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2007年7月31日 (火)

改めてお知らせ

かねてのお知らせ通り、10月21日に行われる「吉川英治賞受賞作家と語るひととき 第1回 宮部みゆきさん」の参加申し込みは、明日午前10時からの開始になります。
先着順で50名ということになっております。

詳しくはこちらをご覧下さい。

よく読んでお申し込み下さい。

お申し込みをお待ちしております。

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2007年7月29日 (日)

父の写真

一昨日、吉川英治の父・直広に触れました。

ところで、当館の展示や各種書籍などに登場する吉川英治の父の写真というものがあります。
これです。

Naohiro

この写真には秘密があります。

実は合成写真なのです。

と言っても、西郷隆盛のように無から創作したわけではありません。
元になった写真があります。

これです(クリックすると少し大きくなります)。

Senryu_3

画面左よりのやや上方、番号(1)の箇所にいるのが、直広です。
顔がほとんど木の枝の陰に隠れてしまっていますが、あいにく直広が写った写真がこの1点しか残されておらず、やむなくここから顔全体を復元したのが上の写真ということなのです。

ちなみに(2)が英治の師・井上剣花坊、(3)が親友だった川柳家の川上三太郎です。
そして若き日の英治は(4)になります。

顔ぶれからして川柳句会の際の写真と思われますが、私に明言できるのはこれらの人々ぐらいです。

その他に数人、詳しい方からご指摘いただいた人物もいます。
(5)は当時の川柳界では重鎮の一人である近藤飴ン坊(「京魚」の号もあります)、(6)は寺井紅太郎、(7)は西島○丸(「れいがん」と読ませます)だということです。

もし、この顔なら知ってる、という方がいらしたら、ぜひご教示下さい。

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2007年7月28日 (土)

二人の雉子郎

昨日、川柳のことに触れたので、急に思い立って館で保管している古い川柳の雑誌を出してきて、眺めていました。

吉川英治=雉子郎の川柳の師である井上剣花坊とともに、明治・大正期に狂句に堕していた川柳を刷新した人物として阪井久良岐という川柳家がいます。
この阪井久良岐が発刊した雑誌に『五月鯉』(明治38年5月~40年5月)というものがあります。

その第一巻第五号(明治38年9月発行)の中の『新風俗詩撰』という投稿句を中心としたらしいコーナーに目がとまりました。
そこには「忍町 雉子郎」として、以下の2句が掲載されていました。

土舟を干して狸は居眠し
終ひ舟肴と客と雑魚寝する

この≪雉子郎≫は、吉川英治なのでしょうか。

明治25年生れの英治は、この時には13歳。
「かちかち山」を下敷きにしたらしい「土舟・・・」の句はまだしも、後の句を詠むのは少しませ過ぎている感じがします。

ただ、英治は明治37年、12歳の頃から雑誌・新聞への投稿を始めており、38・39年あたりから徐々に入選した作品が誌上に掲載されるようになっていましたから、その点では英治であったとしてもおかしくはありません。

と、もったいぶった上でなんですが、実は、この≪雉子郎≫は吉川英治のことではありません。

この頃の英治が主に使用していた号は≪霞峰≫で、≪雉子郎≫は明治43年末に東京に上京して以降に使い始めたものです。

実は、この≪雉子郎≫は、石島雉子郎という人物です。

明治20年生まれと言いますから、英治よりは5歳年上ということになります。
出身は、現在の埼玉県行田市ですが、この行田市の市制施行前の町名が≪忍町≫でした。
本名が≪亀次郎≫で、その読みを置き換えて≪雉子郎≫としたようです。
もちろん、英治より先に≪雉子郎≫を名乗った人物ということになります。

高浜虚子らに師事したホトトギス派の俳人ですが、その一方で救世軍で活動したキリスト教徒でもあり、その救世軍の創始者である山室軍平の娘と結婚しているそうです。

俳句雑誌『浮城』を発刊し、「雉子郎句集」(明治44年 浮城会)などの著書があるようです。

昭和16年に54歳で亡くなっています。

石島雉子郎は俳人だという頭があったので、川柳(ここでは新風俗詩として川柳とは区別されていますが)でも投稿を行ったりしていたとは意外でした。

もしこの人が俳句ではなく川柳を選んでいたら、英治は別の号をつけることになっていたでしょうね。

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2007年7月27日 (金)

牛石

吉川英治が若い頃に川柳の世界で活躍していたことは何度か触れています。

その吉川英治の父親である直広もわずかながら川柳を遺していることをご存知でしょうか。

明治43年の暮れに英治が苦学の志で東京に出ると、その後を追うように明治45年には吉川家は横浜から一家をあげて上京します。
英治は、東京に出たことで、井上剣花坊の門下の川柳家たちと交流を持つようになり、句会にも出るようになります。
そのうちに、直広も彼らと親交を持つようになり、英治とともに句会に出席したりするようになりました。
英治の自叙伝「忘れ残りの記」には、川柳の師である井上剣花坊について、「後には、妙にぼくの親父と気が合ったものだった。どこか一脈通じるものがあったらしい。」と書かれています。

