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2007年6月30日 (土)

鹿児島

鹿児島県と言えば、鬼界ケ島の俊寛でしょう。
「新・平家物語」にも、このエピソードはもちろん登場します。
しかし、例によって、ここでは紹介しません。

鹿児島では、種子島を舞台にした「鉄砲巴」という作品があります。

天文十二年、種子島に南蛮船が漂着する。
種子島の領主・種子島時尭は、上陸してきたポルトガル人に大金を払って鉄砲を手に入れると、鍛冶の国助と国安に命じ、鉄砲を造らせるが、失敗。
それもそのはず、ポルトガル人が渡したのは故意に欠陥を生じさせたものであったのだ。
それに気づいた2人は、時尭の咎めを恐れて逃亡する。
時尭は南蛮船に使者を送って鉄砲の秘密を聞き出そうとするが、ポルトガル人たちは、上陸した際に出会った若狭という娘を差し出したら教えてやってもいいという返事。
時尭はやむなくそれを聞き入れ、若狭を召し出すために臣下の笹川小四郎秀重を送るが、実は若狭と小四郎は恋仲。
理不尽な沙汰に2人で自害しようとするが、時尭から依頼を受けた根来の法師・杉の坊がそれを止め、若狭を拉致して行く。
実は管領細川家の隠密である杉の坊は、若狭を国助と国安が使っていた鍛冶小屋に閉じ込めると、そこに捨ててあった欠陥のある鉄砲を手に入れて、島から抜け出す。
そこへ通りかかったのが堺屋又三郎と田布施源助。
鉄砲の噂を聞きつけ、商人の又三郎は鉄砲を商売にしようと、武芸者である源助は鉄砲で功名を上げようとして、種子島に忍んで来ていたのであった。
若狭を助け、小四郎と連絡を取った又三郎は、2人に策を授ける。
そして、ポルトガル人の要求通り、若狭が南蛮船に送られた晩、小四郎、又三郎、源助らは南蛮船を急襲し、若狭を救い出すとともに、細工のされていない完全な鉄砲を強奪する。
かくして、鉄砲は種子島から日本全国へ一気に普及していくのである。

鉄砲伝来については、時尭から鉄砲製作を命じられた鍛冶職人・八坂金兵衛清定が、当時の日本にはなかった銃身の筒底を塞ぐネジの製法を知るために、娘・若狭を南蛮人に嫁がせる代わりに秘密を聞き出した、という言い伝えがあるそうです。

この小説はそれを下敷きにしたものでしょうが、わからないのは、この小説にも若狭の父として八坂金兵衛は登場するものの、単なる浪人で、鍛冶職人とはされていないことです。
伝承に肉付けするのではなく、作り変えてしまっています。

名前をそのまま使っている以上、話自体はちゃんと知っていたはずだと思うのですが。

初出は『講談倶楽部』大正14年12月号。
単行本は「吉川英治文庫159 剣魔侠菩薩」(昭和52年 講談社)が、最後になります。

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2007年6月29日 (金)

沖縄

北から順番に南下しながら作品を紹介するつもりでしたが、ちょっと気まぐれで、一気に南へ飛び、沖縄県をご紹介します。

と言っても、実は、沖縄県を舞台にした吉川英治作品は、残念ながらありません。

吉川作品は、時代こそ平安朝から現代までかなり幅広く扱っていますが、「三国志」などを除けば、舞台は日本国内です。
沖縄が日本史の表舞台に出てくることは、薩摩藩による琉球支配以前にはあまりありませんから、作品に出てこないのも仕方がないことかもしれません。

ただ、本当にわずかながら登場する作品がひとつあります。

「恋ぐるま」です。

どういうことで登場するのかは、以前触れたことがあります。
しかし、主たる舞台は別の場所なので、作品の内容は、そちらで紹介することにします。

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2007年6月28日 (木)

信頼

明治古典会による七夕古書大入札会の目録が送られてきました。

明治古典会は、本来は古書業者の入札市なのですが、この七夕入札会には加盟の古書店を通して一般も参加できます。
吉川英治関連のものでどうしても入手したいものがある時には、時々利用します。

しかし、先日の全国文学館協議会で他館の様子を聞いてみると、予算が厳しいので資料の購入は諦めている、というところがかなりありました。
つまり、資料の収集は寄贈に頼らざるを得ない、という状況に追い込まれているわけです。

寄贈していただく相手は、作家の遺族、編集者などの関係者、個人コレクターなどです。
こうした方々と普段から可能な限り接触し、交流を深めておくことが、資料収集のため(もちろんそれだけではありませんが)に学芸員に求められていることです。

それと同時に、あそこに任せれば大丈夫だという信頼を得られるような活動(展示や研究)を、ちゃんと一般に見える形で行っていかなければなりません。

そのためには、きちんとしたエキスパートを養成しなければなりません。
コストの安い有期の嘱託職員だけで、すぐに人が入れ替わってしまうようでは、事業の継続性や、寄贈後の資料の扱いに不安を感じて、誰も寄贈したいとは思わないでしょう。

資料の購入費用を抑えたいのなら、安心して寄贈できるような信頼性ある職員を確保することが必要なのです。

やはり、少なくとも現行のままでは指定管理者制度は博物館には馴染まないと言わざるを得ないでしょう。

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2007年6月27日 (水)

文学館協議会総会

もう2週間ほど前になりますが、6月14日に行われた全国文学館協議会の総会に出席してきました。

全国文学館協議会は、その名の通り、全国にある≪文学館≫をつなぐ組織です。

加盟館は総会開始前の段階で89館(他に賛助会員が2団体)。
総会で3館の加盟が承認されましたから、90館を越えたことになります。

「文学館ってそんなにあったの?!」と思われるかもしれませんが、実際には、運営状態や規模を問わなければ、この3~4倍の数の≪文学館≫が存在しています。
当館からすぐ近くの羽村市郷土博物館のように、文学館とは名乗らずに文学資料(中里介山関係)を展示している館もありますし。

今回の出席は41館でした。毎年この前後の数です。

さて、総会では、世の中の他の『総会』と呼ばれるものの例に漏れず、決算・予算および若干の議事についての承認を行うわけですが、文学館協議会の場合、その後に出席した各館からの報告というのを行います。

これが興味深いけれど、長い。
1館が5分間ずつ話したとしても205分で、3時間を越えてしまいます。

そこでの話は、その場だけの、同業者の内輪話のようなもので、どこも同じような悩みを抱えているので共感できますし、また刺激も得られ、非常に面白いのですが、さすがに3時間は、ねぇ。

ところで、今回は今年の秋に開催される総務情報部会(初夏に総会、秋に部会を各1回ずつ開催するのが恒例になっています)を念頭に置いて、各館は総務的な話を報告したわけですが、やはり、指定管理者制度の話が数多く出ました。

私は、前にも書いたように、大雑把な認識しか持っていませんが、予想された通り、事業の継続性ということについて、問題が生じているようです。

特に人材の問題は想像より深刻だと思いました。

職員を有期の嘱託にすることは、コストダウンにはなるかもしれませんが、当の本人は人生設計に不安を抱くことになります。
そのため、せっかくの人材が流出してしまいます。
しかし、指定管理者となっている組織は、数年ごとの更改の際に継続して指定を受ける保証がないので、職員を正規化することが出来ません。
正規職員にしても、別の団体が指定管理者になってしまえば、結局はその職員は仕事を継続できないわけですから。

地方自治体の直営であれば、専門職職員として異動せずに館に所属していられたものが、難しくなってしまったということになるのでしょうか。

文学館に限らず、博物館は資料と人材と施設があって初めて機能するものです。

それは企業でも同じでしょう。

数々の特許を生み出してきた優秀な研究スタッフを有する企業を買収した者が、コストダウンで利益を出すために給料が高いその研究スタッフを追い出して、大学院生のアルバイトを雇って新たにそこに配置するなんてことがあるでしょうか。
その企業を買収するのは、その優秀な研究スタッフあってのことでしょう。
それを排除して人材を入れ替えてしまうのは、企業の価値を下げる行為です。

指定管理者制度では、そのありえない行為が発生しかかっているように思えます。

人材は館とセットのものと考えて、管理者が代わっても、同じ人材が館に残れるような一定の身分保障があるべきではないでしょうか。

もっとも、自戒を込めて言えば、この人がいてこその○○文学館だ、と誰からも認められるほどの人材が、果たしてどれほどいるのか、という部分はありますが。

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2007年6月26日 (火)

「宮本武蔵」問題 その(2)

一昨日書いたような背景のもとに生じたのが「宮本武蔵」問題でした。

終戦直後の出版ブームの中、版権を持つ吉川英治の旧作を、戦前の紙型を利用して次々と売り出していた講談社。
一方、英治の兄弟愛を背景に「新書太閤記」の版権を得て、成果を上げた六興出版。

