こんな感じですが、ちょっとイメージと違いますよね。
お教えするとたいてい驚かれます。
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2007年5月22日 (火)

シロバナシラン

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白花のシラン(紫蘭)です。

白いんなら白蘭じゃん、という気もしますが(微笑)

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2007年5月20日 (日)

ローマ字

今日は≪ローマ字の日≫なんだそうです。

財団法人日本のローマ字社が昭和30年に制定したもので、ローマ字国字論を展開した物理学者・田中舘愛橘のの命日にちなんだものだそうですが、なぜか命日の5月21日(昭和27年)ではなく、1日ずらしてあります。

ところで、ローマ字国字論とは、大雑把に言えば主たる日本語の表記方法をローマ字にしようというものです。

これも大雑把に言えば、明治期の日本で、表記の難しい漢字を用いていては日本の近代化は遅れてしまう、簡単な文字に改めることで広く民衆に知識をいきわたらせねばならぬ、という発想から国字改良ということが論じられるわけですが、その中の一勢力がローマ字派で、その流れを汲むのが田中館であり、日本のローマ字社ということになるようです。

ところで、以前、あるムックを読んでいたところ、この国字改良運動を取り上げた章がありました。
国字を改良すると言う時に、その方向性としては、漢字を廃してかな文字を使用する(ひらがな派とカタカナ派がある)、ローマ字を用いる、新しい字(新国字)を創出する、というものがあります。
そのムックでは、それぞれの論者の名を列挙していたのですが、平仮名論者の中に近藤真琴の名を見つけて、ちょっと驚きました。

近藤真琴と吉川英治の関係は以前書きました

その名前が出てきたので驚いたのですが、調べてみると、近藤真琴は、かな文字の普及を目指す≪かなのくわい≫の設立に参加したり、かなで書かれた日本初の近代的国語辞書「ことばのその」や、やはりかな文字で書いた地質学の入門書「ちしつがくうひまなび」を刊行したりしているんですね。

ちなみに、「ちしつがくうひまなび」というのは、漢字を混ぜて書けば「地質学初学び」になるのでしょう。
・・・・・・漢字の方がわかり易い気が(苦笑)

それにしても、近藤真琴というのは多彩な人です。
しかし、その割には、あまり一般に名が知られていない気がします。
私自身、吉川英治がらみで初めて名を知りました。

もっと名を知られていい人物だと思います。

いつか企画展のテーマにしてみようかな。

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2007年5月19日 (土)

霊巌洞

今日は宮本武蔵の命日だそうです。

正保二年五月十九日がその日ですが、もっともこれは旧暦なので、現在の暦(というかグレゴリオ暦)に置き換えると、1645年6月13日に相当するそうです。

だとすると、その年の今日は、死を前にした武蔵が、霊巌洞に参籠していた頃にあたるでしょうか。

宮本武蔵遺蹟顕彰会による宮本武蔵の伝記、いわゆる顕彰会本によると、同年四月十三日(グレゴリオ暦で5月8日)に当時の肥後藩主細川家の家老に書状を送った後、武蔵は熊本郊外の雲巌禅寺の霊巌洞へ籠り、そこで死を迎えようとしていたと言います。
その噂を聞いた家老の長岡寄之が鷹狩りにかこつけて霊巌洞を訪ね、屋敷に帰るように促し、武蔵もそれにしたがって帰宅します。

霊巌洞には、私も数年前に足を運んだことがあります。
武蔵がここで「五輪書」を書いたとか、上記のように死期を悟ってここに籠ったとか、そういう話を知った上で行ってみると、そんな話が嘘のように意外なくらい狭い所でした。
洞窟というより、山の窪みといった感じ。
間口が大きい割りに、奥行きが無く、強い風雨にあえば、すぐに雨が吹き込んできそうな所でした。
実際、私が訪ねたのは九州を台風が直撃した直後の台風一過の晴天の時でしたが、洞内は雨が吹き込んだか、ジメッとした感じでした。

しばし座禅を組むには適していると思いますが、ずっと籠って何かをするのは無理ではないか、そんな気がしました。

本当のところは分かりませんが。

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2007年5月18日 (金)

