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2007年7月27日 (金)

牛石

吉川英治が若い頃に川柳の世界で活躍していたことは何度か触れています。

その吉川英治の父親である直広もわずかながら川柳を遺していることをご存知でしょうか。

明治43年の暮れに英治が苦学の志で東京に出ると、その後を追うように明治45年には吉川家は横浜から一家をあげて上京します。
英治は、東京に出たことで、井上剣花坊の門下の川柳家たちと交流を持つようになり、句会にも出るようになります。
そのうちに、直広も彼らと親交を持つようになり、英治とともに句会に出席したりするようになりました。
英治の自叙伝「忘れ残りの記」には、川柳の師である井上剣花坊について、「後には、妙にぼくの親父と気が合ったものだった。どこか一脈通じるものがあったらしい。」と書かれています。

館蔵資料で確認できる範囲では、大正7年1月13日に人形町東倶楽部で開かれた≪みやこ吟社新年初会≫という川柳句会に英治と直広が一緒に出席していることが、雑誌『大正川柳』67号(大正7年2月15日発行)に出ています。
実は、直広はこの年の3月15日に亡くなっていますから、これが一緒に出席できた最後の句会だったかもしれません。

さて、そんな直広は≪牛石≫という号を名乗っていました。
当時の出版物に、この≪牛石≫名で掲載されている川柳が見られます。

例えば、井上剣花坊が撰者として編集した「新川柳六千句」(大正6年)という本に掲載されたのが、以下の川柳。

死ぬ訳をいろはで書いて首を吊り
コック部屋頭の上は舞踏会
総見の言訳に張る頭痛膏
太陽も踊る飴屋も踊る春

なかなか悪くないでしょう?
もっとも、英治の方は50句ばかりが収録されていますから、力量の差は歴然ですが。

この他に投稿もしていたようで、新聞『日本』や雑誌『講談倶楽部』でその名が確認できます。
数句挙げてみます。

コスモスが西日に折れる裏長屋(課題「コスモス」)
火の付いた煙管に困る電話口(課題「煙管」)
家中を餅にする夜の賑やかさ(課題「餅」)
きき酒を廃めて漸う漸う粥を焚き(課題「財政」)
人間であれと親仁に教へられ(課題「道徳」)
妾宅はまさかの時のかくれ場所(課題「めかけの家」)
落伍者は世間総てに愚弄され(課題「愚弄」)

最後のものは、事業に失敗し、裁判に敗れて投獄され、晩年は身体を壊して働けず、まだ若い息子の稼ぎに支えられて生きざるを得なかった直広の実感がこもっているように思えます。

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