その双方が、次に出版をもくろんだのが「宮本武蔵」で、そこで問題が発生したのでした。

講談社は、元々「宮本武蔵」の版権を持っていました。
作品が連載されたのは朝日新聞(昭和10~14年)でしたが、単行本は講談社から出版されました。
まずは連載と並行して箱入りの特製本全6巻を、連載終了後に軽装の普及版全8巻を出版しています。
この普及版が爆発的に売れました。
よく、出征した兵士たちが前線にまで持ち込んで読んだ、というのはその普及版の方です。
当然のごとく、新たに「宮本武蔵」出版の計画をします。

これに対し、吉川英治は弟・晋のいる六興出版に出版の許可を与えます。
その論理的な裏付けは、吉川英治と講談社の間で交わされた「宮本武蔵」の出版に関する契約の中の「講談社は版権を独占するが、他社が全集などの一部として収録することは構わない」という取り決めでした。
そこで、六興出版は≪吉川英治叢書≫というシリーズの一部として「宮本武蔵」を刊行する、という作戦をとったのです。

六興出版が「宮本武蔵」の刊行を広告し始めると、それに対抗して講談社は版権を楯に「宮本武蔵」の印刷製本を強行し、英治に許諾と検印を求めます。
英治はこれを拒否するとともに、補筆訂正のない旧版での出版は作家的良心を踏みにじるものだ、として文芸家協会に提訴します。

こうして、ごく簡単に言えば、売れ筋商品をどちらが販売するか、というに過ぎなかった騒動が、著作権や出版権に関わる大事になってしまうのです。

最終的には、講談社の初代社長・野間清治の妻で、早世した息子・恒の後を継いで三代目社長となっていた野間佐衛の「このへんでおやめなさい、初代が生きていたら、こうはなりませんでしたよ」という一言で、講談社が出版を諦め、問題は解決します。

かくして、六興出版により昭和24年3月から25年4月にかけて刊行された「宮本武蔵」は、24年・25年と2年連続ベストセラー第7位と、期待通りに売れました。

もちろん、作家が補筆訂正する権利を楯に講談社からの出版を拒んだわけですから、作品には手が加えられています。
「宮本武蔵」戦前版と戦後版の間に存在する書き換え問題を矮小化する気はさらさらありませんが、そういう側面もあったことは考慮されるべきだろうと、私には思えます。

なお、問題の解決後、講談社と吉川英治の関係はすぐに修復されたわけではありませんが、最終的には再び良好なものに戻りました。
ただ、戦後の吉川英治は、かつての濫作への反省から、同時に複数の連載を並行させるようなことはしなくなったため、その後、世を去るまでに新たに講談社の雑誌に連載した作品は雑誌『日本』への「新・水滸伝」の一作にとどまりました。
そして、その連載が吉川英治の絶筆となりました。

講談社の雑誌でデビューして、二度も絶縁して、しかし、講談社の雑誌で絶筆を迎える。

なんだか男と女の腐れ縁という感じですね。

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2007年6月24日 (日)

「宮本武蔵」問題 その(1)

話を戻しますが、吉川英治と講談社の関係がこじれたことが、実はもう一度あります。
それが日本の出版史上の事件でもある「宮本武蔵」問題です。

終戦後の昭和20年代前半、戦時下の抑圧から解放された日本では一大出版ブームが沸き起こっていました。

しかし、吉川英治は戦時中の反省から昭和20年の終戦以来22年初頭までは断筆状態、その後は創作を再開したものの模索期で、執筆活動はかつてに比べて盛んではありませんでした。
その一方で、戦前に執筆した旧作が単行本化され、出版されると、これが大いに売れます。

講談社は、昭和22年1月から24年3月にかけて「三国志」を、戦前の紙型を利用して刊行しています。
昭和23年に、やはり講談社が戦前の紙型を利用して刊行した「親鸞」は、同年のベストセラー第6位、翌24年の第8位となりました。

一方、「新書太閤記」は昭和21年9月から24年11月にかけて出版され、途中の23年にベストセラー第3位になっていますが、重要なのは、戦国時代を描いたこの作品が、この時期に出版できたことです。

よく知られていることですが、GHQによる占領統治下の日本では仇討などの封建的闘争を描いた作品が忌避されていました。
GHQの禁止のため、時代劇映画が撮れず、時代劇スターたちがやむなく現代ものに出演していた、という話は有名です。
戦後の新聞小説への時代小説の復活は昭和25年に朝日新聞に連載された村上元三の「佐々木小次郎」だとされます。

にもかかわらず「新書太閤記」を出版できたのはなぜか。

当館館報『草思堂だより』第3巻第4号に掲載された青木武氏の「戦後版『新書太閤記』とGHQ」という文章によると、様々な人脈を駆使して粘り強く交渉した結果、GHQから「日出づる国……」などという表現を書き直せば出版しても良いという許可を引き出したことで、出版が実現したということです。

吉川英治への批判の中に、戦時中の作品の中にあった国家や戦争への協力的な文言を戦後に改竄して隠蔽した、というものがあります。
それを完全に的外れだとは言いませんが、上記のような外的、経済的な要因も存在していたことを、批判を際立たせるためにわざと無視している部分があるのではないかという疑念は感じてしまいます。

「新書太閤記」の書き直しを、「外的、経済的な要因」にもよる、と書きました。
GHQからの要求という外的要因はわかるとして、なぜそれが経済的な要因となるのか、と思われるでしょう。

それは版元の事情が関係しています。

吉川英治の末弟に吉川晋という人物がいます。
吉川英治の元で、英治が主宰した雑誌『衆文』や『青年太陽』などの編集に関与し、その後、文藝春秋社に入社しました。
戦後、公職追放により文藝春秋社の社長を退陣した菊池寛への義理立てから文藝春秋社を退社した晋は、商事会社の出版部から発展した六興出版に移籍します。
しかし、出来たばかりの出版社はなかなか軌道に乗りません。
そこで、吉川英治は弟・晋のために、「新書太閤記」の版権を持っていた新潮社に頼み、六興出版に版権を移譲してもらったのです。
書き直してでも出版したい理由が、ここにあったのです。

この「新書太閤記」出版で勢いを得た六興出版は、吉川英治の許可を得て「宮本武蔵」の出版を計画しますが、これが問題となったのでした。

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2007年6月23日 (土)

道下俊一さん

昨夜、チラッとテレビを見たら、僻地医療に挑む医師を主人公にしたドラマが放送されていました。
「潮風の診療所~岬のドクター奮闘記~」というタイトルです。

おや、と思ってよく見たら、道下俊一さんをモデルにしたドラマでした。

道下さんは、ドラマに描かれていたように、北海道の寒村・浜中村(現浜中町)の診療所に1年の予定で赴任して、結局その地での地域医療活動に一生を捧げた方で、その功績により、平成7年に第29回吉川英治文化賞を受賞なさっています。

受賞なさった年だったか、その数年後だったかに当館にご来館になった際にお目にかかったことがあります。
いかにも誠実で、謙虚な方とお見受けしました。
確か、地域に一人の医者なので診療所を離れられず、なかなか旅行は出来ない、というようなことを話しておられたように記憶します。

ところで、私はドラマのほんのおしまいのところしか見なかったので、そんな話が出てきたかどうかわからないのですが、浜中町出身で道下さんにも世話になったという有名人がいるのをご存知ですか?