館蔵資料で確認できる範囲では、大正7年1月13日に人形町東倶楽部で開かれた≪みやこ吟社新年初会≫という川柳句会に英治と直広が一緒に出席していることが、雑誌『大正川柳』67号(大正7年2月15日発行)に出ています。
実は、直広はこの年の3月15日に亡くなっていますから、これが一緒に出席できた最後の句会だったかもしれません。

さて、そんな直広は≪牛石≫という号を名乗っていました。
当時の出版物に、この≪牛石≫名で掲載されている川柳が見られます。

例えば、井上剣花坊が撰者として編集した「新川柳六千句」(大正6年)という本に掲載されたのが、以下の川柳。

死ぬ訳をいろはで書いて首を吊り
コック部屋頭の上は舞踏会
総見の言訳に張る頭痛膏
太陽も踊る飴屋も踊る春

なかなか悪くないでしょう?
もっとも、英治の方は50句ばかりが収録されていますから、力量の差は歴然ですが。

この他に投稿もしていたようで、新聞『日本』や雑誌『講談倶楽部』でその名が確認できます。
数句挙げてみます。

コスモスが西日に折れる裏長屋(課題「コスモス」)
火の付いた煙管に困る電話口(課題「煙管」)
家中を餅にする夜の賑やかさ(課題「餅」)
きき酒を廃めて漸う漸う粥を焚き(課題「財政」)
人間であれと親仁に教へられ(課題「道徳」)
妾宅はまさかの時のかくれ場所(課題「めかけの家」)
落伍者は世間総てに愚弄され(課題「愚弄」)

最後のものは、事業に失敗し、裁判に敗れて投獄され、晩年は身体を壊して働けず、まだ若い息子の稼ぎに支えられて生きざるを得なかった直広の実感がこもっているように思えます。

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2007年7月24日 (火)

文学館への旅

毎日新聞社から「文学館への旅」(重里徹也 2007年7月30日発行)という本が出ることになり、当館にもご寄贈いただきました。
ありがとうございました。

毎日新聞日曜版に連載されたものを単行本化したもので、取り上げられている文学館は目次順に、遠藤周作文学館・吉川英治記念館・浜田広介記念館・山本有三記念館・宮本輝ミュージアム・松本清張記念館・菊池寛記念館・中山義秀記念文学館・斜陽館・池波正太郎真田太平記館・三島由紀夫文学館・田山花袋記念文学館・「黒岩重吾の世界」室・佐藤春夫記念館・徳田秋聲記念館の15館です。

ご興味のある方はぜひお読み下さい。

ちなみに、吉川英治記念館の項目で使用されている写真に写っているのは、館長の吉川英明でもなく、学芸員である私でもなく、庭の手入れをしてくれている地元の方です。

ご寄贈いただいた本は1冊だけなので、私が自分で1冊買って、その人に差し上げようと思います。

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2007年7月22日 (日)

酒に学ぶ

人からの頼まれごとに応えるため、吉川英治の酒にまつわる随筆を読み直して見ました。

リンク先である以前の文章で触れた「舌を洗う」「酒に学ぶ」「酒つれづれ草」のうち、「酒に学ぶ」は久しぶりに読みました。
というのも、この随筆は戦前の随筆集にしか収録されておらず、収蔵庫内の保存用の本を見るしかないので、必要に迫られた時しか読む機会がないからです。

この随筆、吉川英治が主宰した日本青年文化協会の機関誌『青年太陽』に連載された「現代青年道」(単行本のタイトルも同じ)という随筆の一編です(昭和11年1月号掲載)。
農村青年を教化することを目指した活動の一環ですから、他の酒がらみの随筆に比べて、硬く、いささか説教じみたところがありますが、酒の心得としては、なかなかな名言にあふれています(以下太字は引用)。

物を食ふごとく酒は飲むべきものでない。

物を食うのは肉体を養うためであり、酒を飲むのは精神を楽しませるためなのだから、目的が違う、したがって心構えも違ってくる・・・ということです。

酒は日本刀を液体にしたやうなものだ(略)
まちがふと、人も斬る、自分をも斬る。

いや、まったくです。
幸い私は大きな≪怪我≫はしていませんが、酔った勢いで人を殴ったり、痴漢をしたりして、社会的地位を失った人は少なくないでしょう。
気づかないうちに切腹しているようなものです。

とは言え、酒は悪いものではありません。

酒を人と飲む事は――人間のたましいとたましいとが素肌でふれあふやうなものだ。

よく言われる通り、酒によってその人の素の魂が出てしまう、だからこそより相手を知ることができるということですが、もちろん注意も必要です。

白刃の中に楽しむことが大勢で飲む酒である。

楽しく飲んでいる時ほど要注意、何しろ酒という≪日本刀≫を持っているわけですから、お互いに気をつけないと≪素肌のたましい≫を斬ってしまいます。
といってそれに怯えていては酒を楽しむことは出来ません。