吉川英明館長から、講演を頼まれているのだが、その材料として滝にまつわる吉川英治の文章を探している、何か心当たりはないか、と問われました。

まず思い浮かんだのは、「宮本武蔵」の中の『男滝女滝』の章。
吉岡一門との一連の死闘を越え、お通と城太郎を伴って江戸へ下ろうとする武蔵が、中仙道・馬籠宿近くの“夫婦の滝”で、お通に挑みかかって拒絶される、という場面です。

もうひとつ浮かんだのは、「新・平家物語」の『那智の小机』の章。
鞍馬を抜け出し、奥州藤原氏に身を寄せ、さらにその地を離れて紀州熊野に身を潜める源義経が、那智の滝と対峙する場面です。

探せばまだあるかもしれませんが、すぐに浮かんだのが、小説としてはこの二つ。

随筆では、後者に出てくる那智の滝を、取材旅行の際に訪ねたことを書いた『新・平家今昔紀行』の中の『湯ノ峰から那智の巻』が思い浮かびましたが、あとは、ちょっと思いつきません。

そんな話を館長にしたところ、「そうだろうなぁ、父は泳げないので、水に近づきたがらなかったから」とのこと。
なんでも子供の頃におぼれたことがあって、それで水を恐がっていたとか。
そんな話をしてくれたそうです。

こういう逸話がさらっと出てくるところが親子ですね。

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2007年5月17日 (木)

梅の実

今年は、梅の花の咲く前の時期が暖かく、咲き始めたら急に寒くなるという変な気候で、梅の実のつきが非常に悪くなっています。
おまけに先日は強風が吹き、一昨日はひょう混じりの強い雨が降り、大量に実が落ちてしまいました。
来月に入ると、農協や、あるいは梅農家が個人で、梅酒・梅干用の青梅を売り出しますが、この分ではあまり良い実が確保できないのではないでしょうか。

ところで、梅の実というと、吉川英治がこんなことを書いています。

梅の実の落ちる音ほど、何か、素気ないものはない。雨ダレの音の方が、まだ曲がある。
梅の実は、いたずら者のマリのように、時々、梅若葉のあいだから、ぽとんと、人の心のうつろを衝く。
村の家にいると、よくそれに耳を疑うのであった。ふと、書斎の障子の外だの、また、夜半の雨戸の外などに。
(「折々の記」所収『梅の生る頃』より)

身近に梅の木がないと、梅の実が落ちる音など聞く機会はないと思いますが、確かにあれは妙に味気ない音で、うっかり屋根に落ちた実が転がっていく時の音は間抜けにすら感じます。
そして、確かに、急に落ちるので虚を衝かれます。

普段、私が館の戸締りをしているのですが、夕暮れて誰もいなくなった館の鍵をかけて、さあ帰ろう、という時に背後で、ポトンと音がすると、ビックリします。

吉川英治も、書斎で執筆をしている時に、そんな音を聞いて、ちょっとドキッとしたのではないでしょうか。

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2007年5月16日 (水)

蘭童徳器対舌図

吉川英治が、昨日触れた福田蘭童を描いた色紙があります。
それが、タイトルの「蘭童徳器対舌図」です。

蘭童はもちろん福田蘭童。
徳器は、安藤徳器という人物のこと。

安藤徳器は1902年、山口県岩国市に生れた、文筆家・歴史研究家。
と言っても、そういう枠には納まらない多様な人物です。
昭和初年代に東京放送局(現NHK)に関わっていて、そのあたりで吉川英治と知り合ったようです。
頻繁に吉川家に出入りし、頼山陽に興味を持つ吉川英治を京都の頼家に紹介したり、英治が「宮本武蔵」の中で佐々木小次郎の郷里とした岩国への取材旅行に同行したりしています。
逆に、安藤徳器の結婚の際には、英治が仲人を務めています。
また、戦前、吉川英治が東京の赤坂表町に住んでいた頃、その隣家に住んでいたこともあります。