あの「ルパン三世」の作者、モンキー・パンチさんがそうです。
道下さんの勤務する診療所でレントゲン助手を勤めていたそうです。

私がそのことを知ったのは、道下さんの活動を取り上げた『ドキュメントコミック われ無医村に生きる』(1996年 河合英則 講談社)の解説「道下先生から学んだこと」をモンキー・パンチさんが書いておられたからです。

この文章、漫画単行本に付された解説としては長い、13ページにもおよぶもので、道下さんの人柄がうかがえるとともに、モンキー・パンチさんが漫画家として大成するまでの青年時代のこともよく分かるものです。

機会があったら一読をお奨めします。

なお、この単行本には、やはり以前ドラマになった福島智さんを取り上げた「心の架け橋~ある母子の挑戦~」も収録されています。

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2007年6月22日 (金)

作家と編集者

吉川英治が霜田史光の名で作品を書いた背景には、吉川英治が作家デビュー以来世話になっていた編集者の中島民千がいたのではないか、ということを昨日書きました。

吉川英治は非常に義理堅い人で、作家となる道筋をつけてくれた中島や広瀬照太郎といった編集者に対しては、出来うる限りその要求に応えるという姿勢で臨んでいます。

しかし、それが過ぎて、講談社と絶縁してしまったことがあります。

吉川英治と講談社の関係は密接なものです。
吉川英治に作家デビューの場を与えたのは講談社(中島も広瀬もその当時講談社員でした)であり、その一方、大ベストセラー作家に成長し、講談社に大きな利益をもたらしたのは吉川英治です。
持ちつ持たれつの関係であり、それは、当記念館が講談社のバックアップによって成り立っている現在まで、続いているものです。

その関係が大きくこじれたことがあります。
そのきっかけとなったのが中島民千でした。

尾崎秀樹の「伝記吉川英治」によると、それはこんなことでした。

デビュー以来、吉川英治に食い込んでいる中島に対して、講談社内で、中島は吉川英治から物質的援助を受けているというような話が出て、講談社の人間が英治にそれとなく事実を確かめたところ、個人の付き合いにまで干渉するのかと憤慨した英治が、野間講談社社長に絶縁状を送りつけた。

これだと中島に罪は無いようですが、松本昭「吉川英治 人と作品」になると少しニュアンスが違います。

中島が「社の幹部に金銭的なことで吉川英治に迷惑をかけていると言われた」と訴えたため、英治が中島をかばって講談社に抗議し、作品を引き上げたが、後でそれが中島の嘘だとわかった。

真逆に近い記述であり、真相ははっきりしませんが、いずれにせよ、中島との関係が深くなり過ぎたが故に、講談社と絶縁することになったことには違いありません。

具体的には、この揉め事が起こったのが昭和6年12月のことで、ちょうどその時期が締め切りになる講談社の各月刊誌の昭和7年2月号以降、吉川作品の掲載がなくなります。

そのため、昭和4年10月号から雑誌『冨士』に長期連載していた「恋ぐるま」は未完のまま中絶となります。
さらにひどいのは、昭和7年1月号から連載を始めたばかりの「本町紅屋お紺」(『講談倶楽部』)、「佐幕忠臣蔵」(『冨士』)、「もつれ糸巻」(『少女倶楽部』)の3作品で、いずれも第1回だけで中絶となりました。

結局、両者が和解し、吉川英治が講談社の雑誌に執筆を再開するのは、雑誌『キング』昭和9年1月号から連載が始まった「恋山彦」からになります。

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2007年6月21日 (木)

「本伝御前試合」と霜田史光 その(3)

さて、そんな霜田史光と吉川英治の間に、どのような関係があって、この「本伝御前試合」が生まれたのでしょうか。

ある作家の名で発表された作品の実作者が別にいるという例は、少なからず存在します。いわゆる≪代作≫です。

本人自らそれを認めたことで有名な例に江戸川乱歩の「あ・てる・てえる・ふいるむ」があります。乱歩に原稿を依頼していた『新青年』編集長時代の横溝正史が、乱歩の筆が滞っている様子から、雑誌に穴を開けないために代作したもので、後に乱歩はこれは横溝の作品であると公にし、横溝に作品を返上しました。

戦後漫画の勃興期、トキワ荘に集まった漫画家たちが、手塚治虫の作品やお互いの作品を代作したという話もよく耳にします。

吉川英治にもそうした例があって、昭和13年に雑誌『新青年』に吉川英治の名で連載された「特急亜細亜」は梅原北明が書いたとされています。
梅原北明は主宰した雑誌『グロテスク』が発禁処分を受け、自身も投獄されるなど、官憲に目をつけられ、地下に潜伏するという状況にあったため、生活費を得るため名義を貸りたもののようです。

「本伝御前試合」の場合はどうでしょう。

作品が雑誌『冨士』に連載されていた昭和4年1月号から5年2月号の期間、吉川英治は既に人気作家で、同時に複数の連載を抱えて多忙な状態でした。
この場合、霜田史光が多忙な吉川英治の代作をする、というのであれば自然ですが、この作品ではそれが逆です。

実は、吉川英治はこの時期、同じ『冨士』に昭和3年4月号から4年9月号にかけて「女来也」、すぐに続けて4年10月号から7年1月号まで「恋ぐるま」を連載しています。
同じ雑誌に複数の連載を持つのは、他の媒体の手前、避けるべきことです。
そこで、霜田史光の名を吉川英治が借りたのでしょうか。

似たような例が実はあります。
以前触れたことがありますが、既に「燃える富士」を連載していた雑誌『日の出』に、新たに≪浜帆一≫のペンネームで「あるぷす大将」の連載を始めたことがあります。
この時、この雑誌の編集長は吉川英治がデビュー当時に世話になった広瀬照太郎でした。

「本伝御前試合」連載時の『冨士』の編集長である中島民千も、広瀬同様、作家デビュー当時に世話になった人物です。
構図は似ています。

雑誌の人気を上げるテコ入れのために吉川作品をもう1編欲しいが、他の媒体からの非難を避けるため仮名で執筆させる。その際、病弱なためなかなか執筆量がこなせず、生活が苦しい霜田史光の名を借りて、代わりに名義料としていくばくかの金銭が霜田史光に渡るように手配する。

中島民千がそんなことを考えたのではないか、という推測が働きます。

昨日列挙した霜田史光の大衆文芸作品はほとんど『面白倶楽部』と『富士』に掲載されていますが、実はこの2誌は前者を改題して後者にしたもので、同じ雑誌です。
編集者としてこの雑誌にいて霜田史光をよく知っていた中島が、上記のような考えを持って吉川英治を口説いたと考えても、考えすぎではないでしょう。

ただ、まったく証拠はありません。

ちなみに、霜田史光と吉川英治に直接の面識があったかどうかは、証言が残っておらず、わかりません。
ただ、詩人の白鳥省吾は、このどちらとも親しかったようです。
中島ではなく、白鳥省吾が仲を取り持った可能性も無しとはしません。

いずれにせよ、推測の域を出ない、謎の多い事実です。

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2007年6月20日 (水)

「本伝御前試合」と霜田史光 その(2)

ところで、霜田史光とはどのような人物なのか、略歴などについて書いてみます。
霜田史光は本名・霜田平治。明治29年6月19日、埼玉県北足立郡美谷本村大字松本新田(現さいたま市南区松本)に、五男五女の末子として生まれました。
大正2年頃から『文章世界』などの雑誌に詩などを投稿し始め、以後、三木露風が主宰した『未来』や『リズム』、西条八十が主宰した『詩王』などの雑誌に次々と詩を発表していきます。
大正8年に処女詩集「流れの秋」を出版しますが、その挿画と装丁を担当した霜田静志は次兄(本名・霜田利平)にあたります。
霜田史光は民衆派に属する詩人と目され、三木露風・西条八十・野口雨情らの周辺で活動しました。このうち野口雨情は早くから民謡に注目していたことで知られますが、霜田史光もその影響からか、民謡を民衆芸術として捉え直し、民謡の収集や新作民謡の創作などに力を入れています。「日本民謡名作集」(大正10年 野口雨情と共編)などの単行本がその成果です。
大正末頃から大衆文芸作品を発表し始め、大正15年にはこの方面の単行本として唯一の「日本十大剣客伝」を出版しています。
この「日本十大剣客伝」の序文には、当時の霜田史光の心境が吐露されています。

私は元来詩の畑の人間だが、生活のためにこの手の作品に手を染めるようになった。しかし、調べて行くうちに、剣の精神に関心を持つようになり、この本を書くにいたった。したがって、これは世に氾濫する新講談の類とは一線を画したものである。

大衆文芸を低俗視している感じがちょっと引っ掛かりますが、それでも、この言葉にもあるように剣の精神性に強い関心を持ったようで、その大衆文芸作品には剣豪・剣客を取り上げた作品が多いようです。
昨日触れた「霜田史光 作品と研究」では、意図的にか、大衆文芸作品がほとんど紹介されていないので、私が確認できた作品を以下に列挙しておきます。

「常磐橋上遺恨試合」(『面白倶楽部』大正14年12月号)
「極意剣秘録」(『面白倶楽部』大正15年1~12月号)
「名試合十八番」(『面白倶楽部』昭和2年1~12月号)
「狂ひ咲き深尾牡丹」(『講談倶楽部』昭和6年6月号)
「命のかけ碁」(『富士』昭和6年11月号)
「名剣雪月花」(『オール読物』昭和6年11~12月号)
「身代り茶坊主」(『富士』昭和7年5月号)

最後の「身代り茶坊主」から1年とたたない昭和8年3月11日に36歳の若さで世を去っています。
肺を病んでいたことが早世の理由のようで、夫人も同じ病でまもなく亡くなったと言います。2人には子はありませんでした。

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2007年6月19日 (火)

「本伝御前試合」と霜田史光 その(1)