で、畢竟、こういうことになります。

人のたのしむを以て、自分もたのしむ。
酒の真味は、これ以外にない。

これからの夏休み、実家に帰省して、旧交を温めるという機会もあるでしょう。
酒のせいで絶縁、というようなことにならないためには、頭においておきたい言葉です。

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2007年7月21日 (土)

ソ連抑留中死亡者名簿

昨年の吉川英治文化賞受賞者である村山常雄氏からご著書をご恵贈いただきました。

事前に、お礼などは辞退したいとのお手紙をいただいておりますので、あえてお礼状は失礼させていただいて、その代わりにここで皆さんにご紹介したいと思います。

本のタイトルは「シベリアに逝きし人々を刻す―ソ連抑留中死亡者名簿―」(2007年7月30日 プロスパー企画 7500円)。

1000ページを超える大著で、内容は『第一部 名簿編』『第二部 解説編』『第三部 資料編』からなっています。

中心となるのは900ページを越える『名簿編』です。
しかし、身内に抑留中死亡者がいない私には(私の伯父は抑留経験者ですが、幸い生還しました)、『解説編』や『資料編』が大変に興味深く思えました。
私同様、名簿そのものには用のない方でも、いわゆるシベリア抑留とその戦後処理について概観するには良い資料だと思います。

上のリンク先からも行けますが、こちらがこの本の元になっているサイトです。

一度ご覧になって下さい。

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2007年7月20日 (金)

きのこの山

まったくどうでもいいような話ですが。

ここのところ、ほとんど晴れの日が無く、ジメジメしているので、この草思堂庭園のいたる所にきのこが生えてきています。
一昨日は、職員の女性がきのこを野草と見間違えて「見たことのない花が咲いている」などと言い出したので、大笑いしました。

こういう見栄えのするきのこなら写真で紹介したいようなものですが、気持ち悪いものが多いのでやめておきます。

ところで、今年、庭園の築山を覆う芝生を全面的に張り直しました。
そうしたところ、入梅以降、今まで庭園では見たことのないきのこが芝一面にニョキニョキ生えてきました。
芝生は、種でなければ、シート状になったものを購入するわけですが、その場合は根の部分には土がついています。
どうやらその土にきのこの胞子あるいは菌糸がついていたようです。

ついでに言うと、芝に生えてくる雑草も、張り替える前のものとはちょっと違っています。
これもきのこと同様、芝を持って来てくれた業者の畑の土に混じっていたものなのでしょう。

厳密に言えば、こういうのも自然環境の汚染ということになるのでしょうね。
まあ、業者の畑は立川で、ここ青梅とは遠くはありませんから、大袈裟に言うほどのことはないのでしょうが。


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2007年7月19日 (木)

あの人に会いたい

NHK映像ファイル「あの人に会いたい 吉川英治」が、下記の時間に放映されるという連絡が、NHKからありました。
せっかくなのでご紹介します。

7月22日(日)11:20~11:30 NHK総合テレビ
7月25日(水)20:17~20:27 NHK-BS2
7月28日(土)19:30~19:40 NHK教育テレビ

横山大観との対談の映像が使用されるようです。

ご興味のある方はぜひご覧下さい。

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2007年7月18日 (水)

蟻の選挙

一昨日までで企画展が終了し、しばらくは常設展示のみになります。

それに合わせて展示を一部入替えましたが、その際に「汚色蟻院図」という額装を出してみました。
≪桃に群がる蟻≫を描いた吉川英治の絵です。

タイトルを読んでいただくとわかると思いますが、桃の甘い汁に集まる蟻を≪汚職議員≫になぞらえたものです。

いつ描かれたものか明確ではないのですが、昭和23年の昭和電工事件、あるいは昭和29年の造船疑獄の際ではないかとされています。

選挙も近いし、季節も桃なら問題あるまいと思ったので、展示してみました。

幸いにして、今回の選挙には汚職の取りざたされるような候補はいないようですが(私が知らないだけかもしれませんが)、ちょっとしたしゃれと言うことで。

それにしても、汚職を讃えるわけではないですが、≪政治家と金≫という話で取りざたされるのが事務所費の“ちょろまかし”というのは、どうにもみみっちくてイヤですね。

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2007年7月16日 (月)

音痴

台風はようやく日本を離れていきましたが、まだ海上の波は高いようです。

テレビで荒れる海の様子を見ていて、吉川英治のある随筆を思い出しました。

これはただ一人の旅先だった。ちょうど五月の暴風雨のあと、仙台石ノ巻から、金華山へ小汽船で渡ったときである。荒海にもてあそばれ、船中、ゲロゲロの惨状だったが、ぼくは、波洗う甲板の上に出て、身を帆柱にしばりつけた。そして寄せくる一波一波を、おせんの夜の白井喬二と見立てて、声いッぱい、怒涛の声と交りばんこに、喉もショッパクなるほど、歌を吠えつづけていたのである。
静かな釣舟の上でさえ、すぐ船よいを催すぼくが、金華山沖では、船頭さんに、賞められた。
(「折々の記」所収『音痴の歌』)

