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2007年6月24日 (日)

「宮本武蔵」問題 その(1)

話を戻しますが、吉川英治と講談社の関係がこじれたことが、実はもう一度あります。
それが日本の出版史上の事件でもある「宮本武蔵」問題です。

終戦後の昭和20年代前半、戦時下の抑圧から解放された日本では一大出版ブームが沸き起こっていました。

しかし、吉川英治は戦時中の反省から昭和20年の終戦以来22年初頭までは断筆状態、その後は創作を再開したものの模索期で、執筆活動はかつてに比べて盛んではありませんでした。
その一方で、戦前に執筆した旧作が単行本化され、出版されると、これが大いに売れます。

講談社は、昭和22年1月から24年3月にかけて「三国志」を、戦前の紙型を利用して刊行しています。
昭和23年に、やはり講談社が戦前の紙型を利用して刊行した「親鸞」は、同年のベストセラー第6位、翌24年の第8位となりました。

一方、「新書太閤記」は昭和21年9月から24年11月にかけて出版され、途中の23年にベストセラー第3位になっていますが、重要なのは、戦国時代を描いたこの作品が、この時期に出版できたことです。

よく知られていることですが、GHQによる占領統治下の日本では仇討などの封建的闘争を描いた作品が忌避されていました。
GHQの禁止のため、時代劇映画が撮れず、時代劇スターたちがやむなく現代ものに出演していた、という話は有名です。
戦後の新聞小説への時代小説の復活は昭和25年に朝日新聞に連載された村上元三の「佐々木小次郎」だとされます。

にもかかわらず「新書太閤記」を出版できたのはなぜか。

当館館報『草思堂だより』第3巻第4号に掲載された青木武氏の「戦後版『新書太閤記』とGHQ」という文章によると、様々な人脈を駆使して粘り強く交渉した結果、GHQから「日出づる国……」などという表現を書き直せば出版しても良いという許可を引き出したことで、出版が実現したということです。

吉川英治への批判の中に、戦時中の作品の中にあった国家や戦争への協力的な文言を戦後に改竄して隠蔽した、というものがあります。
それを完全に的外れだとは言いませんが、上記のような外的、経済的な要因も存在していたことを、批判を際立たせるためにわざと無視している部分があるのではないかという疑念は感じてしまいます。

「新書太閤記」の書き直しを、「外的、経済的な要因」にもよる、と書きました。
GHQからの要求という外的要因はわかるとして、なぜそれが経済的な要因となるのか、と思われるでしょう。

それは版元の事情が関係しています。

吉川英治の末弟に吉川晋という人物がいます。
吉川英治の元で、英治が主宰した雑誌『衆文』や『青年太陽』などの編集に関与し、その後、文藝春秋社に入社しました。
戦後、公職追放により文藝春秋社の社長を退陣した菊池寛への義理立てから文藝春秋社を退社した晋は、商事会社の出版部から発展した六興出版に移籍します。
しかし、出来たばかりの出版社はなかなか軌道に乗りません。
そこで、吉川英治は弟・晋のために、「新書太閤記」の版権を持っていた新潮社に頼み、六興出版に版権を移譲してもらったのです。
書き直してでも出版したい理由が、ここにあったのです。

この「新書太閤記」出版で勢いを得た六興出版は、吉川英治の許可を得て「宮本武蔵」の出版を計画しますが、これが問題となったのでした。

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