さて、ある日、ふらりと吉川邸にやってきた福田蘭童に、書斎で執筆中だった英治が、「もうすぐ終るから、隣の安藤徳器でも呼んで、飲んでいてくれ」と声をかけました。
そこで、蘭童と徳器が酒を飲んでいたところ、酔いがまわって、些細なことで二人は口喧嘩を始めます。
そこへやって来た英治は、これは面白いとばかりに絵筆をとり、松の木に三日月がかかり、徳利を前にして、二人がいがみあっている南画風の絵を描いて、両者に渡しました。

そのうち、安藤徳器に手渡されたものが「蘭童徳器対舌図」で、先年、安藤徳器の係累の方からご寄贈いただきました。
絵に添えて、

月一痕竹一管酒一瓶 蘭童徳器対舌図 英治併題

という賛が入れられています。

なお、昨日触れた、福田蘭童が吉川英治全集月報に書いた文章によると、蘭童に手渡したものには

蘭童一管携徳器一瓶擁談古新論旦愚談図

と賛が入れられているそうです。

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2007年5月15日 (火)

福田蘭童

今日は福田蘭童の誕生日だそうです(1905)。

福田蘭童は、夭折の天才画家・青木繁の息子であり、元クレージーキャッツの石橋エータローの父として知られる尺八奏者・作曲家です。

作曲家としてはラジオドラマ『笛吹童子』や『紅孔雀』が有名ですが、昭和36年12月からラジオ関東(現ラジオ日本)で放送された徳川夢声の朗読『宮本武蔵』(もちろん吉川英治原作)の音楽を担当したのも福田蘭童です。

きっかけは判然としませんが、昭和10年代から吉川英治とは親交があり、よく吉川家に出入りしていました。

こんなエピソードが残っています。

昭和17年のこと。
英治の長男・英明の五月の節句に、それを祝うオカシラがないと英治が蘭童にぼやきました。
前年から生鮮魚介類の配給統制が始まっていたので、よい魚が手に入らなかったようです。
釣り好きで、その方面の著書ももっている蘭童が、じゃあ僕が釣って来ましょうと請け負いました。
蘭童は湯河原にある自宅に戻ると、船を手配して、熱海の沖合いで見事なタイを釣り上げます。
節句の日、それを吉川邸に持参しました。
実に三貫目もある大きなタイで、さばいたところ40人分の刺身が取れたといいます。

これは福田蘭童が吉川英治全集月報に書いた文章を元にしていますが、そこに掲載された写真には、その時のタイの魚拓(あまり大物だったので、記念に魚拓を取った)を背にした蘭童の姿が写っています。

福田蘭童によると、その夜、少し普段より酒が過ぎた英治が、魚拓の余白に

神代今 人に見劣る桜哉

と筆を入れたそうです。
写真でもその文字が確認できます。

戦争は苛烈となり、軍人が桜の花のように散っていったころのことである。

と、蘭童は書いています。

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2007年5月13日 (日)

母の思い出

今日は母の日です。

吉川英治が母親想いであったことは何度も書いていますが、今回は、吉川英治が母親を語る時に定番のエピソードを紹介してみます。

人生で二度、母に叱られた、という話です。

一度は、ある夏の日。

暑くて仕方がない日に、突然激しい夕立が降ってきた。
英治は、暑さしのぎにうってつけだとばかりに、裸になって庭に飛び出し、「行水だ、行水だ!」とはしゃぎ始めた。
すると、それを見た母親が血相を変えて庭へ駆け降りてきて、英治を家に引っ張り上げると、「馬鹿、馬鹿、馬鹿、雨にあたると体に毒だと知らないのか」と言って、もう30になろうかという英治を折檻した。

もう一度は、母親の臨終の席。

死を目前にして、苦しげな荒い呼吸を繰り返す母親に対し、少しでも心安らいでもらおうとしてか、英治はこうささやきます。

おっ母さん、極楽が見えるでしょう、長い間御苦労なさいましたが、仏陀は、きっとおっ母さんを極楽に迎えてくれますよ。

すると母親は、虫の息の下から

よけいなことをお云いでない。

と言い、間もなく息絶えた。

英治は、「こう二つの母の叱言は、今も骨身にこたえている」(随筆『胸に住む母』より)と書いていますが、前者のエピソードは、歳を経ても変わらぬ母親の深い愛を示すものとして、後者は十分に報いることが出来なかった母親への悔恨をともなって、胸に残っていたのでしょう。

英治は、こんな句を残しています。

淋しさは叱ってくれる人がない

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2007年5月12日 (土)

我以外皆吾師?