海が荒れている時に船に乗ったが、大声で歌っていたら船酔いせずにすんだ、という話ですが、「おせんの夜の白井喬二」というのが、なんだかわからない、と思われるでしょう。

この随筆は、英治の周りの作家や編集者の酔態を、≪酒間芸術≫などと少々茶化して書いた文章。
ここでの≪酒間芸術≫は、もっぱら酔っ払って歌い出すことなのですが、当の英治は音痴を自認しているので人前では歌わないようにしていたようです。
そのことを、

酒間の音痴は、まるで悪役みたいなものだ。少なくとも愛し難い偽君子にはみられる。

と自嘲しています。

カラオケに行って歌わない人間の扱いと同じですね。
英治の頃にはカラオケはもちろんなかったわけですが。

さて、では「おせんの夜の白井喬二」とは何の事か。

音痴のせいで人前で歌えないことのうっぷん晴らしに、ある一夜、浅草にある≪おせん≫という店で、「文壇きっての音痴白井喬二」(と英治は書いています)と二人だけで、誰にも気がねせずに思い切り歌いまくった、という経験のことを指しているのです。
正味三時間(!)ばかり歌って、気が晴々としたそうです。

最近、一人でカラオケボックスに行って歌いまくる人がいる、というような記事を何かで読みましたが、その類ですかね。

ちょっとかわいらしい話です。

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2007年7月15日 (日)

会期終了

企画展≪秘蔵コレクション展-吉川英治じゃない吉川英治記念館≫は明日で終了いたします。

何度か触れたように、直接は吉川英治作品に関連しない資料を展示してきたわけですが、それらの資料に関連があると思われる文学館から、会期中に資料についての問い合わせがなかったところをみると、今後、これらの資料をそうした館に貸し出して展示する機会はないでしょう。
各文学館にお送りしている当館の館報には、こういうものを展示しますよ、と書いておいたんですけどね。

読まなかったな(苦笑)

まあ、私も、他館の館報は滅多に熟読はしませんが。

ということで、明日を最後に、また当分は凍結です。
解凍するのはかなり先になるでしょう。

興味のある方は、ぜひお運び下さい。

明日は台風も遠ざかっているはずですから。

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2007年7月14日 (土)

台風

九州地方には台風が上陸したようです。
明日には関東にも接近することが予想されますが、現状では臨時休館の予定はありません。
明日は開館いたします。

とは言え、「ぜひご来館を!」とは、お勧めできませんね(苦笑)

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2007年7月13日 (金)

熊本(5)

熊本ゆかりの作品、最後はこれです。

「春秋編笠ぶし」

宇土の小西行長の配下の武士・松山新助は、その美男美声が戦国乱世で災いし、軟弱者と見られて軽く扱われ、初陣の機会すら与えられぬまま二十七歳となっていた。
秀吉の朝鮮出兵を控えたある日、隣接する熊本を領する加藤清正の家臣と小西家の家臣が国境で乱闘騒ぎを起こした時、助太刀に駆けつけた新助は鮮やかな鑓さばきを見せ、加藤家の荻生安太郎を倒す。
その腕の冴えが評価され、朝鮮出兵の第一陣に組み入れられた新助だが、心残りは恋人のお夏のこと。
新助と、やはり小西家配下の柘植半之丞の双方から縁談を申し入れられたお夏は、父・五島甚内に、二人のうち殊勲を立てた方を良人にすると意志を示した。
しかし、卑怯な半之丞は、朝鮮の戦場で新助を城壁から突き落とし、帰国するとお夏を騙して泉州堺まで連れ出し、無理やり夫婦となる。
さて、一方、新助に安太郎を倒された荻生家は、それを不名誉として知行を召し上げられ、朝鮮への出兵も差し止められたため、家名の回復のため、弟の式之助と従兄弟の久米寺源八が新助への仇討を狙っていた。
とは言え、生死不明の新助を追い求める旅はいつ終るとも知れない。
新助の消息を求めて訪れた名古屋で仲違いを始めた式之助と源八の斬り合いを止めた流しの編笠ぶしの唄うたいこそ、松山新助その人であった。
後になってそれに気づいた二人は新助を追い、ようやく甲賀の山寺で新助を発見する。
その新助は、生まれ持った労咳が悪化しているうえ、戦地で失明していた。
その姿に侮ったか、自分の復讐が済むまで仇討は待ってくれと言う新助に斬りかかる源八。
だが、新助の早業はたちまち源八を返り討ちにしてしまう。
冷静になった式之助に、半之丞への復讐という事情を話す新助。
すると式之助は、新助の消息を追ってお夏をつけるうちに堺で半之丞を見かけたと教える。
その言葉で堺へ向かった新助は、ついに半之丞を討つ。
また、半之丞の妻となっていたお夏は、なぜか助太刀にやって来た式之助に斬られる。
念願を果たした新助は、今度はお前が俺を討つ番だと式之助に告げるが、式之助は刀を捨てると、あなたの唄の弟子にしてくれと訴えるのであった。

