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2007年6月22日 (金)

作家と編集者

吉川英治が霜田史光の名で作品を書いた背景には、吉川英治が作家デビュー以来世話になっていた編集者の中島民千がいたのではないか、ということを昨日書きました。

吉川英治は非常に義理堅い人で、作家となる道筋をつけてくれた中島や広瀬照太郎といった編集者に対しては、出来うる限りその要求に応えるという姿勢で臨んでいます。

しかし、それが過ぎて、講談社と絶縁してしまったことがあります。

吉川英治と講談社の関係は密接なものです。
吉川英治に作家デビューの場を与えたのは講談社(中島も広瀬もその当時講談社員でした)であり、その一方、大ベストセラー作家に成長し、講談社に大きな利益をもたらしたのは吉川英治です。
持ちつ持たれつの関係であり、それは、当記念館が講談社のバックアップによって成り立っている現在まで、続いているものです。

その関係が大きくこじれたことがあります。
そのきっかけとなったのが中島民千でした。

尾崎秀樹の「伝記吉川英治」によると、それはこんなことでした。

デビュー以来、吉川英治に食い込んでいる中島に対して、講談社内で、中島は吉川英治から物質的援助を受けているというような話が出て、講談社の人間が英治にそれとなく事実を確かめたところ、個人の付き合いにまで干渉するのかと憤慨した英治が、野間講談社社長に絶縁状を送りつけた。

これだと中島に罪は無いようですが、松本昭「吉川英治 人と作品」になると少しニュアンスが違います。

中島が「社の幹部に金銭的なことで吉川英治に迷惑をかけていると言われた」と訴えたため、英治が中島をかばって講談社に抗議し、作品を引き上げたが、後でそれが中島の嘘だとわかった。

真逆に近い記述であり、真相ははっきりしませんが、いずれにせよ、中島との関係が深くなり過ぎたが故に、講談社と絶縁することになったことには違いありません。

具体的には、この揉め事が起こったのが昭和6年12月のことで、ちょうどその時期が締め切りになる講談社の各月刊誌の昭和7年2月号以降、吉川作品の掲載がなくなります。

そのため、昭和4年10月号から雑誌『冨士』に長期連載していた「恋ぐるま」は未完のまま中絶となります。
さらにひどいのは、昭和7年1月号から連載を始めたばかりの「本町紅屋お紺」(『講談倶楽部』)、「佐幕忠臣蔵」(『冨士』)、「もつれ糸巻」(『少女倶楽部』)の3作品で、いずれも第1回だけで中絶となりました。

結局、両者が和解し、吉川英治が講談社の雑誌に執筆を再開するのは、雑誌『キング』昭和9年1月号から連載が始まった「恋山彦」からになります。

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