一昨日、今は絶版だがまだ当館に在庫がある作品として「本伝御前試合」という作品を挙げました。

吉川作品としてはあまり聞きなじみのない作品名だろうと思うのですが、10年前に「吉川英治の知られざる作品発見」といった感じで新聞記事にもなったことがあるのでご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。
単行本化されたのもその年で、その在庫がまだ当館にある、ということなのです。

「寛永武鑑 本伝御前試合」は、講談社発行の雑誌『富士』の昭和4年1月号~5年2月号に連載され、未完のまま中絶してしまった作品です。
その雑誌掲載時の作者名は≪霜田史光≫。
この≪霜田史光≫が、この作品でのみ名を知られる架空の人物であれば、吉川英治の知られざるペンネームと幻の作品発見となるところでした。
しかし、霜田史光は大正から昭和初期にかけて活動した、実在の詩人・作家だった人物なのです。

では、なぜ実在する霜田史光の名で連載されたものを、吉川英治の作品と判断したのかと言えば、以下の事情によります。

1997年当時、当館の未整理資料の調査中にそれまで見過ごしてきた新資料が見つかりました。
それが「本伝御前試合」の原稿でした。
原稿には署名はありませんでしたが、吉川英治が大正末から昭和初期に用いていた≪吉川英治稿箋≫と刷られたB5版400字詰めの専用原稿用紙に書かれていました。
そして、その筆跡は明らかに吉川英治のものだったのです。

当館には、9回分の原稿が現存していますが、全て吉川英治の筆跡で、他の筆跡による校正の跡もありませんでした。

そこで、吉川英治の作品と判断したのです。

「霜田史光 作品と研究」(2003年 和泉書院)の著者である竹長吉正氏は、この本の中で「本伝御前試合」について

これについては吉川英治の作とする説あり。(194ページ)
吉川英治との合作と言われる。(204ページ)

と書かれています。
霜田史光の研究者としては判断を留保したい、ということなのでしょう。

しかし、原稿の状況から言って、吉川英治の関与がないということはありえません。
ただ、原稿は全回揃ってはいないこと、特に連載第1回の原稿が当館には無く、未発見であることから、合作説の可能性は皆無とは言えません。
とは言え、連載11回(14ヶ月連載されたが途中3回の休載があるため)のうち9回分の原稿が吉川英治のものである以上、合作であったとしても大半は吉川英治が執筆したことになります。

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2007年6月17日 (日)

入手可能な著書

もう2週間前になりますが、朝日新聞の週末版「be」に著作権についての記事が出ていました。
著作権保護期間を現在の50年から70年に延長しようという動きに対するものです。
その記事の中に、ちょっと気になる記述がありました。

記事では、今後10年で保護期間が切れる1957~66年に物故した著作者の著書が現時点でどの程度発行されているかということを、調べています。
それによると、著作物のある人物は1710人で、現在入手出来る本は2343点。
上位20人までの著書が1082点あり、実に46%を占めているのだとか。
したがって保護期間を延長してもメリットがあるのはごく一握りだ、と記事では言うわけですが、その上位20人の中に吉川英治も含まれています。

吉川英治は、江戸川乱歩の174点に次いで、148点で2位であると、記事には書かれています(ちなみに3位は谷崎潤一郎の119点で、4位の柳田国男の107点までが100点を超えている)。

ん?148点もあったっけ?

現在も刊行されている『吉川英治歴史時代文庫』が、全部で85巻ですから、この他に63点もあることになります。
どうも、そこのところに疑問を感じたので、元になった日本書籍出版協会のデータベースにアクセスして検索してみました。

確かに検索結果は148冊と出ました。

しかし、ちょっと苦笑してしまいました。

まず、同姓同名の赤の他人の著書が1点混じっています。

当館で制作して講談社から発行した「三国志紀行」全3巻と「宮本武蔵―小説を旅する」全1巻というビデオ作品や、新潮社が発行した徳川夢声の朗読CD全6巻という、書籍でないものも含まれています。

また、≪吉川英治原作≫のものが混じっています。
井上雄彦「バガボンド」が今年3月に出た25巻まで。
石森プロ「三国志」全5巻のうち現在入手可能な3巻分。
NHK大河ドラマのノベライズである鎌田敏夫「武蔵」全3巻。

まあ、赤の他人の作品以外は、著作権料の対象になるものではあるでしょうから、今回の議論の叩き台としては含めてもいいのかもしれません。
しかし、それは吉川英治の≪著作≫とは違うのではないでしょうか。

ということで以上を引くと、106点になります。

ちなみに、この中には講談社インターナショナルが刊行した「宮本武蔵」と「新書太閤記」の英語版各1巻が含まれています。
吉川英治作品の外国語版は実際には海外の出版社からもっとたくさん出ており、これはあくまでも国内販売分ということになるのでしょうが、それは何だか中途半端なので、これも省きましょう。

ということで、現在購入できる吉川英治作品(翻訳を除く)は104点になります。

もっとも、実際には入手可能であるにも関わらず、このデータベースに無いものもあります。
いずれも吉川英治記念館だけで販売しているもので、特製文庫4点(「江の島物語」「草思堂随筆」「折々の記」「川柳詩歌集」)と、企画展の内容に合わせて10年程前に私が編集して当館から発行した「続・川柳詩歌集」という小冊子1点です。
また、発行元の講談社では既に絶版となっていますが、当館にはまだ在庫があるもの(と言っても数冊)として「本伝御前試合」という作品があります。
また、吉川英明編である「いのち楽しみ給え」は、吉川英治の名言集ですから、吉川英治の≪著作≫とみなしてもいいのではないでしょうか。

これらも含めれば111点になりますが、まあ、余計ですかね。

ちなみに、電子書籍オンデマンド出版は、ここに含まれていませんが、そうした形で入手可能な吉川英治作品もあります。

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2007年6月16日 (土)

写真コンテスト選考結果発表

第10回吉川英治記念館写真コンテストの選考会を昨15日に開きました。

194名からの520点の応募作品の中から、下記の作品が入賞と決まりました。

金賞(1点)
「至福の時 95歳!」 浅野照子(神奈川県茅ヶ崎市)

銀賞(3点)
「金魚の運動会」 高橋徹也(埼玉県入間市)
「公園の午後」 千葉清二(北海道札幌市)
「托鉢の里(4枚組)」 山崎秀司(兵庫県揖保郡太子町)

銅賞(3点)
「乱舞」 大社正照(鹿児島県鹿児島市)
「独楽」 山中健次(和歌山県伊都郡かつらぎ町)
「朝の買い出し」 渡辺公司(京都府京都市)

入選(23点)
「雨の彩り」 浅岡由次(愛知県知立市)
「釣り心地」 伊佐勝男(埼玉県さいたま市)
「聴衆」 石角尚義(香川県三豊市)
「お手伝い」 内田貴治(東京都墨田区)
「目ざめ」 小蔵武三(滋賀県草津市)
「共生する群」 片岡三郎(三重県伊賀市)
「祈り」 北尾雅弘(東京都町田市)
「空海への道」 木下滋(和歌山県伊都郡かつらぎ町)
「大寒みそぎ」 河野サエ子(山口県下関市)
「廃船」 仙波浩司(広島県呉市)
「食事も忘れて」 武田治(兵庫県加古郡稲美町)
「湯田川神楽」 武谷捷夫(山形県鶴岡市)
「一心不乱」 中村光雄(和歌山県和歌山市)
「仲よし」 野田正(愛知県一宮市)
「寒稽古」 花一彦(岡山県岡山市)
「紅葉の中で」 早川英夫(埼玉県春日部市)
「みなしご」 藤森保男(岡山県岡山市)
「ないしょ」 堀内道正(茨城県ひたちなか市)
「家路」 牧原昭文(鳥取県倉吉市)
「縁側のメロディー」 松崎盛樹(静岡県静岡市)
「榊祭り、クライマックス」 松島国五郎(東京都昭島市)
「おばあちゃんの火渡り」 水落幸雄(福岡県大牟田市)
「特訓」 山田英雄(静岡県静岡市)

皆さん、おめでとうございます。

なお、以上の作品は以下の日程で展示いたします。

◎吉川英治記念館=平成19年10月13日(火)~11月4日(日)

◎富士フォトサロン=平成20年1月25日(金)~1月31日(木)

ちなみに、富士フォトサロンは今までの銀座ファイヴから東京ミッドタウンに移転したため、今度は六本木です。
話題のスポット(微苦笑)を見物がてら、ぜひお運び下さい。

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2007年6月15日 (金)

山形(3)