初出は『オール読物』昭和6年4月号~12月号。
文庫本半分ほどの中編です。

単行本は「吉川英治文庫24 春秋編笠ぶし・菊一文字」(昭和51年 講談社)が最後となっています。

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2007年7月12日 (木)

熊本(4)

続いてはこの作品。

「恋易者」

有明灘に面した肥後細川家の支藩。
船手組の山吹権七が仕立てに出していた軸を受け取りに経師屋に出向くと、藩侯の菩提所である無動林寺から出たという屏風が、絵が不吉だというので解体されかかっていた。
権七がむき出しになった下張りをふと見ると、それは家老の宇土岳翁から無動林寺の先代住職へあてた密書であった。
そこには、前藩主および若君の丹千代を宇土一派が謀殺したことが記されていた。
とっさにそれを剥がした権七は、それを持って細川本藩に訴え出ようとするが、岳翁の配下の手にかかって斬られてしまう。
それを知った権七の弟・舷太郎が遊学中の長崎から戻り、宇土一派の監視の目をくぐって兄の墓を詣でると、近くの農家の娘が、その人の形見だと言って編笠を手渡す。
その翌春。
江戸は、各藩の下屋敷が並ぶ麻布普門院の前に、一人の易者が姿を見せるようになる。
これぞ舷太郎の仮の姿。
ある夜、その一角にある宇土岳翁の屋敷から、その愛人の藤乃が占いを受けに来る。
この機を待っていた舷太郎は、藤乃にある暗示をかける。
数日後、暗示が効いてすっかり舷太郎の意のままとなった藤乃に、舷太郎は岳翁の息子と娘を殺すように命じる。
その惨劇の夜が明け、我が子を殺され慌てふためく岳翁の前に姿を現した舷太郎は、自分こそかつての丹千代、すなわち細川伊予守であると、正体を明かす。
お前の配下に海に沈められたところを権七の父・山吹権左衛門に救われ、権七の弟として今日まで秘かに育まれてきたのだと。
義兄の形見の編笠に隠されていたあの密書は本藩に送ったと告げられた岳翁は、しかし、事が露見したことよりも、己が悪業の代償に娘を死なせたことを悔い、自害して果てるのであった。

初出は昭和11年5月発行の『講談倶楽部』臨時増刊号。

催眠術(と言っていいでしょう)を用いた殺人、というのは時代小説としては斬新な部類だったのではないかと思うのですが、しかし、悪人の愛人を催眠にかけ、その悪人の3人の子を殺させる、という趣向は、ちょっと残忍で何となく後味が悪いですね。

単行本としては「吉川英治文庫129 篝火の女(短編集五)」(昭和51年 講談社)が、今のところ最後です。

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2007年7月11日 (水)

熊本(3)

次は、扱う時代がずっと新しくなって、こちら。

「谷干城夫人」

明治10年、西南戦争勃発。
西郷隆盛に率いられた薩摩の兵が熊本に迫っていた。
熊本鎮台司令官の谷干城は、配下の兵が徴兵制で集められた民であることを考慮し、籠城戦を選択する。
戦闘に巻き込まれぬよう熊本城下の市民は避難したが、谷干城夫人の玖満子をはじめ鎮台の将校の夫人たちは良人とともに籠城する道を選んだ。
西郷軍との攻防は一進一退、また援軍も西郷軍の抵抗で熊本に入れず、籠城は長期化。
その間に、身重のまま籠城に加わった与倉中佐夫人の出産と、その与倉中佐の死などの悲劇が生れるが、夫人たちはかいがいしく鎮台の兵たちに奉仕する。
食料の乏しくなった城内で、弾丸の飛び交うのも恐れず食べられる草を摘み、空になったはずの食糧倉庫の屋根裏から土間までさらって兵たちに食料を与えようとする夫人たちの姿は、兵の結束と士気を高めた。
やがて待ちに待った征討総督軍が到着。
熊本鎮台は、ついに西郷軍から城を守り抜いたのであった。

初出は『主婦之友』昭和16年1月号~2月号。

書かれた時期が時期だけに、戦時色を強く感じる作品ではあります。

「吉川英治全集29 梅里先生行状記」(昭和57年 講談社)が最後の単行本化となります。

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2007年7月10日 (火)

熊本(2)

