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2007年7月28日 (土)

二人の雉子郎

昨日、川柳のことに触れたので、急に思い立って館で保管している古い川柳の雑誌を出してきて、眺めていました。

吉川英治=雉子郎の川柳の師である井上剣花坊とともに、明治・大正期に狂句に堕していた川柳を刷新した人物として阪井久良岐という川柳家がいます。
この阪井久良岐が発刊した雑誌に『五月鯉』(明治38年5月~40年5月)というものがあります。

その第一巻第五号(明治38年9月発行)の中の『新風俗詩撰』という投稿句を中心としたらしいコーナーに目がとまりました。
そこには「忍町 雉子郎」として、以下の2句が掲載されていました。

土舟を干して狸は居眠し
終ひ舟肴と客と雑魚寝する

この≪雉子郎≫は、吉川英治なのでしょうか。

明治25年生れの英治は、この時には13歳。
「かちかち山」を下敷きにしたらしい「土舟・・・」の句はまだしも、後の句を詠むのは少しませ過ぎている感じがします。

ただ、英治は明治37年、12歳の頃から雑誌・新聞への投稿を始めており、38・39年あたりから徐々に入選した作品が誌上に掲載されるようになっていましたから、その点では英治であったとしてもおかしくはありません。

と、もったいぶった上でなんですが、実は、この≪雉子郎≫は吉川英治のことではありません。

この頃の英治が主に使用していた号は≪霞峰≫で、≪雉子郎≫は明治43年末に東京に上京して以降に使い始めたものです。

実は、この≪雉子郎≫は、石島雉子郎という人物です。

明治20年生まれと言いますから、英治よりは5歳年上ということになります。
出身は、現在の埼玉県行田市ですが、この行田市の市制施行前の町名が≪忍町≫でした。
本名が≪亀次郎≫で、その読みを置き換えて≪雉子郎≫としたようです。
もちろん、英治より先に≪雉子郎≫を名乗った人物ということになります。

高浜虚子らに師事したホトトギス派の俳人ですが、その一方で救世軍で活動したキリスト教徒でもあり、その救世軍の創始者である山室軍平の娘と結婚しているそうです。

俳句雑誌『浮城』を発刊し、「雉子郎句集」(明治44年 浮城会)などの著書があるようです。

昭和16年に54歳で亡くなっています。

石島雉子郎は俳人だという頭があったので、川柳(ここでは新風俗詩として川柳とは区別されていますが)でも投稿を行ったりしていたとは意外でした。

もしこの人が俳句ではなく川柳を選んでいたら、英治は別の号をつけることになっていたでしょうね。

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コメント

いつもブログ拝見させていただいています。
以前、永代静雄に関して質問させてもらった大西です。
石島雉子郎の兄貴分、石島薇山は、「蒲団」のモデルである岡田美知代と永代静雄の媒酌人なので、雉子郎のことも、ちょっと気になって調べたことがあります。
石島雉子郎と吉川英治の号には、それぞれ由来があって、一致は偶然とは思うんですが、石島薇山らの地方文芸誌には、石島雉子郎・永代紫津夫の名が並んでいるものや、石島雉子郎・岡田美知代の名が並んでいるものもあって気になりますね。明治40年の話です。

投稿: 大西小生 | 2007年7月28日 (土) 21時48分

>大西様

そうでしたか。妙な縁ですね。
ちなみに、『五月鯉』で≪雉子郎≫の名が見えるのは、ここだけでした。
石島雉子郎もこの時18歳ですから、若気の至りの腕試しだったのかもしれません。
もう少し石島雉子郎に川柳との接点があれば、久良岐も吉川雉子郎が登場した時に号の重複に気づいたのかもしれませんが、きっと一度きりのことだったので記憶になかったのでしょう。
それに吉川雉子郎は剣花坊派だったわけですし。
また、石島と吉川の両雉子郎に直接の面識はなかっただろうと思います。

投稿: 片岡元雄 | 2007年7月29日 (日) 11時59分

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