最後は「無宿人国記」。

元米沢藩士の清水一角は、お里という女に入れあげた挙句、脱藩して二人で江戸まで流れてきたが、ゆすり、辻斬り、賭場荒らしと悪行を重ねる一角に愛想をつかしたお里の心変わりに腹を立て、これを斬り捨ててしまう。
町方に追われる一角を匿ったのは、偶然にも米沢藩上杉家の国家老の千坂兵部。
兵部は、凶状持ちの浪人になりさがった一角に意外なことを依頼する。
世間では赤穂の浪士が吉良上野介を討つとの噂が絶えない、藩主の綱憲は上野介を守りたいが、藩として表立ってはできない、そこでお前を含め米沢藩士のうちで腕の立つものを一時的に脱藩させて、浪人として上野介警護にあたらせたい、と言うのだ。
一角は、しぶしぶながら兵部の命を受けて米沢に戻ると、兵部が指定した青砥弥助と涌井半太夫を仲間に引き入れる。
もう一人、兵部が指定したのは木村丈八郎だったが、実は丈八郎はあのお里の弟であった。
お里を斬ったことは隠して丈八郎を説得する一角だったが、堅物の丈八郎は兵部の秘策を拒絶。そのため、一角は口封じに丈八郎を斬ろうとするが、失敗して江戸へと逃走する。
この騒動であらぬ汚名を着せられた丈八郎は、一角がお里を斬ったことを知り、身の潔白と仇討ちのため一角の後を追う。
江戸の町で一角に追いついた丈八郎であったが、斬り合いを始めたところを兵部らに見つけられ、止められてしまう。
結局、兵部に説き伏せられた丈八郎は一角と共に吉良邸に警護のために住み込むことになった。
そして、赤穂浪士討入りの日。
その乱戦の最中、一角は丈八郎に、お前の手で俺を斬ってくれと頼むのであった。

つまりは≪忠臣蔵外伝≫ですね。
もっとも、一角は「清水一学」が正しく、しかも初めから吉良家の家臣だったようですから、完全にフィクションですが。

初出は『中央公論夏季増刊 大衆雑誌』(昭和7年6月発行)。

単行本では、現在刊行中の「吉川英治歴史時代文庫75 治郎吉格子 名作短編集(一)」に収録されており、すぐに読むことが出来ます。

070704追記

平成に入って出版されたものにはこの他に「吉川英治時代小説傑作選 さむらい行儀・無宿人国記」(平成15年3月 学研M文庫)もあります。

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2007年6月14日 (木)

山形(2)

次にご紹介するのは、「明治秋風吟」。

米沢藩の児島龍雄、後の雲井龍雄は若いながら論客として名を知られている。
今日も、勤王派の浪士たちが次席家老の丸山昇に面会を求めてきた席に同席し、「勤王と言っても多くは自らの野望のために王室の尊名をかたっているに過ぎない、それで幕府を倒しても、結局は第二の幕府が出来るだけだ」と批判する。
論破された浪士たちは、児島を除かねば米沢藩は勤王に傾かぬと、龍雄に闇討ちをかけるが、逆に一人を残して龍雄に斬られてしまう。しかし、生き残った一人は、代わりに丸山を暗殺して、逃走する。
その後、江戸警護のため出府した龍雄は、捨てられた赤子を拾う。物陰に潜むその子の親と思しき男に、龍雄は温情溢れる言葉をかけるが、互いに名乗り合うことなく別れる。
江戸警護の任を解かれた龍雄は、状勢を見届けるために京都にやって来るが、勤王派の抜刀組に身柄を拘束されてしまう。とっさに偽名を名乗った龍雄の面通しに現れた男は、確かに見覚えのある男だったが、なぜか「これは雲井龍雄ではない」と言って、彼を解放する。
やがて明治維新。
明治新政府は旧佐幕勢力を懐柔するため、佐幕派の藩からも人材を登用した。雲井龍雄もその一人となったが、新政府を強く批判して官職を辞し、同志を募って政府に反抗しようとするが、露見してしまい、重罪人として刑を受けることになる。
処刑の朝、龍雄を連行しに来た政府兵部省の役人・石田浪吉は、自分と龍雄の奇縁を語り始める。
龍雄の闇討ちに失敗して丸山を斬ったのも、龍雄が拾った子の父も、面通しで嘘をついたのも、みな自分であった、と。
それを聞いた丸山の娘で、今は龍雄の妻である晴子は「父の仇」と石田を懐剣で刺そうとするが、龍雄はそれを止め、「私の怨みで人を斬る時勢はすぎた」と晴子を諭し、刑場へと向かうのであった。

初出は『家庭シンアイチ』昭和6年秋季特別号(10月5日発行)。

最新のものは「吉川英治文庫126 治郎吉格子(短編集2)」(昭和51年 講談社)となります。

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2007年6月13日 (水)

山形(1)

東北で最後にご紹介するのは山形県。

ここまで見てきたように東北を舞台にする作品はあまり多くありませんが、山形に関しては3作品あります。
ただし、どれも短編です。

まずは、「林崎甚助」をご紹介。

甚助は、母親の喜ぶ顔見たさに訓読や剣の修行にいそしむ少年。
だが、ある時、戦死したと聞かされていた父親が、実は坂上主膳の闇討ちで死んだことを知り、衝撃を受ける。
元服した甚助は、旅に出て、武者修行をすると共に、父の仇・坂上主膳の消息を尋ねて歩く。
一旦帰郷した甚助は、主膳の消息をつかんだこと、自分の今の腕では主膳を倒すには力が足りないことを母に報告すると、林崎神社に百日間参籠する。
参籠を終えた甚助は、口ではうまく表現できないながら何かをつかみ、今度は主膳にまみえるつもりであると母に告げ、再度旅に出る。
その途上、茨組と称する浪人者たちが木賃宿を荒らしているのに出くわし、これを斬り捨てるが、そこで自らの修行の成果を確信する。
そして主膳を倒し、父の仇を討つ。
甚助の母は、しかし、我子が宿願を果たしたことを聞いて程なく病の床につき、世を去った。

林崎甚助重信は、現在の山形県村山市出身で、居合い、抜刀術の開祖とされる人物です。
林崎神社への参籠も、仇討ちもその事跡として伝えられるものです。

ただ、この小説は、仇討ちの物語ではなく(坂上主膳との対決の場面自体がありません)、その修行の様子と母親との関係性を描いたもので、正直なところ、それほど面白い小説とは言えません。

初出は『講談倶楽部』昭和15年1月号。

最新のものは「吉川英治全集28 源頼朝・剣の四君子」(昭和57年 講談社)になります。

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2007年6月12日 (火)

福島

宮城県を舞台にした作品として紹介した「金忠輔」ですが、作中の林子平救出作戦の舞台になるのは白河郊外の清水峠ですので、福島県ゆかりの作品でもあります。

その白河のあたりを舞台にした作品がもう1作あります。
「めぐりぞ逢わん物語」です。

源頼朝が没し、頼家が幕府を継いだ正治二年。
鎌倉武士の泉右源治は、幕府評定衆の工藤行光から密命を授けられた。
それは、奥州白河の芝田一族に謀反の噂がある、その真偽を確かめ、証拠をつかんでまいれ、というもの。
旅商人に化けて白河に入ろうとする右源治だが、白河の関所で芝田家の豪将・桐山武太夫に見咎められ、山中に逃げ込むが、急流に転落してしまう。
貧しい御簾師の母娘に救われた右源治は、しばらくそこに滞在する間に娘の幹子と心を通わせていく。
回復した右源治は、漆で顔をかぶれさせて容貌を変え、白河に潜入すると、謀反の証拠をつかみ、鎌倉へ戻る。
その報告を受けた幕府は、討伐軍を送り、芝田一族を攻め滅ぼす。
役目を終えた右源治は、恩賞の代わりに暇を請い、恩義ある母娘の元を再訪するが、戦に巻き込まれたか、元の家にはもう二人とも姿が無かった。
あてもなく二人の姿を追い求め、旅を続ける右源治だったが、ある晩、一夜の寝床を求めて入り込んだ荒れ寺で屋根裏の梁に緊縛されている幹子とついにめぐり合う。
聞けば、主家を滅ぼされ、いまや賊となりはてた桐山武太夫によって囚われていると言う。
そこへ現れた武太夫を斬り捨て、幹子を救い出した右源治は、幹子を妻として一村人となるが、その消息を探していた工藤行光の計らいで、改めて鎌倉へ迎えられるのであった。

副題に「桑楊庵一夕話に拠る」とあります。
フィクションでは架空の古文献をでっち上げることがままありますが、「桑楊庵一夕話」に関しては実在するもののようです。
私は現物を見ていないので、この物語の元ネタとなるような話が掲載されているかどうかわからないのですが。