この写真をよく見て下さい。

1

これは吉川英治記念館のロビーに展示されている肖像画です。
吉川英治の晩年の作品で挿絵を担当した杉本健吉の作品です。
昭和52年3月の当記念館の開館にあわせ、このロビーに展示するために製作された作品です。

吉川英治の背後に軸がかかっていますが、そこには

我以外皆吾師

とあります。

開館を約半年後に控えた昭和51年9月7日に記念館展示室の建物の竣工式と落成披露パーティーが行われます。
その時点でこの肖像画は既にロビーに展示されていました。
ところが、その直後に杉本画伯から、絵を直したいと申し入れがありました。

それは、9月7日の時点では「我以外皆師」となっていたものを、「我以外皆師」に改めたい、というものでした。

申し入れ通りに絵を直したので、現在、「我以外皆吾師」になっているわけですが、正直なところ、私には、何故そこにこだわられたのか、よく分かりません。

というのも、昨日書いたように、吉川英治は「我以外皆我師」とも「吾以外皆吾師」とも書いているのですが、「我以外皆吾師」という風に「我」と「吾」を混ぜたものを、私は見たことがないのです。

私は、もちろんこの時点では記念館に関与していませんでしたし(小学生ですから)、杉本画伯の存命中にも、ついに聞きそびれてしまいました。

ちなみに、この絵には、もう一つ秘密があります。

当初の構想では、吉川英治と文子夫人の並んだ肖像画にするつもりで、実際に絵を描き始めたものの、途中で吉川英治一人の肖像画に構想を改めたのです。

吉川英治の肖像画でありながら、その吉川英治が妙に左に寄っていて、右側に余白があるのは、その名残だということです。

そのあたりを念頭に置いてこの絵を見ていただくと、また印象が変るのではないでしょうか。

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2007年5月11日 (金)

我以外皆我師也

今日は偶然にも同じ内容の問い合わせが重なりました。

「我以外皆我師」という言葉の出典は何か?というものです。

この言葉に関するお問い合わせは頻繁にあるので、上記の問いを含め、よくお尋ねいただくことをまとめてここに書いてみます。

「我以外皆我師」という言葉は、吉川英治の人生哲学を反映した座右の銘であり、吉川英治の造語であると思われると、前に書いたことがあります

吉川英治の造語で、頻繁に揮毫し、口にもしている言葉ですので、通常の意味での“出典”というのはないようなものですが、この言葉が出てくる作品ということであれば、「新書太閤記」が挙げられます。
現在の全11巻の文庫(講談社刊 吉川英治歴史時代文庫)ならば、第10巻に『大坂築城』という章があります。
そこにこのような箇所があります。

秀吉は、卑賤に生れ、逆境に育ち、特に学問する時とか教養に暮らす年時などは持たなかったために、常に、接する者から必ず何か一事を学び取るということを忘れない習性を備えていた。
だから、彼が学んだ人は、ひとり信長ばかりでない。どんな凡下な者でも、つまらなそうな人間からでも、彼は、その者から、自分より勝る何事かを見出して、そしてそれをわがものとして来た。
――我れ以外みな我が師也。
と、しているのだった。

ちなみに、この言葉が「宮本武蔵」に出ているはずだ、という方がいらっしゃいますが、「宮本武蔵」では、多少表現が違います。

「お客」
「はい」
「宮本武蔵と申されたの」
「左様でござります」
「兵法は、誰に学ばれたか」
「師はありませぬ。幼少から父無二斎について十手術を、後には、諸国の先輩をみな師として訪ね、天下の山川もみな師と存じて遍歴しておりまする」
「よいお心がけじゃ。――しかし、おん身は強すぎる、余りに強い」
誉められたと思って、若い武蔵は顔の血に恥じらいをふくんだ。