続いては、この作品。

「母恋鳥」

熊本の小藩・相良家では、前藩主が亡くなり、その子の相良小金吾が次期藩主となる予定であった。
しかし、この小金吾、とても今年十四とは思えぬ馬鹿者。
それもそのはず、家老の立花権左衛門が、藩の実権を握るため、馬鹿になるよう、わがまま放題に遊びほうけさせてきたからだ。
そんなある日、裏山から聞こえる琵琶の音に耳をとめた小金吾が、家臣に命じて弾き手を捕らえさせると、それは同じ年頃の鈴丸という小法師であった。
鈴丸の正体は、忠臣ゆえに城を追われた元藩士・坂本大弐の遺児・鈴子。
鈴丸の琵琶に小金吾が感化されることを恐れた権左衛門によって城から追い出される鈴丸であったが、秘かに小金吾の母・桔梗が存命であることを伝え、ある策を授ける。
正式に藩主となるため、将軍へのお目見えに江戸へ上る相良家の行列。
だが、そのどさくさにまぎれて、鈴子の策通り小金吾が姿を隠す。
慌てた権左衛門らは、小金吾は病と偽って行列を続けながら、一方で権左衛門の息子・立花造酒太郎らに小金吾を探させる。
造酒太郎らに追われながら、桔梗が住む京都へたどり着いた小金吾と鈴子。
鈴子の琵琶の師である藤原種風、やはり忠臣ゆえに浪人となった元藩士の泉大助の助けもあり、ことは京都所司代の板倉若狭守の知るところとなる。
その板倉の策で、あえて藩の行列に戻る小金吾。
そして、藩主承認のため江戸城に登城した小金吾は、将軍家光の前で悪臣を除くことを宣言、すかさず板倉若狭守は随伴してきた立花権左衛門を召し取るのであった。
やがて、江戸から相良へと戻る行列には、藩主となった小金吾を護る泉大助、そして母・桔梗と鈴子の姿があった。

初出は『主婦之友』昭和12年8月号~13年8月号。
タイトル通り、雑誌は主婦向けのはずですが、しかし、文体などは明らかに子供を対象としたもので、少年少女小説のひとつとするのが妥当な作品です。
母親が子供に読み聞かせる、というような状況を想定したのでしょうか?

「吉川英治文庫153 やまどり文庫・母恋鳥」(昭和52年 講談社)が、単行本としては一番新しいものとなります。

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2007年7月 8日 (日)

熊本(1)

熊本県は、ゆかりの作品の数が結構ある場所です。
まず初めに、変わった作品からご紹介。

「武蔵負けたる事」

肥後熊本・細川家の客分となった宮本武蔵であったが、歳も60を越えて余命を悟り、兵法書の執筆と禅境にひたるため霊巌洞に籠ることにした。
そこを訪ねてきた細川家中の若い侍たちに請われるまま、かつて負けたことを語り始める。
その相手・秋山伝七郎は、武蔵が京都で斬り倒した吉岡清十郎の従兄弟。
清十郎との試合から間もなく、その復讐のため武蔵に試合を挑むが、身体も弱く、手もなく一蹴される。
武蔵は、気絶した伝七郎にはとどめを刺さず、立ち去る。
翌日、怪我をおして再戦を求める伝七郎だが、必死を越える一念を示すも、やはり武蔵の敵ではない。
武蔵はみね打ちをくれて、その場を去る。
三年後、鈴鹿峠を旅する武蔵に馬子が「宮本先生」と声をかけてくる。
それこそ、この鈴鹿で独自に修行を続けてきた伝七郎であった。
再度の試合を求める伝七郎を、またしても武蔵は倒す。
さらに十数年後、尾張大納言義直の求めで名古屋にとどまっていた武蔵を訪ねてきたのは、秋山伝七郎。
四度目の挑戦に応じる武蔵だが、今度の伝七郎の構えには一分の隙もない。
瞠目する武蔵。
刹那、打ち込まれた伝七郎の木剣を受けた武蔵の木剣は、真っ二つに割れた。
その一撃に、負けを認める武蔵。
宿願を果たして落涙する伝七郎。
だが、京に帰った伝七郎は吉岡家再興の目前に病で世を去るのであった。

初出は『雄弁』大正14年7月号。
筆名は≪朝山李四≫を用いています。

初出後、長らく単行本化されていませんでしたが、先年出版された「〈武蔵〉と吉川英治 求道と漂泊」(2003年 東京四季出版)に収録されました。
実は、版元から相談を受けた時に、私が勧めて掲載に至ったものです。

後年の「宮本武蔵」とはかなり雰囲気の違う作品で、吉川英治自身は泉下で「余計なことをしてくれた」と苦い顔をしているかもしれませんが、こんな機会でもないと二度と世に出ないと思いましたので、勧めてみたのです。
「宮本武蔵」に取り組む前、吉川英治がどういう認識を武蔵に対して抱いていたかという参考になると思います。

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2007年7月 7日 (土)

文学館と観光

先週、地元地域の観光協会の総会・懇親会に出席してきました。

文学館協議会などでは、同業の方に地元の観光協会とはどのように付き合っているか、ということを聞いたことはないのですが、他館の皆さんはどうなさってるんでしょう?