短編ですが、初出は不明で、「修養全集7 経典名著感話集」(昭和4年 講談社)への書下ろしと推定されています。
あまり単行本化されておらず、昭和52年に復刻された「修養全集7 経典名著感話集」と、同年に出た「吉川英治文庫159 剣魔侠菩薩」の3種しかありません。

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2007年6月10日 (日)

宮城

宮城県は、「私本太平記」に多賀城が登場したりはしますが、主たる舞台とする作品は「金忠輔」の1作。
ちなみに、タイトルは「こんちゅうすけ」と読みます。

仙台藩の林子平は「海国兵談」などの著書が幕府の不興を買い、幕府による詮議のために仙台城下から江戸表に送られることとなり、宇佐美勘兵衛・東馬の父子がその護送役となる。
道中、林子平の門弟たちが師を救い出さんと護送の一行を取り囲む。
その緊迫した場にしゃしゃり出てきたのは、わずか四十石扶持の軽輩ながら、藩では知らぬ者のない名物男の金忠輔。
能弁で≪法螺金≫の異名を持つ忠輔の機転で、見事、その場を切り抜けるが、面目を潰された宇佐美父子は面白くない。
わけても息子の東馬は、自分が惚れている茶屋の娘・お京が、この活躍を見て忠輔にぞっこんになってしまったので、すっかり忠輔に恨みを抱いている。
しかも、この越権行為が咎められるどころか、かえってその奇人ぶりを藩主に気に入られて、忠輔は出世までしてしまう。
しかし、日本の明日に思いをいたし、男子の志をどこへ向けるべきかを思案する忠輔にとっては、城勤めなど退屈なばかりだし、お京の恋慕も東馬の邪念もまるで意識の外だ。
とうとう脱藩して全国遊学に走ってしまう始末。
その旅の最中、江戸は東叡山の火災で伊達家の大名火消しを助けたことをきっかけに、脱藩を許されたばかりか、むしろ強引に帰藩させられてしまう忠輔。
忠輔が目障りな宇佐美父子は、藩主の前での御前試合にかこつけて忠輔を亡き者にしようとするが、逆に東馬は忠輔に敗れてしまう。
やけになった東馬はお京を拉致して脱藩しようとするが、間一髪駆けつけた忠輔は東馬とその仲間を切り捨てて、お京を救い出す。
そして、「蝦夷へ渡って露西亜を相手に喧嘩をする」と宣言して、そのままの足で蝦夷へ出航しようとする。
その忠輔を呼びとめる声。
かつて卑劣な東馬による闇討を受けた際に怪我の手当てをしてくれた曾根三右衛門が連れて来たのは、その時に懇意になった三右衛門の娘・お浜が生んだ忠輔の子であった。

初出は『冨士』昭和5年4月号~12月号。

活字の小さい昔の文庫本にして1冊の半分くらいの短い作品です。
その割には、明確なストーリーがないので、あらすじがまとめ難い作品ですね。

平成になってからは単行本化されておらず、一番新しいものが「吉川英治全集6 貝殻一平・金忠輔」(昭和58年 講談社)になります。

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2007年6月 9日 (土)

挿絵と時代風俗

企画展「秘蔵コレクション展――吉川英治じゃない吉川英治記念館」の展示替えは、初公開の挿絵原画類でも行いました。

挿絵原画のうち、「青い山脈」「舞姫」「めし」の3作品については、数10枚ずつ所蔵していますが、一度には10数枚しか展示できないので、なるべく多くのものをご覧に入れようということです。

ところで、それらの挿絵ですが、一枚一枚に対して連載第何回のどういう話の場面、というような解説はつけていません。
ストーリー上の重要性といったことからは離れて、絵柄の面白さを優先したからです。

絵柄の面白さと言っても、色々切り口はあると思いますが、今回留意したのは≪その時代の風俗≫ということです。

上記の3作品はいずれも≪現代小説≫です。
当然、その挿絵には、その当時の同時代の風俗が反映されています。

「青い山脈」に関しては、残念ながらそういう要素が薄いのですが、「舞姫」と「めし」は舞台が都会ということもあって、街頭の風景などが描き込まれているものが多くあります。

店舗の看板、映画のポスター、建物の雰囲気や、鉄道の車両の姿……そういうものに、時代が見えます。
特に、道路標識が英語になっているところなど、作品が書かれた頃はまだ日本がGHQの占領下にあったのだということを強く意識させます。

あるいは、家の中を見ても、お勝手が座敷より一段下がった土間になっているところなど、今はもう見られなくなった旧時代の家庭の有様を感じさせてくれます。

そういう絵柄を選んで展示していますので、絵の細部までじっくりご覧いただけたらと思います。

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2007年6月 8日 (金)

与謝野鉄幹

先日書いたように、企画展「秘蔵コレクション展――吉川英治じゃない吉川英治記念館」の展示を一部入替えました。

入替えたもののひとつが、与謝野鉄幹・晶子夫妻と中沢弘光による「平家物語帖」ですが、この中の与謝野鉄幹による序文について、吉川英治は

(略)特に、私が小説として『新・平家物語』を書く気になった意図と、鉄幹氏の序文の平家観とに、一つの共通点もあって、うれしかった。

と「机のちり」(「随筆新平家」所収)に書いています。
その随筆にも引用されていますが、では、その序文とはどういうものか、ここに転載してみます。

祗園精舎の鐘の声と打ち出したる平家物語を一貫せるは、悲劇の調なり。世は移れども、人間栄華の執着に伴ふ憎悪怨念の陰影は、千載のもと、ますます深刻を加ふ。大正の詩人と画家とが、この一巻を作れるもまた、之によりて、自家中心の平家物語を描くものにあらずや。

人の世のこのことわりのかなしさよ
憎まずしては愛しがたかり

恨むらくは、驕るもの必ずしも亡びず、正しきもの必ずしも栄えず、この道理の顛倒をいかにかせん。之を思ふとき、吾等の悲哀は長しと云ふべし。

新しき心をもちて悲しくも
平家の人のごとくただよふ

世に住めど大原山のここちして
淋しき花をひとりつむかな

大正八年暮秋
           与謝野寛

どうお感じになるでしょうか。

「平家物語帖」では、この全体を二つに分け、「~正しきもの必ずしも栄えず」が表面、「この道理の顛倒をいかにかせん~」が裏面に貼り込まれています。
現在は後半部分が見えるように展示しています。

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2007年6月 7日 (木)

秋田と岩手

青森県の南に隣接するこの2県ですが、このうち秋田県には、残念ながらゆかりの作品がありません。

とは言え、それだけで終わらせてはさびしいので、吉川英治作品につながる話題を引っ張り出してみましょう。

吉川英治の出世作である「鳴門秘帖」の中で、倒幕の陰謀をめぐらせる黒幕として徳島藩主・蜂須賀重喜が登場します。
この人物は実在の人物で、秋田藩の支藩・岩崎藩の二代藩主・佐竹義道の四男が養子に入ったものです。

また、秋田藩の九代藩主・佐竹義和の正室は、千葉の佐倉藩主・堀田正順の娘ですが、その堀田家の家老の家柄だった山上家こそ、吉川英治の母・いくの実家になります。

ゆかりと言うには無理矢理ですね。

一方の岩手県ですが、南部藩が少し顔を出すということでは先日の「紅騎兵」もわずかながらゆかりがあると言えます。
しかし、平泉と「新・平家物語」の関わりの方が、やはり何と言っても大きいでしょう。

ただ、「新・平家物語」は、簡単にあらすじが書けるような作品ではありませんし、史実としてよく知られていることですから、触れません。

簡単なので、2県まとめてご紹介(?)しました。

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2007年6月 6日 (水)

続・横浜散歩-その6

さて、ここで根岸周辺から離れて本牧方面に移動します。
目指すのは三渓園です。

三渓園自体は、別に吉川英治ゆかりの地というわけではありませんが、ある理由があって、ここを訪ねました。

Img_9273
三渓園には、様々な由緒ある建造物が移築されていますが、そのうちのひとつに矢箆原家住宅というものがあります。
白川郷の合掌造り建築を移築したものです。

正確に言うと、岐阜県大野郡荘川村岩瀬にあったものを、御母衣ダムの建設で水没することになったため、昭和35年に移築したものです。

さて、数年前に、三渓園の方から、吉川英治が「新・平家物語」の取材旅行の際に、この矢箆原家に滞在したと言い伝えられているのだが、という問い合わせがありました。

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確かに、吉川英治は昭和27年10月25日~11月2日に木曽・飛騨・北陸への取材旅行に出かけた際、白川郷に足を運んでいます。