『水の巻』の『茶漬』という章での、奥蔵院の日観と武蔵の会話の場面です。
このように、「我以外皆我師」というそのままの形では出てきません。

出典と並んでよくお尋ねいただくのが、文字の問題です。

私はここまで

我以外皆我師

と表記してきましたが、「新書太閤記」の引用文にあるように

我以外皆我師也

とする場合もあります。
また、

吾以外皆吾師

とする場合もあります。
もちろん、これの末尾に「也」がつくこともあります。

いずれのパターンも、本人が揮毫して書き残したものに存在します。

吉川英治本人がそうしていますので、お尋ねいただいても、どれでも正しい、としか答えられません。
その理由も見当がつきません。

そこを問われた場合は、「気分次第」とお答えしています(苦笑)

なお、多くの人が「我以外皆師也」と、二つ目の「我」をとばしてご記憶になっているようです。
意味は通りますが、吉川英治の言葉としてご紹介になる時には、二つ目の「我」をお忘れなく。

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2007年5月10日 (木)

揚げ足取り

どうも、このブログで書籍を紹介する時は、揚げ足取りばかりしているような気がするのですが、気になるので、さらに何点か指摘しておきます。

昨日触れた「芸術と戦争」には、≪神州天馬峡≫以外にも、揚げ足を取りたくなる(笑)記述が散見されます。

薙子郎のペンネームで川柳を作った。(152頁)

正しくは「雉子郎」です。
リンク先で書いているように、この柳号は「雉子」でなければ意味を成しません。

しかし、≪峡≫と違って、ワープロで変換間違いするような字ではないように思うのですが。

貧乏もあまりのはてに笑い出し・・・・・・が代表作だった。(152頁)

正しくは「貧しさもあまりの果ては笑い合い」です。

よく似ていますが、似ていれば良いってもんではないでしょう。
17文字という、極めて少ない文字数の中で表現するために、川柳家や俳人は心を研ぎ澄まし、言葉と格闘しているのですから。

あ、しまった!

昨日、2冊の本が揃って≪神州天馬峡≫と間違えていると書きましたが、いま見たら、そうではありませんでした。

こちらの本では≪神州天魔峡≫になっています。

うーむ(苦笑)

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2007年5月 9日 (水)

お揃い

久しぶりに書店に足を運んであれこれ見ている中に、吉川英治を取り上げている本で、未入手のものがあったので購入しました。

1冊は「時代小説に学ぶ人間学 寝食を忘れさせるブックガイド」(鷲田小彌太 彩流社 2007年4月1日)。
もう1冊は「芸術と戦争 従軍作家・画家たちの戦中と戦後」(もりたなるお 産経新聞出版 2007年2月28日)。

前者は本人の時代小説読書歴の紹介や時代小説論を交えながら、お奨めの時代小説を紹介するもの。
触れられている吉川作品はいくつかありますが、あらすじを含めて特に紹介されているのは「鳴門秘帖」。

後者は19人の作家・画家を取り上げ、その戦中・戦後の行動・心理を小説仕立で読み解いているもの。
1人に1章ずつがあてられ、吉川英治は『筆と戦争 小説・吉川英治』というタイトルで登場します。

というわけで、どちらの本にも吉川英治は取り上げられているわけですが、本の性格も違えば取り上げ方も異なります。

それなのに、なぜか同じ間違いが。

「神州天馬峡」じゃないんですけど(苦笑)

「神州天馬」なんですよ。
可能であれば「俠」の方を使っていただくと、なお良いのですが。

まあ、ワープロでは間違い易い字だとは思いますが、全然別の場所で全然別の人が同じ間違いをしたのかと思うと、ちょっとがっかりしてしまいますね。

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2007年5月 8日 (火)

その他の掛け軸

≪秘蔵コレクション展――吉川英治じゃない吉川英治記念館≫として展示している掛け軸は、あと2点。

ひとつは矢野橋村画「春秋山水図双幅」。

矢野橋村は吉川英治の「宮本武蔵(前半)」「三国志」の挿絵を担当した画家で『知道人』の号もあります。

もちろん、吉川英治と交流もあったわけですが、この作品に関してはある方から吉川英治に関する資料とともに一括でご寄贈いただいたもので、吉川英治の旧蔵品ではありません。

