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2007年6月21日 (木)

「本伝御前試合」と霜田史光 その(3)

さて、そんな霜田史光と吉川英治の間に、どのような関係があって、この「本伝御前試合」が生まれたのでしょうか。

ある作家の名で発表された作品の実作者が別にいるという例は、少なからず存在します。いわゆる≪代作≫です。

本人自らそれを認めたことで有名な例に江戸川乱歩の「あ・てる・てえる・ふいるむ」があります。乱歩に原稿を依頼していた『新青年』編集長時代の横溝正史が、乱歩の筆が滞っている様子から、雑誌に穴を開けないために代作したもので、後に乱歩はこれは横溝の作品であると公にし、横溝に作品を返上しました。

戦後漫画の勃興期、トキワ荘に集まった漫画家たちが、手塚治虫の作品やお互いの作品を代作したという話もよく耳にします。

吉川英治にもそうした例があって、昭和13年に雑誌『新青年』に吉川英治の名で連載された「特急亜細亜」は梅原北明が書いたとされています。
梅原北明は主宰した雑誌『グロテスク』が発禁処分を受け、自身も投獄されるなど、官憲に目をつけられ、地下に潜伏するという状況にあったため、生活費を得るため名義を貸りたもののようです。

「本伝御前試合」の場合はどうでしょう。

作品が雑誌『冨士』に連載されていた昭和4年1月号から5年2月号の期間、吉川英治は既に人気作家で、同時に複数の連載を抱えて多忙な状態でした。
この場合、霜田史光が多忙な吉川英治の代作をする、というのであれば自然ですが、この作品ではそれが逆です。

実は、吉川英治はこの時期、同じ『冨士』に昭和3年4月号から4年9月号にかけて「女来也」、すぐに続けて4年10月号から7年1月号まで「恋ぐるま」を連載しています。
同じ雑誌に複数の連載を持つのは、他の媒体の手前、避けるべきことです。
そこで、霜田史光の名を吉川英治が借りたのでしょうか。

似たような例が実はあります。
以前触れたことがありますが、既に「燃える富士」を連載していた雑誌『日の出』に、新たに≪浜帆一≫のペンネームで「あるぷす大将」の連載を始めたことがあります。
この時、この雑誌の編集長は吉川英治がデビュー当時に世話になった広瀬照太郎でした。

「本伝御前試合」連載時の『冨士』の編集長である中島民千も、広瀬同様、作家デビュー当時に世話になった人物です。
構図は似ています。

雑誌の人気を上げるテコ入れのために吉川作品をもう1編欲しいが、他の媒体からの非難を避けるため仮名で執筆させる。その際、病弱なためなかなか執筆量がこなせず、生活が苦しい霜田史光の名を借りて、代わりに名義料としていくばくかの金銭が霜田史光に渡るように手配する。

中島民千がそんなことを考えたのではないか、という推測が働きます。

昨日列挙した霜田史光の大衆文芸作品はほとんど『面白倶楽部』と『富士』に掲載されていますが、実はこの2誌は前者を改題して後者にしたもので、同じ雑誌です。
編集者としてこの雑誌にいて霜田史光をよく知っていた中島が、上記のような考えを持って吉川英治を口説いたと考えても、考えすぎではないでしょう。

ただ、まったく証拠はありません。

ちなみに、霜田史光と吉川英治に直接の面識があったかどうかは、証言が残っておらず、わかりません。
ただ、詩人の白鳥省吾は、このどちらとも親しかったようです。
中島ではなく、白鳥省吾が仲を取り持った可能性も無しとはしません。

いずれにせよ、推測の域を出ない、謎の多い事実です。

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