10月29日、宿泊していた岐阜県高山市から自動車で白川郷に向かった一行は、当初、視察を済ませたら、そのままとんぼ返りして高山駅から鉄道で下呂温泉まで移動して、そこに宿泊する予定でした。
しかし、そのまま白川郷に泊まって、翌30日、トラックの荷台に揺られて峠越えして、金沢に出るというコースをとることになります。

Img_9275
当時の、この取材旅行の予定表には「鳩ヶ谷泊まり」と訂正が書きこまれています。
これは同じ白川郷でも、白川村鳩谷のことでしょう。
したがって、荘川村にあった矢箆原家に宿泊したとは思えません。

ただ、取材中の写真の中に、矢箆原家住宅に酷似した建物の前にいる吉川英治の写真があります。

これだけではちょっと証拠としては弱いかもしれませんが、おそらく、昼間の取材先の一つが矢箆原家で、宿泊は別の場所だったのでしょう。

確信が持てるという所まではいきませんが、吉川英治ゆかりの建物として、問題はないものと思われます。

さて、三渓園を離れて、元町方面に向かいます。

番外編で触れた「横浜今昔」の中の『忘れられぬ風物詩』に、こんな記述があります。

そこから反対に元町の通りに出て海岸よりに薬師様があった。縁日が出る日には往来する外国船の船員や派手なスタイルで闊歩する各国の兵隊でにぎわった。その強い色彩が夜の灯にとけこんで流れるさまは長崎や神戸にもない特有なエキゾチックなものでいまでも私の目にやきついてはなれない。

Img_9304
元町には、いままでに何度か来ていますが、薬師様なんかあっただろうかと思いながら元町通りにたどり着いてみると、谷戸橋のすぐ近くに隠れるようにひっそりと薬師堂が存在していました。
増徳院というのがその名のようです。

これで今回の目的は一通り果たせました。
場所がよく分からなくて飛ばしてしまったモンキの坂(猿坂)などには、もう一度足を運ばないといけませんが、とりあえず、今回はこれで終了します。

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2007年6月 5日 (火)

続・横浜散歩-その5

南京墓のすぐそばに蓮光寺の墓地があるので、そこに立ち寄った後、いよいよ馬の博物館に向かいます。

Img_9199
馬の博物館は、根岸競馬場の跡地の一部にあたる根岸競馬記念公苑内に建てられています。
当館から資料を貸し出しているということが訪問の直接の理由ですが、この根岸競馬場自体が、吉川英治のゆかりの場所でもあります。

根岸競馬場では昭和17年までレースが行われており、菊池寛の勧めで昭和14年から馬主となっていた英治は、その時代にも根岸競馬場に訪れていますが、それ以前、幼少時代にも関わりがありました。

ぼくの父は馬は持たなかったが、経営している横浜桟橋合資会社は、外国人との折衝が半ば商売みたいなものだから、根岸倶楽部にはよく出入りしていたらしい。ぼくも競馬はたびたび見せられ、家庭でも競馬の話に賑わった。(「忘れ残りの記」より)

根岸競馬場は慶応2年に造られ、同年12月に初レースが行われた歴史ある競馬場です。
英治が書く≪根岸倶楽部≫とは、明治13年に設立され、根岸競馬場を運営した日本レースクラブのことでしょうか。

馬の博物館に入館してみると、常設展示には吉川英治と「かんかん虫は唄う」についての展示もあります。
その隣に、明治期のスター騎手・神崎利木蔵がレースに使用した帽子が展示されています。

成人したら騎手になりたいと空想したのも、この遊行坂時代だった。名ジョッキーとして人気の絶頂にあった神崎騎手の邸宅がすぐ近くにあった。袖垣にバラをからませた鉄柵の門から中を覗くと、中央に広い草花のガーデンが見え、両側が長い厩舎となっていて、奥に宏壮な洋館があった。(略)そしてその花形の人、神崎の苦ミ走った容貌と外出の騎馬姿は、お伽話の中の騎士のようにぼくら子供の眼には映じて、ひどく印象的だった。(「忘れ残りの記」より)

これは番外編で紹介した(5)の家の時代のことです。
英治は身長150cm台の小柄で、度胸もありましたから、結構良い騎手になっていたかもしれません。

一方、≪相沢の町通り≫で記憶に残っているものをもうひとつ、吉川英治は「忘れ残りの記」に書いています。

明治天皇の根岸競馬への行幸です。

明治天皇の根岸競馬への行幸は、横浜駅(現桜木町駅)まで鉄道を利用し、そこから馬車に乗り換え、地蔵坂を登って、相沢の町通り=山元町通りを通って、競馬場に到るというルートだったようです。

相沢に差しかかると、

道幅がせまい上に、両側の厚い人垣が押し合うので、陛下の鹵簿と群集とは、ほとんどスレスレな間隔しかない。どうかすると、後ろから揉み出された人波の凸出に、先駆の儀仗兵の馬が刎ねたりして、御馬車が行き淀んだりするのである。それはまた、ぼくら子供たちの歓ぶ事であり、その間、なお紙旗を打振って叫ぶのだが、手を伸ばすと、両側の紙旗は、陛下のお体にも触りそうなくらいであった。御馬車はオープンなので、陛下はお顔のそばに挙手の白い手袋をおかれ、時々、左右へ向かって微笑されたりした。

この遠い明治の思い出に比して、英治はこうも書いています。

(略)大正、昭和にわたるあの物々しい、超警戒ぶりは、何ともわけが分らなかった。街頭の民衆をみな敵と視るような、あの冷やッこい鹵簿の列と、幼時の印象とは、隔世の感があった。
戦後は天皇も民主風になられたとはいっても、なお相沢の貧しい民衆と陛下との間に見られたような風景はどこにもないと思う。

ちなみに、明治天皇は明治14年から32年にかけて、根岸競馬には13回も行幸しているそうです。
ちょうど英治が根岸近辺に住んでいた頃に最後の行幸があったことになります。

英治はこれを単に明治天皇の競馬好きによるものとしているようですが、明治政府の諸外国との不平等条約撤廃に向けた、≪鹿鳴館外交≫ならぬ≪競馬外交≫だったという説もあるようです。

Img_9226
なお、現在も印象的な外観を残す根岸競馬場のスタンドは、正しくは「一等馬見所」といいます。
関東大震災でそれ以前のスタンドが被災したため、昭和4年に新しく建設されたものです。
したがって、馬主となってからの英治はこのスタンドを目にしたでしょうが、少年時代の英治が親しんだものとは、別のものということになります。

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2007年6月 4日 (月)

展示替え

散歩の途中ですが。

予告の通り、現在開催中の企画展「秘蔵コレクション展――吉川英治じゃない吉川英治記念館」は、昨日までを前半とし、一部展示を入替えて、明日からは後半となります。

入替えたのは、以下のものです。

・「平家物語帖」
⇒帖仕立てで両面に歌と絵が入っているので反転して、前半とは反対の面を出しました。

・「青い山脈」「めし」「舞姫」の連載挿絵原画
⇒多数あるので絵を交換しました。

・新井洞厳画「霜柯翡翠図」および「山居深趣図」
⇒「雲山雨意図」に入替えました。

・磯野霊山画「ねぎの図」
⇒「渓流の図」に入替えました。

前半をご覧になった方も、よろしかったらまたどうぞ。

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2007年6月 3日 (日)

続・横浜散歩-その4

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山元町通りを南下し、商店街が途切れるあたりで右折、少し奥に入った所に地蔵王廟と南京墓があります。

南京墓は、横浜開港後に造られた中国人墓地。
地蔵王廟は、中国人商人らの醵金によってそこに建てられたものです。
建てられたのは、奇しくも吉川英治が生まれたのと同じ明治25年です。

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「吉川英治と明治の横浜」には、地元に残るある言い伝えが紹介されています。
この地蔵王廟のすぐ目の前である大芝台にかつて木造二階建ての家屋があり、そこに英治一家が住んでいた、というものです。

これが正しいとすると、場所的には「家の前から競馬場の芝生が見えた」という先日の(1)の条件を満たしているように思えます。
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写真は南京墓から見た根岸競馬場のスタンドです。

地蔵王廟が落成した時、そのすぐ目の前で吉川英治が産声を上げた。

そんな可能性もなきにしもあらずです。

相沢の町通り=山元町通りをめぐる思い出の一つが、この通りを南京墓まで向かう中国人の葬列でした。

派手に飾られた輿に棺を乗せ、道士や祭司、親類縁者に泣き女が、鮮やかな旗や供物を並べて、延々と行列していく様子に、

ぼくら子供は、その演出と天来の奇観にはしゃぎ立ッて、ぞろぞろ葬列の後について駈け歩いたものだった。

と記述しています。

この南京墓が登場する小説を吉川英治は書いています。

ひとつは「かんかん虫は唄う」、もうひとつは「ナンキン墓の夢」です。

どちらも、吉川英治には珍しい現代小説で、「かんかん虫は唄う」は『週刊朝日』昭和5年10月26日号~6年2月8日号に連載され、「ナンキン墓の夢」は『週刊朝日』昭和6年春季特別号(4月1日発行)に掲載されたました。