文学館は観光施設ではない、という意識は、学芸員には強いのではないかという気がします。
運営側に立つと、そうも言っていられないと思いますが。

基本的に、文学館は観光施設であることを目的に造られるべきものではありません。
やはり一義的には文学のための施設であるべきでしょう。
しかし、そのことは、文学館が観光や地域振興に関わりを持たなくてもいい、ということは意味しません。

観光のために多くの人が集まれば、その分、文学館への来館者も増えるはずで、館の運営上、益のあることです。
観光で来た方は、必ずしも文学愛好者ではない場合もありますが、裏返せば新たな読者の開拓にもつながる可能性がありますから、それは文学に貢献することでもあるでしょう。

逆に文学館があることでその地域に人を集めることが出来るなら、それも地域貢献でしょう。

もっとも、現実問題として、観光の中核を担えるようなレベルにある文学館は、数少ないであろうと思います。
つまり、集客力において地域を先導するような文学館は、数えるほどしかないだろうということです。

ただ、集客に直接反映しなくても、文学館が存在することで地域イメージの向上に役立つ可能性はあります。

あの作家をはぐくんだ土地、あの作家が愛した景観、あの作家が好んだ風物、あの作家が交流した人々・・・・・・

それは、その地域のイメージにプラスに作用するものでしょう。

まあ、その作家のイメージ自体がプラスのものならば、ですが。

何にせよ、こういう会に出ると、地元の方が文学館に何を期待しているか、どういう目でご覧になっているかを感じることが出来ます。
それは社会の中での文学館の位置を知るためにも、重要なことだと思います。

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2007年7月 6日 (金)

吉川英治賞受賞作家と語るひととき

吉川英治記念館では昨年、吉川英治賞40周年を記念して「吉川英治賞受賞作家と語るひととき」を開催いたしました。
小さな催し物でしたが、手の届くような距離で直に作家の声を聞くことの出来る、その雰囲気から、参加者の皆様には大変ご好評いただきました。

そこで今年から、これを毎年の定例行事をすることにいたしました。

そのシリーズ化第1回のゲストは、『名もなき毒』で本年度吉川英治文学賞を受賞なさった宮部みゆきさんです。

開催は10月21日(日)。

詳細と申し込み方法については、こちらをご覧下さい。

ご応募お待ちしています。

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2007年7月 5日 (木)

なたね?

初めから気にはなっていたのですが。

もうそろそろ会期も終わりに近づいてきた≪秘蔵コレクション展――吉川英治じゃない吉川英治記念館≫ですが、展示資料のうちの林芙美子作「めし」連載挿絵原画の中にこんな絵があります。

物語の序盤、大阪が舞台の場面。
場所は飲食店の店内です。
その壁には、1枚に1品目が書かれたお品書きが数枚貼られています。

「うどん」「まむし」「う巻」「も吸」「なたね」

「まむし」は、大阪風のうなぎの丼のことです。
「う巻」は、玉子焼の芯にうなぎの蒲焼を巻き込んだもの。
「も吸」は、画面のアングルの関係で上が切れているだけで、「きも吸」のことでしょう。
これだけ見るとうなぎ屋なのかとも思いますが、なぜか「うどん」があります。

何にせよ、以上の料理は、どんなものかすんなりわかるのですが、「なたね」がわかりません。

「なたね」って≪菜種≫か?
菜の花のおひたしみたいなものか?
それとも、「まむし」みたいに、全く別のものなのか?
あるいは、「きも吸」同様、上が切れていて、「△なたね」というものがあるのか?

今になって、急に調べてみる気になりました。
と言っても横着なので、検索しただけですが。

どうやら、「なたね」でいいようです。

しかし、≪炒り玉子≫のことを「なたね」と言うとは知りませんでした。
色が菜の花に似ているからと説明しているサイトがありましたが、炒り玉子のつぶつぶした感じの外見が菜の花に似ている気もします。
大阪方言なんでしょうか?

ちなみに、私は関西出身ですが、大阪ではなく京都で、両親が関西以外の出身で、あまり外食をしない家庭だったもので、耳にしたことがありません。

どのくらい一般性がある言葉なのか、ちょっと気になります。

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2007年7月 4日 (水)

大分(2)

