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2007年6月 5日 (火)

続・横浜散歩-その5

南京墓のすぐそばに蓮光寺の墓地があるので、そこに立ち寄った後、いよいよ馬の博物館に向かいます。

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馬の博物館は、根岸競馬場の跡地の一部にあたる根岸競馬記念公苑内に建てられています。
当館から資料を貸し出しているということが訪問の直接の理由ですが、この根岸競馬場自体が、吉川英治のゆかりの場所でもあります。

根岸競馬場では昭和17年までレースが行われており、菊池寛の勧めで昭和14年から馬主となっていた英治は、その時代にも根岸競馬場に訪れていますが、それ以前、幼少時代にも関わりがありました。

ぼくの父は馬は持たなかったが、経営している横浜桟橋合資会社は、外国人との折衝が半ば商売みたいなものだから、根岸倶楽部にはよく出入りしていたらしい。ぼくも競馬はたびたび見せられ、家庭でも競馬の話に賑わった。(「忘れ残りの記」より)

根岸競馬場は慶応2年に造られ、同年12月に初レースが行われた歴史ある競馬場です。
英治が書く≪根岸倶楽部≫とは、明治13年に設立され、根岸競馬場を運営した日本レースクラブのことでしょうか。

馬の博物館に入館してみると、常設展示には吉川英治と「かんかん虫は唄う」についての展示もあります。
その隣に、明治期のスター騎手・神崎利木蔵がレースに使用した帽子が展示されています。

成人したら騎手になりたいと空想したのも、この遊行坂時代だった。名ジョッキーとして人気の絶頂にあった神崎騎手の邸宅がすぐ近くにあった。袖垣にバラをからませた鉄柵の門から中を覗くと、中央に広い草花のガーデンが見え、両側が長い厩舎となっていて、奥に宏壮な洋館があった。(略)そしてその花形の人、神崎の苦ミ走った容貌と外出の騎馬姿は、お伽話の中の騎士のようにぼくら子供の眼には映じて、ひどく印象的だった。(「忘れ残りの記」より)

これは番外編で紹介した(5)の家の時代のことです。
英治は身長150cm台の小柄で、度胸もありましたから、結構良い騎手になっていたかもしれません。

一方、≪相沢の町通り≫で記憶に残っているものをもうひとつ、吉川英治は「忘れ残りの記」に書いています。

明治天皇の根岸競馬への行幸です。

明治天皇の根岸競馬への行幸は、横浜駅(現桜木町駅)まで鉄道を利用し、そこから馬車に乗り換え、地蔵坂を登って、相沢の町通り=山元町通りを通って、競馬場に到るというルートだったようです。

相沢に差しかかると、

道幅がせまい上に、両側の厚い人垣が押し合うので、陛下の鹵簿と群集とは、ほとんどスレスレな間隔しかない。どうかすると、後ろから揉み出された人波の凸出に、先駆の儀仗兵の馬が刎ねたりして、御馬車が行き淀んだりするのである。それはまた、ぼくら子供たちの歓ぶ事であり、その間、なお紙旗を打振って叫ぶのだが、手を伸ばすと、両側の紙旗は、陛下のお体にも触りそうなくらいであった。御馬車はオープンなので、陛下はお顔のそばに挙手の白い手袋をおかれ、時々、左右へ向かって微笑されたりした。

この遠い明治の思い出に比して、英治はこうも書いています。

(略)大正、昭和にわたるあの物々しい、超警戒ぶりは、何ともわけが分らなかった。街頭の民衆をみな敵と視るような、あの冷やッこい鹵簿の列と、幼時の印象とは、隔世の感があった。
戦後は天皇も民主風になられたとはいっても、なお相沢の貧しい民衆と陛下との間に見られたような風景はどこにもないと思う。

ちなみに、明治天皇は明治14年から32年にかけて、根岸競馬には13回も行幸しているそうです。
ちょうど英治が根岸近辺に住んでいた頃に最後の行幸があったことになります。

英治はこれを単に明治天皇の競馬好きによるものとしているようですが、明治政府の諸外国との不平等条約撤廃に向けた、≪鹿鳴館外交≫ならぬ≪競馬外交≫だったという説もあるようです。

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なお、現在も印象的な外観を残す根岸競馬場のスタンドは、正しくは「一等馬見所」といいます。
関東大震災でそれ以前のスタンドが被災したため、昭和4年に新しく建設されたものです。
したがって、馬主となってからの英治はこのスタンドを目にしたでしょうが、少年時代の英治が親しんだものとは、別のものということになります。

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