同じ時期の作品であるのもさることながら、この2作品には南京墓をめぐる同じ言い伝えが紹介されています。

お代官坂の南京墓へ行って、そこで、ぐっすりと一昼寝して、夢をけんとくにして支那富籤を買うと、奇妙に、あたることが多い――
誰が、いい出したものか、零細な投機心をあおるチーハ熱が流行の極端にまで昂まったそのころ、そんな迷信がいいふらされた。(「ナンキン墓の夢」より)

≪支那富籤≫と≪チーハ≫は同じものです。
具体的なやり方は知りませんが、一種の賭博で、明治20年前後の時期によく流行ったようです。
「夢をけんとくにして」というのは、そこで見た夢を読み解いて、当たりくじを決めると言うような意味でしょう。

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さすがに、現在の南京墓で昼寝をする人間はいないようです。

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2007年6月 2日 (土)

続・横浜散歩-その3

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前置きが長くなりましたが、遊行坂を登りきって左手に向かうと横浜植木株式会社があります。
これが横浜植木商会の現在の社名です。

往時の面影は無いとは言うものの、今でもかなり広い土地を占めています。

会社の前の道が、吉川英治が「俗に桜並木とよばれる」と書く通りに該当するはずですが、今では桜の木は目につきません。

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ぐるっと回って横浜植木株式会社の裏の方へ出ます。
そこは、先程の地蔵坂上から続く通りで、商店街になっています。

通りの幅が急に細くなっている所に、短い階段につながる細い道がありますが、その奥あたりがかつての植木商会の裏門の場所であると、「吉川英治と明治の横浜」では推定しています。
つまり、写真の左奥あたりに吉川英治は住んでいたことになります。

園内の道は、もとより一般の通路ではなかったが、ぼくは下町への学校通いに、裏門から表門へ抜け、毎日そこを往復の近道としていた。母は毎朝、躑躅や石蘭や雪柳が崖をなしている坂道を駈けまろんでゆくぼくを家の門から見送って「……まるで鉄砲玉みたい」とほほ笑んでいた。
毎日を、花の香に染められて通った頃の童心の幸福感が、老いたる今もどこかに潜んでいるものだろうか。以後、長じて人生の辛酸な道へ出てゆくほど、そのなつかしみは深くなっていた。
まあ、こんな風に、植木会社の裏門時代は、ぼくにとって、故郷のうちの故郷といったようなものだった。キザな云い方だが、人生への初恋頃といっていい。(いずれも「忘れ残りの記」より)

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さて、今いる商店街のある通り、現在は山元町通りといわれているようですが、吉川英治はここを「相沢の町通り」と書いています。
この通りにまつわる思い出のうち、重要なものは後日紹介しますので、傑作なものをひとつ。

ある日の夕方、相沢の町通りで、市中からぞくぞく帰ってくる汚穢屋の馬力車の後ろにブラ下がって、がらがら揺られてゆく快感に興じていたことがある。このわるさは、どこの子もよくやる事なので、かねて汚穢屋も心がけていたのにちがいない。次第に馬力車を走らせておいて、そして突然、馬を止めた。その振動で、汚穢桶の物が溢れ飛んで、ぼくは頭から全身にそれを被ってしまった。(「忘れ残りの記」より)

そんな山元町通りにある山元町郵便局の斜向いが、蓮光寺の過去帳にあった「山元町二丁目十八番地」に相当すると、「吉川英治と明治の横浜」には書かれています。
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同書は、その場所を「梅の湯」という銭湯のあたりだとしていますが、現在は銭湯はなく、マンションが建っています。

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2007年6月 1日 (金)

続・横浜散歩-番外編

さて、遊行坂を登りきったところで、今回の散歩の基礎的な部分を確認するため、途中ですが、番外編を挟みます。
昨日「あとで詳しく見ます」と書いた吉川英治の幼少時の居住地についてです。

自叙伝「忘れ残りの記」から、関連する記述を順に抜き出してみます(ページ数は吉川英治歴史時代文庫のもの)。

ぼくの生れた当時の両親は、横浜の根岸に住んでいた。その頃はまだ横浜市ではなく、神奈川県久良岐郡中村根岸という田舎だった。家の前から競馬場の芝生が見えたということである。
(略)
この辺の地主で、亀田某という人の借家に住み、それが縁で、亀田氏のすすめから、ぼくの両親は、一つの生活にありついていたらしい。(P22)
けれど、父が横浜へ出て来たのは、もともと、そんな志ではなかったから、ぼくが四歳の末頃にはもう家もモンキの坂とよぶ横浜石川町辺に移り、父は港町の魚市場の書記に通っていた。(P31)
すると母はこう云った。
「それは、うちがモンキの坂に住んでいた頃なんだろうね。石垣の上に玄関があって、以前、異人の牧師さんが住んでいたから、ふつうの日本家屋なんだけれど、窓なんか洋風に青ペンキが塗ってあったりしたからね」(P35)
ぼくの家はよく引っ越した。青い窓の家から、もっと坂の上の、そして前より広い家へ移った。
門を並べて、すぐ隣は、郵船会社の小沼さんだった。(P41)
この小沼夫妻の隣家にも、長くは居なかったようである。こんどは少し遠くへ越して行った。山手の植木会社の裏門前で、何万坪もある植木畑や花畑に垣一重なので、広い庭園の中にあるようだった。(P42)
家はまた引越した。山手通りの俗に桜並木とよばれる植木会社の表門通りから、遊行坂の降りへかかる坂の降り口で、座敷にいても庭越しに、横浜市街が一望に見えた。(P57)

この後、横浜市街を挟んで反対側と言える南太田に転居するので、根岸周辺での転居は以上です。
まとめるとこうなります。

1)亀田某の借家=生誕
2)モンキの坂(猿坂のこと)の青い窓の家=4歳
3)モンキの坂の上の小沼家の隣家
4)植木会社の裏門前=7歳以前
5)遊行坂の途中

文庫の巻末には吉川英治の「自筆年譜」が収録されています。
そこには以下の記述があります。

明治二十五年(1892)
八月十一日。神奈川県久良岐郡中村根岸に生る。(略)当時、根岸競馬場附近に住み(以下略)
明治二十九年(1896) 四歳
(略)家も山手町横浜植木商会の園内に移転。(以下略)
明治三十二年(1899) 七歳
(略)家庭、山手通り遊行坂上に移る。(以下略)
明治三十四年(1901) 九歳
家、南太田清水町一番地へ移転。(以下略)

本文中にあった(2)(3)については記載がありません。
しかも、横浜植木商会の家に移ったのが4歳になっており、時期に食い違いがあります。

さらに別の資料があります。
「横浜今昔」(淵野修編 昭和32年 毎日新聞横浜支局刊)に収録された『忘れられぬ風物詩』という文章では、こう書いています。

十九才のときまで横浜ですごした私のまぶたにいまでも鮮明に残っているのは俗に山手の桜並木といわれた通りにあった横浜植木会社の花園だった。明治三十二年ごろから私が七才から九才まですごした家はその花園の裏門の前にあった。

これだと、横浜植木商会の家に移った時期は本文と合いますが、(5)の存在が抜け落ちています。

さらにややこしいことに、昭和13年に行った『横浜と私』という講演の中では

私の生れましたのは、植木商会の中の、輸出するための百合根や躑躅ばたけのある、その中の一軒の住宅でありました。

と述べています。
これでは、本文の(1)(2)(3)よりも前に(4)が来ることになってしまいます。

こうなってくると、狭い地域のことでもあり、そもそも本文に出て来る(1)~(5)は、本当に全て別々の家のことなのかすら疑いたくなります。

結局のところ、吉川英治が自分の記憶だけで書いていることなので、どこまで正確なのかは確かめようがありません。

客観的な記録がないわけでもありません。

それは蓮光寺に残る過去帳です。
蓮光寺に保存されている墓石を一昨日紹介しましたが、明治24年にこの墓を建てる時に記載された過去帳には、その時の吉川家の住所が「山元町二丁目十八番地」と書かれているそうです。
ただし、これは吉川英治の生まれる前年なので、生れた時にもここに住んでいたという保証はありません。

厄介な話です。

ただ、いずれにせよ横浜植木商会と一体と言えるような場所に住んでいたことだけは、間違いないのでしょう。

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