もう1作は中津を舞台にした「夕顔の門」。

田丸惣七の娘・お市は、藩の鷹匠・曾我部兵庫との婚礼の前夜、恋人の深見格之進と駆落ちをはかるが、失敗。お市は連れ戻され、格之進は追っ手の隙を見てどこへともなく逃げ去った。
改めて兵庫に嫁いだお市だが、格之進を思い切れぬ心には、決して幸せとは言えぬ家庭であった。
今日も、お市が鷹を逃がしたことで口論しているところへ、深手を負った浪人が逃げ込んでくる。
それこそ深見格之進の成れの果てであり、彼を斬ったのは駆落ちの際に2人を追って行って格之進に顔を斬られた田丸家の若党・楠平とその郎党であった。
兵庫は、それが格之進と知りながら、なぜか匿う。
一方のお市は、怪我人が格之進と知って、駕を二挺用意させ、家を捨てて2人でどこかへ去ろうとする。
しかし、かねて見張っていた楠平一党と、父・惣七に阻止されてしまう。
家名の恥とお市を斬ろうとする惣七を止めたのは、意外にも兵庫であった。
お市がこうなったことに、親の落ち度、良人の落ち度はなかったか、瑕のある玉も身に帯びれば馴染むもの、縁あって良人となった者として、ここはお市の好きにさせてやって欲しい、という兵庫の言葉に打たれ、それに同意する惣七、楠平ら。
しかし、その時既にお市は駕の中で自害して果て、格之進は傷がもとで事切れていた。

初出は昭和13年6月発行の『婦人倶楽部 夏増刊号』。

面白いことに、同じ年同じ月に、大分を舞台にした作品を書き、なぜかそれっきり大分を舞台にした作品を書いていません。

単行本は「吉川英治文庫131 松風みやげ(短編集七)」(昭和51年 講談社)が最新のものとなります。

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2007年7月 3日 (火)

大分(1)

大分県を舞台にした作品は2作品あります。

まずは杵築を舞台とした「さむらい行儀」。

大坪流馬術では5年ごとに京で選抜試験を行い、上位の7人にしか印可を与えない。
杵築藩の馬術師範・奥村則清の息子・敦は前回の選抜に落ち、まだ印可を持たないため家職が継げずにいた。
そこで藩主は、誰でもよいから実力のある者を京に送り出すよう指示し、藩内予選の結果、二十石扶持の軽輩である一柳敬助が敦を破って代表となった。
しかし、貧家の一柳家には京までの路銀を工面する資力がない。
そこで敬助の母は、甥の金井屋十太に金策を頼み込む。
十太は元は武士だが、世の中は金だ、といって大小を捨て、商人になった男。
叔母の頼みにも、かたがなければ金は出せないとの言い草。
元々そりの合わない敬助は、この従兄弟を追い返してしまう。
金の工面のつかぬまま京へ発つ前日を迎えた敬助のもとに、御典医の速見玄斎からはなむけの酒宴への招待状が届く。
招きに応じて出かけた席には、奥村敦や十太も顔を揃えていた。
酒宴の前に他の出席者によって頼母子講が行われていて、その当選金の十二両が、まだそこに置かれたままであった。
酒宴もたけなわとなったところで、当選者の溝口老人が一足先に帰ることになり、当選金をあらためると、十一両しかない。
それを見た敦が、金に困った敬助が取ったのであろうと口汚く言い募ったため、憤激した敬助は敦に斬りかかってしまう。
切腹を覚悟した敬助だったが、彼の事件後の振舞いの侍らしさに感じ入った藩主の許しによって、翌朝の京への出立を許されることになる。
事件の一部始終を黙って見守っていた十太は、同席の一同に皮肉な言葉を投げかけながらも、敬助の妹・お節に二百両もの大金が入った金入れを手渡すと、ぷいっとその場を立ち去るのであった。

初出は昭和13年6月発行の『冨士 夏の増刊号』。
後に『冨士』昭和24年9月号に再録されていますが、この時は「壱両小判」と改題されています。

単行本化は「吉川英治文庫131 松風みやげ(短編集七)」(昭和51年 講談社)の一度だけです。

070704訂正

「吉川英治時代小説傑作選 さむらい行儀・無宿人国記」(平成15年3月 学研M文庫)というのが出ております。
見落としておりました。

hiroさん、ご指摘ありがとうございました。

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2007年7月 1日 (日)

宮崎

宮崎県を舞台にした作品は、やはり椎葉村が登場する「新・平家物語」ということになります。

と言うより、「新・平家物語」しかありません。

しかし、この椎葉村をめぐる一連のエピソードは、「新・平家物語」の最後を締めくくる、重要な場面です。

椎葉の山奥に逃げ込んだ平家の落人たちと、それを追討するために派遣された源氏方の武将・那須大八郎の交流。自然の営みの中で、平家や源氏という区別は消え、そして生れる勝者も敗者も無い小さな平和な日々。

しかし、こうして数代、子から子へと、長い歳月が流れて行っても、このままの、愛情と宥(いたわ)りあいにみちた人間同士の営みが、悪も育てずに、続くだろうか、可能だろうか。
そういう疑問も、まれには、大八郎も考えぬではないが、壇ノ浦までの、あの業の世代の記憶を、ここの人びとが、失わない限りは――と信じられた。百年の後は知らず、かれは、ここの日々に満足した。

作中のこの一節は、今の日本や世界にも重い問いかけであるように思えてなりません。

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