もうひとつは吉屋信子の書。

九江領事館の新涼の黄昏われは忘れじ

と書かれています。

昭和13年、吉川英治は、いわゆる≪ペン部隊≫の海軍班として揚子江溯江作戦に従軍します。
同じ海軍班にいた作家は、菊池寛・佐藤春夫・北村小松・浜本浩・小島政二郎、そして吉屋信子でした。

この書は、その従軍の際の書なのです。

これは吉川英治が、やはりこの従軍の際に、吉屋信子について詠んだ

鶏頭にふと頬紅の見あたらず

という句を軸装したものと共に一括購入したものです。

ちなみに、先日ご紹介した「めし」の著者・林芙美子は、この時、同じペン部隊の陸軍班として従軍しています。

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2007年5月 6日 (日)

掛け軸類

再び≪秘蔵コレクション展――吉川英治じゃない吉川英治記念館≫について。

今回は、常設展示室の一部も企画展に使用しています。

普段吉川英治の掛け軸を展示しているショーケースには、吉川英治以外の人の掛け軸を展示しています。

吉川英治の旧蔵品としては新井洞厳・磯野霊山のものを展示しています。

新井洞厳は慶応2年(1866)に現在の群馬県吾妻町で生まれた南画家で、昭和23年(1948)に没しています。
明治25年生まれの吉川英治とは年齢は離れていますが、親交があり、没後に刊行された「洞厳風雅集」という洞厳の絵と漢詩と伝記をまとめた本の序文は吉川英治が書いています。

そこに英治は、

今にして思へば、まことに稀有なそして真の詩画人らしい詩画人であったと思う。或る期間において翁と親しく風交を得たことを、私は今でも世に遇ひ難い人に遇ひ得た貴重な思い出として胸にのこしている。
(略)
その生活、その詩画境、そして東洋的な宇宙観と人生の愉しみ方を、市井の一隅に渾然と、いや黙々と完成し澄まして、音もなく世を去った。ほんとの南画人らしい日本の南画人は翁を最後として、もういまの世間には見当らなくなったと私は思っている。

と書いています。

現在、旧吉川邸母屋にかけられている扁額「草思書屋」の書も新井洞厳によるものです。

現在は「霜柯翡翠図」と「山居深趣図」の2本を出していますが、後半(6月5日~)には別のものに変える予定です。

新井洞厳も、あまりご存知の方はいらっしゃらないと思いますが、一方の磯野霊山はさらに名前の知られていない画家だと思います。
吉川英治も≪霊山≫が何者かもよく知らないまま、何となく作品を蒐集し始めたようです。

しかしながら、その作品に触れて、画境に心惹かれ、後には「霊山子片想」などという随筆も残し、

水墨の自由と玄味をあれほど画精進ににじみ出してみせた芸術家は、近代画家中において、磯野霊山を第一に推してもいい

とまで評価しています。

現在は「ねぎの図」を展示していますが、これも後半には別のものに替えるつもりです。

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2007年5月 5日 (土)

愛宕神社のツツジ

花と言えば、当館のすぐ裏にある愛宕神社のツツジが花盛りです。

以下全て愛宕神社のツツジです。
(5月3日撮影)

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2007年5月 4日 (金)

花一杯

しばらく花の写真を載せていないので、まとめてご紹介。

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キエビネです。一時数が減ってしまいましたが、少し盛り返してきました。






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昨年もご紹介しましたが、クマガイソウです。これも増えてきました。






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ヒメウツギです。葉が茂りすぎて、花が隠れて撮りづらい(苦笑)






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シャガです。




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こちらはヒメシャガ。








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フジです。いま、数年かけて藤棚を整備中ですが、今年は花が見事です。
いずれ来館者の方々が下を通れるようにする予定ですが、順調にいっているようです。

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2007年5月 3日 (木)

これも楽しみ?

晴れた日は晴れを愛し、雨の日は雨を愛す
楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ

吉川英治のものとされるこの言葉の出典を教えて欲しいというお問い合わせがありました。

吉川英治が愛好した画家に田能村竹田がいます。
その竹田の書簡とされるものの中にある一節に目を留めた英治が、それをヒントにして生み出した言葉が

楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ

です。
「楽」を「愉」で書いた色紙も残っています。

お問い合わせが2行目だけなら、こちらの回答も、「『も』が一文字抜けていますね」でおしまいですが、1行目も含めてとなると、ちょっと調べる必要があります。

で、調べてみましたが、この言葉そのままのものは、結局、見つかりませんでした。
その代わりに見つかったのが、これ。

随時随処に、働き、学び、また遊ぶ。それが何時であってもよろしい、それが何処であってもよろしい、とも角、「居る処を楽しむ」というのが、私の主義であり、願いである。
他の人がみて、何んだつまらないとつぶやくような処へ行っても、そこに何かしら面白味を発見する。山でも、海でも、都会でも、田舎でも、神社でも、旧蹟でも、大料亭でも、木賃宿でも、そこに必ず興味の対象となるものを見出だす。雨降らば雨もよし、風吹かば風もよし、それに適従し、それを楽しむ自分を常に作り上げる。
大いに働いた後には、大いに遊ぼうという気分になり、また大いに遊ぶのがいつも私であるが、この随時随処に適従するという、これが、また人をして労(つか)れしめない一つの方法になるのかも知れない。

随筆集「草思堂随筆」所収の『青年・馬上に棲む』という随筆の中の一節です。

ニュアンスは同じですが、表現は同じではありません。

お問い合わせいただいてから、多分ネット経由の知識なのだろうと思い、検索してみたところ、ネット上の名言紹介サイト・ブログにこの形で広く流布していることがわかりました。

以前にも、似たような例があり、調査してみたところ、出典が怪しいという結果になったのですが、今回もそうなのでしょう。

今回、この言葉を紹介しているブログの中に、「むかし家にあったカレンダーで見た」と書いている方がいらっしゃいました。
それが事実なら、その際にカレンダーに載せやすいような形に言葉をアレンジしたのではないでしょうか。

確証はありませんが。

それにしても、名言紹介サイト・ブログの運営者の方々は、出典が気にならないのでしょうか?
もしかしたら、そんなこと言っていないかもしれないのに。
言葉は正しくても、場合によっては、文脈で意味が違っているかもしれないのに。

言葉そのものが良い言葉なら、別に出典なんかどうでもいいというのなら、著名人の名前で権威付けしないで、「オレ名言集」でいいんじゃないの?と思ってしまいますが。

(121024追記)
上記の随筆『青年・馬上に棲む』が「草思堂随筆」の中にないとのご指摘をいただきました。
ご指摘を受けて確認したところ、収録図書のタイトルの書き方がいささか曖昧でしたので、その点について以下に説明しておきます。

『青年・馬上に棲む』は、昭和13年刊行の「窓辺雑草」という随筆集に初収録されたものです。

吉川英治没後、昭和40年代に講談社から「吉川英治全集」全56巻が刊行されますが、その第47巻に「草思堂随筆・窓辺雑草・折々の記その他」として随筆がまとめられます。
その後、昭和50年代初めに「吉川英治文庫」全161巻が講談社から刊行されますが、その時に、戦前の随筆集である「草思堂随筆・窓辺雑草」(第160巻)と戦後の随筆集である「折々の記」(第138巻)に分けられます。
そして、平成に入り「吉川英治歴史時代文庫」全85巻が講談社から刊行されることになった時、そのラインナップから外れたこの2巻の随筆集を吉川英治記念館の出版物として刊行することになりました。
この時にタイトルから「窓辺雑草」の文字が消え、「草思堂随筆」になりました。

したがって、タイトルからは文字が消えたものの吉川記念館版「草思堂随筆」には、「窓辺雑草」の随筆も収録されています。
その中に、『青年・馬上に棲む』も含まれている、という次第です。

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2007年5月 2日 (水)

住吉神社大祭

明日、5月3日は、青梅市の住吉神社の大祭です。

昨年もご紹介しましたが、多数の山車も出る大きなお祭りです。

一見の価値がありますよ。

ただ、交通規制がかかりますので、ご注意下さい。

そして、その規制をかいくぐって、吉川英治記念館にもお出でいただけると、とても嬉しい(微笑)

お待ちしています。

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